「今するべきこと」
胸に滾る、この想い。
いくつもの感情が、複雑に混ざりあって、絡み合って、熱く滾っている。
必ず救ってみせるという使命感。
これからどうなるという不安感。
何故今まで黙っていたのかという怒りに近い疑問。
そして、あの人に対する少しばかりの恋慕。
それらが今の俺を構成する。そして、半透明の俺が、その感情の中で蠢く。いつ崩れてもおかしくないバランスを保つように、皆のことを思い出す。
母さん。父さん。兄さん。東に華蓮ちゃん、響歌に……遥歌さん。学校の皆だって、今となっては懐かしい。
最後に、先輩。
あの人の言葉を思い出す度、体の内が温まる。
決意はもう固まっている。過去に戻ることで、銀の輝きを取り戻した懐中時計を、強く、しっかりと握りしめた。
時刻は朝の五時を示している。予定通りだ。
力強い一歩で校門に足を踏み入れた。こんな勇んで学校に入るのは、初めてだ。
────清条高校事務室────
いた。朝五時だというのに、熱心に事務作業に取り組んでいる職員が一人。
この人は現代でも真面目なことで有名だから、二年前にもひょっとしたら、って思ってかけてみたけど……上手くいった。
「すみません、この学校に転入したいんですけど、あ、試験とかは面倒なので受けたくないです。」
「……は?え?転入?だってあなたもう制服着てるじゃない。え?」
「……お願いできますよね。」
「は……はい。転入……編入試験はなし……」
職員の目が虚ろになる。卑怯極まりないけれど、催眠能力を使わせてもらった。先輩が使ったところは見たことがないから不安だったけれど、これも上手くいった。
これで少し早い進級だ。
「あ、あと、“新川七彩”さんと同じクラスにしてください。担任の名前も教えてくれますか。」
これが一番重要だ。先輩と同じクラスじゃないとここまで来た意味が無い。……気持ち悪いけれど、常に見張ってなきゃ。
あの人がいつ死ぬか、分からないから。
「二年二組ですね……担任は……阿川晋平先生ですね……」
ただ俺の頼みだけを受け入れる、ほぼ操り人形に近い状態にしてしまったことを、今更ながら申し訳なく思う。
……先輩は俺にとってヒーローだった。弱きを助け強きをくじく、正義の味方だった。
先輩が正義の味方なら、俺は目的のためなら手段は選ばない“悪の敵”とでも言ったところか。
悪の味方じゃなくて、かといって完全な正義でもない、悪の敵という曖昧な立場が、今の俺にもっとも近い表現だと思う。
「ありがとうございます。……少しお休みになられてください。無理は禁物です。」
これから無理をする人間が何を言う。
人に無理をさせておいて何を言う。
「え……あ……はい……」
職員さんはその場に倒れ込んだ。
この位で罪悪感を感じていては、先が思いやられるけれど、攻めてもの気持ちで、働き詰めのこの人にひと時の休息を……与える、なんて偉そうな言葉では言えないけれど、椅子に身体を移して、
背もたれにかかっていた毛布をかけて、その場をあとにした。
現在、午前五時半。
学校が始まるのは恐らく八時二十分あたりか。
日付は二千十六年、一月十七日。三学期の始業式だ。
わざわざこのタイミングに合わせてこの時代に来た。転入生が不自然に思われないタイミングかつ、クラス内での関係が完全に決定しているのはこの時期しかないだろうから。
屋上に立ち入る。
冬は夜明けが遅いので、まだ暗い、夜みたいな朝だった。
錆具合なんて現代とさして変わらないいつもの梯子を上って、換気扇の隣にゆっくりと腰を下ろす。
ぼちぼち目覚め始める街を望みながら、その時をまつ。
手続きは強引に済ませても、教師達は認知していない。
どうしようかな。
思案するけれど、またもや強引な策しか思いつかないし、実際それしかない。また催眠で……
考えているうちに、何だかこっちが眠くなってきた。
そうだ、寝過ごせばいいじゃないか!
何を言ってるんだ、と思うかもしれないけれど、これはいい案だ。なにより“慣れてる”。ここで仮眠をとって、ホームルームが始まる時間帯に起きて急いで教室に入れば、全校生徒の前で目立つことは無い。
つまり、催眠能力を使う対象が大幅に減るのだ。(結局使うんじゃないか。)
この作戦で行けるのか、もう一度具体的な構想を練って考え直してみる。そもそもこんなぶっ飛んだ能力が介入する時点で、具体的もクソもないか。
よし、まぁ、いいや!(!?)
失敗しても、何とかカバー出来るぐらいのものを俺は持っている。……使いすぎると、“僕”のほうの俺が目を覚ますのかもしれないけれど、まだ二回目だ。
強行突破でしか行けないならそれしかない……
!?
寝ていた。いや、寝たんだけど。
そうだ!時間!
時刻は八時半だった。おいおい。
「あぁ……」
つい息が漏れる。いや、ぐずぐずしている暇はない。
催眠をかけるだけ。それだけのクソ作業だ。胸糞の悪い作業だ。
何も完全にかける訳じゃない。“俺が来た”ことを不自然に思わないレベルのものでいい。
急ごう。早くしねぇとホームルーム終わるぞ……!
二階、二年二組。あった。
ダン!と大きな音を立てて扉を開ける。
先生も生徒も、目が点になる。明らかに話の途中だったようだけれど、皆が俺に目を奪われる。
「ごめんなさい!!!」
思いっきり手をかざす。俺には見えるけどこの人たちには見えていないだろう赤い波紋が広がった。
波紋は消え、沈黙が場を支配する。
目も合わせられなくなって、瞼を全力で閉じて下を向いた。
「おぉ、君転入生の。なにやってんの。ほら、入って入って。」
阿川晋平。少なくとも現代では聞いたことの無い名前だから、この時代辺りで異動になる先生だろう。
朗らかに、おおらかに、俺を迎え入れた。多分催眠なんかかけなくても、この人はもともと優しいのだろう。
「えぇ!?マジ転入生!?」
「男じゃねぇか!!」
「……ねぇねぇ、意外とイケメンだね。」
叫ぶ男子、耳打ちをする女子。
悪い話は聞こえてこなかったから、ひとまずは、何とかなった。
担任にあやかっているのか、いい雰囲気じゃないか、と思う。
よかった……
「ほら、自己紹介、自己紹介。」
「え、っと……川村信仁といいます。信じるに仁義の仁です。少し変わってますけど。運動は結構できます。本も読みます。音楽もよく聴きます。よろしくお願いします。」
できるだけ多くのことを喋った。有利になりそうなものは全部ぶち込んだ。
「おおおぉ!!よろしくな!信仁!!」
「よっしゃあ!晋ちゃん!今日はパァーッとやろうぜ!」
「はいはい。座れ座れ。続きやるぞ〜。」
「……ねぇねぇ、結構スペック高くない?」
「……ね、意外とタイプかも。」
え、まじで。
と思ったのはさておき、歓迎されているようで何よりだった。催眠かけてたこと、忘れるぐらい。
あのまま催眠をかけずに転入生を自称しても、受け入れてくれそうなぐらい、温かかった。
そしてやはり、と言ってはなんだけど……
先輩の姿はなかった。
何となく予想はついていた。自殺をするぐらいだ。
学校に平然と登校できる精神状態だったなんて、最初から思ってない。余裕で想定内。
まぁ、見たいものは見れた。またここから思案と画策と実行の連続だな。
結局、この日は始業式だけあって、すぐに解散になった。
ホームルームが終わった後、質問攻めが絶えなかったけれど、嫌な感じはしなかったし、友達を作っておくに越したことはないので、一つ一つ、いい人間を演じてしっかり答えていった。
まだ視線やら話し声やらでチヤホヤされる中、知らないフリをして昇降口についた。まぁ、帰る場所は……あの地下室でいいか。遠いけど。
「あれ、もう帰っちゃうの?えっと〜……“仁義”君!」
信仁だよ!
なんて芸人らしいツッコミを入れてしまうとこだったじゃねぇか。
突然ボケをかましてきた声の主は、メガネでポニーテール、首に真っ赤なヘッドホンをかけた、そこそこというか結構美形の女子だった。
「いやいや、信仁だよ。」
結局言っちゃったよ。
「あ。そうだったそうだった。なんて、わざとだけど。」
……。
何だこの先輩みたいなキャラ!?こんなのいたのか!?
「ねね、一緒に帰らない?私帰宅部でなぁぁぁぁんもすることないの!暇なの!だから暇つぶし付き合って!」
完全に先輩じゃん。
自分の都合で予定を決定してしまうところとか、大げさな大声とか、あざとさとか、なのに妙にかわいいところとか、
先輩じゃん…………
「俺なんかでよければ、いいよ。なにすんの?」
聞きたいこともあるし、仲良い女友達ができれば、今後かなり有利に進みそうだ。なにが有利に進むのかわからないけれど、まぁ、この人に少し興味もあるし、とりあえず同伴することにした。
「じゃあね〜……ゲーセン!」
声がでかい。不快ではないんだけれど、でかい。
胸も、でかい。
帰路、ではなく、寄り道を共に歩く。
いやしかし、見た目は違えど中身がここまで似ていると、他人の気がしない。
「お、私に興味ある?」
凝視してしまってたので、気づかれる。
「いやてか、名前教えてよ。俺君のこと全然知らないんだけど。」
そう。俺の中ではこの人は、未だに“突如現れた謎の少女”だぞ。
「あ、ごめんごめん。私、石動佳奈と申します。よろしくお願い致します。」
アナウンサーみたいな口調で名乗った途端、俺の前に立つ。
「佳奈と呼べ。」
ニヤリ、という音が聞こえるんじゃないかと思うほど不敵な笑みを浮かべて言った。ズイズイ迫ってくる。
「か、佳奈……」
響歌のおかげで、多少女子の呼び捨てには慣れたつもりでいたけれど、やっぱり恥ずかしい。恥ずかしいというか、きまりが悪い。
直視して呼べるほど肝は据わっていなかった。
「仁義君、可愛いとこあんじゃん。」
「あ、ありがと。」
なんで俺が女子みたいになってんだよ……
この調子が狂う感じも、先輩といる時と一緒だ。
冬の日差しは、なんとも虚しいものだ、と思った。
あんなにも強く照っているのに、全く暑くないのだから、この日差しはなんのために、ここまで俺達を照らすのだろうと、よく分からないことを、よく分からないまま考えて片付けた。
先輩……あなたがいないと、俺はまるで抜け殻のようになってしまう。俺はそれが、少し怖い。
「なに。ボーッとして。」
あ、そうだった。俺は今一人じゃなかった。忘れてた。
「いや、なんでも。」
嘘をついた。この子は先輩に似ているから、ひょっとしたら、本当にひょっとしたら、見抜かれてるかもしれないけれど、それはそれで良かった。
心のどこかで俺は、この孤独に、虚無感に気づいて欲しいと願っているのかもしれない。
「目、悪いの?」
順調にゲーセンへと向かう途中、気を取り直すように、何となく聞いてみた。
「ううん。ダテ。」
あっさり。
「え。なんで。」
「いやぁ。めっちゃ仲良い子……いやいや、仲良くなりたい子がメガネかけててさ。真似っ子。近づけるかなぁ〜って。」
メガネかけただけで友達になれる訳ないだろ……なんて思ったけれど、やけにその仲良くなりたい子が気になったので、
「仲良くなりたい子って、だれ?」
と聞いてみる。
「いやぁ、言ってもわかんないっしょ?」
「それはそうだけど、気になるじゃん。」
「えぇ……まぁいいや、同じクラスの子なんだけどね〜。“新川七彩”っていう子。」
まるで今まで静止していたかのように落ち着いていた心臓が、一気にはねあがった。身体の内から物凄い熱気が、ほんの一瞬だけ込み上げてきた。要するにかなり驚いた。
嘘だろ。めちゃくちゃよく知ってる人じゃないか。
てか先輩二年前はメガネだったのか……
「へ、へぇ。その人とは、なんで仲良くなりたかったの?」
必死に他人のフリをした。冷静さを保とうとすればするほど、聞きたいことが際限なく溢れ出す。
「……すっごいんだよ。その子。」
「え?」
溜息混じりだったけれど、呆れた様子じゃなく、むしろキラキラと目を輝かせながら、何かに感動しているように言葉を漏らした。
「なんっっでもできるの。勉強も運動も料理も全部。ほんとに全部。おまけにちょーーーー美人!」
石動佳奈は、拳を握りしめて熱弁する。
子供がヒーローを語るときのような目で、新川七彩を語る。
「目の前に、神様がいるんだって思った。私達はきっと、みんな不平等を感じてたと思う。それほど七彩ちゃんは完璧で完全だったの。」
完璧で完全。天才美少女。
超能力なんかなくたって、最初からあの人は“チート”だったのか。
「その人って、結構自信家だったりした?」
なんだか急にニヤニヤが止まらくなってしまった。
先輩は俺にとっても、ヒーローだったから。
その先輩がこうして、別の誰かにも尊敬されているのを聞いたら、上手く言えないけれど、胸の高鳴りが抑えきれなかったのだ。
「いや、全然。私達とは殆ど喋ってくれなかった。」
思わず笑みが消える。
それと同時に、先輩が教室にいなかったことを思い出した。
普通の精神状態じゃない。と俺は言ったけれど、そもそも、俺は二年前の先輩の“普通”を知らない。
「だから余計、私達凡人とは違うんだって思った。話しかけても、無視ではないんだけど、全然こっち見てくれないし……」
二年前と俺の知っている先輩とじゃ、根本的に違ったんだ。
先輩の後悔についてずっと考えていたけれど、少しだけ、その答えに近づけた気がする。
ほんの少しだけだけれど。
「……それだけすごかったなら、嫉妬、とかってあった?」
「あったよ。それもすごかった。」
あぁ、やっぱり。
聞かなくてもわかる。言われなくてもわかる。
多分先輩が学校に来ていないのは、耐えられなくなったからだろう。
嫉妬なんて、能力の高い人間にしか抱かれない。
でも生まれ持った能力なんて、望んで手に入れたわけじゃない。
このジレンマが、先輩を苦しめた理由だとしたら……
そしてもし、温厚にみえたクラスの人間がそれを加速させているとしたら。
このクラスの人間は、極端にいえば全員俺の敵になる。
とは言っても、まだ決まったわけじゃない。
平和的解決で済むなら、それが理想だ。その鍵を握るのも、俺自身だ……
「あ、ゲーセン着くよ。ねぇ!仁義君って音ゲーできる!?スコア勝負しようぜ!」
石動佳奈は、いや、佳奈はとっとと行ってしまった。本当に先輩みたいだな……
もしかして、佳奈にあやかったのか……?あの性格。
元凶はこいつかよ……
それから俺達は割と長い間、ゲーセンで遊び倒した。
俺の歓迎会とかいって、いろいろゲームをしたけれど、結局金は全部俺が出すっていう、ふざけた歓迎会だった。
今度あったら殴ろうと思う。
何故だか分からないけど、プリクラも撮らされた。女子は出かける度にこういうの撮ってるし、まぁそういうテンションなんだろうけど、今日だけで貴重な資金がゴリゴリ削られた。
あと結局、俺の呼び名は“仁義君”で定着してしまった。
昔の漫画のキャラにもこんな名前はないんじゃないか。
「じゃ、私こっちだから!また明日ね〜!」
「……はいはい。じゃあな。」
佳奈は帰った。すっかり暗くなったし、肌寒い。
そっと財布を開く。溜息。
「まぁ、いいか。」
石動佳奈か。一緒にいる分には、退屈はしなさそうだし、仲良くなれそうだ。
『随分楽しそうだったね。』
────黙れよ。
どこからか響く声に、冷淡に返した。随分と大人しかったくせに、見てたのか。
『信仁も気づいてるんでしょ。今回は敵が多すぎる。前みたいな強行突破は無理だよ。』
────分かってる。お前はせいぜい黙ってろ。絶対出てくるな。いいか。
『さぁ?僕だって君なんだ。ただ指をくわえて見てるだけじゃないんだよ。』
────何をするつもりだ。
『言うわけないだろう。』
気味の悪い、気色の悪い薄ら笑いを浮かべて嘲るように言ったもう一人の俺は、檜野一颯は、少年から青年に成長しているように見えた。
相変わらずうっすらとしていたけれど、その稀薄に取り込まれそうになった。
地下室に帰ってからは、今日の出来事、そして気になったことを大まかに頭の中でまとめていた。
とりあえず当面の目標は、新川七彩を生きたいと思うような状態にすること。
まずそのためには、いろいろ考えたけれど、学校に来てもらうのが先決で不可欠だった。
二年前の新川七彩にとって、学校の環境は息苦しいものだということは、話を聞いていればわかる。でもかといってそこで逃げてしまえば、前には進めないし、最終的に自らの“死”を選んでしまうだろう。
だから、克服しなくてはならない。いや、するのは先輩だから、俺はそれを手伝うことになる。
と言ってもなぁ……まだ面識ないし、まずどうやって先輩と会うんだ。ゴールは見えてもスタートラインが分からない。
家とかどこに住んでたんだよあの人は。
……佳奈に聞けばわかるだろうか。知ってそうではある。
この際女子の住所を女子に聞くなんて、なんの気にもとめてない。やるからにはやらないと。
ひとまずは明日。わざわざこんなことしなくても、学校に来てくれればそれが一番いいんだけれど……
──翌日、学校──
来た。
え。来たんだけど。
あれ、そうだよね?
若干前よりも、いや結構前髪長くなってるけど、聞いた話の通り眼鏡もかけてるけど、そのサラサラしてそうなおさげの髪型だけはちっとも変わらない。
容姿端麗、才色兼備、能天気で天然で綺麗な新川七彩さんだ。
街中で有名人でも見た時のような興奮があった。
今すぐにでも、みっともなくしがみつきたいぐらい、また会えたことが嬉しかった。
「おはよ〜仁義っち。あ、え!?七彩ちゃんきてる!?」
佳奈も大きく跳ね上がったあと咄嗟に口を抑えた。このリアクションから察するに、やっぱり普段は滅多に来ないのだろう。
「俺、話しかけてみてもいいかな。」
「いっちゃえいっちゃえ!」
こうして目の前に何も知らない先輩がいると、なんて話しかければいいのか分からなくなる。
俺のことは当然知らない。後悔解消部も知らない。東や響歌のことも知る由はない。
「あ、あの!」
できるだけ明るい転入生を装って、人柄の良さを雰囲気でアピールした。おまけに満面の笑みもつけた。
「……なんですか。」
たったのこれだけで、この一言だけで、この人が本当に新川七彩か疑った。
目も合わせてくれない。凍りつくような低いトーンで切り返した。誰も寄せ付けないオーラをこの間だけで感じ取った。
怯むな。お前がこの先一番仲良くならなきゃいけない人間だぞ。
「俺、昨日転入してきたんだよ。川村信仁。よろしく!」
内心は恐る恐る、行動では素早く手を差し出した。
いやまぁ、初対面の(初対面じゃないけど)女子相手にいきなり握手、なんてする奴よく考えればいそうにもなかったが、先輩なら返してくれるだろうという変な信頼感が湧いてきて、そうしてしまった。
けれど、
「ホームルーム始まりますよ。」
目の前に俺の手があるのに気づいてないんじゃないか、ぐらいの冷たさで俺を払った。本当に羽虫を払うような態度だ。
あっち行けみたいな。しっしっみたいな。
次の言葉をかけようとしたけれど、程なくして朝の鐘が鳴った。
担任も生徒も、新川七彩が登校したことに驚いていた。
一見すると、珍しいものを見た。みたいな空気だけれど、よく見れば、女子は睨みながらコソコソ話しているし、騒がしい男子も、仲間同士で先輩を見ながら何か言っている。
転入初日とは打って変わって、嫌な空気だった。
「えっと……新川も来たことだし、新しい委員会決めるぞ〜。」
担任は黒板に委員会名を次々に書き並べていった。
その間に前の席の二人がクラスのネームプレートを配る。
「あ、川村は直接書いてくれ。」
まぁ、ネームプレートがないのは分かってる。
……先輩は委員会入るのかな。めちゃくちゃ真面目そうだし、入ってもおかしくないか。
先輩に向けていた視線を黒板に戻すと、数ある委員会の中でも、“クラス委員”が際立っていた。
まぁ、俺のクラスでもやりたがるやつはそうそういたもんじゃなかった。クラスを毎回毎回纏めるなんて、面倒この上ないから。
面倒この上ないけれど、今後、先輩が登校しない時のことを考えると、このクラス委員が、一番自然に関われるんじゃないか?
学校を欠席することで貰えなかった配布物やらを、届けに行くついでに接触出来るかもしれない。関われるかもしれない。
おまけにクラス内での権力もある程度手に入る。
やってみる価値は十分にある。
黒板の前の人集りを潜り抜けて、クラス委員の文字の隣にあからさまに濃く自分の名前を刻んだ。
「お、おぉ。」
昨日転入してきたばかりなのに、クラス委員に立候補したことがよっぽど予想外だったのか、周りが呆気に取られる。
「本当にやるのか?川村。」
担任も今一度、眉をひそめて確認をとる。
「前の学校でもやってたんで!」
嘘だ。お前は委員会にすら所属しない陰気な人間だったろう。
しかし俺があまりにも元気よく言うものだから、みんな信じ込んでしまったらしい。
「仁義君、やるじゃん。」
席に戻ると、佳奈が待ち構えていた。他の皆同様驚いていたようではあったけれど、やはりどこか予想の範疇みたいな顔をしているので、この人も何を考えているのか分からないものだった。
「まぁね。」
黒板を改めて見直すと、羅列した委員会の隣に続々と名前が貼られていって、委員会決めは順調に進んでいるように見えた。
……先輩は依然として、席から微動だにせず、読書で自分の世界を築いていた。
というか、誰も寄せつけない壁を作っていた。
「何読んでんの?」
「……静かにして貰えますか。」
「俺も本結構読むよ。」
(これは本当)
「そうですか。」
会話が続かない。あの先輩相手に会話が続かない。
こうも性格が違うと、調子が狂うのを通り越して、心が折れそうになった。
脳裏に先輩の最初で最後の泣き顔がよぎる。
こんなにも何とかしたいのに、こんなにも今先輩がいることが嬉しいのに、距離感はいっこうに縮まらない。
少しばかりの焦りを覚える。
なんとか繋げようとしたところで、鐘が鳴る。
「続きは二時限目で決めるぞ〜」
担任はそう告げると、資料やら名簿やらを抱えてさっさと出ていってしまった。
なんでかそれに気を取られていたら、いつの間にか、新川七彩がいなくなっていた。
「あれ。」
「仁義君?どったの。」
「新川さんどこいった?」
「んー。さっき階段登ってくのみたよ。他の学年に用事でもあんのかね。」
「階段……やべぇ……!」
しまった。
まずい、これはかなりやばい。
あまりに唐突で、急展開だけれど、もしそうなら……!
今日が新川七彩の命日かもしれない!
なんだよ!全くそういう気配もなかったろ!
全力で階段を駆け上がる。横目に見た他の階に、新川七彩はいなかった。
手すりを伝って、つま先からナイフのように切り込んで登っていく。
急げ、急げ、急げ、急げ────!
階段の先に見えた扉を、体当たりでこじ開けた。
勢い余って倒れ込むのも構わずに、直ぐに立ち上がって走り出す。
走り出そうとしたけれど、
新川七彩はそこにいた。
何をする訳でもなく、屋上にただ一人、ぽつんと立っていた。
「え……」
と先輩。
「え。」
と俺。
「……どうしたんですか。」
「い、いやぁ。なんていうか。」
「……つけてきたんですか?」
「つけてきたわけじゃ……」
つけてきたよ。ものすごい勢いでつけてきたよ。
「お、俺、屋上好きなんだよね。前の学校でも気に入ってたから、ここはどうかなって。」
スラスラと流れ出るように言い訳が出てきた。
即興にしては割りといい出来だと思いたい。
「そうですか。」
全く興味無さそうに、目も合わせずずっと向こうを見ている。
本当に何もかもが正反対すぎて、複雑な感情が溜まりに溜まってストレスに変わっていく。
「……また…………」
先輩が何か呟いた時、ハッとする。
数ヶ月前の俺も同じようなことがあったじゃないか。
『また死ねなかった』
……急いでここに来て正解だった。俺には一瞬の油断も許されていないことを、改めて自覚した。
今の先輩は、謂わば爆弾のようなものなのかもしれない。
いつ爆発するか分からない。
防ぐには、俺が常に気を張っていないと……
「授業始まりますよ。」
「あ、うん……」
そそくさと行ってしまう。気付いてないとでも思ってんのかよ。
あなたは絶対に死なせない。約束したんだ。
「ちょっと待ってよ。」
「…………しつこいですよ。」
「今からどっかいこうぜ。」
突拍子がないなんてもんじゃない。
でもよく思いついた。学校を抜け出すぐらいのこと、今となればなんてことはない。
なんなら今日一日中だってつきまとってやるさ。
それであなたが少しでも死から遠ざかるのなら、俺はそれでいい。
あなたがダメでも、関係ない。
心の底から死にたい人間なんて、一人もいないはずだ……
「……びっくりです。」
さっきから驚きっぱなしなのはこっちなんだけどね。
「私にそこまでしつこくするのは、あなたが初めてです。」
あなたもお節介だったくせに。
「処分が厳しかったら、責任とってくださいよ?」
いいじゃないか。自由の身だ。
「ほら!何処でもいいからさ!」
華奢な腕をとって走り出す。
なんだか自分でも先輩に似てきたなと思う。
でもこれだって、あなたがくれたものなんだよ。
あなたがいなければ、俺は生きてすらなかったかもしれない。
あなたの澄み渡る光が、俺を照らしてくれたんだよ。
だから、俺も同じようにあなたを照らすよ。
精一杯、後悔も消し飛ばすぐらい、照らすよ。
それが俺に出来る、唯一の恩返しだから────
学校の階段を物凄い勢いで下った。
涼しい風を体一面に受けて、校門を抜けた。
笑いが止まらなかった。先輩も少し、ほんの少しだけ笑っていた。
「新川さん!」
未だ風と共に走る中で、聞こえるように大声で呼んだ。
「名前で呼んでもいいかな!」
「……え!?」
「七彩ってさ!すごいいい名前だと思うんだ!だから俺、名前で呼びたいんだよ!」
平日の街中を走り抜けてこんな大声で言うのも、気恥しいものだ。
『七彩でいいよ。』
良いわけがないだろうと思ったあの時、本当は呼んでみたい気も僅かながらにあった。
そうだよ。ついでに俺がしたかったこともしてしまえばいいじゃないか。どうせなら、楽しくやりたいものだから。
その方が先輩も、気楽になれるかもしれない。
「…………別にいいですよ!」
学校からある程度離れたところで、立ち止まった。
「じゃあ、改めてよろしく、七彩!」
掴んでいたその手を離して、もう一度手を差し出した。
「よろしくお願いします。えっと……川村君。」
先輩は、小さい声で弱々しく俺の手を握った。
「信仁でいいよ。」
先輩相手にこのセリフを言うことになるなんて、思ってもみなかった。
ただ弱々しく、胸の内から不安がとめどなく流れ出ている目の前の人間に、親切にしてあげたいという気持ちがわくのは、初めて会った時の先輩も同じだったのかもしれない。
だから言う。
あの時と同じように。
「……え、じゃあ、信仁、君……」
今一度手を強く握り返して、真っ直ぐ“七彩”を見る。
やっと目が合った。
しばらく見つめ合うと、俺も七彩も、おかしくなって吹き出した。
随分回り道をしただろう。あの少女は。
誰にも助けてもらえず、誰にも見つけてもらえなかったあの少女は、錆びた時間の中に閉じ込められた少女は、
時空を超えた人助けの末に、ようやく、決められた運命から逸れ始めた。
まだスタートラインに立っただけかもしれない。
けれど、そのスタートラインに立てたということに、俺はまず大きな意味があると思う。
やってやるさ。必ず。
────東京都内、某所────
「プロジェクトの方は、順調に進んでいますね。」
「これで人類は、全く新しい領域へと足を踏み入れることになる。進化という概念すら超越した、新世界を築くことだってできますよ。」
「楽しみですなぁ?」
「────新川先生。」
───────────────
平日の朝方、街に人気はなく、道路もがら空きだった。
まぁ、制服で街をうろついているわけだから、お巡りさんやらに見られると、少々まずいのだけれど、今はそんな些細な不安より、二日目にして当面の目標を達成出来たことで胸がいっぱいだった。
「大丈夫でしょうか……やっぱり戻った方がいい気がしてきて……」
「七彩は心配性なんだね。」
笑いながら言ったけれど、いつもあなたの行動に振り回されて心配続きだったのは俺の方だぞ。
「し、信仁!……だって、クラス委員長になったばっかりなのに……」
「あ、そうだった。」
そんなほぼ一過性の感情で決めた役職なんて失念していたよ。
それぐらい頭が真っ白だったのだから、しょうがないじゃないかと自分を甘やかす。
まぁ多分、佳奈が何とかしてくれているとは思う。いや、そうでもないと後々少し困るので、どうか何とかしててください。
「七彩は、どこに住んでんの?」
聞きたいことは本当に数え切れなくて、何を聞いたら正解なのか、考えてはみたけれど、やはり、住所を知っておいた方がかなりアドバンテージを取れるという結論に至った。
まぁ、サラリと聞いてはみたものの、教えてもらえなければそこまでなんだけどね。
「あ、ここです……!」
「お、あ、えっ。あ、ありがとう。」
しどろもどろな口調になったのも、どうかわかって欲しい。
この時代の生真面目であの天然さも僅かに併せ持つ新川七彩は、生徒手帳に書き記した住所ごと手渡して来たのである。
まてまて、出会ってたった一日。しかもさっきまであんなに冷たかったのに。
「今度、七彩さえ良ければさ!お邪魔してもいい?」
普段なら、こんなこと意気揚々と言えないのだが、今回に限っては、相手が新川七彩という場合に限っては、かなり踏み込んだ。
先輩=屋上みたいなイメージは、今でも全く拭いきれていないので、そんな七彩の家に邪魔できると考えると、つい興奮して口走って閉まったというのもある。
「あ…………ごめんなさい…………」
そんな単純で単調な興は一気に冷めた。
まぁ、分かってはいたんだけれど、なんでか、ダメージが大きい。
「親が…………厳しくて………………」
きまりが悪いように、目を逸らして、ギリギリ聞き取れる範囲の声量で申し訳なさそうに漏らした。
あぁ、まだやること、いっぱいありそうだな。
そもそも終わったなんて一言も言っていない。
過去の先輩を死から多少遠ざけることが出来たぐらいで、何もかも終わるような話じゃない。
他人の家庭に雁首を突っ込むような真似は好かないが、万が一の時は、俺もどうにかしなくてはならないのである。
ぶらぶら、ふらふら、のらりくらりと彷徨ううちに、もっと人気の薄い細い裏道まで行ってしまった。本当、古臭い家が並び取り囲むような、湿った道だったが、むしろその雰囲気が、二人の会話を弾ませた。
「聞いていいですか……?」
「ん、どうしたの。」
「どうして、信仁は私に構うんですか?私なんて、隅っこの方でただ本を読んでいるだけの、オブジェみたいなものなのに……」
先輩が自分のことをオブジェと形容したことに、驚いてる場合じゃないんだぜ。川村信仁。
ちゃんと質問に答えろ。
「……そうだな。」
「え?」
「七彩さ、さっき、あの時、“死のうとした”でしょ。」
できれば、触れたくなかったし、蒸し返すようなこともしたくなかったけれど、かと言って、嘘をつく気にも、隠し事をする気にもなれなかった。
俺自身のことだって、聞かれれば全て答えるさ。
「…私なんかが死んでも、信仁はなんともないでしょ……?」
距離を置くような敬語が剥がれ落ちた。
「なんともないなんてことは、みんな、ないと思うよ。」
「みんな……?」
「うん。うるさいクラスのみんなだって、昨日転校してきたばっかの俺だって、七彩が死んだら、心に穴が空く。当たり前だと思ってた七彩が欠けて、みんなの一部も欠けるんだよ。」
自分が何を言ってるのか、先輩と出会う前の俺ではわからなかったと思う。今でこそこんなに偉そうにものを言うけれど、あの日自らの命を絶とうとしたときだって、こんなことはこれっぽっちも考えなかった。
同じだから分かる。同じ死のうとした人間だから分かる。
「そんなの、ただのぼんやりとした違和感ですよ……」
下を向いたまま、また敬語を被ってか細い声で弱気になる。
上手く伝わらなかったのか……あぁ、モヤモヤするなぁ。
こんなにも伝えたいことが溢れてくるのに、いざ口に出そうとすると、直ぐに自分の作った言葉の迷路に迷ってしまう。
「……俺は、七彩が死んだら悲しいよ。」
そうだ。だったら、真っ直ぐ伝えればいいじゃないか。
目を見て、真っ直ぐ。先輩がやっていたことだった。
いつも見透かされていたけれど、その分、よく見ていてくれた。
「……ありがとうございます。少しだけ、気が楽になった気がします。」
かなり曖昧な言い方だったけれど、心に響くまではいかなくても、心に触れるぐらいはできただろうか。
模倣してはみたけれど、やっぱり、言うことなんでも胸に来る貴方はすごいよ、先輩。
到底届きそうにない。
結局、その後は何だか気まずくて、さっきほど話は弾まなかった。俺達が学校を抜け出してから三十分程がたって、後一時間弱もすれば、長期休暇明けの短い学校が終わって、生徒達もぼちぼちうろつき始めるだろう。
それまでには、この意味があったか無かったかよく分からない愚行を、せめて善行にするぐらいの気遣いは見せておきたかった。
「なんか食べたいものとかない?奢るよ。」
思いつく気遣いがこれぐらいしかなかった。
こういう時って結局、金で何とかしようとするのが俺……というかほとんどの人間の悪い癖だと思う。
そんなことはさておき。
「大丈夫です……お構いなく。」
「いやいや、押し付けがましくて何だが、こういう時は素直に貰っておくもんだぜ。」
変に格好がついてしまったが、俺の知ってる先輩だったら、めちゃくちゃ高いチョコレートとか、そもそも食べ物に限定しているのに色々と物をねだってきそうである。
謙虚というか、一歩引くなんてものが、あの人にはないからな。
そういう点では、この時代の先輩は何歩でも引き下がるし、謙虚を謙虚で包んだような人だ。
それがどうしてああなったんだか。
でも俺が思うに、あれはきっと、先輩がなりたかった姿なんじゃないかと思う。あんなふうに明るく振る舞えたらとか、多分、そんな感じだ。
俺も……そう思ってた時期あったし。
「あ、あの……」
急に立ち止まって話しかけてきたのは七彩の方だった。
「信仁君は、その……奇跡とかって信じます?」
奇跡。
信じるか信じないかでいえば、俺は多分それを信じている。というかそれこそまさに先輩に出会ってから奇跡の連続だったわけだけれど……なんだって急に。
「まぁ、信じてるよ。」
「そうですか……」
何やら残念そうに下を向く。いや、さっきから下は向いていたけれど、もっと深く頭を垂れた感じだ。結局何が言いたかったんだろう。
「なんで……?」
「んん……例えば、不死身の身体が欲しいとか、自然を自由に操りたいとかって言うのはありますか……?」
「それは……」
まるで俺の事を言われているようだった。そんな奇跡じみた“能力”は、今の俺からすればいつでも実現可能だ。
でも、それが実現して何になる。と俺は思う。
不死身の身体も、自然を操る力も、ない方がマシだ。
普通に生きていけることがどれだけ尊いことか、“あいつ”が居座ってからはよく分かるようになった。
本当はこの力だって、今すぐ取り除きたいぐらいだ。結果的に俺を助けているのは確かだけれど、この力だけに頼って物事を進めたくないのが俺の本心だった。
大きすぎる力には、大きすぎる責任が共なる。
この力があれば、きっと世界なんて一週間で跡形もなく消しされるんじゃないか。
考えただけでも恐ろしい。そんな力を持っている自分に、酷い嫌悪感が湧き上がる。
「ないよ。そんなもの、俺はいらない。」
「あっても虚しいだけだ。それは奇跡じゃないよ。」
「……じゃあ、世界を救える力を手にすることが出来るとしたら……?」
この時だけは、この質問だけは、地面を見つめていた面を上げて、しっかりと、困ったような目もやめて俺を見た。
意味が分からない。
さっきから何を聞いているんだ。
世界を救う力?奇跡?どうしてそんな突拍子もないことをよりにもよって俺に聞くんだ。
「それは……」
「ごめんなさい……やっぱりなんでもないです!」
俺が答えかけたところで、また下を向いて切り上げた。
何だか、とんでもないことを聞かれた気がする。
確かに質問の内容もぶっ飛んでたし、あまりにも唐突だったけれど、薄々、だんだん、俺は気づき始めていた。
新川七彩は、その自殺の原因は、もっと他にあるのかもしれない。
この憶測が当たっていたのだとしたら、俺の思い込んでいた敵はクラスなんかよりも、遥かに強大で恐ろしいものなのかもしれない……
「あ、あのドーナツ屋さん、今すごい人気なんですよ……!」
さっきの質問を一刻も早くなかったことにしたいのか、慌てて話題を逸らす。
しかも今すごい人気というか、ドーナツといったらここぐらいの超大手じゃないか!
まぁ、奢るって言ったのは俺だし……
ふぅ、なんか結構喋ったし、学校から走って抜け出したから暑いぞ。俺が腕をまくったのとほぼ同時に、七彩も腕の袖をまくる。
「どれがいい?」
入店して早速、棚に陳列する多種多様のドーナツを、先輩は吟味するように見つめた。
俺は財布の中の内容を確認したが、まぁ、一人に奢るぐらいだったら全然大丈夫だ。
最も、佳奈とゲーセンなんていってなかったら、今よりも大分余裕があったはずだけどな。あの女。
「んー。」
あれ。気のせいかな。
「焦んなくていいからね。」
いや、聞こえる。確かに言っている。
なんかブツブツ言ってる────!
「あー迷うなぁいつもならオールドファッションかエンゼルフレンチなんだけど今いちごフェアやってて色んなドーナツがいちご味に…でもなぁ今は気分的に抹茶なんだよなぁいくら奢ってくれるって言っても彼にあんまり迷惑かけたくないしここは無難に抹茶のオールドファッション……でもでもでもこのいちごの期間限定と強調された見出し!美味しそうだし上手いなぁこういう宣伝というか人の心を掴むような演出一回だけでも食べてみようかなぁあー決められない決められないよーこんなの無理だよーやっは自分のお金で買おうかなでも折角奢ってもらえるわけだし彼の言葉に甘えて……」
全部丸聞こえだった。
先輩って意外と大食いなのだろうか。知らなかったなぁ……
棚のガラスに鼻がつきそうなぐらい顔を密着させて、腕を反対の手で押さえつけてドーナツを凝視していた。
考える時のクセ、この時からあったんだ。
こうして改めて関わってみると、新しく気付かされることばかりだった。
結局俺は、まだ先輩をよく知らないのだろう。
まだまだ、全然といっても過言ではないほどに。
「うー!決 め ま し た !」
二十分ぐらい悩んだ挙句、やっと決まったらしい。まだ時間は大丈夫だし、全然いいんだけどさぁ、てっきり見る影もないほど堅苦しい人だと思ってたから、こういう天然っぽい一面を見せてくれるのは、嬉しいんだけどさぁ……
結局俺は、七彩の分だけで、七個のドーナツを買った。
七彩が七個のドーナツ。いやいや面白くない。
何も面白くない。
結果的に、先輩は多少性格は違えど本質は先輩だったということだ。多くても三個かなぁなんて思ってた俺が甘かった。
油断していた。
「美味しいです!ありがとうございます!」
「なら良かったよ本当に。」
「この借りは必ず返しますから……」
ドーナツを頬張りながらそんなシリアスに言われても……今の見た目は完全にリスが口に溜め込む時のアレだぞ。
「じゃあ、敬語辞めてよ。」
「え?」
「俺と、友達になってくれ。」
後ろでガタンと物音がした。
まぁ大方、カップルだと思っていた男女二人組が、友達ですらなかったんだから店員も動揺したんだろう。
七彩も面食らったように目が点になる。
……けれど、
「……だめです。」
「……え。」
キッパリと。
断られた。彼女が何を言ったか理解するのに、数十秒かかった。
「もし私と友達になんてなったら、というか、普通に無理です。信仁のこと、嫌いですもん。」
「これが終わったら、すぐに帰ります。成行き上、ここまで来てしまったけれど、金輪際、あまり馴れ馴れしくしないでください。」
嘘、だよな?
これまでと違って、俯いたり、声が小さいなんてことも無かった。これはきっと、本気で言っている。
なんだ?なんで?
わからない。予想外の場面で躓いて整理がつかない。
え。え。え。え……
石動佳奈が言っていたことが、今になって思い出される。
誰にも近づかない、誰も寄せ付けない、完璧な天才。
目が意識せずとも泳いでしまう。言葉も出てこない。……あれ?
ふと、目が止まった。
彼女の腕に、視線が釘付けになった。魅力を感じたとか、そういう理由ではなく。むしろ逆、おくれて顔を顰めてしまった。
夥しいほどの、注射痕。
それを見た時にはもう、友情関係の構築を拒絶されたことなど、頭から弾け飛んでいた。
予防接種?違う。量が多すぎるんだよ。二の腕の面積を覆い尽くすぐらい。
「それ、は……?」
七彩ははっとして、直ぐに腕を隠した。
「ごめんなさい……失礼します……!」
「え……いやちょっと待って!」
逃げるように店を出た七彩を追いかけるが、さすが完全無欠の天才。制服で女子なのに、なんであんなに速いんだよ……!
チートもまだ無いはずなのに、男の俺がまともに走っても追いつけそうにない。
クッソ……!
やむを得ず、正真正銘の全力で走る。風すらも抜き去りそうな速度で、やっと七彩の腕を掴んだ。
注射痕だらけの、その二の腕を掴んだ。
「なんで……!どうしたの……!」
「嫌です、嫌です嫌です嫌です!見ないでください!触らないで!」
掴んだ手もいとも簡単に振りほどき、後ろに引き下がってしまう。
「なぁ、なんかあったら言ってくれよ!頼むから、一人で抱え込もうとしないでさ……!」
知っている。俺は二年後のあなたを知っている。どうしようもない後悔を抱えて、人の後悔も抱え込んで、結局一人で、独りで戦っていたあなたを、知っている。
「言いません!知りません!だいたい鬱陶しいんですよ!信仁は!昨日の今日で知り合った私にどうしてここまでしつこくするんですか!」
けれど俺の言葉は届いた様子もなく、彼女は唐突に、今までの鬱憤を、限りなく怒りに近しいそれを爆発させた。
屋上で彼女を止めた時点で、俺はどこか安堵しきっていたいたのかもしれない。
心のどこかで、後は野となれ山となれみたいな部分が、あったのかもしれない。だとしたら俺はとんだ間抜けで、馬鹿だった。
分かったつもりでいて、何も分かってなかったのだ。
もう今更どうにもならない。ここまで嫌われてしまっては、もう友達も何もあったもんじゃない。
ここで腰が引けてはいけないことは分かっているけれど、余計なことをしでかして、また彼女を死に追いやるようなことをしたくない。それだけは絶対ダメだ。
「違う……!俺は!俺は……」
俺は、なんだ。
二年後の未来から、君を助けに来た
なんて言うつもりか?いや、言ってもよかった。さっきまでは特に。しかし、今そんなに現実味の欠けらも無いようなことを言ったところで、事態の悪化に繋がる他ない。
なんだよこれ、どうすればいいんだ。
頭の中の感情がでしゃばって、上手く整理がつかない。息苦しい。呼吸も乱れてきた。
「もういいです……さようなら。」
あの注射痕は、彼女にとって最大のタブーだったのかもしれない。なんの事情があるのかすら、今の俺には分からないけれど、どうせただ事じゃない。何とかしなくちゃならないけれど、どうしたらいいか分からない。
計算の答えは知っているけど、方法を知らないのと同じ感覚。
過程が定まらない。
「ちょっと!待ってよ!今はダメでも、いつかちゃんと話してくれよ!俺、なんでもする!辛いことがあったら、何でも聞くし、何とかするよ!だから……!」
もっと俺を頼ってくれ。
そう言おうとした時には、彼女はもう走り去ってしまっていた。
今の状態じゃ、とても追いつけない。
溜息すら出てこない。そんな生易しいものじゃない。
途方もない絶望で、身体ごと地面に沈んでしまいそうだ。
時刻はもう生徒が帰る時間になっていた。
明日のこと、これからのこと、さっきのこと。まって、今考えてるから。頼むから黙ってくれよ……!
頭の中が騒がしい。叫びたいけれど声が出ない。
何とかしなきゃ…………
────────────────
あ。
気がついたら、もう地下室の扉まで来ていた。抜け殻にようやく意識が戻ったように、夢から覚めたように、そこに立っていた。
扉を開けようとしたけれど、何だかもう気だるくてしょうがなくて、とりあえず、服装だけでも着替えて、そとを散歩することにした。
独りで街路を歩く。歩いてどうということもないけれど、腰を丸めて、重い瞼を何とか開こうと保ちながら、頭を掻きむしって、人気のない道を選んで歩く。ゆっくり、下を向いて歩く。
腹が減っていることに気づく。思えばここに来てから、何も口にしてなかった。やることが大詰めで、食欲なんてものが排斥されていた。
「あぁ……」
ようやく開いた口から出たのが、間抜けな男の、間抜けな溜息擬きだった。
上手くいっていたと思ったのに、女の子って難しいなぁ。
なんでこんな他人事なんだ、俺。ダメだ。もっと、もっと気合を入れないと……
絶対助けるんだ……
「やぁ、仁義君。一時間三十分程ぶりだね。」
「誰……」
「え?仁義君だよな?うええ。どうしたそんなギャンブルで競り負けたみたいな顔して。もっとシャキッとしろ。」
あぁ、石動佳奈か。こんな所で会うなんて、奇遇だな。
やべ、声に出さないと聞こえないじゃんか……
「こんな所で会うなんて、奇遇だな。」
「学校抜け出したやつのセリフとは思えんが、七彩ちゃんとなんかあったのかね?」
「なんで…」
「なんでって言われてもなぁ、抜け出したのは君たちだろうに。みんなにはうまく言っておいたが。私有能!」
具合が悪い、気分も悪い。佳奈は確かに先輩に似ているけれど…こいつのは見透かすってよりも、見抜くような感じで、何から何までお見通し、みたいな感じで、現にこうして、今俺の目の前に現れたのだから、どことなく只者ではない雰囲気を感じずにはいられない。
「熱くなりすぎて燃え尽きたか、ま、そういうときもあるだろう。いいかい、今はぶりっ子をやめて君に忠告、または警告をさせてもらうが…」
「君、このままじゃ何もかもうまくいかんよ。」
どういうことだ…お前、何を知ってる。恋愛云々のアドバイスにも到底思えないし、単純に俺と七彩の人間関係を心配してくれているようにも一見思われるが、やっぱり、その先のことまで知られている気がする。俺が知らないことでさえも、あるいはこいつは知っているのかもしれない。
七彩の事情。そのさらに深いところを、知っているのかもしれない。
「七彩っちはねぇ、かなり難しい。一級品のワケアリだ。生ぬるく育った人間じゃ、あの子の心に近付くことさえかなわない。君は…一度失敗したらしいが、まだ続けるの?」
「そんなの…」
石動佳奈という人物が、どこまで知っていてこの発言をしているのかも、数分前に起こった唐突の出来事も、何もわからないと言っていいほど、今の俺は無知で無能だけれど…それでもこれだけは言える。
「そんなの、聞かれるまでもない。七彩が苦しんでるなら、俺は何が何でも行かなくちゃ。」
絶体絶命の絶望的状況。そんなの、何度もくぐってきた。
少しだけ目が覚めた。思い出した。俺がやんなきゃ。
七彩を助けることができるのは、俺だけだ。この絶望的局面でも、動けるのが俺しかいないのなら、
俺がやるしかないだろう…!
「うん。よかったよ。まだ諦めてないようだ。私もズカズカ立ち入るような真似はしたくないが、見守ることぐらいはしてあげよう。はっはっはー。仁義くん。たった一人の女の子の人生かもしれないが…」
「やるからには、世界を救うぐらいの覚悟を持っておいたまえ。ふひひ。」
どこまで本気かはついにわからないままだったが、佳奈は無邪気に笑ってみせた。その笑顔からは、およそ悪意なんてものは感じなかったし、これまでの不信感に似た疑心もその屈託のない笑顔で解けていった。
「ありがとう。佳奈」
「いえいえ~。がんばれよ、じーんぎくん。」
…信仁だよ。
佳奈は首にかけた赤いヘッドホンを被って、最後にこちらを一度見てから歩き出した。
俺も重い体を引きずって、しかし目線だけは前を見据えて歩き出した。
なんとかできるはずだ。今の俺なら!
そして俺は、決意を今一度強く固めて、まだ状況の理解に追いつけていないけだるいままの体で、昼に聞いた七彩の家まで来た。
響歌ほどまではいかなかったが、かなり大きい家だった。
特別豪華な装飾があるわけでもないが、そこそこ裕福なのかな、とも思ったが…
インターホンのカメラが、街頭の光を受けて、鈍く光ってこちらを睨む。
何とも言えない圧迫感が、俺を押しつぶす。
指先は小刻みに震えて、ボタンを押すのも一瞬ためらわれたが、勢いで、押した。
おもったより高い音がなったあと、閑静な住宅街の沈黙が支配する。
鼓動の音がよく聞こえる。女子の家って緊張すんな…
「はい。」
若い女性の声。だが少なくとも、七彩の声ではない。
「夜分遅くにすみません。清条高校二年、川村…」
「お引き取りください。」
プチッと。
名乗る余裕さえなかった。まさに門前払い。俺は七彩ともう一度よく話し合うことができればいいのだが、そんなの、許してくれそうにない冷たい声だった。
七彩の母親だろうか。
親が厳しくて、七彩はそう言った。困った顔で、困った声で、言った。
どうする。もう一度いくか?けれど変に攻めて七彩に何かあったらそれこそ最悪だ。
明日。明日学校がある。二人だけじゃないから、じっくりは話せないかもしれない。
それでも伝えなくちゃ…俺だけは何があっても、あなたの味方だということを。
以下、これからの話。
結局、いい時間だったので、この時代に来てから最早俺の家と言ってもいい地下室の前に帰ってきた。
重たい鉄扉をこじ開け、階段を下って中に入る。
「ただいま〜。」
といっても、返事をするものなんていないんだけど。
明かりをつけて、ベッドに倒れ込む。
さて、明日からのことを考えなくちゃ…
「ん?」
寝転んだ俺の背中に、違和感を感じる。
起き上がって見てみると、ベッドに全く見覚えのない何かが落ちている。
「え、なにこれ。」
いやいやこっわ。見覚えもない上に何かもわかんないしね。
いや、まて。
疲れていたし、すぐにベッドに倒れてしまったから気づかなかったが…なんでこんなに物が散乱してるんだ!?
机にも、床にも散らばっているけど、何も見覚えがない。
けれど、それが何かは辛うじてわかった。
…化粧品。
なんでこんなところに…ていうか誰のだ。ついさっき使ったような感じだぞ…
「あ、なんだ、帰ってたのかよ。」
え。
「驚かせようと思ったのに。」
すでに十分驚いている。というか焦ってるし、普通に怖い。ホラーだぞ。
そして何より怖いのは、このだんだん近づいてくる声が、聞き覚えのある声だということだった。
不意に涙が溢れ出す。そんな、そんなはずはない。だって、あなたは…!
「お。いたいた。久しぶり。川村。いや、」
「もう信仁でいいよな。」
「なんであなたがここに…」
悲しいような、嬉しいような。
感情の壁を超えて、体感したことのないほど、鳥肌が立って止まらなかった。
「遥歌さん…!」
俺の前に現れたのは、誰よりも妹思いの、優しくて、強くて、かっこいい…そして実の親によってその命を絶たれた、冴島遥歌、その人だった。
「よ。助けに来た。」
すでに存在しないはずの彼女は、あの時と変わらない、頼りがいのある声で、笑ったのだった。




