「燃える鉄拳」
燃えるような瞳を持った少女。
鮮やかな金髪。光が滑り落ちるような肌。洗練されたスタイルが、身体の無駄のない筋肉が、これまでの彼女を物語る。
燃える鉄拳、“サエシマ”。
悲壮に、美しく、最愛の妹に看取られて亡くなった彼女が、今俺の眼前に、悠々と腰を下ろして構えている。見透かす目でも、見抜く目でもない。
見つめただけで対象を殺してしまうような目をしている。
しかしその口角は釣り上がっていて、敵意は感じなかった。(殺気は痺れるほど感じたが、これは彼女の一種の才能とも呼べるものなので、意図的なものでは無いだろう。)
こちらが目を逸らしたくなるのに対し、その少女は、視線で俺を拘束した。
「なんだよ。お前のことだから、腰抜かしてもっと大袈裟に驚くと思ったが。登場からやり直すか?」
やり直さないでください。
こっちの気が持たない。
「にしても、そんなに日は経ってないはずなのに、随分久しぶりな感じするな。元気だったか?」
「お、お陰様で……」
「いやいや、お前じゃない。そりゃあお前でもあるけれど、響歌のことだ。」
あ、そっち……まぁ、そりゃそっちか。
最愛の妹だもんな。
気にかけてくれたのかと思って一瞬嬉しくなった自分が恥ずかしい。
「ああ!お前さぁ!響歌になんかしてねぇだろうなぁ!?響歌が許しても、アタシが許さねぇぞ!」
「な、なんのことですか!?」
え。同棲のこと知ってるのか!?
辞めてくれよ。殺されちゃうよ。何もしてないけど殺されちゃう。
「なんのことってそりゃお前……」
「エッチに決まってんだろうが!!!」
「ぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!???」
全力で取り乱した。エッチという広い範囲でいえば、俺はした。いや、俺がした訳では無い。あのラッキースケベのことは、俺は悪くないけれど、そんなこと話したら、内蔵潰されちゃう。
「してないのか!!!!」
「してません!!!!!」
「なんでだ!!!!!!」
なんで!?
なんでってなに!?
「響歌に魅力がないって言いたいのか!!!!!」
「いや、いやいやいやいや、めちゃくちゃいいですよ(?)」
「このスケベマセガキ野郎!!!!!」
なんて答えればいいんだよ!!
「だぁーっ!アタシが男だったら響歌の初めて貰ってたんだが……クソッ!」
めちゃくちゃだよこの人……
前はもっとクールで、常に冷静沈着で、とにかくかっこいいお姉さんって感じだったのに……
「ま、いい。」
「いいんすか。」
「そんなことより、いや、そんなことじゃないけど、とにかく。」
「ちっとは元気出たか?」
あ。
不意に、暖かくて優しい笑顔を見せる。そう。そうだよ。
この人は、こういう人だった。
「いや。泣くなよ。泣くのは、全部終わってからにしろよな。」
そっと頭を撫でる。その度に、胸の内の重りが外れていくのを感じる。
「遥歌さん……」
「なんだ。」
「おかえりなさい。」
「あぁ。」
「ただいま。」
よく見ると、遥歌さんも少し、目に涙をためていた。
「っし。落ち着いたし、アタシは仕事を始めますかねぇ。」
数分後のことだった。
何となく、安心して眠くなってきた時に、遥歌さんは気合を入れ直しすように肩を鳴らした。
「信仁。これからアタシは、お前にめちゃくちゃ重要なことを話す。」
「重要なこと……」
「七彩の伝言だ。」
「!? それって……」
この時代の新川七彩では無いことは明らかだった。消える前に、遥歌さんに何か伝えていたということだろうか。
でも、どうやって。
遥歌さんは、助けに来たって言っていたけれど……
「いやでも、あいつも心配性でな。伝えることが些か多いんだ。ちょっと長くなるかもしれんが……まぁ、その前に。」
「まずは、なんでアタシがいるのか話しておこうか。」
それが先決だからな。と、付け加えてから。
響歌の後悔を解消しに来たあの日とは違って、静かな部屋の中で二人、落ち着いた雰囲気で話が始まった。
───まぁ、七彩が消えたっていうのは、アタシも驚いた。最もその時は、驚くも何も、墓の中だったけどな。
けどなぁ、これは恐らく、あいつが消えた直後だと思うんだが、急にアタシが眠ってるところにズカズカ入ってきてな?
めちゃくちゃ嬉しそうな顔して「助けて!」っていうから訳わかんなくてさぁ。
そこで話は全部聞いたよ。七彩がアタシの知っている病気だってこと。やっぱりお前もその病気だったってこと。
そして七彩自身、期限切れで消滅したこと。……それをお前が助けるって言い出したこと。
それで全てが狂ったんだってよ。そう来るとは思ってなかったみたいだ。嬉しい誤算だっただろうな。涙目で飛び跳ねてた。
でも信仁一人じゃ心配だって、アタシを頼りに来たらしい。
こっちは死人だってのにな。
んで、こっからが本題なんだが、どっちみち、アタシは七彩の手によって“一時的に”蘇る予定だったらしい。
なんでも、お前の暴走を止めるための要は制御装置みたいなもんだな。
アタシというゾンビの作り方は、聞いてみる限りだと至ってシンプルだったな。能力者である七彩の力の残滓を、アタシの死体に送り込んで、後は七彩の“冴嶋遥歌”に対するイメージをぶち込めば、それに沿った形で現界出来るらしい。まぁ、実際そうなってるしな。
七彩ほどではないが、アタシも能力紛いのものが使えるようになった。んで、この新しい命。
「もって一ヶ月」らしい。
まぁ、もともとお前を助けるためだけに、吹き込まれた命だ。アタシもお前には世話になったし、やれることはなんだってしよう。ってわけで、互いに勝手に同意させてもらった。
お前、どうせ無理するしな。
さっきも言ったが、本当だったらアタシは、この時代じゃなくて、現代に現界して、お前がそれを使いこなせるようになるまで訓練を付けるか、またはそれをアタシの存在と引き換えに取り除くかだったらしい。
けどお前が七彩を救うって言うんで、急遽この時代に飛ばされたってわけだ。それで全ての力を使い切って、とうとう本当に消えちまったけどな。思念すら残らなくなった。
あいつは最後に言ってたよ。
「ありがとう。私はずっとあなたを信じてる。」
ってな。
────
「とまあ、こんな感じな訳だが。」
スケールがデカすぎる。
それでも俺が勝手に始めた無茶に、先輩も遥歌さんも、ここまで付き合ってくれている。
体の奥底から震え上がった。
自暴自棄になってる場合じゃない。もう挫ける理由もない。
「じゃあ、続けてもいいか。」
「え。続けるって、なんですか。」
「おいおい。お前がそんなんじゃ困るぞ。……いやでも、知らない方が自然か。」
含みのある言い方だった。
これ以上何か話すことがあるのか。
「伝言は多いって言ったろ。最後に残した言葉こそ一言だったが、あの七彩だぜ。“敵”のことも教えてくれたよ。」
敵?敵っていうのは……七彩を自殺に追い込んだ原因。
俺の中ではもう、クラスメイトや厳しい親だって結論が出ていたけれど……
「対立するかどうかまだ明確にはわからない。でも、アタシも“あいつら”のことは多少知ってる。……あれは普通じゃない。」
普通じゃない。
今となっては俺達も普通じゃないけれど、それがどういう意味なのか、話を聞くまでもなく、ただならなぬものを感じた。
「いいか、アタシ達の敵、つまり。この時代の七彩を自殺に追い込んだ原因は……」
「“伊能製薬”という製薬会社だ。」
耳を疑った。その名前は聞いたことがあったからだ。思い返してみれば、そう。それは母さんの口からハッキリと聞いた。
そしてそれが、話に聞くだけでも危ない組織だというのも、連鎖的に思い出した。
「どうした。顔が青いぞ。」
「……俺、知ってます。製薬会社としてのそれじゃなくて、もっと大きな事情。隠してること……」
「あぁ、そうか。お前もあそこ出身だったか。……親辺りから聞いた風だな。」
「大丈夫です。続けてください……」
冷や汗が湧き出る。平常を保つために、焦りを噛み殺す。
「アタシはお前より、少し先にこの時代に来た。それも全て、伊能製薬について出来るだけ情報を集めるためだ。」
だが。と一層鋭い空気を出して続ける。
「得た有益な情報は極わずかだった。アイツらはもっとヤバいことしてるのは間違いないが……とりあえず確定したのは、“お前や七彩みたいな病気の患者を集めて、何かしでかすこと。”」
「それがとんでもないことだってのは確かだ。既に何人ものジャーナリストが血眼で追っているが、真相なんて分かるはずもなく、それ以降ほっとんど進捗はないな。ま、こんな突拍子のない話、表に出ることもないだろうけどな。」
「ちょっと待ってください!それって……俺や先輩の他にも……」
「あぁ、まだまだ患者はいる。それも“世界中”にな。」
嘘だろ。
こんな馬鹿げた力を持つ人がまだ居るのか?
俺や先輩は、人の過去を変えるためにこの力を使ったが……もしそれが本当なら、いつか力を使ったテロ行為なんてものが起こっても、何ら不思議ではないじゃないか……!
「そんなヤバい奴らが一堂に会するわけだ。お前だって安全とはいえねぇ。もう一人のお前がいる限りな。」
そうだ。あいつは言っていた。
あいつはきっと、このことを予見していた。
ダメだ。このままじゃ……先輩が死ぬ以前に、大勢の人が死ぬ……!
「んで、もう一つ最悪な知らせがある。その計画の責任者も判明した。こればっかりは、アタシも動揺したよ。」
「災厄を引き起こそうとしている黒幕は、新川祐一。まぁ恐らく、七彩の父親だろう。」
先輩の……お父さん?
苗字が同じなだけだが、きっとただの偶然じゃないだろ。と、曖昧な理由で仮定する。
「元々高名な科学者だったらしい。ところが数年前、世間から姿を消している。失踪したんだ。」
「え……いや、じゃあなんでその人が黒幕だって?」
「……伊能製薬には、内通者が一人いる。アタシが知ってる情報のほとんどが、その内通者からのものだ。」
内通者だと……それは、俺達の味方なのだろうか。
一つだけ確かなのは、この大企業の闇を外に持ち出せる程の腕があるというだけで、どうせ只者じゃない。
もし敵対するなら、その時は……
「アタシもその人とは何度か会って話をしたことがある。“狩野清美”。ジャーナリストだった彼女は、その職を捨ててまで伊能製薬に社員として潜り込んだ。最低のブラック企業の膝元に下ってもな。」
狩野清美……どっかで……
「あ!」
「ん。どした。」
「その人、俺の母親と同じ職場で働いてた人です。そう聞きました。」
そうだ。そうだよ。思い出した……って言っても、割と最近の話だけど、母さんの話を汲めば、きっと信頼できる人のはずだ。
にしても、内通者なんて……母さんの言ってた通り、かなりリスキーで腕のある人なんだな……
「そうか……っし。なら、話は早い。」
組んでいた足を組み直して、んー、と、少し悩む。
立ち上がって、欠伸をひとつしてから、こっちを静かに見下す。
「今から会いに行くぞ。」
「え。」
この人も結構、無鉄砲なのかもしれない。
度重なる予測不能の事態、それによる失敗。
正直、一人のままだったら、もうとっくに挫折していただろう。
大丈夫だ。希望は見えてきた。敵の姿も、微かに見えた。
能力者が介入するなら、必ず正面の殴り合いになる。
こんなチートじみた能力を持った人間と、直接喧嘩したことなんてあるわけないけど(そもそも先輩しかしらなかったし)、今の俺は、大木だって弾き飛ばせるんだ。
“あいつ”さえ制御できれば、なんとかなるはず……
「っし。車乗れ。行くぞ。」
「えっ。場所わかるんですか。てか免許は。」
「黙ってついてこい。」
う゛っ゛!
あまり口応えはしないようにしよう。じゃないとまたこうして、金○鷲掴みにされる……
こうして、二度目の無免許運転に付き合うことになった。
ンー、前回の記憶があまりないのは何故だろう。
シートベルトもしたし、大丈夫だよな……?
「あ、安全運転とか、期待すんな。」
さも当然のような顔で、ついでに、忘れてたけど、みたいな感覚で生死に関わる爆弾発言をする。
くっ。やっぱり……!
なんでこう、俺の周りにはちょうどいい常識人がいないんだよ!
変態か無鉄砲か天然か……あぁ響歌。助けて……
「事故ったらおっぱい揉ませてくださいよ……!」
「死ね。」
「じ、冗談ですって。」
「死ね。」
あれ……もうちょっと乗ってくるかと思ったんだけどな……
そうこうしてるうちに、遥歌さんの車は走行を始めた。勢いよくかかったアクセル、初っ端から法定速度ギリギリのスピードで飛ばしていく。
「そんな急ぐんですか……!?」
「気分いいだろ?こっちのが!」
良くないよ。ガッタガタ揺れてるし、信号も今ガン無視して行ったし、全然良くないですよ。もう酔ってきたし。
「こ、こんなことして、本当に帰ったら揉みしだきますからね!」
「アンタ童貞なのー?」
「なっ、どうてっ、どうでしょう?」
体も精神も揺さぶりかけられてんじゃねぇか!
めちゃくちゃ笑ってるし、人が行為に及んでないことがそこまで面白いか!
貞操観念キッチリ守ってだけなんだよ俺は……ああ……
「そ、そういう遥歌さんだって、処女なんですかな!?」
なんだこの口調は。
童貞バレバレの動揺っぷりじゃないか。
「……確かめてみるか?」
確かめる…って何……
うぉおぉう!?
「ぜひ。」
「そうだな、アンタが七彩を救うぐらいイイ男になったら、手取り足取り教えてやるよ。」
俺の決意が、さらに固まった瞬間である。
い、いや!やっぱり俺の童貞は、できれば先輩で卒業させていただきたい………
「言っとくが、お前の考えてること、こっちに筒抜けだからな。」
「はぅ!?」
先輩も余計なことしてくれたな……!
「うし。ここら辺で待ち合わせだ。」
「待ち合わせてたんすか。でも、大丈夫ですか?つけられたりとかしてたら……」
何やらとんでもないことを企んでいる組織だ。
バカバカしいしぶっ飛んでいるけれど、それだけ得体がしれない分、警戒心も尋常ではなかった。
「まぁ、心配すんなよ。清美さんはかなりやる。」
「そうですか……」
「でも、安心もすんな。警戒心は常に持ってろ。」
その忠告はなんだかやけに怖かった。
信頼できる人は、もう前のように多くない。
改めてそう思い知らされた。
「きたぞ。降りよう。」
都内の喫茶店前での待ち合わせだったが、予定時刻に一秒のズレもなく現れたのは、スーツ姿の長身の女性だった。
「あの人ですか?」
「そうだ。」
どことなく、母さんに似ている気もした。
「清美さん。」
遥歌さんが近くまで行って声をかける。女性は、口にくわえたタバコに火をつけて、一つ煙を吐いてから、
「来たね。」
と、落ち着いた態度で返した。
その後、俺を見るなり、一瞬目付きが変わった。驚きと殺意が混ざったような目をしていたと思う。
「あなたも……“患者”?」
患者という言葉が指す意味は、直ぐに理解できた。
「……はい。」
「そう。まぁ、この子といるんだからそうよね。初めまして。私は“伊能製薬”に務めてる狩野清美。お手柔らかにね。」
お手柔らかにって……
彼女は少しだけ笑って見せたが、安心感はまるで得られなかった。目がこれっぽっちも笑ってないからだ。
笑うというよりかは、嘲笑うような感じさえあった。
どういうつもりか知らないけれど、母さんの話が本当なら、冷や汗かくのはそっちだぜ……
「川村信仁です。よろしくお願いします。」
「え……まって、川村?信仁?そういったの?」
「そうです。あなた達が最初に見た、あの時の患者です。」
ほら見ろ。
「俺はお前達に無理矢理引き取られたあの男だ。お前達の勝手な都合で、都合のいい人生を送らされている。自由意志の欠けらも無い、鎖で繋がれた日々をな……!」
……!?ちがう、違う!俺は何を言ってるんだ……違う……違うんだ、俺は、俺の今は、違う、違う、落ち着け、落ち着いてくれよ……!
「信仁。」
「は……ぐぶっ!」
腹に一撃が入った。……身体が軽くなった。
まるで気が付かなかった。いつの間に俺の意識に介入したんだ……
とうとう俺は、乗っ取られたことにすら、気づかなくなってしまったらしい。
「ごめんなさい……」
「はぁ……そういうことね。だいたい分かったわ。」
呆れた様子だ。クソッ……敵対意識なんてないはずなのに、身体の内側から黒い感情が込み上げてくる。
もう、自分で制御できない……
「清美さん、急にすみません。今日はこの通り、対伊能製薬の切り札を連れてきたつもりなんですけど……」
とりあえず、店の中……ではなく、車の中で話をすることになった。俺をしばらく安静にさせるための配慮だ。
「ええ。全然ダメね。自分の制御も出来ないようじゃ、あっちには適わない。」
「ごめんなさい……」
「謝ることは無いわ。むしろ、会えて嬉しい。……本当に時間を超えてきたのね……君一人で、その勇気は素晴らしいわ。」
ここに来て、ようやく俺に暖かい微笑みをくれた。いや、きっとさっきも、こうして微笑んでくれていたんだろう。
なのに俺は……いや、あれを俺と言っていいのかどうかは、いまいち判断しかねるが。
「来てくれて助かった。遥歌。君は……信仁でいいわよね。あの子もいい名前を付けたものだわ。」
「やっぱり、母さんとは……」
「ええ。学生時代からの仲ですもの。」
そうだったんだ……としか言えないけれど、本当に仲良さそうで、また少し、安心した。
横になりながら話を聞いているから、当たり前ではあるんだろうけれど。
「清美さん、そろそろ本題に入りましょう。」
「そうね。……今日であっちの方針はだいたい分かったわ。」
「“全ての人類から、劣化、または損傷という概念を除くこと。”これが奴らの目的。」
劣化、損傷……まさか。
加齢が劣化、怪我が損傷だとしたら、その概念がまるごと抜かれるってことは。
「ま、簡単に言えば“死”ね。」
予感は的中した。なんてこと言ってる場合じゃない。
だって、このままじゃ奴らは“良い奴”じゃないか。
それってつまり、人間を不死身にするってことだろ?
全く想像もつかないし、それはそれで少し怖いけれど、少なくともその計画に……
「マジかよ……」
だらだら思考していると、遥歌さんが絶望したらしい声を上げた。
「え、なんで……案外悪くないんじゃ。」
「馬鹿野郎!よく考えろ!……っていうか、よく考えなくても分かるだろ?」
「で、でも……」
いや、まて、今俺は、「死を克服するなんて、すごいじゃないですか。」なんて間抜けなことを抜かすところだったが……それこそよく考えなくても分かった。
新しく生まれた人間はどうなる?
劣化、つまり加齢の概念が無くなれば、赤子は赤子のままか?いや、加齢を成長とするならば、胎児が腹の中で育つことすらない……
「そうか……それって、“生まれる”ことも出来ないんだ……」
「そうだ。今の人口のまま、いやもっといえば、実質人類がそこで終わるんだ。増えることも減ることも無くなった種族。……飼い殺されてんだよ。」
能力者を集め、そういう世界をつくるってことか……
人類の生死の概念が終わった世界。そんなものが出来上がってしまったら、それこそ本当に“新世界”だ。
「いや、待ってくださいよ。それなら余計何考えてるんですか!人類の増減が停滞した時、奴らになんのメリットが……」
「そう。それが奴らの一番恐ろしいところよ。」
清美さんが振り返った姿勢を戻して、大きく溜息をついた。項垂れて、また一つ溜息をつく。
「“これで奴らの計画は以上”よ。」
「……は?」
「チッ……マジで何考えてやがる……!」
人類の進化を終わらせる……その計画の真意は、今の俺達には到底理解出来るものではなかった。
ここまでくれば、奴らは奴らのためだけに動いていないのではないか、という擁護めいた疑念も沸いてくるほどだ。
何故だ、こんなこと、おかしいはずなのに。
おかしいと、心の底から思えない……
『僕はいいと思うけどなぁ。』
違う……黙れ……俺じゃないお前は黙ってくれよ!お前のことまで考えたくないんだよ!
先輩も、人類でさえもどうなるか分からないのに、そこにお前が入ってくるなァ!!邪魔なんだよ……
『邪魔なのは君だろ。教えてあげよう。君の意識の八割は既に僕のものだ。やっとここまで来た。川村信仁はもう消える。』
はぁ……?なんだよそれ……だから、だからさっきから、静かに狂って……
『ねぇ。もういいだろう。返してよ。これは僕のなんだ。僕の体なんだ。君のじゃない。川村信仁なんて、元々ありはしない。』
「だまれぇ!!!!!!!!!!!!!」
「信仁!?どうした!」
黙れ。黙れ。だまれだまれだまれだまれ!だれ!だれだれ!だれだおまえ!だまれ!!だれだまれだれだれがだまれがだれ!
だれまだるまだれだまれだれまだるだれだまれまるまるだれだ!!!???
「馬鹿野郎……!落ち着けぇ!戻ってこい!!」
「んぎぃいいぃいいいやぁ!!!!」
「遥歌!これを使いなさい!」
「清美さん……!これは……!?」
「“抑制剤”よ!病気のね!」
ふぇえ?
「抑制剤……オラァ!」
ぐっ…………!?ぉっ!?ば!
あ、ああ、あーーーーー。あ────────
────────────────
「しんじ君。」
あぁ……先輩。
俺、こんなんじゃダメだ……あなたどころか、自分自身もどうにも出来ない……
「────」
え……?
今、なんて……
────目を、覚ました。
自力かどうかもわからない。今目を開けたのは、俺ではなく、あっちかもしれないのだから。
意識の八割。ということは、思考も、その殆どが奴のもので、行動も、その殆どが奴のものという事だ。多分。
絶望さえも通り過ぎた。今あるのは、果てのない空白。
虚無感と表現するのも生ぬるい。
また、また抜け殻になるのか。俺は。
上手くいかなくても、先輩の温もりが残る時計があって、遥歌さんだって戻ってきてくれて、清美さんという心強い味方も出来たのに……
俺はまた、ダメになるのか。
「気がついた、か。」
ここは───地下室か。清美さんもいるじゃないか。
ダメだ……身体がまるで動かない。言葉も出てこない。
もっと今後について話し合わなきゃいけないのに。
これからって時だったのに。
「……喋れそうにないか。」
「無理もないわ。遥歌。彼の苦しみは、残念だけど私達には理解出来ない。自分が二人なんて、考えるだけで、途方もなく恐ろしいわ……」
貴方はよく耐えている。と、俺の手を握って言ってくれた。
そうか。俺、こんなんでも頑張ってるのか。いや、まだ全然ダメじゃないか。
だって、俺ここに来てから何ができた?何をした?
先輩を完全に救ったか?
いや、まだ学校にも溶け込めてないし、執拗についてまわったせいで振りほどかれてしまった。
敵は伊能製薬だと分かった。だがそれは誰のおかげだ?
俺じゃない。清美さんや、遥歌さんがいなければ、俺は母さんの話を失念していたままだった。
それはなぜ?奴らの目的に一瞬でも共感したのは?
あいつだ。あいつがいるから、俺はもうどんどん俺じゃなくなっている。
“抑制剤”を打たれて、今でこそ自分を保っていられても、いつまた狂うかわからない……
あぁ、先輩。あなたに会いたい。貴方だけじゃない。
母さん、父さん、兄さん……東、響歌、華蓮ちゃんだって元気かな。響歌の両親はちゃんと更生できてるかな。
あぁ。いつか、みんな忘れちゃうのかな。
みんな……嫌だよ。そんなの。みんな、俺の大切な人なんだ。
みんなが俺の全部だ。一人でも欠けて欲しくない……
「嫌だ………………このまま、じゃ…………」
「……! 分かってる。大丈夫だ。なんのためにアタシがいると思ってる。」
「お前は強いよ。十分すぎるぐらいだ。だって……」
「大切な誰かのために、ここまで出来るんだから。」
……え?
でも俺は……何も……!
「思い出せよ。みんなの過去で、お前はそれこそ必死にもがいただろ。アタシの時だって、最後までついてきてくれたじゃないか。」
東は……あいつは苦しんでた。愛する人を失った己の無力さに。
どうしようも出来ないことだからこそ、あいつは自分を偽って、無理に明るく振舞った。
けど、そんなのおかしい。だって、あいつは悪くないじゃないか。自分に嘘をつくことなんてないはずなんだ。
だから、俺はあいつと共に立ち向かった。
あいつの過去で、あいつの本当の想いを、伝えるために。
響歌は……自分を責め続けていた。敬愛する姉の苦悩に気付けなかった自分を。
そして、自分の才能にも、悩んでいた。楽しくピアノを弾けなくなっていた。
ダメだ。そんなんじゃダメなんだ。あんなに綺麗な音を奏でられるのは、響歌しかいない。ピアノが楽しいってこと、思い出すんだ……
だから、遥歌さんも、響歌も、助けるために奮闘した……
結果は残酷だった。けれど、遥歌さんの遺した楽譜が、響歌の明日になった。
それだけで、響歌は救われたんだ。本当に良かった。
先輩も……人知れず、独りだった。
人一倍人生に、後悔について悩んでいたのは、紛れもなくあの人だった。
だからこそあの人は、他人の過去にも親身になって、最後まで戦ったんだと思う。
けれど、俺が気付いた時には遅かった。
何で言ってくれなかったんだよ。俺は、俺は!
あなたじゃないと嫌なんだ!あなたが居ないと、後悔解消部は成り立たないんだよ!
だから、何がなんでも助けてみせる。みんな、あなたを忘れてしまったけど……俺は覚えている。
今度は俺が……
そうだ。今度は俺があの人を助ける。誓ったじゃないか……!
ついでに世界でもなんでも救ってやる!
俺達が生きた世界、そしてこれから生まれてくる命のために……少し、いやかなり大きい話になってきたけれど、俺の力があれば、きっとできる。
いや、俺達の力だ。仲間と、そしてもう一人の俺の力。
それが今必要なんだ。
だから俺は、もう一人の自分も、“救う”。
勘違いしていた。先輩を苦しめるもの、そして己の中の自分を倒すことばかりを考えていた。
違う。それじゃあダメだ。
俺は教わったじゃないか。人の感情の温もり。愛情も友情も、俺の大切な人達が教えてくれた。
「そう……う、そうだ……!俺は……!」
「信仁……!クソッ!またか!?」
俺は、川村信仁だ。
檜野一颯も、また俺だ。
俺はここにいる。ここに来たんだ。
大切な人を救うために。
『まさか、そこまで馬鹿馬鹿しい結論に至るとは。いくら綺麗事を並べたって、僕は君をもらう。その意思を曲げるつもりはない!』
「あぁ。だったら俺は、意地でもお前を救ってみせる。過去に執着するお前を、必ず救ってみせる。大事なのは、今なんだ。気付かせてくれてありがとう。」
『何を言い出すかと思えば……!お前!!ムカつくなぁそういうのは……!さっきまで邪魔とか言ってたくせに!!』
「あぁ。確かに邪魔だ。」
『……ハッ、やっぱりそうなんだろう。こっちもやりやすいよ。』
「だけど、それはお前のせいじゃない。お前は何も悪くない。お前の過去が、お前を苦しめてるだけだ。邪魔なのは、その癌みたいな苦しい過去だ。」
視界が真っ暗になる。
その暗澹の中に、少年が怒りの形相で俺を威嚇する。
『殺す……絶対に……!』
「あぁ。」
『お前を殺して────僕がお前になるんだァァ!!』
「なぁ、」
『あぁ?』
爪を立てて、歯を立てて、溢れんばかりの殺意をぶつけてくるけれど、それも全部、中身のない衝動にしか思えなかった。
「虚しくねぇか。」
『────!!』
再び意識を取り戻した。身体もよく動くし、頭の中も至って冷静だった。今度こそ、本当に、覚悟は決まった。
甘えも弱さも、それも全部受け入れて、受け止めてくれる仲間が俺にはいる。
今は離れているけれど、東や響歌だってそうだ。
俺は、皆と先輩を助ける。
「清美さん。」
「何かしら。」
まだこの時間に来て、ほんの少ししか先輩に関われていない。
けれど、あの時見たアレは……
「気になることがあるんです。」
「……いい目。」
タバコを灰皿に戻し、笑った。
母さんに似ている笑顔だった。
気の強い人が見せる、安らかな笑顔が、そこにはあった。
「そうね。今はどんな些細な情報も欲しい。奴らの善人面したトンデモ計画を何とかしなくちゃ。」
「伊能製薬に───“新川”という姓をもった人間がいると聞きました。」
「……えぇ。彼は、恐らくこの計画の頭。部下からの信頼も厚い、敵にするにはかなり厄介な人物ね。」
「俺、実は────」
「知ってるわ。その娘を助けに来たんでしょ。私、新川先生とは何回か話したことあるけれど、娘の話もよく聞くわ。遥歌から聞く話と同一人物とは思えない程、かけ離れてるけどね。」
知っていてくれたか。
遥歌さんも何度か清美さんとは会って話をしていたみたいだし、スムーズに進めそうなのはありがたい。
問題はここからだ。
「俺、見たんです。彼女の腕に、いくつもの注射痕が点在していたのを。」
遥歌さんは眉間を少し動かしたぐらいだが、清美さんはそうもいかなかった。
目を見開き、小刻みに震える手で、顎を抑える。
俺達が知らないことを知っているということは明らかだった。
「君達は、その子を助けに来たのよね?」
「……え?そうですよ?」
何故、もう一度聞き直す。俺達の目的を把握していて、何故もう一度それを聞く。
身体の至る所に焦燥感がほとばしる。
「……まずい。その子……死ぬわよ。」
「え?」
遥歌さんも同じ反応だった。
俺の気になっていたことは、計画の鍵を握っているかもしれない。
「俺がそれを偶然見つけた時、彼女は極度なまでに追求を拒絶して……」
「やっぱり……!いい!?よく聞いて。」
「それは恐らく、あっちの新薬。“能力者関連”のね。私も小耳に挟んだ程度だけれど……普通の人間の身体を、能力者に変える劇薬よ……!」
普通の人間を能力者にって……!そんな薬をあれほど痕ができるまで打ったのかよ!!
じゃあ先輩は、作られた能力者ってことか……?
実の父親によって……
「使用し続けて、その人間の体に合わなかった場合……その力に耐えることが出来ず、死に至る。それがあの恐ろしい薬……」
いや、いや、待ってくれよ。
飛び降り……のはずだぞ。先輩の死因は。
何故ここでまた新しい可能性が浮上する。計画者は実の父親……生前から伊能製薬との関わりがあったってことだよな……
先輩の話と食い違う。先輩は何故死んだのか、ここに来てまた改めて考えることになってしまった。
あの人、自分のことあんまり話さないから……!
周りの環境でも、人間関係でもないとしたら……薬の代償に耐えられなかったってことか……?
でも確かに先輩は飛び降りたって……そうか。
「その人……学校の屋上から飛び降りて死んだんです。でも、それから二年経っても、後悔が強く残って、能力を持ったまま期限付きで生き返っちゃって……」
「あぁ、そういうことか。」
気付いた。俺も遥歌さんも、先輩の自殺の意図に。
肉親にそんな物騒な注射ばかり打たれて、適合出来なければ死ぬなんて、そんなの……
「そんなので死ぬぐらいなら、力も何もないうちに自分から死んだ方がマシだ。」
「って、ことだろ。」
先輩じゃなくて、他の誰かが同じ状況に立たされても、きっとこの思考に至ったと思う。実行できるかどうかは別としても。
人ならざる力、その代償が死だと言うのなら、そんなもの自分から投げ出してやる、ぐらいの……
死ぬぐらいの勇気は、平気でもちあわせているだろう。
あの人は。
「決死の覚悟で命を投げ打ったものの、結局能力者として、その上期限付きで蘇ってしまったのだから、皮肉なものだわ……」
それでも先輩は、その力を人のために使った。
絶望の縁に立たされて、そして遂には絶望の渦中に閉じ込められても、最後まで自分の意思を貫いた。
なんて人だ……それほどの覚悟、俺には到底なかった。先輩の真似をして突き進んでみても、あの人の意志の強さには全く及ばなかったということか。
「もう、時間はないんですよね。」
「えぇ………」
「ただでさえ時間ねぇってのに、肝心の七彩をどうやって薬の呪縛から解くんだよ。それができなきゃどの道……」
「いや、方法はあるわ。……かなりリスキーだけど。」
リスクなんてのはとっくに承知の上だ。
初めから、楽してどうにか出来ることじゃないし、俺はあの人のために、今ある力を出し切りたい……!
「聞かせてください。」
「さっき、貴方には“抑制剤”を注射したわね。あれは能力者の能力を一時的に押さえつける効果のあるものだけれど……伊能製薬の中に、能力を根本から消すワクチンが厳重に保管されているの。」
能力を、消す……
それなら!先輩が苦しむことは無い……!
「でも、セキュリティは本当に強固なもの。重たい多重ロックの金庫に保管されていて、私でもどう突破すればいいか皆目検討はつかないわ。」
「そんなの……!」
そんなの無理か?違う。そんなの、そんなもの。
「ぶっ壊せばいいでしょ……!」
「目付き変わった。本当の意味で覚悟できたみたいだな。」
「……そう。なら話は早いわ。時間が無いのも事実。今は多少無理をしてでも、そのワクチンを奪う必要がある。そうよね?」
思えば、先輩はいつも無理してたのかな。
誰にも助けを求めず、誰にも知られることなく、時間を遡って、見ず知らずの人を助けて……
「行きましょう……伊能製薬に。」
「あぁ、誰も生まれず誰も死なねぇ世界に意味も興味もねぇ。」
「……決まりね。」
「伊能製薬への侵入経路も手段も私が全て握ってる!貴方達は友達を助けるため、私は伊能製薬の闇を暴き、新世界を阻止するため!……いくわよ!」
「はい!」
これがきっと、最後になる。
先輩も東も響歌もいない、最後の戦いが始まる。
待っててくれ、先輩!もう、貴方を一人になんてしない!
伝えに行くんだ……!生きる希望を……!
時刻はもう午前二時に差し掛かり、夜風が肌を吹き抜ける、凍える夜だった。
俺達はついに、全ての元凶、伊能製薬本社に到着した。
たかが製薬会社だが、この規模は凄まじい。ガラス張りのビルが、天高く聳えている。この都会の景色の中では平凡な施設の一体どこに、人を捕えたり、得体の知れない薬を大量に保管する場所があるのか……
「信仁君、遥歌、この先に何がまちかまえていても、薬を持ち帰ることだけを考えて行動しなさい。もし見つかっても、絶対に止まらないで。」
「うぃ、わかりました。信仁にもし何かあっても、アタシが何とかしますんで。」
頭をわしわしするな。
「じゃ……着いてきて……!」
身震いを一つ。スイッチが入ったような感覚だ。
金庫を見つけたらぶっ壊して薬もってすぐ逃げる。
これだけの事だ……大丈夫。
清美さんがカバンから取り出したのは……会社員がよく首にぶら下げてる名札?だった。あぁ、あれか、かざすと開くのか。
開いた。エントランスの自動ドアが、よく響きながら開く。
こんな正面からで平気なのかよ……!
「この時間、警備は比較的手薄なはず。“地下”までの道のりは案外楽に行けるはずよ。」
地下……やっぱりそんなものがあったか。
要所要所に現れるドアを次々開放し、地下へと下っていく。
「もう少しで金庫よ……!」
ここまで怖いくらい順調だが……ここからが正念場だな。
壊せるぐらいの金庫だったらいいけど……!
「……!人の気配だ……!」
遥歌さんが何やら感じ取った。人の気配……俺には全くわからない。生き物すら住み着いてなさそうなこの静けさに、人の気配なんて……
「あった!金庫よ!」
「っし、どの道ぶち壊して逃げれば関係ねぇ!二人でやるぞ!信仁!」
「は、はい!」
右拳に、文字通り全身全霊を込める。
目の前には、鉄の巨大な金庫扉が堂々と存在していて、これを今から怖そうなんて頭のおかしな話としか思えないけれど……それでもやるしかねぇ!
「おおぉおおぁぁぁぁ!!!!」
うわっ!なんか出た!?ビリビリする……
この電流、時間を遡る時に青白い光と一緒に出るのと似てるな……
でも、こ!れ!な!ら!
「フンッ、負けてらんねぇな!」
あっつ!! え、熱い?
自分の感覚を疑った。隣の遥歌さんから物凄い熱量を感じたからだ。比喩でもなんでもない……
遥歌さんの拳が、燃えている!
「“燃える鉄拳”ってな。漫画みてぇだろ。」
……遥歌さんが主人公?
いや、ともかくこれなら、この扉なんて軽々ぶっ飛ばせるぞ!
「いくぞ!信仁!でりゃァァァァァ!!!」
「うぉおおおぉぁぁぁぁぁ!!!!!」
「すごい衝撃ね……」
ほとばしる電流、燃え盛る炎、二つのコントラストで、見事金庫は跡形もなく消し飛んだ。
煙の中から、間もなく姿を現したのは、棚に几帳面に保管されたおびただしい数の試験管だった。
中にはなにやら、緑の液体が入っている。
「あれが……!」
「とりあえず、分量もわかんねぇし持てるだけ持ってとっととずらかるぞ!」
持ってきた袋に、ありったけを詰めて紐口を締める。
あとは逃げるが勝ち……!
「こっちよ!」
清美さんの先導に従い、薄気味悪い研究室の廊下を駆ける。
『侵入者、侵入者、全シャッター、閉鎖。』
けたたましく鳴り響くサイレンと共に、目の前のシャッターが閉まりきる……!クソッ!後ろも……!
「あの金庫が壊せて、シャッターが壊せねぇわけねぇ!突破するぞ!」
「そうっすね……!」
さっきと同じように、強引にぶち破る。
今のところ暴走の兆しはない。この調子なら、先輩を救える……!
「まて、誰かいる……!」
遥歌さんの言う通り、できればそうなって欲しくなかったが、確かに向こうに人影があった。
長身の……男性か?
人に向けた暴力は得意じゃないが……やるしかないのか……!
「ガキ。その薬を盗られては困るな。」
「てめぇ、誰だ。」
「ここの責任者の“新川”だ。見たところ患者だな。厄介なネズミが入り込んだものだ。なぁ?狩野。」
新川……!!この人が、新川祐一……先輩の実の父親か……!
先輩の血縁者とは思えない口調だな……
「狩野、計画はもう大詰めだ。私はこれから個人的に社長の下へ向かうが……?」
「……えぇ、待たせたわね。同行するわ。」
「え……?清美さん……?」
「騙してごめんなさいね。私、最初からこっち側なの。」
男の方へ向かう。俺たちに踵を返す。
嘲笑うようなことも無く、一切表情は変わっていない。
「あぁ、あとそれ、ただの色つけた水だから。ご苦労だったわね。」
裏切られた、というより、俺達が馬鹿だったのかもしれない。
初めから踊らされていた。……悔しいという気持ちを通り越して、ひたすら虚無があった。
「信仁君……君は私達の志す世界を一蹴したわね。まぁ、それも当然。貴方達みたいな子供に分かるはずもないわ。」
「当然ですよ……!だって、だってなんの意味があるんですか!そんな世界に……!」
ほら、やっぱり分かってない。と、呆れる。
煙草を吹かして、冷たく見下す。彼女はもう、俺達の明確な敵だということははっきりと分かった。
「死を克服することの素晴らしさ……それに比べれば、これから生まれる命などなんの価値もない。人口を安定させ、死の概念を乗り越える。新世界こそ、人類の最終定義なのよ。」
「清美さん……」
遥歌さんが距離をとったまま、口を開いた。
俺よりも前からコンタクトを取っていた彼女のことだから、思うところがあるのだろう……
「人は死ぬぞ。絶対、何があっても。」
「はぁ?だから人が死なない世界を創るんじゃない。あなたも所詮は落ちこぼれの不良少女。冷静なふりをしても頭は回ってないみたいね。」
「清美さん……!それ以上遥歌さんを馬鹿にしたら……!」
「よせ。慣れてる。」
激昂する俺を制止して、緊迫した空気のまま清美さんを睨む。
いや。睨んでなんかない。問いかけるような眼をして、同時に何かを訴えているように見える。
「そんなに死ぬのが怖いか……?」
「なんですって?」
「わざわざこんな力使わせてまで、死にたくねぇ死にたくねぇ必死に足掻いて、そんなに死ぬのが嫌なら……自分らで勝手に薬でもなんでも作って生き延びてりゃいいだろ。」
「お前達のそんっな下らない最終定義とかやらに……必死に生きてる人間を付き合わせるんじゃねぇ!!!!!」
夜の静寂に包まれる空間に、怒りの声明が響き渡った。
遥歌さんの意志に呼応して、また激しい勢いで炎が燃え上がる。
「……このガキ、研究室ごと燃やす気か……!?」
「いずれ来る死が怖いなら……今ここで殺してやるよ。」
!?遥歌さん!?それは、それはダメだ!そんなことをしたって……したって……したら、計画も阻止できる。
七彩を脅かす存在もいなくなる。
『そうだよ。アイツらムカつくだろ?殺しちゃえよ。』
ダメだ……!考えるまでもない!清美さんは俺の母さんの親友で、あの男は先輩の父親だ!
ここでこの人達を殺しても、何の解決にもならねえ!
「遥歌さん!!!」
「ほう……?そっちのガキは少しは分かるみたいだな。おい!女!これを見ろ……」
研究室のモニターに映し出されたのは……間違いなく、新川七彩だった。実験台にベルトで繋がれ、意識を失っている。
「それを止めろ……こいつを痛めつけてほしくはないだろう?」
……頭が真っ白になった。こういう時のことを言うんだな……何も思いつかない。
“なんで”がひしめき合う。いっぱいになった頭がパンクして、白紙になる。
「こいつは貴重なサンプルなんだよ……能力者の中でも希少な“時間旅行”を可能とする!これほどの力があれば、こいつを媒体にして新世界をより効率的に創り上げることができるのさ!」
「……チッ、クソ野郎!!娘をなんだと思ってやがる……!」
七彩を……
「我々は既に、人為的に能力者を作る薬の開発に成功している……!これを生きる価値もない社会のゴミ共に打たせ!エネルギーを送り込めば!膨大な力によって人体のルールそのものを書き換えることが出来る!!」
七彩を…………!
「素晴らしいだろう!?ゴミですら効率よく利用してやるのだ!時間はかかるだろうが、世界中の人間を不老不死に出来るほどの力は確実に生成できる!!!こんなことが可能なんだよ!患者にはなァ!!」
七彩を……!
「七彩をそんなことに使うなァァァァッッ!!!!!!」
────後悔を、無くしたいんです。俺のように後悔に苦しむ人は、たくさんいるはずだ……──────
───頑張ろうね!しんじ君!
後悔解消部……先輩……東……響歌……
みんな……みんな!!
「うぉぉぉおおおぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
「……!?このガキ……!なんて力だ……!!」
「檜野一颯……川村信仁……やっかいな子供ね……!」
ある。意識はある。感覚もしっかりしている。
ただ一つ、問題があるとすれば。
今までは靄だった子供が、はっきりと見えることだ。
『ぼくを、みて。』
攻撃的な性格だった子供は見違えるぐらい貧弱に、怯えながら俺を見る。
俺は、僕だ。僕は、俺だ。
檜野一颯は川村信仁。川村信仁は檜野一颯。
なにも拒むことなんてなかった。もともと俺は俺だろう。
そうだよ。僕は……僕だよ。
────君は、弱いね。
おやすみ。
「収まった……凄まじいわね。ひょっとしたら新川七彩と同等……いや、それ以上かも。」
「……それはどうも。」
清々しいな……状況は芳しくないけれど、体は動くし、頭も働く。
「何かしら……雰囲気が変わった。別人みたいね。」
「……! まさか……!信仁!」
「信仁なら眠ってるよ。」
「テメェ……!!」
「……ガキ、二重人格か……?」
「さっきまではね。」
このおじさんも、おばさんも、馬鹿みたいなこと考えるもんなだなあ。
不老不死なんて、何が楽しいんだか。
「おいクソガキ!信仁を返しやがれ!!」
「いやいや、まってよ。誰も敵だなんて言ってないだろう。……それよりも今は、この状況を何とかするべきだろう?」
「チッ……!」
「ねぇ。おばさん。おじさん。」
「あら、いきなり失礼ね。」
うるせぇなぁ……いちいち反応してないと気が済まないのか。
こんなヘタクソな芝居うってまで、全くどうしてここまで死に怯えるのか。
冴嶋の言うことも分かるよ。こればっかりは。
「七彩がいるの、ここじゃないでしょ?どこ?」
「フン。さぁな。」
「どこ?」
人が聞いてんのに煙草に火付けて……聞こえないのか?耳が遠いのも無理ないな。その歳じゃあ。
「どこ?」
「しつけぇぞ。言わねぇつってんだろうが……」
だからさぁ。
「ゔがぁっっっ!!このガキ……!!!」
「言えっつってんだろ?」
「ちょっと……腕折れて……!!」
「もいでないだけマシだよ。もう一回行くか、言うか。まぁ別にここで殺してもいいけど……ねぇ?」
何をやっているんだろう。僕は。
掌に伝わる肉のはち切れる感触が、僕を返って冷静にさせる。
前ならきっと、すぐにでも殺したはずなのに……
「クッ……いいだろう……!そこまで知りたきゃ教えてやる……!全ての人類にエネルギーを注ぐんだ……なら、高い場所にエネルギー源を置くのは必然……!」
「へぇ?」
「今は某所に拘留されているが……計画実行の日、七彩は“東京スカイツリー”の六百メートル付近に特別な装置とともに括り付ける!その日は伊能の人間だけでなく、貴様らにとっての諸悪の根源である“社長”もお見えになる……!」
社長……?随分出し渋ったじゃないか……
ここまでぶっ飛んだ計画を立てる組織のボスだ……多分、能力者かな。
「七彩を救いたいなら、そこに集まった人間を全て殺せばいい……!明日の夜九時……!計画は実行される……!ただでさえ人が集まる時間だ……私達にとっては都合がいい!!」
余程自信があるのか……脅したとはいえペラペラしゃべるなぁ。
信仁が目覚める前に……片付けるか……!
「このクソ野郎が!!!!アンタ七彩の親だろ!!!娘になんてことさせやがる!!!!!!」
冴嶋……アンタの親も、そういえばクズだったな。
「フン……私はむしろ、崇高な計画に我が娘が役に立てて光栄だよ……!未来から来たガキが、我々にどこまで太刀打ちできるか……社長は楽しみにしていらっしゃる。」
「そうか。じゃあ社長にも言っといてくれよ。」
「なんだ……?」
ここまで付き合わされたんだ……五歳で死にかけて、十一年……十一年もかかった……!
巫山戯た喜劇は終わりだ……
「絶 対 ブチ殺す。」
「フン、伝えておこう……」
「戻ろう冴嶋、今はいがみ合ってる場合じゃない。」
「クソガキ……!信仁に何かしたら……!」
「冴嶋、協力してもらわないと困るな。信仁の為にも。」
「チッ……」
未だ燃え盛る研究室を後にして、いよいよ、最終演目の幕が上がる。
長かった……赤の他人として生きてきた屈辱の十一年……!
そして……僅かでも思い出に残ってしまうあの数ヶ月。
信仁、君が本当に新川七彩を救いたいなら……
───────僕を超えてみろ。
以下、後日談。
というより……最後の夜。
敵の明確な目的、計画の実行日、そして敵のトップ。全てが明白になった。あっちも渋る必要はなくなったのか、言ってしまえば清々しそうなものだった。
“全ての人類の生死の概念を破壊する。”
奴らの掲げる新世界の人間は、生きながらにして死んでいる、ともとれるし、死を克服した超人類ともとれる。
……川村信仁は眠りについた。僕を救うと言ったあの男は、最後まで全てを救えるはずだと信じて疑わなかった。
あれが自分なんて……なんて面白い。
信仁、君はやる時はやる男だ。十一年間、僕は屈辱に塗れながらも、憎悪に苛まれながらもそれを見てきた。
だから最後も、せいぜい足掻いてくれよ……
君がここで終わるのは、あまりにも刺激がない。
せめて君が君として生きた十一年。その答えを出してみろ。
その答えが間違いに固められたものでも、誰しもが絵空事だと笑っても、欲望だらけの理想論でも!
僕は腹を抱えながら、笑って肯定しよう。
愚かな男の結論が、いかに愚かなものか。
今から楽しみだよ───────
─地下室─
七彩がくれた力と、七彩が遺した想い。その重みが、この拳に詰まってる。アタシは……一度死んだ。
死ぬってことは、確かに終わりだが……
「なぁ、クソガキ。」
「なんだい?」
「お前は、何がしたかったんだ。」
「なんで過去形?僕がしたいことは、今も変わらないよ。」
信仁が本当に乗っ取られちまったのか、アタシには分からない。けれど、今こいつを心の底から敵対視することは、出来そうにもなかった。
それほどこいつが、アタシの想像以上に、“川村信仁”の面影を残しているからだ。
「能力者が世の中に溢れていることは知ってた。だから、一番強い能力者の力を取り込んで、完全に檜野一颯として、蘇る。それが僕の、今も変わらない目的だよ。」
「そうかよ……その一番強いってのは、七彩のことか?」
「違う。僕が捕まっていた十一年前、未だに感じたことの無い強力な存在感を目にしたことがあった。」
「……は?日本語勉強しろよガキ。」
何言ってんだ。存在感を目にした?
知能五歳のまま止まってんじゃねぇのか。
「存在感は、謂わばオーラだよ。圧倒的なオーラが、ただそこにあるだけで、僕の心を襲った。要するに、めちゃくちゃ怖かった。」
「んだよ。最初からそう言え。」
「それが多分、社長。」
「マジかよ……!?」
またサラッと重要なことをいいやがる……!
今まで一回も会話に出てこなかったくせに、社長ってのはそこまでやべぇ奴なのかよ……
「君の力が珍しく、また強力なのもわかった。けど、君一人でも、僕一人でも、あれは無理だ。だからいがみ合ってる場合じゃない。君が協力してくれないと困るのは、そういう事だ。」
いよいよ……最終決戦って訳か……
「ねぇ……僕は確かに僕なのに、君や新川七彩が大切に思えて仕方ないんだ。」
「ほう……?」
「大切なもののために戦うとか、救うとか守るとか。虫酸が走る。……でも、分かってしまうんだ。信仁はそれほど、強く君達を思っているんだろう。」
やっぱりこれだ。嫌いになれない理由は……
信仁はまだ、終わっちゃいねぇ。
「だから、僕自身も答えを探してみるよ、冴嶋。信仁の出した答え……それは僕の答えでもあるけれど、僕は僕として生きた証が欲しい……!」
「だから答えを求めるのか。」
「……社長は殺す。生かしておけないからね。」
この非常さ、ガキが持っていいものじゃねぇ。
本当は、本当はただ愛されたかっただけなんだろう。こいつも。
こいつにもし“後悔”があるとすれば……
それはきっと、自分を見失っちまったことだ。
素直になれないのは辛い。アタシには痛いほどよく分かる。
もういい時間だ。
アタシはもう死んでるけど、こいつは生きてる。
生きてる限り、続きはいくらでもある……
なら、アタシはこいつの味方だ。
生も死も存在しない世界に、明日はねぇ。
待ってろ七彩。絶対、助けに行くから。
─────みんなと一緒に……
次回最終回です。




