「七彩の虹」
随分と長い夜が明けた。
アタシも信仁……いや、檜野一颯も、結局一睡もすることなく、世界が終わるかもしれないっていうのに、やけに晴れた朝を迎える。
支度をして出かける学生や会社員。
まだ眠っている何人かの人々。
ただ遠くを見つめる老人達。
老若男女関係なく、その全ての命が今日、命という概念を忘れる。
伊能の奴らがどうしているか、検討もつかない。そもそもあんな馬鹿でかい建物に人を拘束する手筈が整っているのかも、まるで分からなかった。
不意打ちも─────考えたが、一颯が賢明ではないと制止した。こんな状況に賢明も何もあるのか。
無言の朝は、きっとまだ続く。
一颯は信仁とは似ても似つかない仕草で、緩慢に起き上がると、そのまま何も言わずに何処かへ出かけていく。
「おい、どこ行くんだ。」
「コンビニ。」
「コンビニって……こっから一番近くても歩いて一時間はかかるぞ」
川村信仁だったものは、溜息をついた後、半開きの三白眼で一瞥する。
気味の悪さを感じた。特別恐怖みたいな感情ではなく、ただ単純に、気色が悪かった。
信仁の呑気な顔は、その面影を一切感じさせない、曇り切った表情で態度もにべもない。
スタスタと行ってしまう。その背中を見つめることしか出来なかったが─────もし、このまま信仁が戻ってこなかったら。
そう考えてしまった瞬間、背中に悪寒が走った。
気づけば煙草も底をついていた。
「アイツに頼んどけばよかった──────」
▽
身体は昨日に比べれば、割かし自由に動くようにはなったと思う。信仁の気配はあるはずもなく、ただ純粋な静寂が身のうちにあった。
僕の十一年は、もう取り返しのつかないほど遠くに行ってしまった気がする。
手を伸ばしても決して届かない距離まで。それでも僕はそれが欲しい。
伊能の計画は、正直馬鹿げているけど、悪くも思わなかった。
不老不死、ということではなく、無期限、という所に惹かれた。
十一年とか、もっとそれ以上の歳月なんかに固執しなくて済む。このまま信仁が目覚めなければ、永遠の時間を永遠に過ごすことが出来る……
でもそこにあるのは、底のない虚無だけだ。
悲喜交々、喜怒哀楽、その一切が有るようで禁じられている。
時間は過ぎているようで止まっている世界。
そこで息をしたって、生きながらに死んでいるのと同じだった。
「──────あ。」
立ち止まる。それは、今も同じじゃないか──────
澄み切った青空が、どうしようもなくうざったい。
何故こんな日に、嬉々として太陽は照りつけているのだろう。
まぁ確かに……考えても見れば、いくら人がどうなろうと、君達には関係なかったな。
▽
ついにこの日が来てしまったのか。男は痛感する。
その白衣を翻し、あらゆる準備を着々と進め、その夜に備える。
内ポケットから銀色の懐中時計を取り出し、眉間に皺を寄せ、苦悶の表情を浮かべる男は、難題に悩む学者の顔していた。
「ご機嫌いかが?新川先生。」
男とは対照的に、ついにこの日が来た、という清々しい顔の女が声をかけてきた。人を裏切ることなどなんとも思っていない女の、下衆な顔だ。
「……まずまずだ。」
つまらなげに答えて、男は踵を返し、直ぐにまた別の準備にとりかかる。
男は乾いたポーカーフェイスで嘘をついた。気分は最悪だった。
黒く重たく鈍く─────光を拒むように反射するその装置は、華奢な少女の身体をがっちりと掴んでいた。
馬鹿げている。しかしその馬鹿げた御伽噺の発端を見つけてしまったのは、作ってしまったのは自分なのだと、男はとてつもなく遅い後悔をした。
「七彩──────」
呟いて、眠らされている少女の身体を見つめる。腕には、夥しい注射痕。それはさながら、男が今までに噛み殺してきた感情の数を表すようでもあった。
時刻は既に正午を回っていた。街は人混みで賑わい、極めてありふれた日常の風景がそこにはあった。
無我夢中で、というより、無意識に歩いていたら、こんな所まで来てしまった。
目の前を走っていった女性が落し物をする。
拾って女性の元に駆け寄り、それを届ける。
「これ、落としましたよ。」
「あ、すみません!ありがとうございます……!」
女性はすぐに行ってしまう。自分よりも年上であることは明らかだったが、それでも敬語を突き通す。
なんだかこんな日は、見ず知らずの他人にも優しくしたくなる。
少年は、檜野一颯は漠然とそう思う。
もう一人の自分である川村信仁が目覚める気配は、まだ無い。
「……しょうがない。」
やっぱり人に優しくしたくなる一颯は、適当な銘柄を選んで、自販機の煙草を一箱買っていった。冷たい視線で睨む周りの喫煙者を意に介さず、またスタスタと地下室へと帰っていく。
随分と時間のかかる、無意味な散歩だった。
一時間後
「随分と遅かったじゃないか。」
声をかけてきたのは意外だった。信仁でもない僕は、彼女に好意的に接する気にもなれず、ただ協力関係を結ぶ人間として、必要最低限の会話だけを交わしていたが……
まぁ、結局頼まれてもいない煙草なんて買ってきてしまった時点で、あっちからも驚かれるだろう。
「これ、拾った。」
「拾ったって……煙草じゃんか。銘柄もいつものやつだ。気が利く割には素直じゃないな。」
拾ったっていうのは、確かに自分でも引くぐらいありふれた照れ隠しだった。
変に気持ちが穏やかなのは、きっと信仁のせいだ。
「ま、ありがと。ちょうど切らしてた。」
「そうか。」
「うん。」
この空気を一言で表すとすれば、ただただ気まずかった。
中途半端な気を遣ったせいで、この女に対して中途半端な感情が沸き上がる。
渡したばかりの煙草に早速火をつけて一服する彼女の横顔は、えらく官能的だった。
派手な金髪、男勝りな立ち振る舞い。服装はやけに身体の線が強調されている真紅のライダースで、自然と見入ってしまう自分が恥ずかしかった。
人並みのありふれた感情。今までにないほど実感している。
人が人として当たり前に送っている生活と、当たり前に持ち合わせている感情が、ここまで奇妙で心地いいものだとは、思いもしなかった。
いや、僕だってその時期があったはずなのに……きっと忘れてしまったんだ。
僕が檜野一颯を忘れてしまったその日から。
「見すぎだ。さすがに気が散る。」
「あ───────」
言い返すことが出来なかった。なんだ?惚れているのか、こんな女に。信仁は彼女を慕っていても、恋慕とまでは行かなかったぞ。
全く……呆れたものだ。自分にも。
「お前も吸うか?」
吸わない、と断るのも、なんだか彼女の何かを逃す気がして、差し伸べられた煙草の一本を手に取った。
「付けてやるよ」
まじまじと見つめながら、恐る恐る加えた煙草に、彼女が近寄って火をつけた。
ほんの数歩だけ距離が縮まっただけで、気が気でなかった。
必死で目を逸らしても、意識が戻ろうとする。ゴムみたいだ。
はい、と言って、また離れてしまう。
「お前、気味悪いと思ってたが……結構良い奴じゃん。」
初めての、信仁ですら吸ったことの無い煙の勢いに思わず咳き込む僕を見て、彼女は少し嬉しそうに笑った。
檜野が煙草を買ってきたことは、かなり驚いた。
照れくさそうに見えたが、そんな感情はアイツにはないだろう。煙草を買ってきたのも、多分ただの気まぐれだ。
程なくして、檜野もアタシも席について、今後、いや、今日の七彩奪還についての話し合いを始めた。
時刻は昼の三時。時間まで六時間ということを考えれば、もうゆとりなんてあるはずもなく、少なくともアタシは緊張していた。
お互いの視線を合わせて、アタシは頷いてから、パソコンを開いてみせた。
「アタシはそもそも疑問だった。夜の九時なんて人の多い時間に、あんな目立つ建物で堂々と漫画みたいなことをやろうっていう奴らの計画が、本当に行われるのかどうか。」
その疑問はつい今朝解決した。と付け足して、パソコンのメールボックスに届いた、一通のメールを開く。
そこには、何枚かの写真が添付されていた。
「多分、清美さんが送ったものだと思うけど、大まかなスカイツリーの見取り図が何枚か入ってる。中身、外見、展望台の高さまで丁寧に記されてるのは見てわかるだろ。んで、この印の付けられた部分。
ま、言うまでもなくてっぺんだけど、七彩はここで拘束されるみたい。ここからエネルギーを打ち出して……出来るのかどうかは知らないし興味無いけど、七彩が利用されるなら黙っている訳にはいかない。
“止められるものなら止めてみろ”とでも言うのかね。敵に塩を送るような真似をしてくれる。
アタシ達が今考えるべきことは……どうやって周りに見られずに頂上に辿り着くか。厳密にはこの450mの上……500mあたりだな。」
「この後に及んで周りを気にする必要なんてないだろ。どうせエネルギーが打ち出されるなら、強引にでも止めた方が手っ取り早い。」
興味なさげに言う少年を視線で制止する。
「……だってそうだろう。それ以外になんの方法がある。考えるだけ無駄だ。僕は何も、適当に言ってるんじゃないよ。小賢しい普通の人間みたいな手段より、使えるものは使う方法の方が遥かに楽だ。」
「……能力に傾向する考えは、あまり好かん。」
「なら戦わなければいい。」
信仁とは本当に勝手が違う。一言一言に的を射る的確さと鋭さがあって、どこか哀しげだ。
「─────あぁもう!……分かったよ。アタシも前の失敗で億劫になってた。確かに、今更どこの誰に見られようと関係ないよなぁ、どの道アタシも、お前も消える。」
「僕は消えるつもりは無い。消えるのは……」
「黙れ。兎に角、後三時間後にはここを出るぞ。決着をつけに行く。」
少年は黙りこくる。コイツは信仁の身体が欲しいだけ。アタシは信仁を手伝うために来たのに、この有様だ。
また繰り返す。そんな予感がある。
前だってあれほど味方がいたのに、結局アタシは何も出来ずに銃弾一発に沈んだ。情けない体たらくに呆れているのは、他の誰でもない自分自身だ。
あと──────三時間後。泣いても笑っても、これが最期だ。
暴れてはくれるなよ……檜野一颯。
その建造物の全長は634m。ムサシなんて覚え方が世間では有名だろう。世界一高い電波塔だけあって、この日もその俯瞰風景を一目見たいがために多くの観光客で賑わっていた。
それこそ老若男女。ありとあらゆる人類が、ほんの数時間後の出来事など知るはずも無く。ただ自分達は無関係であるかのように、その塔の高みを見上げる。その塔からの景色を見下ろす。
だが、事は既に動き出していた。几帳面な男はもう、全ての手筈を終え、最後の掃除に手をつける。
その風景を見たいがために、多くの観光客で賑わっていた。しかし、突如として現れた死神のような男と、それに付き従う大量の人型によって、日常は呆気なく覆る。
「……邪魔だ。」
眉間を曇らせたまま、つまらなそうに男は言う。
それから程なくして、館内とその周辺から、男達以外の人間は残らず消え失せた。
いや、その一切が、瞬く間に鏖殺されていったのだ。
だが、それほどの殺戮を知るものは誰もいない。そこは既に、その空間だけが周りと切り離された異界であるから。
“社長”とは、そういう能力をもった人間だった。
時間はあっという間に訪れた。アタシも一颯も時刻を確認すると、無言で支度を始めて、最後の瞬間に向けて気を引き締める。
煙草ももう、咥えることがないと思うと何とも言い難い感慨があった。
「こっちにバイクがある。それで行こう。」
少年は無言で着いてくる。ガレージの扉を開けると、眠っていたハーレーが姿を見せる。
エンジンも問題なく動く。こいつに乗るのは随分と久しぶりで、サイドカーなんて使ったことは一度ぐらいしかない。
「響歌……」
もう決して会うことがない妹の名前を呟いて、死人のアタシと一颯は乗り上げる。
けたたましく鳴り響くエンジンの轟音は、全ての未練を一瞬でかき消した。もう、今度こそここに戻ることは無い。
今行くぜ。七彩────────
──────────あれ。
何処だっけ、ここ。
見覚えがあるような知らない部屋、部屋の隅から隅まで、どこまでも白い部屋の中で、壊れかけた椅子の上に座っていた。
なんだか気持ちが安らかだ。俺はもう、死んでしまったのだろうか。
声が出ない……恐怖や戦慄を感じている訳でもないのに、まるで音が出ていこうとしない。喉に鍵をかけられているみたいに、喘ぐことすら叶わない。
扉もないな……
立ち上がろうとしたけれど、どうやら身体も動かないらしい。金縛りっていうのは、こういう感覚なのかな。
視線だけを操って、部屋を観察する。
やっぱり何も無い。正面に大きな鏡があるだけで、こじんまりとした部屋で、俺だけが寂しく座っている。
寒くもなければ暑い訳でもない。そもそも温度というものを感じない。……変なのは、こんな状況のくせに、うとうとしている自分の方だった。
ここに来る前、感情が今までにないほど昂った後、プツリと線が切れたような気がして、そのまま視界が暗転してしまった。
今現在、遥歌さんがどうしているか、七彩はどうなったか、そもそも俺自身は生きているのか、何もわからない……
それに、檜野一颯は、どこへ行ったのだろう。
ダメだ。何もできない。特別怒りや悲しみなんて感情もわかないまま、ただ悠然としている。
眠いな────────
「しんじ君。」
部屋の中で、誰かの声がする。
確かに聞きなれたその声は、幾度となく俺を呼ぶ。
「しんじ君。起きて。」
何度目かの呼びかけが終わったその瞬間、頬に始めて何かの感覚が伝わった。暖かく、柔らかい質感を感じて、俯いていた面を上げる。
「あぁ……」
鍵が外れて、安堵の息を漏らした。
同時に目頭が熱くなり、すぐに止めどない量の涙が流れ出す。
まるで神秘に邂逅したような気分だ。たおやかな笑顔を浮かべるその人は、やっぱり何も変わってない。
そこにいるのは、幻覚でもなんでもない、新川七彩その人だった。
「久しぶり……でもないかな?」
笑顔を絶やさずに、なだめるような暖かさで言うと、彼女も少し、瞳を潤わせた。
「あ、あ……」
まだ目の前の彼女の存在を受け止めることができずに、ただ声を漏らすことしかできない。
「もう、おおげさだなぁ。本当にすぐ泣くんだから。」
「先輩だって……泣いてるじゃないですか……」
お互の涙を見て吹き出す。自然と零れた涙と、笑み。
安らかだった気持ちは一層その安心感を増して、この部屋がどうしようもなく居心地が良くなってしまった。
泡沫の夢と、知りながら。
満足に笑いあった後、彼女は自分の涙をふいて、その手で俺の涙も拭った。
「ありがとう。助けてくれて。」
またしても、一点の曇りもない表情で笑う。
言った。彼女は、確かに言った。
結局何も出来なかった俺に、慰めでもなんでもない、純粋な言葉を、伝えてくれた。
「そんな、俺は……」
「うん。かっこよかった。」
言って、
「全然ダメだった。どれだけ覚悟を決めたって、まんまと騙されて……」
「うん。真っ直ぐだったね。」
言って、
「俺は……あんなこと言っておきながら、何も……!」
「うん。諦めなかったよね。」
言って、抱きしめる。
もう何も出てこなかった。ただ情けない自分を、先輩は否定しない。
責めもしなければ、突き放すことも無い。
どうしてこの人はこんなにも、暖かいのだろう。
どうしてこんなにも、一人じゃないと思うのだろう。
「さっすがしんじ君。私の信じた男の子!」
「先輩……俺、あなたを助けたい……助けたいんです……!」
咽び泣く。
俺の思いがどれだけ強くても、この結果は変わらないことを、俺は知っていたから。
自分が嫌になるぐらい泣いた。自分に嫌われるぐらい泣いた。
それでも先輩は─────笑っていた。
「さっきも言ったはずよ。わたし、もう助かったの!しんじ君が助けてくれたんだよ!こんなに嬉しいことって、ない!!」
両手を広げて、相変わらず無邪気笑っていた。
「しんじ君、自分を責めないで。しんじ君がしんじ君を嫌ってても、あなたを愛してる人がたっくさんいる!わたしや部活のみんな。あなたに名前をつけた家族のみんな!こーんなに!愛されてるの!素敵でしょ?」
思い出は、強く鮮明に蘇った。
忘れていたわけじゃない。ただ、置いてきてしまったんだ。
置き去りにして、取りに帰らないつもりだった。
違う……違うよ。俺。
思い出は、自分と生きるものだ。
受けた愛は消えることは無い。俺は、こんなにも愛されていたじゃないか。
みんなが、呼んでいる。
そうだ───────俺もみんなを、愛しているんだ。
「悔やみきれない後悔は、やっぱり辛いよね。どんな痛みよりも、重くて、深い。」
俺の肩を優しく掴んで、彼女は続ける。
「でも忘れないで。自分を信じること。みんなを信じること。そして、愛すること。……それが、明日を生きるってことだよ。」
白い部屋に風が吹く。鏡には、変わらない先輩と、吹っ切れたような清々しい顔をした、自分がはっきり映っていた。
「明日を、生きる。」
暗澹に、一縷の光が差した。
その光芒はけれど強烈で、暖かい光はますます大きくなる。
部屋は崩れさり、視界は、一気に開けた。
快闊とした希望の平原。
俺は今、確かに、目覚めた。
「うん。いい顔になったね。」
「ありがとうございます。俺も……先輩が大好きですから。」
「あ、それはもう告白じゃんね。」
自分の発言の恥ずかしさに気付きはしたものの、それも清々しかった。だって、まごうことない本心だから。
「いっておいで。ここから先は遠いけど、信じて待ってる人はきっと居る。君自身も、君自身を信じてあげて。」
一颯のことか。
大丈夫だ。あいつはきっと、戦ってくれている。
俺は、俺自身を信じて、お前に追いつくよ。
「じゃあ俺、行ってきます。そして、伝えてきます。先輩の言葉を。先輩に。」
「うん。よろしく!しんじ君からも言ってあげて。あの子は、誰かが必要だから。」
「ええ。きっと。」
手を振って、走り出す。
その先の明日を信じて、自分の決意を信じて、戦う仲間を信じて、俺は走る。
ふと振り返ると、既にもう、先輩の姿はなかった。
「ありがとうございます。」
呟いて、その先を目指す。
爽やかな心持ちでまた走り出し、ここじゃないどこかに向かって、無我夢中に疾走した。
▽
どこで切り替わったのか、アタシもコイツも、全く気づかなかったらしい。
さっきまで確かに流れていた時間や人は嘘みたいに途絶えて、目の前の景色は、地獄そのものに成り果てていた。
声が出ない。こういうのは慣れてるはずなのに────
人通りが多いことを危惧していたアタシは、しかしその状況によってそんな思考は出来なくなった。
ほんの数分前、多くの人間で賑わっていたここは、その多くの人間の死骸で埋め尽くされていた。
屍山血河。生まれて初めてみる尋常じゃない程の死は、まさにそう形容するに値する景色だった。人も空気も時間も、何もかもが終わっていた。
これよりも酷いものを、アタシはしらない。
「なんだ、これは」
ようやく絞り出るようにでた一声がそれだった。脳が一度に受け入れることができる絶望の量を超えていて、まともに思考ができない。ただ呆然とその混沌を見ているだけだった。
「上を目指そう。行けばわかるよ。」
驚く様子も見せないまま、機会じみた抑揚のない声で催促する。アタシもその質素な言葉でようやく身体が機能したようだ。
バイクから降りて、できるだけ塔に近づく。本来であれば銀色の光沢をみせる骨組みは、所々が赤に染まっていて、まるで塔そのものも殺されたようだった。
これは一体、誰の仕業だろうか。
伊能の連中に、ここまでの鏖殺をやってのける人間がいるのなら、それは間違いなくアタシらのラスボスだ。
地面に目をやると、いかに無残に無情に容赦なく捌かれたかがわかる。道端の小石を蹴るように、なんとも思っていない。ありふれた無から、夥しい無が生み出されたわけだ。
骸をどけながら、血に塗れた床を進む。動揺を抑えながら、漸く塔の真下に辿り着くと、檜野一颯は大きく息を漏らした。
「退屈だ……」
「……は?」
「この殺戮のことだ。目的のない、災害に近いもの。まぁ殺戮っていうのはそういうものなんだろうけど、この死体の全てが、一人も余ることなく運が悪かった。そこにいただけで殺される。まだ血を吸っていない蚊が潰されるのと似てる。邪魔者は邪魔になる前に殺されたんだ。邪魔する意思もなかっただろうけどね。」
散らばった肉片を拾って、そんなことをぼやき出した。
その表情は本当に退屈そうで、若干の胸糞の悪さを感じる。
しかしそれは、きっとコイツも同じなのだろう。
ギリ、と、歯を鳴らす音が聞こえたから。
……でもこれを見たのが信仁じゃなくて良かった。こんなものは、優しいアイツには見せられない。
こんなもの、か。生きてた人間の群れを、こんなものとしか思っていなかったアタシも、大概外れてるのかもな。
「この距離なら、飛んで展望回路の上に着く。血で滑らないように。」
必要のない注意を促して、少年はその足に力を込める。見様見真似でアタシも力を入れて、真上に勢いよく飛ぶイメージを思い浮かべる。
瞬間、引き絞った弦がはち切れるように、アタシと少年の身体は弾けて、風をきって真上に飛んだ。
耳元で風の轟音がうるさい。目も耳もやられて、既に参りそうだ。
果たして450メートル上部に到達したアタシ達を、見覚えのある人影が、つまらなげに待っていた。
「遅かったな。」
ヌゥ、と這い出でるように出てきた男は、やはり新川祐一だった。その表情は昨日と何も変わらない、曇り切った苦悶の顔だ。
夜の闇と同化するように、全身上着も中着も黒で統一されている。
研究者や科学者と言うより、風貌は殺し屋のそれだ。
しばしの沈黙の後、男は、フン、と鼻で嘲笑する。
「“下の”はお前の仕業か?」
ここ周辺のあの惨状、容赦ない過激な鏖殺。
この男にアレをやってのけるほどの力があるのかは定かではないが、もしそうだとすれば、いくら七彩の父親といえど、看過する訳には行かない。
絶対に、殺す。
「……そうだと言ったら?」
男はまたも嗤った。だというのに、やはり眉間は曇っていて、どこかつまらなげだ。挑発的な言葉とその嘲笑とは対照的に、殺気とは似て異なる、決定的に暗いなにかを感じる。
「殺すさ。アレみたいに、めちゃくちゃに。」
「冷静さを欠いているようだな。やはり根は激情家だと言うわけか。」
「アンタこそ、余裕こいてるみたいだが、普通の人間じゃアタシには適わないぞ。」
「ハハ……そうか……!」
「檜野。先に七彩の方に行け。後から追う。」
「言われなくても、こんなやつの相手はごめんだ。」
一颯を行かせたその瞬間。
男の姿が視界から消えたと思うと、刹那、アタシのすぐ目の前に三白眼を見開いた男が現れる。
「ガフッ……!!!!」
限りなく本能に近いとっさの防御で、男の剛健を受け止める。
しかし、その場しのぎの受けではいとも簡単に敗れてしまったようで、アタシの両腕の骨は音を立てて壊れていく。
メキメキ。ゴリゴリ。ボキボキ。
アタシを構成する芯の一部が、繰り出される拳によって破壊される。
「その程度か!笑わせるなァ!?」
これだけの一撃を放っても尚、男から殺気を感じない。
苦悶の表情は少し力んだだけで、根底は崩れていなかった。
この感じ、やっぱり……
「……冗談」
頭の中に浮かんだ憶測を払うように呟く。
めちゃくちゃになった腕を無理やり戻して、ダン、と地面を蹴りあげる。
高く飛んだアタシの身体は、一瞬にして文字通り点火する。
燃え盛る烈火の炎は、アタシを纏って、怒りに共鳴するように燃え上がる。
「オラァ!!」
高い打点から勢いを十分につけて、夜闇を照らす猛火の拳を、脳天目掛けて振り下ろす。
「ほう!?」
一つ間が遅れて咄嗟に回避するも、男の衣服に炎は燃え移り、黒尽くめの身体ごと激しく燃え上がる。
「がぁぁぁぁぁ!!!」
のたうち回り、悶絶する。その暑さと痛みを振り払うように地面を転がる。熱気はこちら側まで十分に伝わってくる。
頭を抱えて、獣の呻き声のような断末魔を上げ、狂う。
「まだまだ!!!」
一層炎は燃える。骨も残らないほど、焼き尽くしてやるよ……!
「……フン」
二撃目。低くしゃがんでからの渾身の上段回し蹴りを、いとも容易く受け止める。
いつの前にか炎は鎮火しており、ニィ、と不敵な笑みを浮かべ、掴んだ足を膝からへし折る。
丁度、鳥の足のように。
「あがぁぁぁぁぁぁ!!!!」
耳の奥で、ボキ。と無機質な音が聞こえた。
聞こえたと同時に、身体は悲鳴をあげる。
痛い。痛い。痛い。痛い。痛いぃいい!!!!!
「まだだ。」
淡々とした調子で、また一撃、また一撃と、その重すぎる拳を急所に的確に入れてくる。
肉も骨も豆腐のように抉り、崩し、破壊する。
およそ、人間の力ではない。その都度その都度、ダンプカーにでも撥ねられているようだ。頭の中の深くまで衝撃が響いて気持ち悪い……!
男の攻撃をまともに受ける度、意識が落ちて、また醒めて、また落ちてを繰り返す。
こいつは──────やばすぎる!
「オラァ!オラオラオラどうした!?“燃える鉄拳”が聞いて呆れるぞ!」
結構な回数になるのに、衰えるどころか力は勢いを増す。
それが防ぎようもなく疾く、強いのだからタチが悪い。
アタシはもうどうしようもないくらいにボロボロだった。
ドン。ドン。
吐血、骨折、断裂、破壊。
身体の機能は悉く終わっていく。交通事故を一度に何度も重ねられては、いくらなんでも耐えることは不可能だった。
足が、腕が、腹が、頭が壊れて、あまりの痛みはアタシに狂うことすら許さない。……正真正銘の化け物だ。
このままじゃアタシのほうが終わっちまう!
いやだ!痛い!!
「……んなんで、たまるかぁあ!!」
叫んで、身体に活を入れる。また炎が湧き上がり、再び男の全身を包み、火事の如し勢いで炎上する。
「…………慣れた。」
呟いて、虫を払うように炎を黙らせる。
「なッ……!?」
「面白いものを見せてやろう、サエシマ。」
言うと、男の左右の肩甲骨の辺りが、マグマの煮えるような音を立てながら膨れ上がる。
「……なんだ、これ。」
丁度両腕と同じ長さまで膨れ上がったそれは、突如大きな破裂音を立てて爆発し、中から歪な筋繊維のようなものが露呈する。
筋繊維は、殻のような鎧を纏い、その太さを増す。
……結果出来上がったのは、人の身体から出てきたとは思えないほど、太く、捻れた、鋼の腕だった。
見るも無残な芸術のように、死を色濃く連想させる。
「アタシの……負け……。」
蓄積されたダメージで、膝から崩れ落ちると、意味もない呟きをしてしまった。絶望が形になったようなソレを目の当たりにして、戦意は完全に消え失せる。
「負けでは無い───────“死”だ。」
その腕は槍のように形を変えて、二本同時に心臓目がけて襲いかかる。
◇
───────ごめんね。
誰に向けた謝罪なのか、自分でも分からない。
謝るのはむしろ、私を使い回したあいつらの方なのに、なんで私はこんなにも……許しをこうように泣いているのだろう。
身体の感覚はもう残っていない、脳だけが浮遊しているみたいで、考えることしか出来ない。
胡乱とした頭で、自分の人生を振り返る。
残念ながら、幸福だった時間はほんの幼い頃の記憶しかない。
後はもう、地獄というにはあまりにも退屈で、しかし反吐が出るような日常だけ。
なんの価値もない人生。信じたものも、信じてくれたものもない。
生まれつき大抵の事は出来た。およそ“出来ない”とか“苦手”というものがなくて、全てが退屈な作業に過ぎなかった。
他人はそれを、羨望の眼差しで見つめる。
「羨ましい」なんて無神経な言葉、何回聞いてきただろう。
なんでも出来る才能なんていらない。そんなものより、確かに実感出来る明日がほしい。
機会のような日常はもう嫌……
そんな時、私は、あの注射を受けた。
何回も、何回も、痛かったし辛かったけど。
きっと私と同じような思いで過ごしている人がいる。
難病に苦しんで、病床を離れることが出来ない人。
その人たちだって、きっと……真っ白な日常を送ってるはず。
お父さんの研究はどんどん進んだけど……
大丈夫だよ。私は分かってる。だから泣かないで。
謝らないで。謝るのは、お父さんじゃないよ。
今は苦しくても、“薬”が出来ればきっと変わる。私達にはそれが出来るじゃない。
─────痛い、辛い、寒い、寂しい、暗い。
お父さん、あんなに無理して。お母さんも寂しそうで。
私は……お父さんの役に立ちたくて。
お父さん……もう泣かないで……
私が……がんばるから───────
最後の記憶さえ、曖昧だ。唯一大切だった家族は引き裂かれ、幸福はますます薄れていく。
……そういえば、突然現れたあの男の子は……どうして私にあんなにも構ってきたのだろう。
冷たくしすぎちゃったかな───────
◇
「七彩。」
よく知らない女の子の名前を、呟く。
あの男の足止めを冴嶋に託してから、強い北風を受けてついにたどり着いた。
上に進むに連れ細くなっていく骨組みに、不格好な厳つい装置が、鈍く光ながら取り付けられている。
そこに、新川七彩は拘束されていた。
華奢な身体は鉄のベルトに締め付けられ、気を失っているようだがその表情は苦しそうだ。
信仁……目覚めるなら、今のうちだと僕は思うな。
「来たわね。」
奥の方から不快な声。そのセリフは余裕がよく現れていて、一層鬱陶しい。
「アンタ、まだ居たのか。」
「あら、口の利き方がなってないんじゃないの?坊や。」
「そうか。気をつけるよ───────クソババア。」
女は分かりやすく苛立ちをみせる。全く、間違ったことは言ってないはずだが。
狩野清美。信仁は随分信用してたみたいだけど、内通者なんて大抵こんなもんだろう。
出てきた時とは一変して、いかにも不機嫌そうな表情のまま狩野は距離を詰めていく。腕を組んで、甲高いヒールの音を鳴らしながら、何度目かの舌打ちをする。
「躾けた方がいいかしらね……?」
「ハッ、独身のアンタに子供の世話が出来るのかな」
「一々癇に障るわね……信仁君とは大違い。ホントに同一人物?」
「信仁の親も大概だけど、アンタには特に感謝してるよ。随分……余計なことをしてくれたからね。」
あの日の記憶が蘇る。徐々に湧き上がる憎悪と共に、鮮烈に、脳を支配していく。
あぁ─────吐きそうだ!
だからこの陰鬱で最悪な憎しみごと……
「……殺してやるよ。」
「あら、怖い怖い。」
女は鼻で嗤う。しかしその直後、大量の血が吐き出される。
一颯の強烈な貫手が、清美の臓器に穿たれた。
「う……そ……」
女にさっきまでの余裕なんてあるはずもない。今女にあるのは、ひたすら“何故”という疑問と、自分の生命の危機のみだった。
つい数秒前まで身体を巡っていた血が、とめどなく溢れる。
「がは」
喋ることすら出来なかった。その一撃は、確実に致命傷になったからだ。しかし、まだ殺さない。
一颯は死ぬギリギリでそれを止める。じわじわと、自分の憎悪を伝えるために。
少年の口角は歪に釣り上がる。
ついに……ついに、報復の時だ。
自分を殺した人間を、殺す。
少年は、このために……生きてきた!
その手を抜くと、鮮血は綺麗な放物線を描き、鉄の床に絵の具が飛び散るように散乱した。女は膝から崩れ落ち、自分の終わりをまざまざと実感するのみだった。
死にそうなのに、死ねない。
その感覚が余計に女を苦しめる。
いっそ早く死ねたらどれだけいいだろう。脳が溶けるような痛みが、精神を侵食する。
少年がこの女に味あわせてやりたかったのは、まさにその感覚だった。
「あの日のアンタらは、あのまま死にゆく人間に、生きる許可を出してしまった。あくまでも“別の人間”としてね。」
少年の増悪は加速する。女は全身に悪寒が走り、今にも塵に還りそうだ。
「教えてくれよ……僕は、僕はなんでこうならなきゃいけなかった。こんなんじゃ、生まれてきたのも、名前を持ったのも、全てが無駄だ。最初から、違う誰かとして生まれた方がどんなに良かったか。」
返り血を浴びた少年の顔に、大粒の涙が滴る。
透明なそれは、赤黒い血と混ざり合い、赤い花弁のような色彩をしていた。
女は既に、少年の嘆きを聞き入れるほどの余裕はなく、今にも切れそうな生命の糸を繋ぎ止めるのに必死だった。
血は止まらない。もう、あと数分もすれば、女は終わる。
「さよなら、狩野清美。」
もう、話すことは無い。赤い涙を流しながら、女の生命を確実に絶つ一撃を振り下ろそうとした、まさにその時。
「はいドーーーーーン!!!!!」
女の身体は爆散する。肉という肉が内側から破裂し、内蔵も血も水風船が弾けたように爽快に飛び散る。
……え?
瞬間。
人間の生涯ではおよそ感じることの無いような、強烈な圧迫感に身体が襲われる。
いや……これは、本当に圧迫されている。
少年の身体一点のみに、異常な“重力”が働く。床は円形に大きく凹み、ガン、という大きな音を立てて塔が軋む。
◇
「あっは。びっくりしたろ〜!!!!」
無邪気な少女の声が、辛うじて聞こえる。外に意識を向ける余裕もないほど、この状況が壮絶で、強烈だ。
幸い、これだけのことをやられても……身動きが取れない程度。
この力も、こういう時ぐらいは役に立つ……
どうやら奥には、その元凶がいるようだけどね。
「そ……う、か。ハァ、社長っていうぐらいだから、無意識に大人と断定していたが……ハッ。君だったか。」
「辛そうじゃないか。でもさ〜、私が会いたいのは君じゃないんだ。シラケるなぁ……全く。“仁義君”はどこだい?」
真紅のヘッドホンを首にかけ、バツが悪そうに頭をかいて、メガネの位置を合わせている。
信仁をそんなふざけた呼び名で呼ぶヤツは、あの女ぐらいしかいない。
「石動、佳奈─────」
少女の髪は風になびく。
新川七彩を背にして、その少女は、普段と何ら変わらない笑顔を見せる。
「あぁ、それ……偽名だよ。もう本名は覚えてないけどね。」
少女は笑顔をやめて、冷徹な眼差しに切り替わる。
その空虚な表情に潰されそうになるのを耐えて、やっと分かる。
あの鏖殺は、コイツの仕業だ。
僕も大概だが、彼女もまた、返り血でべっとり赤く濡れていた。
◇
襲いかかる鋼の腕、心臓はてっきり、もう貫かれて終わってしまったと思ったが……どうやらそれは、アタシを貫く手前で留まったらしい。
「なんの……つもり……」
呆とそんなことを呟く。男はまたしても、悩める学者のような顔をして、目が暗くて見えないほど眉間にシワを寄せる。
「サエシマ。“死”とは、なんだ。」
「……は?」
歪な鋼は今にもアタシの心臓を穿こうとしているが、今の男にはまるで意思がない。
純粋に、そのありふれた難題の答えを欲しているようだった。
大木のように立ち尽くして、黒い男はこっちを一瞥する。
「人は……いや、生命は、何故生まれ、何故死ぬと思う。」
男の顔を曇らせる原因はきっとこれだろう。
取り留めのない疑問。終わりのない疑問。
理不尽や不条理とは違う、ただ常識以前の、大きな循環。
その存在意義を問う質問は、アタシには分かるはずもなかった。
答えは分からない、けど。
「……さぁな。アタシはもう死んでるが、なんとも言えん。人生が無意味で無価値なものなんてのは、分かり切ってたしな。」
「────そうか。」
溜息と沈黙。死んでいた何かが蘇るように、はたまた腐り出すように、男は呟く。
「アンタらはそれが憎いから、不老不死なんて目指すんだろ。全くくだらない。期待を抱きすぎなんだよ。人生なんてな、いつ死ぬかも分からんくせに、なんで生まれてきたかも分からねぇんだ。そんなものに寄せる期待がどこにある。抱く希望がどこにある。不老不死なんてやったところで、死を克服しただけだ。大したことじゃない。」
諦めたような口述。でも、これはアタシの本心からの持論で……結局人生の本質は、“無”なのだと、今でも思っている。
いくら最低な経験をしたって、最期にイイコトがあればそれでどうでも良くなってしまう。
それは半分幸福で、半分虚無だと思う。
密度の濃い充実した人生も、結局死ねばパーだ。でも、その過程には確かに幸福があった。
そう考えると、結局そういう事だとアタシは思う。
「……驚いた」
男は目を白黒させて、本当に驚いているようだ。
「まさか君に、そんな考えがあったとはな。ただの激情家だと思っていたが、少し見方を改めるべきか。……いい。お前は、殺すには惜しい。」
クク、と、不吉な笑みを浮かべる。その笑みは壊れていたが、どこか哀愁を含んでいた。
「アンタがその気じゃなくても、こっちは狂おしいほどにアンタを殺したいんだよ」
炎が周りの空気すら支配する。空間という空間に燃え移り、激しく盛る。
「フン。バランスの取れていない女だ。」
「アンタも壊れているように見えるぞ。めちゃくちゃだな。」
お互い、戦闘態勢を崩さず、視線で殺し合う。
うるさかった風は黙り込み、すっかり出てこなくなった。
立ち込める屍山の臭気と、殺気を孕んだ気味の悪い沈黙を焼き払うように、炎はパチパチ音を立てながら燃え広がる。
「なぁ、それ何。」
今更遅い質問を投げる。男の背から、今も禍々しく蠢くその鎧の腕。視界に入るだけで内側から寒気がする。
「コレか……フン。貴様らと同じ、病気の症状に過ぎん。最もこれは、後天性の天然物ではなく、薄汚い努力による人為的なものだがね。」
そんなことが可能なのか、と、衝撃を受けた反面、どこか納得した。それが人為的なものであるなら、わざわざ人体を利用するのも、それが鎧を纏うのも、何となく合点がいく。
「……なんのためにぶら下げてんだよ」
「さぁな──────もう、忘れてしまったよ。」
◇
遥歌を囲むように燃える炎が、今だ、と告げる。
遥歌が疾走を始めた。
一瞬の内に間合いを詰め、黒の男は咄嗟にその二槍の槍を振りかざそうとするが、既に遥歌は圧倒的に自分に有利な間合いを確保していた。
カァン、という鉄の甲高い音とともに、烈火を纏った拳が男の頬骨を抉る。
「おおぉおおおぁぁぁっっ!!!」
男の顔面は燃え上がり、煙を上げながらその勢いを増す。
その痛みと温度に耐えきることができず、男は発狂する。
「オラァッッ!」
間髪を入れない二発目、男の腹に穿たれた鉄拳は内臓諸共焼き尽くすようにのめり込む。
─────もはや声を上げることすら出来ず、ただ火葬される人間のように燃え続け、遂に動きを止め、冷たい床に倒れた。
遥歌の意思によって炎は直ぐに鎮火する。煙が晴れた後、そこにあったのは皮膚すらも黒くなってしまった男の焼死体だった。
「言っただろ。殺すって。」
男は遥歌の攻撃に対応しようとはしたが、自ら攻撃を行うことはなかった。
一方的で圧倒的な戦闘は、あっさりと完結した。
─────かに思われた。
「……おい。」
男の焼けただれた皮膚は剥がれ落ち、そこからまた新たな筋繊維が芽のように生え始める。
この世のものとは思えない光景がそこにはあった。
筋肉は肥大化し、男を覆い隠すまでに大きくなる。そうして粘土のように練られ、形を形成して行くそれは、最終的に、異形の怪物を形どった。
六本の大木のような腕。胸筋と背筋が異常に膨らんだ胴体を支える四本の根のような脚。そして、鮫のように鋭い歯が何重にも生え揃った大きな口をもつ鳥のような頭。
「化け物─────────」
それ以外に、なんと形容すればいい。
この絶望に、どう立ち向かえばいい。
ゆっくりと、怪物は動き出した。
「ギャァァァァァォァァァァァッツッツツォツアァ!!!!!」
人間の断末魔のような、鼓膜を劈くその叫びは、夜空を二つに割っていくようだった。
◇
何故だ。何故人は、病に倒れなければならぬ。
なんの罪もない善人も。汚れてしまった悪人も、生まれたばかりの子供も。産んだばかりの母親も。穏やかな老人も。健気な少年少女も……何故。
安らかな死を与えられる人間は、ほんの一握りだ。
病を患ったものは、病床で苦しみながら絶えていく。
──────私は、もう見たくない。
無念に終わっていく人生を、私はもう見たくない。
ならば、如何なる難病にも対抗しうる薬を作るまで。
医師であり、薬剤師の免許も持ち合わせていた私は、製薬会社に就職し、独りでに研究に没頭した。
全ては、万能薬を作るため。
奇跡は起きるものではなく、起こすものなのだから。
産まれたばかりの娘と、愛する妻の為にも、この研究は必ず成功させるべきだ。
私であれば、きっと可能だ。この世界から、病という概念を消し去ってやる。
そのためにはやはり───────あの奇妙な力の根源をしる必要があるな……
数年前、海外の紛争地域の負傷者、同時に難病に苦しむ患者を一瞬にして健康体そのものに変えてしまった神の如し力。
その奇跡を起こしたのは、まだ十代半ばの少女だったという。
いくら考えようにも、どう想像しようとも、そんな話は御伽噺としか思えなかった。
しかし、その少女は、私の眼前に現れた。
研究を初めてから、僅か三年程だったと思う。
「奇跡がほしいかい……?」
悪魔のような囁きだったのを、私はよく覚えている。
出会ったばかりの少女を悪魔と形容するのには、これ以上ないほどの理由が存在した。
……少女は、社長の首を持っていた。
比喩でもなんでもない。首そのものを、右手にカバンのように当たり前に持っていた。
私の純真なる理想は、あの少女の手に堕ちてしまった。
いつしか伊能製薬は、“能力者”と呼ばれる特異な人間達を拉致監禁し、研究、解剖するという非人道的な組織になってしまった。
私よりも遥かに先に、その力に目をつけ、悪用する者がいたという事だ。……無論、それを牛耳っているのは、その少女だ。
このままでは───────万能薬どころではない。
世界はたった一人の少女に屈してしまう。間近で見れば見るほど、それを痛感する。
しかし、運命という不確かで曖昧なものはやはり残酷だった。
私の愛娘──────七彩に、能力者の兆候がみられた。
それにいち早く気づいたのが私だったことが、不幸中の幸いだった。
まだ研究中ではあったが、能力者の力を抑制するワクチンを打つことで、何とか押さえ込もうとした。
……しかし、七彩の才能ともよべるその素質は恐ろしく、試験薬などではまるで歯が立たず、力はますます増幅していった。
私の抵抗も虚しく、“新社長”となった少女は、七彩に目をつけた。
馬鹿げた悪夢が始まったのはこの日からだ。人間の身体の構造……常識の部分までをも改変できるほどの素質を持った七彩の力は、伊能の下衆どもに隅々まで調べあげられることになった。
私はそれを隠匿していた罰として、研究室に拘留され……マグマのように熱い“何か”を打たれ続けた。
それが身体の中に入り込む度に、血液や筋肉が悲鳴をあげ、別のものに生まれ変わっていく感覚を覚える。
──────七彩の叫び声が聞こえた。
まだ幼い女の子だぞ?七彩は泣いていた。泣いて、叫んで、喚いて。
何度も、「お父さん助けて」と。
その時、私の中の何かが壊れた。万能薬を作る思想はもう既に排斥され、ただこの世界そのものの病を治すことを思案した。
つまり、死ぬべき人間を殺す。
突拍子もない、無謀な結論に至った理由は、七彩が泣いていたと言うだけで十分すぎた。
あの子を泣かせたものを、私は狂おしいほどに許せない。
意識が、飛ぶ。
麻薬や違法ドラッグのたぐいに手を出したことは無かったが、きっとこういう感覚なのだろう。
私は、それらを殺した後、ネジが外れたように腹を抱えて笑っていた。
あの時打たれた“何か”は、私の体を兵器へと変えてしまったらしい。最もソレを作り上げた当の本人達がこうして無残に殺されているのは、なんとも因果なものだった。
殺したのは、私。
医者として、病に対抗する手段を作るものとして奮闘していた私の人格は、殺人という行為でいとも簡単に消えてしまった。
───────少女は、嗤っていた。
七彩を好き勝手に使われるのは看過できない。その気持ちは殺人を犯したその時でも確かに存在した。
だから、多少強引にでも娘を守らせてもらうことにした。
七彩は死ぬかも知れない────────だが、それでいい。
後を継ぐものが、必ず現れる。
この生死の概念が破綻した世の中を、変えるものが、未来から必ず現れる。
もはや、それを待つしか方法はない。そうして七彩に打った薬は……能力を限界まで活性化させるもの。
時を遡るほどの力があれば、アレを止められるはずだ。
私の親として終わっている提案に、七彩は苦渋の末賛同した。
その日から、七彩と私の、これまで以上の地獄の日々が始まった。
七彩の腕に、何度も、何度も、煮えたぎるような熱さの薬を打つ。
七彩も私も泣いていた。とめどなく涙が溢れ、この先の未来を嘆いた。
諦めた訳では無い。だからこうして抗っているのだが、私達が賭けようとしている可能性は、限りなく希薄なものだった。
最初は苦虫を噛み潰したようだった表情も、少しずつ慣れていく。それと同時に、人間的な感情が欠落していくように見えた。
すまない、七彩。
全て、全て私のせいだ。──────だが……これ程愚かな決断をして、これほど愚かな抵抗をしてもまだ、初めに抱いた理想までが間違っていたとは思えない……
万人を救いたいという考えは、間違いなのか……?
全ての人間の明日を望むことは、欲張りなのか……?
分からない。分からないんだ。
誰か───────答えをくれ。
その時、私は奇跡を見た。
少女が嗤いながら言っていたものとは明らかに違う、正真正銘の奇跡。
私と同じ銀色の懐中時計をもったどこか見覚えのある少女が、夢枕に現れた。
「お父さん」
そう呼ばれて気がつく。雰囲気が随分と違うものだから、すぐには分からなかったけれど……
私の娘は、来た。
神を見たような気持ちだった。
七彩が現れたということは、私たちの狙い通りに事が進んでくれたという事だ。
未来から、救世主が来るという事だ。
未来から来た七彩は……自分が死んでから起こったこと、そして、出会った人の話を事細やかに、そして何より楽しそうに話した。
それだけでも……私はどんなに救われたことか。
私は決心した。全ての手筈が整った今、後は未来から来た救世主が、あの災厄の如し少女に打ち勝つための舞台を用意するのみ。
私は、ある計画をでっち上げる。
それが─────全人類を不老不死にするというもの。
馬鹿げた話だ。しかしそれは七彩の力をもってすれば、いとも簡単に実行できてしまう。
計画の全容を社員や研究員に説明し、その絶大な可能性について弁明する。
果たして……計画の実行が可決した。
全く、徹頭徹尾馬鹿げた物語だ。
こういう滅茶苦茶な展開を作った元凶を、今でも無意識に考えてしまう。
絶大な力を秘めた謎の病気か、それともそれを利用し、支配しようとする者達か、或いは自分の娘を使って強引に世界を救おうとする愚者か。
全部だ。全部悪い。
なのに未来から来た七彩は、“お父さんは悪くない”なんてことをいう。
そうか、俺は、間違ってないか。
ならば後は───────あの少年達に託す他はない。
……頼んだぞ。私はもう、ここで終わる。
君達が正真正銘、最後の希望だ───────
◇
「なんだ、あれ」
それは上から俯瞰すると、一層歪な部分が目立ち、ますますその異質さを脳に伝えてくる。
その巨体の前に、辛うじて遥歌を目視した。
なら、あれは……
「新川祐一はいい素材だったよ。」
確信に至るよりも先に、少女があっさりと発言した。
親子揃ってね、と、友人と話す時の何気ない調子で付け足す。
「……そうか。」
最も今の僕にはどうでもいい話だ。興味があるとすれば、それは断然、目の前でニヤニヤ嗤っている少女の方だった。
僕は過去に一度、この少女を見たことがある。
本当に見かけただけだが、それだけでも震撼した。
震えが止まらなくて、そのまま身体ごと砕け散りそうなほどの悪寒が走った。
それほどまでに、彼女の全てが残酷で、完璧だった。
「七彩を助けたいのは、君の意思じゃないんだろう。」
「そうだ。」
「なら今のうちに消えることだ。七彩を助ける意思のある仁義君が死ぬならまだしも、なんの意思もない君が死ぬのなら、無駄死にというものだろうさ。」
「僕が死ぬとは限らない。」
「……分かってるくせに。」
確かに僕は分かっていた。多分僕はここで死ぬ。この少女が現れた時点で、それは確定していた未来だったんだ。
もう、きっとダメ。
それでもまぁ、気になる事がいくつかあるので、最期にそれだけ聞いてみることにした。
「……この時間帯を狙ったのは、多くの人が集まるから。だと聞いたが。」
「そうだよ。」
「その方が能力の影響を効率よく広めることが出来るから……なのに、何故殺した。」
そんなことか、とつまらなげに呟いた。
「いや、あれは無意味なものじゃないよ。決して自分の欲求を満たすためとか、そういうのでもない。そもそも私はそんなに壊れてないさ。……そうだな。人、いや、生物であるならば、生きている限り、多様な情報を受け取ることが出来るんだよ。」
やっと重苦しい重力そのものが解除される。
感覚の落差で自然に膝が崩れ落ち、力も抜けた今、彼女を仰ぎみながら話の続きをただ聴くことしか出来なくなってしまった。
「生物が受け取る情報には種類がある。痛みや痒みなどの感覚的情報。喜びや悲しみなどの感情的情報。運動したことで得る肉体的情報。本を読んだり、勉強をすれば知識という情報そのものだって仕入れることができるね。最もこれは人間限定だが、何かを学ぶという点においては他の生物も獲得できる情報だ。
でもこれらは全て、“生きていれば”の話だろう?当然だよな。死んだら何も出来ない。肉の塊である死体に自我なんてあるはずもないのだからね。
ここの人間達を殺したのはそれだよ。生きてる人間ならば、たとえ不老不死という強烈な情報でも獲得できるだろう。いや、させると言った方がいいか。これはそういう強制的なものだからね。
しかしだ。死んでいる者にこの情報は果たして適応されるのだろうか。ここが肝であり、あの殺戮の動機だよ。まぁ、有り体に言えば“実験”だ。これでもし仮に、死体が再び不老不死という情報を受け入れ、動き出したなんてことがあれば、我々の────いや、私の悲願は達成されたと言える。」
長々と語った後、彼女は意味ありげなことをボヤいて、恍惚とした表情を一瞬見せたかと思うと、遠くを見つめて何かに耽っているように見えた。
◇
「そうだな──────敵対する以上、知っておいた方がいいだろう。でもこれは出来れば仁義君の方に聴いて欲しかったよ。彼の純粋な、正義100%みたいな意見が欲しかった。君は混ざりすぎだ、檜野。正義も悪意も虚無も、めちゃくちゃに混ぜてまとめることなく放置してるみたいで気味が悪い。
身体が欲しいなんてのは、建前なんじゃないかとさえ思えてくるよ。本当は……」
「だまれ。」
一颯は不快な声を振り払うように牽制する。一切の力も入らなくなった一颯にとって、精々言葉と視線で対抗する程度が関の山だった。
「狂犬のようだな。君はね、要するにヤケクソなんだ。今更どれだけ欲しがっても戻ってこない、自分のもののはずだった十一年間。渇望すればするほど気づいていくだろう。何をどうしたって無駄なのだと。
本来なら七彩なんて君にはどうでもいいはずだ。けれど因果なことに、七彩は時間を遡ることが出来るからね。そこに目をつけた。そうだろう?そこで自分の事故でも帳消しにしたかったのかな。簡単に想像がつく。」
「……だまれぇえええ!!!」
少年の叫びは二つに割れた夜空に響いた。
葛藤と絶望、執念と憎悪。一颯の感情の全てがその叫びに込められていた。
それを聞き届けて尚、少女は嗤っている。
「図星かな。悪かったよ。勝手に言い当てた詫びをするとしよう。そうだな。昔の話でもしようか。……大体、七十年と少しくらい前の話を。
……あ、スクリーンがあった方が伝わりやすいな。そうしよう。少年。痛いことはしない。目を瞑り給え。」
少女の声は流れるように頭の中に入り込む。それに抗うことが出来ず、一颯は簡単に目を閉じてしまう。
無論、そこにあるのはただの闇。しかしそこに、一点の光が灯り、徐々に大きくなって、何やら映像を映し出し始めた。
「見えるかな。さぁ、急だがこれはなんだと思う。よく注目すれば何となく分かるはずだよ。“日本人として”答えて欲しいけどね。」
「……これは」
一颯は呆気に取られ、暫く思考は働かなかった。
最初は、燃え広がる炎が、何かを尽く焼いていく景色だった。
しかしそれはみるみる明確になっていく。
──────人も、街も、草も、花も、家畜も、空も。
全てが焼けていく。
けたたましく鳴り響く何かの警鐘。
泣きわめく大人と子供。逃げ惑う有象無象。
空を一文字に飛行する鉄の鳥。
それらが何かを産み落とし、炎は一段と勢いを増す。
……怖い。
純粋にそう思った。だって、こんな。これほどの恐怖が存在していたのか。
一颯は絶望する。これは実際に起こったこと。
歴史における最大の悲劇であり、過ちであり、殺戮。
「……戦争。」
「そう。戦争だ。正確には第二次世界大戦ってやつだ。……いつ見ても最悪だな。これ。」
いつ見ても。彼女は確かにそういった。まだ若い少女は、まるでこの惨劇を見てきたかのような口ぶりで言った。
スクリーンに気を戻すと、人混みの中心で、逃げ遅れ転倒する女の子が見えた。
五歳ぐらい──────だろうか。継ぎ接ぎの衣服に、赤い防災頭巾を深く被っている。名前の所は……霞んでよく見えない。
「……え。」
一颯は、無視できない違和感に気付く。
女の子の顔に、見覚えがあるのだ。いや、そんな曖昧なものじゃない。ついさっきまで……見ていた……ような。
「いや、そんなはずは、ないだろ……」
「気付いたか。そうだよ。あれ、私だよ。」
昔の写真に写った自分を見るように、懐かしく哀しげに彼女は呟く。
意味が、分からない。
まるで処理しきれない発言だった。考え続ける自分の頭を落ち着かせる。
無理矢理ついて行こうとする。つまり、彼女は。
「あぁ、今年で多分、八十行くか行かないか、かな。数えるの辞めたから、ワカンネ。」
当然のように、面倒くさそうに、言う。
頭はもう、限界を超えていた。
「よし。──────気になるだろう。何故こんなことをするか。経緯もそうだが、何より“起源”がさ。いいよ。話すのは初めてだ。ちゃんと聞いてくれよ?」
相変わらず友人と話すように、なんでもないような口ぶりで話し始めた。
しかし表情は、重く、険しいものに姿を変えている。
彼女は過去の壮絶な記憶。そして、自分の感情の根底にある、起源。それらを全て口に出す。
石動佳奈。彼女は語り出す───────
◇
当時まだ幼かった私には、何が起こっていたのかまるで分からなかった。分かっていたのは、今この国は物凄く大変なんだということ。そして、何日か前、向こうの方で大きな爆弾が落ちたこと。それから───────
この国はもう、おしまいかも知れないということ。
そしてその終わりの日は訪れた。赤く染った空に、エンジンの轟音を立てながら滑空する戦闘機が、いくつもの人の命を奪い、いくつもの家屋を焼き払う。
逃げ惑う人々は、きっとみんな、何が起こっているのかわからなかったと思う。
逃げるのに必死だった……そうして死んでいった。
何人もの人が、目の前で終わっていった。
嫌だ。嫌だ。やめて。やめて。
悲痛の叫びは、空を飛んでる人たちには分からない。
聞こえるはずもない。聞こえたとしても、彼らはそれを止めない。
お母さんもお父さんも、どこに行ったかわからない。
置いてかないで。怖い。ひとりにしないで……!
鐘の音が耳を劈くようにうるさい。燃える音も、飛ぶ音も、叫ぶ音も、死ぬ音も、聞きたくないのに!
顔を伏せてうずくまる。死なないことを祈りながら。石のように。
かくして、祈りは届いた。
目を開けた時、身体を起こすと。火はもう鎮まり、空も青かった。あれだけうるさかった音も止んでいる。
ただ、一つ。
地面は歩けそうにもない。
人が、そこら中で死んでいる。
腐った血液が流れ込み、今度は虫がその周りを飛び交っている。
立ち込める臭気に鼻を抑え、生存者を必死に探した。
地面に目を向けないように、前だけをひたすら見つめて、歩いて、歩いて、走っても。
誰も居ない。
みんな、死んだ。
声が漏れる。絶望のいきが漏れる。
これが戦争だ。いたずらに命が終わり、あらゆるものが死んでいく。
私は深く絶望し、この理不尽な現実に叫んだ。
こんな世界など壊れてしまえと。怨念に満ちた叫びは、煙る街に轟いた。
その時を境に私に───────常人ならざる力が宿った。
その力は恐ろしくも素晴らしかった。思い描くことはなんだってできた。
まず手始めにその街を消してやった。塵芥一つ残さず、完全に消滅させた。見てるだけで不快だったんだ。あの景色が思い返されるようで。幼い私には耐えられなかった。
略奪、殺人、色々試していくうちに、力の扱い方が分かってきた。例えば、“既にあるものを誰も踏み入れない場所に移す”とか。
誘拐、みたいなものだ。ただし普通のそれとは違う。だって決して誰も知りえない空間に移すのだから、実質“居なくなった”ではなく“消滅した”のと同じだ。
あの街のように二度と再現できないレベルまでごっそり消すことも出来たが、それはそれで退屈だ。
だから私は、ある一つの世界を創り上げた。
神になったのさ。比喩でもなんでもない。その世界の創造主だ。
世界からかき集めたパーツ……空気、土、植物、街、川、海、動物、そして人。
パズルのピースを埋め合わせるようにしてできた世界で、私は彼らから感情を取り上げた。
感情といっても、主に争いを引き起こす要因を取り上げたに過ぎない。
例えば競争心。人に追いつく、追い越すという考え。
例えば独占欲。それらは全て自分のものである、またはしたいという思想と欲望。
例えば嫉妬、憎悪、嫌悪。“あいつが嫌い、あいつが憎い、あいつが羨ましい……”自分より優れているものは許せない、気に食わない、自分と異なる思想のものは排除すべきという潔癖な思想。
その他諸々の黒い感情を取り上げれば、当然純真な善人が生まれる。私が外からさらった人間はみな、そういう者達に生まれ変わった。もちろん、他の動物達もだ。
だがそれでは、人間として不完全だ。人間は醜く、美しいという矛盾の元に在らなければならないから。
しかしそれで争いが無くなるのだから、いい対価じゃないか。
そう考えた私は、ある程度私の世界でこの子らを飼い慣らした後、私の力の一片をその人間達に与えた。
神からの贈り物と言うやつだ。
ギブアンドテイクを尊重したつもりだけど、与えたものの方が遥かに大きい気もしたが、まぁそれはそれ。
彼のソロモン王は、夢枕に現れた神から、魔神を使役する指輪を授かったと言うだろう?
だから私もそれにあやかって、超人の力を与えてやった。
そうしてそれを、外の世界に解き放った。
争う心のない人間であり、超人的な能力を授かった人間を。
───────それが、君達能力者の祖先であり、起源だよ。
それからは目まぐるしいほど争いというものが淘汰されて行った。あれだけ猛っていた血の気の多い兵士たちはみな口を揃えて争いを否定し、恐れだした。
私と私の作品たちによる“統制”がきいたようだ。
戦場を巡っていくうちに、いくつもの負傷者を助けたこともあった。彼らの間では、私は一種の伝説となっているみたいだが、そんなことはどうでもいい。
醜い争いさえ消え失せれば、何がどうなっても構わない。
私達能力者は、そういう人間的な部分が欠落した存在。
のはずだった。
もう長いこと生きた私は、私の思想を受け継ぐ後継者を探すために、能力に目をつけた優秀な科学者──────新川祐一の勤務する製薬会社をジャックして、人体実験と言うやつに明け暮れた。
失敗続きだったが、ある日いい素材が入った。
それが、檜野一颯。君だ。
幼くして力に覚醒した君を、私は自分と重ねた。絶望と失意に満ちた虚ろな眼差しは、まさに私の後を継ぐに相応しい人材だ。
しかし私としたことが……それを盗まれてしまった。
敏腕ジャーナリストの二人。一人は今、ここで殺したね。
彼女は私が“ヤク漬け”にして狂わせた。私の都合のいい人形だ。
もう一人は頑固だったな。流石に君を“赤の他人として”育て上げたのには肝を抜かれた。
そう。そこが問題なんだ。
能力者は人間的感情が欠落している、と述べたが。
普通の人間として育てられた君はもはや、それを完全に忘れ去り……文字通り凡才になってしまった。
それが、川村信仁。おまけに正義感が強いのだから、困ったものだ。
紆余曲折を経て、いや、新川祐一の計画に乗せられて……新川七彩と、川村信仁が出会った。
あの出会いは確かに仕組まれていたものかもしれないが、間違いなく私にとって痛手となったよ。もう少しゆっくりしていたかったのに、あの少年が過去に戻ってくるとなったら私とて無事では済まないだろう。
少年が目覚めるかどうかは別としてね。
だから、新川祐一の計画にとことん付き合ってやったのさ。
不老不死……馬鹿馬鹿しいね。全くその通りだ。
新川祐一の考えたそれは、あの男の半分ウソで半分ホントだ。
難病に苦しむ人間を、善悪問わず全て救いたいという病的なまでの使命感。
しかし、命という医者が最も尊重すべき概念を捨ててしまっている。半分ウソで半分ホントというのはそういうことだ。
あの男の理想は、少し破綻していた。
でもあの様子じゃもう叶えることも出来ないだろう。
やっと小賢しい演劇が終わったよ。
全く─────────巫山戯た喜劇だ。
◇
「だからね。」
スクリーンの灯りは消えて、少女の声だけが脳裏でこだまする。
彼女の口から語られた全てを、何一つ飲み込めないまま、膝をつく僕に、彼女は告げる。
「世界を、作り直そうと思う。」
まるで、自分が神であるかのように。
高らかに、そう告げる。
暗転した世界が破けて、現実に引き戻される。
「私の本当の目的は、全ての人間から感情を取り上げることだ。安心したまえ。私は神だから、君たちの面倒は私が見てあげるよ。」
不敵な笑みを浮かべ、不快な声で笑う。
彼女は本当に神になるつもりらしい。常人には理解できない狂気の沙汰。常軌を逸脱した結論は、彼女が七十年以上もの間悩み抜いて出した答えだ。
……残念だと、信仁なら言ったかもしれない。
僕にはどうでもいい。この少女を殺して、この身体を手に入れて、新川七彩の力で過去を取り戻す。
「……邪魔、なんだよ。」
「通りたければ倒してみろ。止めたければ止めてみろ。信仁と一颯。二人まとめてかかってこい。」
両腕を広げ濁った瞳で一瞥する。
信仁の気配は……まだなかった。
でも、それでいい。きっと信仁はこいつには適わない。
僕だけで、やれる───────!
───────え?
「ハハハッ!弱いなぁ。空っぽはどこまで行っても空っぽだったという訳だ。一颯。」
身体が動かない、というか、いつの間にか地に伏していた。
感覚が風に流されていくように消えていく。何があったのかさえまるで分からない。
つい、数秒前のことだと思う。その数秒間で、ここまで滅多打ちにされたのかと思うと────────
これは、死んだな。
やはりそういう結論に辿り着く。女は笑っている。さっきまでの嘲笑とは違う、屈託のない笑顔だ。
友人とじゃれあっている時のような、なんでもない笑顔で僕を見下す。
吹き付ける風は冷たくて、動かなくなった身体が徐々に凍りついていくようだ。
下で、獣が叫んでいる。冴嶋もきっと、助からない。
こんなはずじゃなかった……僕の十一年間、ただその空白が欲しいだけなのに。
こんなにも欲しているのに、誰もそれを与えてくれない。
ヒュー、ヒュー、か細い空気の音は、風か、自分の呼吸か。
視界は赤く滲み出す。そうか、こんなにも、ボロボロだったんだな────────
◇
獣の巨体は、夜にも関わらず地に影を落とす。歪な芸術を象ったようなそれは、小刻みに蠢き、静かに狂う。
絶望を目の当たりにして、自分の最期を思い出す。
あの時届かなかった拳は……また、届かないのか。
考えるだけで体は震えてしまう。脳が危険信号を忙しなく送り付ける。
ここから踏み出せば、死ぬ。
けれど、ここから動かなければ、みんなが死ぬ。
そうなれば絶対、後悔することになる。
滾る炎を呼吸と共に外に解き放つ。ゴオ。という熱風を撒き散らして燃え上がる火炎は、風に煽られ揺らいでいる。
「いくぞ────────!」
呟いたのは、獣に向けてではなく、自分自身に向けて。
息、歩幅、間隔、全てを整えて、獣の中枢に向けて駆ける。
右拳に全力を込めて、血潮のように流れる炎を拳と共に一気に打ち出した。
爆炎は風をも焦がし、夜空を覆い隠すほどの煙を上げながら、火山のように爆発する。
燃えて、燃えて、燃えて、肉も骨も命も燃やし尽くす熱量を帯びた拳は、獣の心臓を抉り穿つ。
獣も、自分も、焼き打つ炎と煙幕の渦中で、声を上げることすら出来ない。
もっと、燃えろ!
内で叫ぶ。呼応するかのように、益々勢いをつけて、身体をも喰らい始める。
もう少しで、獣に風穴が開く。その瞬間に掛けるように、余力を使い尽くす。
……だが、獣とてただ焼き尽くされている訳でもないようだ。
◇
炎の膜を、太く歪な腕がすり抜ける。
死角から飛び込んできたそれに反応が遅れて、胴体を鷲掴みにされ、一気に支配権が逆転する。
「がぁ!!」
予想を遥かに凌駕する握力に声を上げ、炎は一瞬で勢いが衰える。亀裂が入るように骨が徐々に砕かれ、その音が痛みをより鮮烈なものにしていく。
「ガァァァァァァァァァァァァァァア」
脳を裂く奇声を上げながら、一層力を強め、さっきまで悩んだ表情を浮かべていた男の面影も残さず、獣は荒れ狂う。
「クソッ!クソッ!」
腕はもうとうに終わっていた。助骨も着々と骨折が進み、臓器という臓器に鋭利な骨が食い込む。割れたガラスが肉を抉るように、多様な痛みが全身を襲う。
「チッ───────こんな所で終われるか!」
活を入れた遥歌の身体が、燃え上がる。黒い輪郭がぼんやりと残るだけで、後は烈火の火。その炎は獣の腕を焼き払い、塵芥に還す。
消し炭になった腕から脱却し、すかさず顔に二発、胴体に一発の重い攻撃をしかけ、見事に命中すると、獣は断末魔のような呻き声をあげ、のたうち回る。
塔はギシギシと音を立てながら、耐震構造で辛うじて耐えうるほどの揺れを起こす。
「さっさと終わらせてぇんだよ!」
乱雑な口調のまま、疲れきって弱った打撃を何発か与えると、折れた骨、抉られた臓器の痛みに耐えうることができず、ついに地に足をついてしまう。
「ゴフッ」
血が。炎よりも赤く、熱い血が、絵の具を零したようにぶちまけられる。身体は熱いという感覚から、温いという曖昧なものに変わってしまった。
蒙昧とした意識の中で、死を悟る。
それでも。
まだ、立ち上がらなければならない。
人類の正しい未来のため───────否。
ただ目の前の男を殺すため────────否。
自分自身の後悔を晴らすため─────────否!
純真な少女との約束を守るため、誰かのために命をかけた少年と共に立ち向かうため、立ち上がる。
決意が、炎に薪をくべる。
熱風と煙幕、そして爆炎。少女の熱は、情熱の赤色から、決意の青色へと変わる。
青い炎は揺らぎ、巨大な火柱となって───────獣を焼き尽くす。
少女の運命は決まってしまった。
男の願いは果たされた。
後は……彼の帰りを、待つのみ。
◇
おかしい。ぼんやりとそう思い始めてから、何日が経っただろう。最近の自分には、決定的な何かが欠落している。
とても、大切な何かだったと思う。
そんなかけがえのないはずだったものは、いとも簡単に抜け落ちて、今こうして、全くその面影すら思い出せずにいる。
忘れたと言うよりも、初めからなかったもののように。
夢でも見ていたのではないかと思うほどに。
最近は、酷く退屈なのだ。
彼女の華蓮を見ると、どういう訳か恋愛とはまた違う胸の苦しさに襲われて、友人の冴嶋さんを見ると、何か妙な感覚に襲われる。
もやもやとした、曖昧な疑問。いつまでも温くへばりついていてむず痒い。
僕は一体、どうしてしまったのだろう────────
棚の上に、何故か大事に飾っている一枚の写真。
僕と冴嶋さんしか写っていない。
それなのに、妙に空きがあって……そもそも、どうして屋上なんかで、それも二人きりで写真を撮ったのだろう。
ダメだ。まるで思い出せない。
こんな体たらくをもう何日も続けている。
いつ始まったのかも、また忘れているらしい。
今度冴嶋さんに相談してみるか────────
◇
両親も、姉も、いない。
でも何故居ないのだろう。確か……両親は捕まってる。なんで?思い出せない。
姉は───────亡くなった。どうして……思い出せない。
身寄りのない私を引き取ってくれた川村家。
みんな勿体ないくらい優しくて……でも、何かが足りない。
こんなにも良くしてもらっているのに、私はなんで満足していないのだろう。
大好きなピアノに触れれば思い出すかも、なんてことを繰り返して今に至る。
結局なにも思い出せない。空白の時間が確かにあったはずなのに、その時私は何をしていたんだっけ。
部屋が広い。私一人が寝泊まりするには、あまりにも広い。
私の家はもともと裕福な方だったから、広いのには慣れているけど、そういうのじゃなくて……
だれか、いた気がする。
思い出そうとする度、胸が苦しくなって、いっぱいになる。
何もわからないのに、身体が熱くなって、切なくなる。
飾られた写真。東君と、私だけの、とても奇妙な写真。
なんで屋上?なんで二人?なんで……私服?
これ、いつのだろう。
ダメだ。結局いつの間にか振り出しに戻ってる。
私、どうしちゃったんだろ──────────
翌日。
空虚な朝。結局私は何も知らないかのように目覚めて、いつも通りの、おかしな朝を迎える。
東君なら何かわかるかも……という解決策を、今更思いついたのが昨日。
どうしてもっと早くその結論に行かなかったのか、私ってそこまで頭が固かったっけ。
うーん。頭を悩ませても、空っぽの部屋にいるみたいに退屈で、仕様がなかった。
「響歌ちゃん、ここ最近元気なくない?どうかしたの?」
「……あ、おばさん。んー。それが自分でもよく分からなくて。」
「思春期だからね。そういうこともあるだろう。おじさんも若い頃は───────」
「はいはい。父さんの話なんてもう誰も聞きたくないよ。響歌ちゃん。相談ならいつでも乗るから、何かあったら言ってよ。」
「あ、お兄さん……ありがとうございます。」
いつも通り、優しい家族。
仕事のできるおばさんと、家事をこなすおじさん。なんでも知ってるお兄さん。そして引き取られた私。
これで全員。のはず。
やだなぁ。なんか。これで、本当に全員のはずなのに……
◇
学校に着く。教室に入ると、私の机の近くで、クラスメイトの東君が眉間に皺を寄せて立っていた。
口に手を当て決まりが悪そうに、何かについて悩んでいる。
「おはよ。東君。」
「あ、来た。ミス冴嶋。」
「もう。その呼び方キモいから辞めて。」
いつものやり取りは、東君の一言によって一変する。
「時に……僕はなにか、重要なことを忘れてしまったらしくて、いや、つまり、その。なんと言えばいいか……」
偶然なのか、東君も私と同じように悩んでいたようだ。
すかさず私も席に着いてから同調する。
「私もそうなの。なんかこう、大事なことが丸ごと抜けちゃったみたいな。」
「そうそう。ソレなんだよ。ミス冴嶋。この写真、いつ撮ったものか、覚えているかい?」
朝日に当たる机の上に、一枚の写真を添える。
学校の屋上で、私服を着て写った私と東君。どうしてこうなったのか奇妙すぎる一枚。
「それ……私も何故か大事に飾ってるんだけど、全然思い出せない。そもそもなんで東君と二人きりで私服で写ってるのよ……」
「それは、僕が聞きたいよ。ミス冴嶋。」
少しずつ、違和感という異変に気づき始めた私達は、放課後、屋上に向かうことにした。
そこで何か思い出せるといいんだけど……
「どうだい?」
「どうって、東君こそどうなの。」
重たい鉄扉を開けて、一気に開けた屋上に出た私達は、その爽快感とは全く釣り合わないほどの曖昧な気持ちに悩まされていた。
ココまできてるんだけどなぁ。喉に手を当てて言うと、東君も悩ましい表情で同調した。
「そういえば、東君何部だっけ。」
「え、いやいや、やだなぁ。サッカー部期待のエースと言えばこの東博雅じゃないか。」
「あーはいはい。そうだったそうだった。」
……いや、そうじゃない。
そうじゃないじゃん。
今、何かすごく重要なことを掴んだ気がするのに……!
「違う、違うよ東君!なんかわかんないけど、それは違う!」
「ええ……君だって何回か見たじゃないか。僕の活躍は。」
「なんで先にいたあなたが忘れてるのよ!ほら、部活だよ部活!私達、ここで一緒の部活に───────!そう!一緒に部活やってたじゃん!」
思い出した……!一つだけ、とても些細なことかもしれないけど、そうだよ!私達、屋上で部活を一緒にやってたじゃない!
塞がってた記憶の蓋が取れて、小さなことが次々連鎖的に思い出される。
「ほら!!東君が私の悩みを聴いてくれて!」
一方東君は、身体をいくら揺さぶっても思い出す気配はなく、ただ癇に障る動作をつけて悩んでいるだけだった。
「辞めてくれえミス冴嶋。酔ってきた……オェ」
「もう!ばか!」
頬を平手打ち。これで勘弁してあげる。
もう東君はダメだから、私ひとりで思い出す。
屋上……部活……ピースが全然足りない。もっとヒントが欲しい。
決定的な何かがやっぱりまだ戻ってきてない……
「あぁ、もう日が暮れる。今日は諦めてまた明日にしよう。あまり気を詰め過ぎても、答えは遠のくだけだ。ミス冴嶋。」
「あなたはなんにも思い出せてないくせに!」
「ごめんって。」
ダメだ。このままじゃ結局埒が明かずにまた一日が終わってしまう。そうして空っぽのまま目覚めて、全てなかったことになってしまう。
最初は空虚で少し悲しかったのに、今は一周まわってイライラする。
あぁ、もう。あと少しなのに───────!
『────いるよ。』
「え?」
どこからか声がして、昂っていた気が落ち着く。そう。その声は安心感のある、どこかで聴いた声だった。
遥かな夢の中で聴いたような……とにかく、私はそれを知っている。
幻聴でないことを祈りながら、声が聞こえたような気がする方へ歩き出す。何かに導かれるように、気分はとても穏やかで、懐かしい友人に会いにいくような心持ちだった。
「ちょ、ミス冴嶋、どこへ?」
何かを思い出せる予兆すらない東君に脇目も振らず、声の正体を模索する。一歩、また一歩、歩き出す事に、忘れ去られた感覚を、記憶を取り戻していく。
そうだ……私たちの他に、二人!
二人、かけがえのない人がいた……!
『きょうかちゃん』
声は私が思い出していくのを分かっているかのように、私に呼びかける。何度も聞いた、柔らかい声。
彼女は、そこにいる。
「新川……先輩……」
頬を伝う涙が、私達の日々を映し出す。
湧き上がる光の粒が、妖精のように舞いながら、彼女を形成していく。
光が滑るような肌。暖かい情緒の中に、鋭い知性を隠した瞳。艶のある滑らかな黒髪は真っ直ぐおさげに縛られていて、華奢な身体は彼女の美貌をより強調させる。
神秘的なまでの美しさは、庶民的な可憐さも持ち合わせていて、その二つが対立することなく溶け合っている。
彼女は笑っていた。
忘れていた私達を恨むことなどあるはずもなく、むしろ思い出したことに嬉嬉としてたおやかな笑みを浮かべている。
彼女の輪郭は不安定だった。
ぼやけて、今にも流されてしまいそう。
一時の奇跡が辛うじて留めようとしている彼女の身体は、きっと触れれば簡単に崩れ落ちてしまう。
尊い光に包まれながら、彼女は口を開く。
『あの子を……しんじ君を、助けてあげて』
彼女の願いは、胸に染みるように届いた。
やっと、全てを思い出した。
受けた痛み、もらった優しさ。流した涙。抱いた恋慕。
どれも……私の宝物。
泣き崩れる私の頬を撫でて、彼女は額に優しい口付けをする。
天使のキスなんてものがあるのなら、きっとこのキスのことだろう。
「ミス新川……そうだ。僕は……!」
東君も記憶を取り戻し、私と同じように惨めに泣いている。
心の穴は、空虚な日々は、ようやく光に満たされた。
『あずま君。きょうかちゃん。二人なら、きっと────』
言いかけて、彼女はまた清い笑顔を見せる。
彼女と会うのは、これが最後。そう告げられた気がした。
彼女もまた、これで最期だったのだろう。
だからせめて、笑顔でお別れ……彼女らしい選択に、私達も敬意と親愛をもって答える。
「また……会えますか」
その時にはもう、彼女はいなかった。
光が星の砂子のように、煌めいて流れていく。
奇跡、希望、夢──────その全てが、風に舞い、夕陽の光を受け、流麗な天の川みたいに輝く。
「信仁……信仁────────!!!!」
彼の名を叫ぶ。
夕暮れの空に鳥達が一斉に飛び立ち、私の想いを乗せた声は、どこまでもこだまする。
私を見つけてくれた人。私を救ってくれた人。
私に愛を教えてくれた人。
「シンズィーーーーーー!!!!!」
どこにいるかも分からないけれど、何をしているかも分からないけれど、彼は多分、今も誰かのために戦ってる。
正義と信条でできたようなあの人は、きっと諦めたりしないから。
きっと無理をするはずだから……
私達のが、そばにいるよ。信仁。
この声は、届いてるかな。
届くと───────いいな。
「信仁!!!!!!負けないで─────!!!!!!!」
私達がいるよ。だから、一緒に戦って。
私の愛した人────────
✕
風が吹き荒れ、さっきまで緑が広がっていた平原は、すっかり荒れ果てた荒野へと姿を変えた。
砂嵐に襲われ、視界を十分に確保出来ず、ただ前に前に進んでいく。
歩みは決して止めない。俺を信じてくれた人を、裏切る訳にはいかないから。
もう一人の俺を信じる為にも、この歩みは、止めちゃいけないんだ。
とは言ったものの、向かってくる風は破竹の勢いで、嵐の渦中にいるようなものだった。一粒一粒がナイフのように鋭利で、身体を傷つけていく砂利から身を守るのに精一杯で、前進することに意識を向けることが出来ない。
厳しい現状は果てがない。先なんて一切見えず、辛うじて開く細目でたどたどしくゆっくりと進むしかなかった。
懐かしい匂いがする。意識が薄れて消滅しかけているから……これはきっと、俺が最期に思い出したかったものだ。
家族も、友人も、周りの人間には恵まれていた。
でも、それがアイツにとって負い目になってたんだ。
アイツの苦しみはよくわかる。だって、アイツの感情は俺の感情でもあるから。
「まってろ───────」
呟く。けれど、やはり一寸先は闇。といったところだ。
希望も救いもない荒野の中で、胸の中で光を放つあの日々を握りしめる。
前へ、前へ、吐き出すようにゆっくりと、確実に踏みしめる。
正直一人は辛い。こんな時、誰かそばにいてくれたら……心底そう思う。
孤独はシミのように広がって、暖かい感情を冷ましていく。
何度も折れて、何度も泣いて、それでも誰かと一緒に乗り越えてきた。
さっきも先輩に会うことがなかったら、きっともうそこで終わってた。俺は恵まれている。
でも、今は孤独だ。
孤独に耐えられる人間は、きっと居ない。
みんな……寂しいよ。みんな……どこにいるんだ……みんな────!
心の内で叫んだって、答えはないとわかっている。分かっていたけど……
返事は、来た。
その声は、力強く、しかしどこか心細い。失う弱さと、守る強さ。混ざりあって支えあって、その声は胸に届く。
誰かが、呼ぶ声が聞こえる。
俺の名前を呼んでいる。
そう。俺を待ってくれてる人が、いる。
「ハッ。そうかよ……」
声は絶えず聞こえてくる。背中を強く押された気がして、力がみなぎってくる。
なら簡単だ。
もう、迷うもんか────────!
目を開き、強く足を前に出す。
同時に風邪は消え、静まり返った荒野の先に、錆びれた扉が見えた。
行かなきゃ。
胸の温度は上がっていく。今一度覚悟を決めて、迷わずに走り出した。
……扉を、開けると。
眼前に飛び込んできたのは、白い少年の“死”だった。
◇
身体が空洞になったみたいに、臓器という臓器が根こそぎ抜かれたように、涼しい風が空の中を吹き抜ける。
その音だけが聞こえて、僕は自分が死んだことを察した。
風はよく聞くと漣のようで、孤独なのになんとも安らかであった。
ただし、空になった身体の冷たさといえば例えようもなく、凍える寒さに震えながら、自分が何も出来ず、無意味に終わっていくその時を待つしか無かった。
風も凪いで、少し落ち着いた時。
錆びたドアが重たく軋む音を立てながら、開いたような音がする。
きっと、大きな鎌を持った死神が、僕の首を刈るんだ。
見たことも聞いたこともない死を想像しただけで、急に怖くなった。
誰でもいいからそばにいて欲しい。でも、寄り添ってくれる人なんていない。僕は孤独に戦って、孤独に死ぬんだ。
恨みと絶望の、静かで退屈な人生だった。
今更詠みあげる辞世の句などあるはずもなく、首が胴体と別れを告げるのを、歯をカチカチならしながら待ち構えた。
果たして、死神は僕の隣に腰を下ろしたらしい。
理解が出来ないまま、姿の見えないその気配だけを感じて、焦らされる死に一層恐怖を覚える。
殺すなら早くしてくれ。
頭はその一言に支配され、さっきまで拒絶していた死を、今か今かと受け入れてしまいたくなる。
ふぅ、と、溜息をついたのは、隣にいる“誰か”だった。
こんな間抜けた空気を作るのは、冷徹な死神にはできない。そう考えてしまって、昂りが収まる。
僕は既に虫の息。今更こんな僕に、誰が何のようなんだ。
「つらい?」
それだけ、聞いてきた。
その声は僕の声であって、僕の声じゃない。
僕の知らない間に声変わりをした、僕の知ってる声。
僕のものだったはずの声。
「もう無理だ。」
質問に答えることもなく、現状を明かす。
そうか。と、男は言う。
笑うわけでも悲しむ訳でもない。感情の篭もっていない、つまらない声だった。
「地獄を見た。」
少しの間の後、僕は続ける。
あの女に見せつけられた惨い景色が冷たく脳裏に過ぎる。
思い出して、カチカチと歯がまた震え出す。
「そうか。」
こっちの話を聞いていないような、軽い返答。
それはそうだ。あの地獄は僕が見たのであって、こいつは知らないのだから。
「石動は危険だ。」
とはいえ、僕もそろそろ限界が近づいてきたようで、もう意気揚々と長々語る気力もなく、結果だけを単刀直入に伝えた。
あの女は破綻している。
不老不死、無感情、世界をそこまで退屈で平坦で無価値なものにしてまで、争いを排除しようとしている。
争いを望まないのは、殆どの人間がそうだと思う。
だから、何も争いを排除しようとする彼女の姿勢が間違っている訳では無い。
ただ、病的なまでに拒絶した結果。その結果が、実質的な世界の終わりを完成させてしまう。
「佳奈の苦しみは、俺にはよくわからない。」
男は無関心なまま淡々と口走る。
さっきと同じような溜息をついてから、でも、と続ける。
「苦しんでるなら、何とかしてやりたい。そう思うのも間違いじゃないはずだ。俺は、自分と自分を信じてくれたものを、最後まで信じるよ。」
……馬鹿馬鹿しい。
誰かの勝手な善意で都合よく作り上げられた結果、元々あった僕の人格は消えて、もろに影響を受けた機械的な正義が起動した。
こんな巫山戯た物語は、被害者である僕が終わらせるべきだ。
なのに。
もう、力が残ってない。
「僕は……なんだったんだ」
虚空に呟く、意味の無い諦めの言葉。
弱々しく殆ど声という声に出ていなかったそれは、静寂のおかげで男の耳に辛うじて入ったらしい。
男は、立ち上がる。
「お前は、俺だよ。」
それは、僕が最初に男に向けて言い放った脅迫じみた言葉そのままだった。
もちろんこの男のことなので、殺気など篭っているはずもなく、純粋に、そう言ったのだ。
男は分かっている。けれど、解っていない。
「結局さ、お前が何をしようが、俺が何をしようが、俺達は所詮同じ体で動く同一人物なんだから、どっちが動かしていようと、そこに決定権はお互い持ち合わせてないと思うんだ。」
えっと、その、つまり。
男は言い淀む。
「考えたけど、やっぱり、俺はお前で、お前は俺だったってコト。敵対とか協力とか以前に、俺が俺の身体で何をしようと自由だろ?現に、俺もお前も好き勝手やったじゃないか。俺は勝手な人助け。お前は勝手な喧嘩。お前が傷つけば俺も痛いし、俺が泣けばお前も悲しい。……表裏一体、とは違う。元々同じものに、裏も表もありはしないんだよ。だからさ……一颯。」
地に伏して動かなくなった僕の身体を引き上げ、男は笑った。
鏡で自分の顔を眺め続けているように、不思議な感覚があった。
……男は笑った。何故僕は何も見えていないのに、男が笑ったと分かったのだろう。
そう、初めから答えは単純だった。僕だって知っていたじゃないか。
僕も、笑っていた。
「俺の名前は、檜野一颯。そして、川村信仁だ。」
「僕の名前は、檜野一颯。そして、川村信仁だ。」
お互い、顔を見合わせて頷いた。
こうして僕の目的は果たされた。
空白の十一年間。違う。充実の十一年間を直視していなかっただけだ。
だから、何も覚えていなかった。
お互い、自分を見ていなかっただけだ。
景色が統一される。あるべき形に戻った、と言うべきか。
さぁ、いこうか。
「僕は──────もう負けない。」
視界が開ける。
…………始まりだ。
◇
少女は、こうなることが分かっていたかのように、適切な距離を取って、待っていた様に佇んでいる。
信仁が起き上がるのを一瞥して、赤い縁のメガネを外した。
「あぁ──────これは驚いた。随分、逞しくなっているな。」
薄ら笑いを浮かべている少女は、自分の期待を上回ったことに喜んでいるようで、その笑みをより深くする。
「佳奈。俺は、七彩も、世界も……お前も。全部救ってみせる。」
「はぁ〜〜〜いいね。君のその病的なまでの正義感によった吐き気のする美徳!それが、聞きたかったんだよ……!」
視線が交錯し、あまりの緊迫感に空気そのものが殺されていく。
微かな風の音でさえも、まるで聞こえない。
嘘みたいな静寂は、信仁の疾走によって切り裂かれる。
どこからか突風を引き連れたような嵐の如し速さで、少女の眼前まで間合いを詰める。その後の風さえ反応が遅れたように、後から塔の骨組みを震撼させるほどの風邪がふきあれる。
瞬間、少女の華奢な体つき、滑らかなみぞおちに、鋼をも粉に砕くほどの剛拳が下る。
五臓六腑が刹那のうちに弾け、潰れ、壊れる。
骨はあとかたもなく崩れさり、ピンポイントで突かれた力の集中点に一切のムラがなく、他の部位に影響がおよばず、ただその部分だけが人間として絶対的に再起不能な状態に陥った。
肉々しいありとあらゆるものが潰れた惨い音の後で、少女の胴体に風穴が開く。そこから吹き出る血潮の勢いは見事で、海外の壮大な噴水を思わせた。
白銀の骨組みの上に血の溜池が出来上がるほど、濃密な赤が地を支配する。
「ごぷばぁぁ!!」
その一言を合図に、砕け散った骨片や体内でミンチになった臓器がくす玉から出てくるように溢れ出す。
「ごめん。でも。」
これほどまでに盛大に死んだはずなのに、少女は笑う。
笑って笑って笑って、頭の全てが外れたように狂った高笑いを高らかに歌う。
「あぁ、いいよ。君の想像通り、治るから。」
あの傷とも呼べないほどの致命傷が嘘のように塞がり、外傷など見つかるはずもないほど洗練された状態を獲得すると、彼女はまたしても歯茎を見せるほどの狂気的な笑顔を見せ、消える。
そう、消えたのだ。
姿を消したと言うより、彼女そのものが世界から消えてしまった。
呆気に取られている暇もなく、背後に悪寒が走る。
「お返しだ」
背中、脊椎を集中的に、あまりにも非現実的な重さがのしかかる。
重力を自由に扱えるなど、やはり能力はろくなものでは無い。
全身は一瞬の内に機能性を失い、視界はすぐさま暗転して、果てのない暗闇が訪れる。
「信仁、右だ。」
「ああ、分かってる。」
“死”から起き上がり、右から刺し込まれた強烈な重力の拳をはたきおとす。
塔は酷く歪み、壊された芸術品のようになってしまった。
「へぇ……!」
佳奈も驚いたようで、怒りの表情に口元だけがつり上がっていた。常識を超えた殺し合いですら、彼女は楽しんでいるらしい。
彼女にとって命のやり取りは、ゲーム感覚で行われているに過ぎないのか……
「ほら!下だ!!」
叩き起すように叱咤され、無意識に視線を落としたタイミングと上手く重なり、顔面に槍のように鋭い蹴りが穿たれる。
呼吸、嗅覚、視覚が死ぬ。
首ごと吹っ飛んでもおかしくない程の一撃ではあったが、今はいくらか頑丈らしい。顔を構成するあらゆる骨が砕け散る程度で済んだ。
「おいおいどうした!ほれ!!とめてみろよ!!!」
スコールのように一切の余地なく打撃が繰り返される。蹴り、拳、肘、膝、身体が的確に壊されていくのを感じる。
壊れる音は内側から繊細に聞こえる。よじれそうになる激痛に、思考もままならずに、意識は胡乱としていく。
「吹っ飛べ!!!!!」
彼女が両手の掌を突き出すと、身体の芯が大きく弾け、打ち出された砲丸のように呆気なく後方に飛んでいき、ぐにゃり、ぐしゃり、という脆い音を立てて、醜い着地をした。
数えて約二百。俺が死んだ回数。
海を泳いでいる。
違う。自分の血の池。溺れるほど深く、あまりにも量が多すぎて、何故生きていられるのか不思議な程だ。
『信仁、立つよ。』
『オーケー』
当然のように立ち上がる。ありえないことに、血は煙を立てながら蒸発して、熱気につられて殺意が昂る。
と言うより、戦闘本能。佳奈はこれを軽蔑しているんだろう。
事実、俺もこういう衝動は好きじゃない。
「どうした。遠慮すんな。」
今度は驚いた様子は見せない。歪んだ表情だけは変えることは無く、自分から手を出そうとはしない。
『疲れてると思う?』
自分に問いかけると、さぁ、という冷たい返答が帰ってくる。自分は続ける。
『けど、攻めるなら今だ』
と。
『だな』
バネのように脚は跳ね上がり、降下の勢いを利用して彼女の脳天に踵を刺す。
「がぁ」
鯨が潮をふくように、鮮やかな赤が空中を彩る。
頭蓋骨を貫き、脳の柔らかな感触が足元に伝わり、その肉塊を押し込み、脊椎ごと縦に砕いていく。
「痛いなぁ!!!!」
言葉を発するはずのない屍は激昂し、真紅に染まった腕で脹ら脛を掴むと、これもまたメキメキ音を立てて雑巾を絞るようにめちゃくちゃにしていく。
骨も肉も関係なく捻れて、ワイヤーのように巻かれたまま固まってしまう。
「チッ……!」
脳が膨大な痛みを処理しきれずに、感情の矛先が迷走し、理由のない怒りに苛まれる。
俺の脚はとうに終わっているのにひねることを辞めない彼女を、もう一本の足で首を折ってリセットさせる。
直角に曲がった彼女の首から、歪に歪んだ足を抜き出し、逆向きに回して無理矢理形を取り戻す。
『いってぇ』
『同感』
そう言い合って笑う。少し面白かったのだ。何故といえば、これだけの致命傷を負っているはずなのに、少し擦りむいた程度の掠れた痛みしか感じなかったからだ。
精神的にハイになっているからか、恐怖はむしろ他の燃えるような感情に変換されて息ができないほどのアドレナリンを分泌させていく。
「いい感じに狂ってるなぁ、仁義君。」
見るに堪えない泥人形のような姿をしていた彼女の傷もさっぱり癒えて、さっきまでの愉悦に満ちた笑顔は、少し薄れていた。
ハァ。笑顔とは対照的な陰鬱な溜息をついて、彼女の姿は消えてしまった。
まただ。
また、彼女の気配そのものが、この世界にもともと存在していないかのように感じられない。
どこに消えた。とか、そういう次元の話ではない。
消滅した彼女は、また不意に姿を表した。
そこから攻撃を仕掛けるわけでもなく。彼女の身体から、とてつもない何かが湧き上がる。
陽炎のように揺れて、殺気篭った黒い霧が、彼女を覆い隠す。
その中から、赤い瞳だけがこちらを視ている。
「さぁ、第二ラウンドだ。」
ゲームは、まだ続く。
◇
お互い完全に燃え尽きた。燃料みたいなのが切れてしまったらしく、炎を出そうとしても、安っぽい空気の抜ける音が響くだけだった。
そして今、どういう訳か、アタシはボロボロの腕で新川祐一を抱えている。
コイツはもう、死ぬらしい。
それは当然といえば当然だった。だってアタシは最初から殺すつもりでやってたし、コイツ自身も自分の体に薬を無理して打ち込んでたみたいだから、どの道限界だろう。
だから、あんな化け物になったわけだし。
「サエ、シマ……」
掠れた声は辛うじて聞こえるぐらい小さく弱っている。その声には怒りも怨嗟もなく、もう終わりが来る人間の、か細い声だった。
「俺は……間違っていたのか」
濁った瞳で夜空を見つめる。星がぼんやりと黒目に映っていて、吐く息は白く、脆かった。
「さぁ。けど……後は何とか出来るさ」
この男を、アタシは誤解していた。
自分の望みのためなら実の娘の命も厭わない─────死を極度に恐れたマッドサイエンティスト。そう断定されていた男のイメージは、男が語った真実によって覆される。
嘘は、言っていないと思う。この男の話したことが本当なら、今までの辻褄が合うのと、なにより、この男が銀色の懐中時計を大切に握りしめていたからだ。
それだけで、十分だった。
「ソレ、アンタのだったんだ。」
「……その質問は、そうか。七彩はコレを持っていてくれたか。」
「あぁ。大事にしてたと思うぞ。」
ヒュウ、ヒュウ。男の息は細い。
ゆっくりと近づく終わりを、男は恐れない。
しかし、どうしようもなく悔やんでいるようだ。
もっとマシな選択が出来たはずだ、と。
「長いこと研究室に籠りっぱなしだった……星は、こんなに綺麗だったんだな……」
「ハッ、なんだそれ……」
静かな空気の中で、唐突に男は咳き込む。口元を抑える気力もなく、赤黒い血が漏れてしまっていた。
「普通の家族として生きていけたら……どれだけ幸福だっただろうな……」
アタシに向けて言ったわけでもなく、ぼんやりとそんなことを呟いた。透明な澄んだ涙が、目の縁に溜まっている。
「聞きたいことは……山ほどあるが、七彩はきっと、幸せだっただろう。」
「……そうだな。アイツはきっと、幸せだったはずだ。」
良かった。とはっきり言うと、また血を流す。
みるみる弱々しくなる男の姿に、目を伏せたくなってしまう。
薬の作用なのか、げっそりと痩せこけた顔は、しかし安堵の笑みを浮かべていた。
「だから……最後に一つ、私の悩みに答えて欲しい」
「なんだ。」
男の苦悶の表情原因は、多分その悩みとやらだろう。また咳き込むのを堪えるように、苦虫を噛み潰すような表情で続けた。
「人は何故───後悔をする。
何度間違えて、何度学んでも、私達は結局後悔をする。
それでは今までの積み重ねが無駄になってしまう……間違えることを嫌うから、恐れるから、長い思案の末に動き出すというのに、結果がまた後悔する結末では……私達の誰もが一向に救われない。
それこそ、時間を巻き戻すしかなくなってしまう。
人の人生とは──────何なのだろうな……」
少しだけ表情が和らいだけれど、眉間にシワがよっている。やはり、この悩みこそ、男の苦悶の元凶だったらしい。
「人間ってさ、やっぱり馬鹿なんだよ。だからどんだけ良くしようと動いても、結局どっかで間違える。慎重にやりすぎても進まないし、かといって考え無しに突っ走っても怪我するだろ?
“丁度いい”が出来ないんだよ。人って生き物は。
……でもさ。突っ走る人間と、慎重すぎる人間が、一緒になって生きていけたらどうだ。
丁度良くなるんじゃないか?
違う見方、違う感性。それらが上手く支えあえることが出来たら、きっと後悔することなんてないよ。
アタシ達は、考える生き物でも、戦う生き物でもない。
“支え合う生き物”なんだ。……自論だけどな。」
少し気恥しいこと言うと、男はなるほど、と、何かに納得したらしかった。
「俺は、“支え合う”が出来なかったという訳だ。七彩が泣いていたのソレか……全く、鈍い父親だな。」
困ったような笑顔を見せる。頬には、一筋の涙が、夜空を映してサラサラ流れていく。その過程で、男の血と混じり合い、薄れた赤色が、何かを物語っている気がした。
「ありがとう。冴嶋……俺はもう……七彩を…………頼んだ。」
堪えきることが出来ずに、咳き込んで吐血する。さっきのよりも激しく、男の急激な死への歩みを垣間見た気がして、アタシは男を抱える腕を締めた。
「───────七彩、大きくなったなあ。」
涙の雫かこぼれ落ち、命の終わりを告げる。
苦しい難題に悩んでいた男は、答えを得たような満足した表情で、最愛の娘を想いながらひっそりと眠りについた。
これほどまで安らで、綺麗な死を、アタシは知らなかった。
アンタのしたことが、間違いだったとしても。
きっと、アンタを後悔させはしないよ。
なぁ───────信仁。
◇
第二ラウンドのゴングが鳴る。何かが変わった彼女に俺は───手も足も出せずにいた。
「ハハッ!真面目にやれよォ!仁義クゥン!!」
もう内臓が潰れるのも、骨が砕け散るのも飽き飽きだ。
さっきからそれを繰り返してばかりで、退屈なのに。
痛みが退屈に耽る怠惰を許さない。
頭の中で虫が飛び回っているように煩わしい。
気が狂いそうだ。
何とかしないと。
『信仁』
『痛い。痛い。痛い……痛い痛い痛い痛い!!』
『信仁、落ち着くんだ。僕の考えを聞け。』
赤色でシャットアウトされた視界に、白い少年が険しい表情でのぞき込む。蒙昧とした意識を振り払って正気に戻り、少年の声に耳を傾ける。
『あの力も無限じゃない。現に、攻撃にもうムラが出始めてる。その隙を逃さない。ここで決めに行くよ』
確かに、冷静に考えれば相手は婆さんだ。
『持久戦ならこっちが有利ってわけか。』
『そういうこと』
とは言え、この痛みにいつまで耐えられるだろう。この地獄から抜け出せるのはいつだろう。痛みが身体中を支配しているのは、依然として変わらない。血反吐を吐くようなイカれた痛みが、途方もなく続いている。
『そろそろだ』
少年の言う通り、心做しか力が弱まっている気がする。これが単純に、痛みになれてしまっただけじゃないということを祈りながら、反撃の機会を待ちわびる。
「チッ……!舐めんな!!!!」
こちらの意図に気づいたのか、緩みかけていた手を引き締め、また神速の連打が再開される。
ドクドクドクドク。耳腔の奥で水がコップにくまれるように音を立てる。溢れ出そうとしている血が、身体の至る所を駆け回る。
崩れ去ろうとする、その時。
「ラァァァァァッッ!!!」
聞き覚えのある叫び声と共に、青い火の鳥が、視界を過ぎり、佳奈を焼き尽くして飛行する。
俺の身体は炎熱スレスレで解放されて、歪み切った鉄の地面に倒れ込む。
「待たせたな、信仁……!」
黒く煙る中から、傷だらけの遥歌さんが現れる。
俺の事を分かっているように、頼もしい笑顔をみせると、突如痛みに犯され、膝をついてしまう。
「遥歌さん……!」
「馬鹿!来るな!」
咄嗟に駆け寄ろうとしたその時、紫苑の霧に胴体を貫かれる。
心臓を一寸たがわず的確に突いたその一撃に、脳がチカチカする。
「どうなって……ガハッ……!」
「今の私は、さっきより強いぞ。」
刺されたのは確かにこの一度だけ。だと言うのに、間髪入れずに何度も何度も穿たれているような感覚がある。
骨の髄まで重たい衝撃が響くのが幾度となく繰り返される。
地獄なんて、これに比べたらどれほど生易しいものだろうか。
「信仁……!クソッ、動かねぇ……」
『冴嶋……』
少年は残念そうに呟く。そうか、おまえ、遥歌さんのこと……
なら、ここで無様な姿を見せる訳には行かないな。
意識を叩き起す。歯が、顎が、砕けそうになるぐらい食いしばって、全身に活を入れる。血流や筋肉はそれに呼応して、鼓動の音は異常なほど急ぎ出す。
「きたきたきたァ!!君の力が染み込んでくるよ!!」
血涙を流す瞳で佳奈を睨む。佳奈の目もまた、果てのない闇のように虚ろで、未知数だった。
身体は狂っている。痛みと力に慣れた肉体は、もう人とは呼べないまでに成り果てた。
第二ラウンドはもう終わらせる……これで最終ゲームだ……!
佳奈の腕ごと引きちぎって、連鎖的な地獄から抜け出すと、その根こそぎちぎられた腕を、彼女の心臓に還す。
「ばッ…………!かじゃねぇの!!……!!!」
血は霧のように吹き出した。というより、まさに赤い霧そのもので、床に飛び散るようなこともなく、辺りを不気味に漂っている。彼女もおよそ人外の類であることには間違いないらしい。
「───────君さ」
一体、彼女は止める手段は果たして存在するのか。そんな絶望を抱かせるほど、彼女は完全に生きていて、荒ぶる呼吸がそれを強調させる。彼女は口を開き、漸く一切の笑みも排除された真剣な表情を見せた。
「君はそんなに、争いがすきかね。」
それは経験者からの質疑。虚脱に満ちた瞳は、俺の答えを待っている。彼女の腕を彼女の心臓に差し込んで握りしめたままの手が、どうしようもない感情に震えている。
「私は嫌いだよ。争いはまた新たな争いを生み、負の感情を産み落とし続ける。今でこそこの国は戦争を忌避しているが、後に戦争を知るものがいなくなった時、必ずこの国は間違える。
世界だってそうだ。未だに内戦や扮装が耐えない状況下で、一体抱く希望なんてどこにある。争いを産むのは、人間の不完全にして強烈な感情の火だ。ならば、その灯火を消すことで、争いを根本的に排除する。
誰に否定されても構わない。私にはそれが実行できる。そのために……そのためにこの何十年もの間、汚泥を啜りながら生きてきたんだ。私の悲願達成はすぐそこだ。
もう、誰にも邪魔はさせない……させられないんだよ……!!」
自分の体に突き刺さる自分の腕を跳ね除けて、霧の血反吐を吐き捨てる。すると、彼女の束ねられた濡れたような黒髪は、脳天から徐々に白く染まっていく。
雪が何かを覆うように、風に揺れながら静かに染まる。
「お前……後悔してるのか」
「あぁ、何も出来なかった愚かな自分が憎いね────」
何て奴だ。直感的にそう感じてしまう。
ここまで正義感に憑かれた人間がいるだろうか。まだ五歳程だった少女は、大人達が勝手に始めた戦争で、多くの命が失われていくのを目の当たりにして、自分の無力さに責任を感じたという。
どうにか出来るはずなんてないのに……
この病的なまでに無垢な少女の後悔は、戦争を感じたことの無い俺には到底推し量れないものだった。
「さぁ───────」
何度目かの吐血の後、その白髪のせいもあって、人が変わったように形相を豹変させた彼女は、何かが始まるように、ゆっくりと身体を起こす。
「最終ゲームだ。」
骨が軋み、心臓が弾ける。
眉間に皺を寄せ、老人のような薄い髪の白をたなびかせる彼女の言葉を合図に、辺り一帯の重力が、狂う。
建物は沈み、塔は丁度斜塔のように傾く。
「……これは!」
脳裏に、戦火に朽ちていく街と、耳をつんざく警鐘の音、そして次々に落とされる爆弾の破裂音のイメージが駆け巡る。
死ぬよりも、もっと恐ろしい目に合わされる予感がする。
◇
音を立てて世界は崩れていく。新しい世界に生まれ変わるように、古い文明が淘汰され、争いの、感情のない世界が幕を開けようとしていた。
白髪の少女は、毒々しい紫を纏いながら、瞳を紅く点滅させている。含み笑いのような、単なる嘲笑のような違和感のある笑顔は消え失せて、目の前の少年に敵意を向ける凶器のような眼差しをしている。
吹きつける風ですら、粉々になってバラけていくようだ。
「こんなのアリかよ……」
「何でもアリだよ。私は、神だから。」
宙に佇む少女は、少年を見下すようにして自分の存在を知ろしめる。
少女の禍々しい殺気を放った手がゆっくり前にかざされると、花のように開いた掌を一気に締め、同時に、信仁の全身の骨が破壊される。
「ぐばぁぁっ!!!」
さっきまでの肉弾戦とはまるで比にならないほどの痛みが、体中に残留する。
見えない何か、殺意とか、哀愁とか、彼女の心の葛藤そのものに、俺という器が圧迫される。
これが、そのまま、彼女の心の重さ。
「お前……こんな……無茶しやがってッ……!」
人ひとりが抱えきれる量ではない。病的なまでの正義感や責任感、彼女なりの考え方。地獄を味わった者の痛み。それら全てが、“最悪”となってぐちゃぐちゃにまとめられた重圧が、ゆっくりと、俺を死にさそいこむ。
「がはっ」
殆ど同時に血反吐を吐き捨てる。押し潰されている俺は言うまでもなく、石動佳奈本人も、どうやら限界をとっくに迎えているらしかった。
その隙を、逃さない。
一心に力を込めて、鎖を壊すように圧を解く。途端に軽くなった身体に困惑しながら、数歩踏みしめる事に飛びそうな意識を引き止めて、彼女につかみかかる。
「大人しく死ねよ……!」
ゾンビのように取り付こうとする俺の手をなぎ払い、何度も、何度も、渾身の一撃を打ち込む。その一つ一つが致命傷で、その一つ一つが退屈だった。
そう。退屈だったのだ。
彼女は、それは確かに、巨大なものに対する復讐心、命を重んじる責任感や正義感はもっているはずだが、やはり抱えきれる量ではなかったそれは、結果的に、一周まわって退屈に成り果てたのだろう。
力が篭もっているようで、恨みが篭もっているようで、空っぽな一撃。受ければ受けるほど、傷口から虚無が入り込む。
怪我をすれば、虚ろになる。
なんとも筆舌に尽くしがたい感覚は、温く全身に流れ込む。
『死にそう』
お互いの意見は合致する。痛みで死にそう、というよりかは……そう。死にたい。という感覚に近い。
自ら死を選びたくなるような心持ちである。
「やられっぱなしじゃ……!」
起死回生の一撃、顎を蹴りあげたその一撃は、俺の攻撃の起点となった。
倦怠感と空虚感を振り切り、彼女を床に拘束する。
ボロボロになった衣服が、少し官能的に映った。
いやしかし、その肌は……爛れている。
「これ……」
「急に張り倒したかと思えば、勝手に視んな。」
中心に広がった火傷のあと。言わずともわかる。
「なぁ、もう辞めようぜ。」
「はぁ……?」
「お互い争うことは好きじゃないはずだ。お前も、俺もボロボロだ。俺はお前を殺したりなんてしたくない。」
雨が、降り始める。風は一層強く、大粒の雨を伴って叩きつける。
彼女の顔に、雨水なのか涙なのか、どちらかわからない水滴が滴る。
「ガァッ……!ハァ……ハハッ。」
出会った時のように笑って誤魔化しているけれど、人が一人死ぬには十分すぎる血を吐いた。
死期を悟ったのか、好戦的だった雰囲気と表情は、一気に薄れて一切の味気が無くなる。
「おかしいな……あれだけ燃えていたのに…………どうしてこんなに寒いんだ…………」
途切れ途切れのか細い声は、白い吐息とともに弱っていく。
瞳の色が水に流されるように落ちてきて、白い髪が雨水を綺麗に受け流す。その動態はもう、無機質で無慈悲であった。
美しいとも、強く感じた。
「私は……死ぬな。ハァ。なんの価値も、意味も、意義も、理由もない人生だったなぁ…………ほんっと、どうしようもない……」
「“最終ゲームなんてなかった”。そうだろ。」
彼女は静かに頷く。声を返す気力すら、もう十分に残っていないらしい。枯れ木のように細くなった腕を、ゆっくりと曇天に伸ばす。
「ずっと、答えが欲しかったんだ。」
皺で縮んだ唇を震わせながら、漏らすように嘆いた。
甘い死の香りが漂い、水でしなった白髪は細く朽ちていく。
白よりも白く、暗闇よりも暗い。
「答えは……出たか?」
いいや。彼女は瞬きでそう答えた。触れれば崩れ落ちそうなほど、脆く危うい動作だった。
目も当てられない悲痛と生命の終わりに、かける言葉が見つからないまま、二人雨に打たれていた。
「行ってやれ……七彩は無事だ…………」
ついに全ての色を失った彼女は、その一言だけに余力を振り絞り、骨と皮だけになった指で俺を促した。
砂時計が落ちていくように、サラサラと死んでいく。
雨は泣いているように、しんしんと夜を濡らしていった。
「お前を看取ってからにするよ。」
思わず流れ出た言葉でも、彼女は安心したらしく、瞳を閉じて、緩い微笑を浮かべた。人としての肉付きはもう見る影もなく、今まで見えることは無かった幾多の傷が浮き彫りになる。
「……こんなにボロボロだったんだな」
彼女も、戦っていた。彼女も、後悔していた。彼女はきっと許されないけれど、その前にまた一人の被害者でもあったのだ。
理不尽な暴力と略奪の被害者だったのだ。
「ごめんな。」
どうすればいいか分からず、こんなことを口にした時には、彼女の姿は残っていなかった。
僅かに残った白い砂を、胸に当てて彼女を感じる。
暖かい感情の裏に、耐え難い悲痛があった。
涙が止まらない。この痛みこそ、彼女の生きた証なのだから。
忘れたくなかった。
彼女の想いは、今に受け継がれるべきだ。争いを目の当たりにした数少ない人間の一人が抱いたこの気持ちは、薄れてはならない。忘れてはならない。
◇
真紅に燃える夕暮れの太陽に顔を向け、彼女の背中はこれまでの全てを物語っていた。
華奢な背中からは想像を絶する感情の嵐が吹きつけて、俺の無知な肌を切り裂く。
─────なぁ、お前は……その。正しかったな。
その背中に声をかけると、自嘲のような笑いを返して、こう言った。
─────さぁね。私はきっと、半分正解で、半分間違っていた。器用ではなかったんだ。結果、手元にはもう何も残っていなかった。
失ったものが多すぎた。と、彼女は言った。
目下の景色に気付かずに立っていた俺は、ようやく絶望する。
彼女が“失ったもの”が、燃える赤に照らされながら、辺り一面に転がっている。
─────近い将来、戦争を知っている人間がいない時代がくる。私はそれがどうしようもなく恐ろしい……人は必ずまた間違える。
だから、感情を切り落としてでも多くの命を救うしか無かった。私の決断によって予想される結果は正しかったとしても、方法がこれじゃあ、君のような人間に反抗されるのも仕方がないというものだ。
全く……結末は最悪だとわかっているのに、どうして人は争うのだろうな。
どうすれば、争いは消えるのだろうなぁ……仁義君。
─────そうだな……語り継ぐことしか、俺には思いつかない。誰かの体験や経験、その記憶は何も、一個人だけのものじゃないと思う。思い出話や、失敗談、教訓として聞かせることで、他の誰かに共有されるだろ?
戦争なんかは特にさ、多くの人の後悔の象徴だ。覚えている人間が、後の世代に語り継ぐ───いつだって、俺達は、歴史はそうしてきたはずだ。
彼女は背を向けたまま黙っている。彼女の影に当てられている俺は、その背中を見つめて、何かに満たされた。
─────そうか。最期に話せたのが、君でよかったよ。
さぁ行け。君を待っている人間がいるだろう。
✕
瞬きをすると、スイッチが切り替わったように引き戻された。
彼女の欠片を握りしめた身体を起こし、近い空を仰ぐ。
「さよなら」
返事は帰ってこないけれど、雨はもう、止んでいた。
「信仁」
振り返ると、俺を待っていた遥歌さんが、俺と同じくらいボロボロになった身体を労りながら立っていた。
「帰りましょう」
遥歌さんは瞳を閉じて静かに頷いた。創造主である佳奈がいなくなり、音を立てて世界は崩れていく。
「先輩、今行きます。」
雨に黒く濡れた装置を取り壊し、冷え切った先輩の身体を抱きかかえる。
雨の雫が滴る白い肌と、絹のような黒い髪と、萎れた制服。
腕の注射痕は、まだ生々しく残っていた。
「……先輩」
呼びかける訳ではなく、美しいほどに壊れかけていた先輩の身体をみて、息が詰まる。気を失っているが、増えた外傷もなく、息も続いているので、ひとまずは安心した。
ガコン、と大きな音を立てて、地盤ごと塔が傾く。
「急ぐぞ!」
遥歌さんの切迫した声を合図に、空中の割れ目に飛び込んだ。
圧迫される空気の中で、身体中が軋み、傷が疼く。
雨水が染みて、顔を顰めるけれど……
先輩は、生きている。先輩は、ここにいる。
やったよ。先輩。やっとあなたに、恩返しができた。
さぁ、全てが終わり、世界が明ける────────
風も、空気も、日差しも、気持ちも、何もかもが穏やかだ。
なびく草原の上で、今目を覚ました。
空を見上げれば、大きな雲が青いグラデーションの空を流れて、それが過ぎる度、太陽が顔を出したり引っ込めたりしていた。
「起きたか。信仁」
声をかけてはくれたけど、二人とも動けるはずもなく、だだっ広い草原に大の字で仰向けになりながら、少女が起きるのを待った。
「この後は、どうするんですか。」
空の景色が流れ流れる様を眺めながら、少女を挟んで仰向けになる遥歌さんに尋ねた。
「それを言うなら、“どうなるんですか”の間違いだろう。」
答えたくはなかった。どうなるかは、予想はつく。
やっぱり一度亡くなっているから、もう。
清々しいため息が聞こえた。先を憂うのではなく、何かに期待するような息を漏らして、少し笑う。
「そんな哀しい顔をするな!」
お互い顔は見えないのに、遥歌さんは意気揚々と言った。
それと同時に俺は悟った。これが、最期の会話だ。
そよ風に、星のような光が流される。
「遥歌さん……後は、任せてください。」
「あぁ。心配なんてしてねぇよ。ありがとな。」
そうだなぁ、感慨深い気持ちに耽って、ゆっくり身体を起こす。
後ろ姿に辛うじて顔が見える程度だったけれど、涙を流しているなんてことは無く、むしろ、満足そうに微笑んでいた。
「死人が蘇るなんて縁起のない話だが、縁はあった。だからお前と一緒にやって来れたからな。この縁は、アタシがどうなろうと切れるものじゃない。人と人の縁。いいじゃないか。こういうのが欲しかったのかもなぁ……アタシは。」
日差しが眩しく照りつけて、俺達を迎えるように笑う。
笑い返して、遥歌さんは振り向いた。
「ありがとう。信仁。みんなにもそう言っておいてくれ。」
「分かりました。……じゃあ、またいつか。」
別れの挨拶を終え、遥歌さんは風と共に去っていった。何だかもう、一生分の出会いと別れを経験したみたいだ。
寂しいはずなのに、今までにないくらい心が満たされている。
……かく言う俺も、もうそろそろで時間切れらしい。
さすがに長くこの時間に居座りすぎたようで、限界が近い。
消えかかり、力が抜けていくのを抑えながら、まだ眠いっている先輩を見つめる。
その寝顔がとても愛おしくて、こうして生きていることが尊くて、つい、手を触れようとするけど。
「いやいやいや。何してんだ俺は。」
一人でそんなことを呟いてみる。やっとの思いで掴み取った奇跡を前に、邪な考えが浮かんだ自分を恥じた。
そんな時。
「─────うぅ。」
長い眠りから、少女は意識を取り戻す。非日常的な苦痛、非日常的な悲壮が終わった今、ありふれた平和のなかで、その身体を起こした。
「ここは───────」
目を擦りながら、欠伸を一つ。
「やぁ。」
「……え、信仁君?」
目を白黒させて、何度も目を擦って確認する。確かに目が覚めたら何も無い草原で男と二人きりなんて、驚くよな。
「私、私は……」
「大丈夫。もう、全部終わったよ。」
少女はその言葉を聞いて涙した。というより、無意識に溢れだしてしまったようだ。真っ白になった彼女の手を握って、これまでの全てを話した。
胸が痛む話もあったけれど、笑って聞かせられるような話もあった。東や響歌の話を少しだけしたから。
俺が未来から来た存在だということは、丁寧に、目を見てしっかりと話した。
「……そっか。あんまり、いや、全然わかんないけど。お父さん、行っちゃったんだ。」
直ぐに返せるような言葉は見つからなかった。俺は最期を直接看取ったわけでもないし、交わした言葉の殆どは、互いに誤解したままの尖った会話ばかりだったから。
「お父さんは、君のこと、最後まで愛してた。いや、今だって、きっと……」
「──────ありがとう。こんな言葉じゃ足りないくらい。お父さんを、私を、助けてくれて……ありがとう。」
抑えきれない涙を拭いながら、笑って答えてくれた。
その表情はやっぱり先輩と同じで、どうしようもなくそれが好きだった。
「……七彩。伝えに来たよ。」
これまでの出来事が、脳裏を映像のように駆け巡る。鮮明に映し出された一つ一つが、懐かしくて、愛おしい。
「俺は、君に会えて良かった!」
言って、人生で一番の笑顔を見せる。七彩も少し驚いた後、泣きながら笑った。
風がそよぐ。空は歌う。雲は漂い、日差しは笑う。緑が揺れて、君も笑う。
七色に彩られた大きな虹が、空にかかる。
その色彩が、今まで出会った人達のように、今までの思い出のように、輝いて、重なっている。
「私も……私もだよ!信仁君────!」
そうか。なら良かったよ。
もはやその言葉を返してやる力もないらしい。安らかな気持ちで、ただ目の前の愛しい少女を見つめた。
その頬の涙を、君がしてくれたように拭う。暖かな肌に触れて、君の気持ちに触れて、俺は─────現在に還った。
ありがとう、七彩───────
○
─────数年後──────
高校を卒業して、何度目かの朝を迎えた。カーテンを開けると、昨日の豪雨とは打って変わった晴天で、久しぶりの天気にいくらか心が軽くなった。
学校が終わってからは、早起きの憂鬱とも別れを告げ、気が向いたら出かけて、気が向いたら寝るというなんともぐうたらな生活を繰り返している。
最もそれもあと少し。春からは部活のメンバーで揃って同じ大学に進学するので、また騒がしい日々に戻るだろう。
棚に飾ってある写真は、いつ見ても懐かしいものだ。
俺、東、響歌。よく写ってるじゃないか。
あれだけうるさかったのに、何をしていたかはっきり思い出せないのが何だか妙だけれど、平和な今があれば、それは些細な問題だった。
時刻を確認する。
あ。
「やっべぇ!!」
何故隣のベッドに響歌が居ないことに気が付かなかったのだろう。携帯の画面を確認すると、不在着信が何件も溜まっている。
オイオイ。自分に呆れながらも体は急ぐ。
着替え、洗顔、歯磨き、一連の動作を目にも止まらぬ速さで行い、朝食は牛乳一杯で済ませる。もはや朝食ではない。
「行ってきまぁす!」
兄さんは仕事、両親は揃って旅行中なので、誰もいないけれど急いだテンションそのままに、大声で家を後にする。
今日は部活のメンバーの集まりだ。集まりと言っても、俺と響歌は毎日顔を合わせているし、俺からすればただ久しぶりにあのうるさい帰国子女の顔を見るだけになってしまっている。
まぁ、この三人なら基本何でも楽しいから、いいんだけどね。
最寄りの駅まで徒歩三分程度の距離にある自宅から猛ダッシュして、それを一分に縮めて見せた。
駅前には、待ちくたびれている二人の姿があった。
「おそい!!」
二人合わせて俺を見るなり一喝する。
いやあ。返す言葉もない。
「ごめんごめん。まぁ、行こうぜ。」
「遅れたくせに偉そうに。」
「なっ、お前だって起こしてくれなかったじゃんかよ。」
「起こしましたぁ〜アンタが起きなかったんですぅ〜」
「まぁまぁ、久しぶりに会えてよかったよ、ミス響歌、シンズィー。」
やかましい呼び名は変わらない。響歌を苗字で呼んでいたのが名前になっただけで、ミスという枕詞も変わっていない。
巻舌も健在だ。さぁ、さっさと行こう。
「あれ。」
ふと、何かに惹き付けられるような感覚を覚えて、後ろを振り返る。
「え?どうしたの?」
「いや、なんか、よくわかんねぇわ。」
気の所為にしては、やけに心臓が跳ね上がったように、緊張に近い何かを感じた。何度か経験したことのあるこの感じは……
ダメだ、思い出せない。
景色に手がかりがあるような気がして、周りを軽く見回してみる。
……やっぱり、何も──────
何も、ないはずなのに。
一人の女性の後ろ姿を見つけてから、視線が動こうとしない。
鍵をかけられたようで、拘束されている。
要するに全く目が離せない。
「……なぁ、この部活って、本当に俺達三人だけか?」
「はぁ?何言ってんだシンズィー。寝ぼけてるのか?」
自分でも何を言ってるのか理解できない。けれど、それ以上にこの現実がおかしい気がする。
ずっと感じていた妙な感覚の正体を、確かに掴みかけている。
「……ごめん、ちょっと待ってて!」
「え、ちょっと信仁!?」
後ろで制止する声は全く効果がなかった。今角を曲がった女性は、この距離でギリギリ視認出来る程度で、少し曖昧だけれど……そこに“何か”があると、あるいはその人物自体が俺にとって大切な“誰か”であるということを、本能が繰り返し告げている。
走って、走って、ただひたすらに走った。大遅刻でもう体力なんてあまり残っていないのに、このままどこまでも行ってしまいそうなくらい、俺は盲目的だった。
女性が曲がった角にようやく追いつき、その角を曲がる。
そこには、何本かの分かれ道が展開していて、女性がどこに行ったのか検討がつかなかった。
それでも。
「こっちか……!?」
息切れが激しく、口から出そうになるくらい弾けている心臓を押さえつけながら、また必死に走り出す。
完全に勘のみを頼りに、一本の道を選択してガムシャラに走る。
──────果たして。
その女性の姿を再認した。
「いた!」
思わず大声を出してしまったが、女性は振り向くことは無い。スーツを綺麗に着こなし、ヒールの高い音を鳴らしながら、流麗な足取りで進んでいく。
大人っぽい振る舞いとは対照的に、真っ直ぐなおさげ髪をしていて、あどけなさも残していた。
声をかけろ。体中のあらゆる感覚がそう告げているが、イマイチその一歩を踏み出せない。だって完全に不審者だ。さんざん待たせた友達を置いて走り出して、汗だくになった男に声をかけられる女性の気持ちになれば、気が引ける。
けれどまた、心のどこかで、この女性はそれさえ受け入れてくれるという、根拠の無い自信があった。
その自信はしかしほぼ絶対的で、確信に限りなく近い。
そんなこと、あるはずないのに。とは思っていても、やはり決定的な信頼がある。
それが何故かを考えている余裕なんてあるはずもなく。
俺はついにその女性に声をかけることを決意した。
「あ、あの!!」
さっきよりも数倍でかい声は、流石に女性の気を引いたようだ。
まさか自分に向けられたものだとは思っていなかったのか、振り向いてきょとんとしている。
逆光でその顔がよく見えない。あと少しで思い出せそうなのに。
決死の覚悟で、徐々に距離を詰めることにした。クソッ。もうどうにでもなれ!
「ど、どこかでお会いしたことありませんか……?」
暗かった顔は徐々に明るみになり、呆然とした表情がより鮮明に映る。同時に自分の行動が信じられなくなっていくが、それを構わずダメもとでもう少し近づいた。
女性はまだ驚いているのか、答えない。けれど。
───────俺はやはり、この女性を知っていた。
いや、なんなら、確実に恋をしていただろう。現に今もこうして、胸の高鳴りと温度を抑えることが出来ない。今すぐにでも抱きつきたい、そんな気持ちだ。
女性の顔が完全に把握出来る距離になった時。
女性も、俺を見て驚いた。
見ず知らずの人を見た驚きではなく、久しぶりに友人にあったような目をしている。勘違いではないと思う。
だって、お互い泣いているのだから。
何故涙を流しているのかも理解できないまま、お互いに距離を詰めていく。そうだ。俺は、この人が好きだったじゃないか。
「お久しぶりですね───────」
そう漏らすと、女性はいつものように無邪気な笑顔を返した。
そしてあの日々のように笑い合う。
泣き虫だね、と。
先輩は俺を見るなり、そう言った。
今日は、とてもいい日だ──────────
最終話となります。
この作品は、自分の限界に挑戦する機会を与えてくれました。今はただ感無量です。ありがとうございました。




