-01-
息が苦しい。
こんなにも全力で走ったのは何年ぶりだろうか。使っていないと筋肉は衰えてしまうものだと痛感させられる。
だって、私には必要なかった。あの平和を装った、非日常のような私の日常では走る必要も運動する必要もどこにもなかった。
ただ、食事を与えられ、生かされる毎日。生かしてもらう代わりに、私たちは訳の分からない実験をする大人たちに協力していたのだ。
生きては行ける。それでも、生きている気がしなかった。
太陽というものを見たことがなく、月というものも知らない。
見上げれば遠く、自分のいる場所が奈落の底の様な天井が広がるだけの空間。潔白を示しているのか、私たちには何もないことを暗に告げているのか、その場所はいつも真っ白だった。頭が可笑しくなりそうなほどの白だった。
私は物心ついたときには既に、そこに居た。
首元までぴちっと覆う黒いウエットスーツのような服の上から、服と呼ぶには少々物足りない、布一枚のワンピースを着せられていた。そして、首には「01」と記された首輪がはめられていたのだ。初めは異常だと思わなかった。これが普通で当たり前のことだと信じていた。それはそうだ、私が知っていたのは真っ白な世界と生かされる為に払う対価だけ。それが全て。
だけど、出会いが私の考えを、日常を非日常へと変えた。
出会ったのは同じ年の少女。
同じような服装に首には「02」と記された首輪をしていた。しかし、髪の毛は金色で瞳は吸い込まれそうな、どこまでも澄んだ青色をしていた。
ふわふわと揺れる金色の髪の毛と整った可愛らしい少女。自分と同じ格好をしているのに遠い存在に感じた。
それでも、少女は私と「友だち」になってくれた。
少女はどうやら「外」から来たらしい。
大人たちのしているよく分からない実験の内容に適した存在だったと話していた事を何となく覚えている。
「私はいらない子だったから、両親……だった人たちは喜んで私を差し出したわ」
「いらない?」
「そう」
どうして、いらない子だったのかとは聞けなかった。私の言葉に頷いた表情がとても苦しそうで、怖かったからだ。
だけど、それ以来あまり苦しそうな表情は見ていない。それ以降の少女はいつも笑顔だった気がする。
「ねえ、名前で呼び合わない?」
「ん? 名前なら「01≪ゼロイチ≫」って言うのだけど?」
「そんなのは名前じゃないわ。ただの番号よ」
「……じゃあ、何が名前なの?」
「あなたのことを、将来や姿を、想ってつけたのが名前よ。願い、でもあるわ」
この時も少女は優しく微笑んでいた。
「じゃあ、つけてよ。名前」
「いいわ。実はね、呼びたい名前があるの」
「何?」
「イチカ」
この日から私は「イチカ」と言う名前がついた。嬉しかった。
それは初めて贈られた、私を想ったプレゼント。
「私は何て呼べばいいの?」
「ニーナでいいわ」
「じゃあ、ニーナよろしくね」
私にニーナは「外」のいろんなことを教えてくれた。
空というものは青くて、遠くてそれでも奈落のそこに居る様な気分にはならないこと。同じ青でも海と言うしょっぱい水が広がっていること。時間の流れによって、木々が色を変えたり、姿を変えたりすること。
私の知らなかったことをニーナはたくさん知っていた。自分が当たり前だと思っていたのは案外当たり前ではなかったのだと初めて知った。
だから、ニーナとの毎日は楽しかった。そして、いつか、いつの日か私も「外」に行きたいと思う様になった。自由に、生きてみたい、と。
「今日、脱走者が出たみたい。ニーナ聞いた?」
数年が経ったある日、実験場内が騒がしかった。どうやら、自分たちと同じような立場の人間が外に出たというのだ。
私はいつか自分も外に出られるという希望をもち始め、ニーナにうきうきしながら話しかけた。
「聞いたわ」
「誰か出られたってことは、私たちもいつかここを出られるよね。楽しみだなぁ。ニーナと一緒に海を見たいな。……ねぇ、あとはどこに行こうか?」
「……うん。行きましょうね。私を、いえ、私と外に」
ニーナは私の手をぎゅっと握りしめた。あまりの強さに少し驚いたけれど、私も同じ気持ちだった為、同じように手を握りしめた。
可愛らし気な少女から少しずつ大人になり始めて来た私たちは、大人になればきっと出来ることも増えるだろうと思っていた。誰かが脱走できたように、自分たちもまた、外の世界へと飛び出していける気がしていた。
夢は現実に。
そして、今私は走っている。
目指すのは一点。外の光が差す、あの出口の向こう側に行く。
両手を固く握りしめ、涙を堪えながら走る。後ろを振り返りたい気持ち、このまま逆方向へと走っていきたい気持ちを抑えながら走る。今ここで、そうしてしまえば、きっと先はない。このチャンスを、大事な人が作ってくれた希望を私は無下にしてはいけないんだ。
走って、走って、走った先。
私の身体を光が包み込んでいった。
パリンッ。