声色2
家から一歩出ると、澄んだ青空が広がっている。青空と木の緑、それに上がり始めた気温とが相まって、初夏の雰囲気を漂わせる。
書展をやっている会場に着くと、若い女性からお年寄りまで幅広い世代の来場者が壁に掛けられた作品を鑑賞していた。私の身長は155センチメートルくらいだが、私の身長よりも大きな作品があったり、半紙の作品があったりした。どの作品もネットで調べた時より「何か」をこちらに訴えかけているように思えた。
私は会場の隅に掛けてあった1枚の半紙に目が止まった。和紙特有の黄色みを帯びた白に、何もかも塗りつぶしてしまうような黒で「楽」と書いてあった。多少形が崩れていて繋げ文字みたいになっているので行書だろうと思う。字の通り楽しげに、そして白を潰すこと無く黒は紙面上で舞っている。
笑ってる。私はそう思った。字から作者の、楽しげにリズムをとりながら、笑顔で書いている様子が思い浮かぶ。こっちまで笑顔になる作品だった。
「喜んでいただけましたか?」
突然、黒いスーツに青の大人っぽいネクタイをした男性が話しかけてきた。私は少しの間、固まってしまった。口をはくはくさせ、明らかに挙動不審な私を見て、男性は「あ、あの、大丈夫ですか?」と声をかけてくれる。その声で我に返った私は、思い出したようにバッグからノートとペンを取り出し、言葉を連ねていく。
『すぐお答え出来なくてすみません。少しびっくりして。私は声が出ないので』
あの顔を見るのも、この文書を書くのも、もう何度目だろうか。
「ああ、そうだったのですか。こちらこそ急にすみません。僕は沙田秋水と言います。えっと…作品を見て笑ってくれていたので何か嬉しくて」
『嬉しい…ですか?』
「はい。他の書家は知りませんが僕は綺麗って言われるより僕の書を見て僕の感情を読んでもらえたり、見た人が幸せな気持ちになる方が嬉しいんです」
少し傲慢ですけど、と沙田さんは加えた。
『この字書いてる時に笑ったりとかリズム刻んでたりとかしてました?』
「はい!良く分かりましたね。これ書いてた時は今回の書展開催が決まった辺りだったんです」
私達が話していると、遠くから誰かが沙田さんを呼ぶ声がした。
「あっ、お引き止めしちゃってすみません。また僕の書展に遊びに来て下さい。いつでも待ってますから」
『ありがとうございます。またお邪魔させていただきます』
それでは、と沙田さんは声がした方へ小さく走っていった。ふと時計に目をやると、針は10時18分を指している。私は残っていた家事をするために帰路へついた。