第七話
久々の青空に太陽が輝く。だがその空に再び黒く厚い雲が集まりはじめ、また直ぐに雨が降り始めそうに思われた。
「こっちのはず」
森の中にもかかわらず木々がまばらなその場所を、哀は周辺の地形に気を配りながらそう言い、どこか弱々しい足取りで歩く。その後ろから、冴えない表情をした緑が、寄り添うようについていく。
遺跡の脱出からまだ一晩。哀は疲れを表に出さないように努めていたが、全く隠せないでいた。彼女が目を覚ましたのは遺跡を脱出した次の日の朝、太陽が昇ってしばらくの頃。その時の哀はいつになく疲れ切っているようだったが、それ以上に、どこかさっぱりしているように見えた。そんな姿を緑は、痛々しくて見ていられなかった。だが緑にできたことと言えば、足の傷の治療と、食糧であるカプセルを多く飲んでもらうことぐらい。
緑はそんな自分の無力感に打ちひしがれる。だが彼の脳裏を渦巻く感情はそれだけではない。その感情は以前から彼の中に確かに根付いていた。だが彼はその事を今日まで抑え、口にしてこなかった。しかし昨日の戦いを経て、それはどうしようもなく大きくなっていた。そして緑は歩いていて、不意に、
「哀、昨日君が追手を倒したときの緑の光だけど、あれは、一体?」
そう問いかける。それは彼の中で大きく膨れ上がっていた疑念の一端が言葉に出たもの。
だがその瞬間、哀は突然足を止め、沈黙する。その哀の反応に緑は、自分が何か重要なことに触れたのだと感じ取り、黙って彼女の返答を待つ。そしてしばらく後、哀は、
「緑になら、伝えてもいいかもしれません」
そうおもむろに一言つぶやくと、落ち着いた口調で語り始める。
「これは魔法なんかじゃない、かつてニホンが作り出した兵器。普段はある特殊な適性を持った人でなければ、見ることも触れることもできない。そしてそれができる人も、この兵器の使用者と認められなければ、力を振るうことは出来ない。
ニホンで適正を判断した時の候補者数は、私を含めて数万人。その中でわずかでもこの兵器を操ることができたのはたった二人。そして実戦投入できるレベルに達したのは私だけ」
哀はそう全くよどみなく言う。彼女の話す内容はあまりに現実離れしているように思えるが、緑は昨日その目で目撃した光景を思い出し、それを否定することができなかった。そして少し考えた後、緑は彼女の真剣でよどみのない口調、それにこれまで共に歩んできて知った彼女の人となりから、彼女が何の根拠もない事を言うわけがないと考える。その上で、昨日追手が話していた、伝説に伝わる魔女の話を思い出し、それと何か関係があるのかと思う。が、疑念が疑念を呼ぶばかりで結局答えは出ない。
そのうちすっかり黒い雲に覆われた空を哀は仰ぎ見る。その時、空から落ちてきた一粒の雨粒が彼女の白い頬にあたって弾け、それから次々と降り注ぎ始めた雨粒が、世界と二人の体を打ち始めた。
そんな中緑は、自分たちとは別の人間の足音が遠くから近づいてくるのを聞き取る。
「追手だ」
緑は告げると同時、哀の手を握り、近づく足音から逃げようと、足を前に出す。だがその瞬間、彼女を握る手が不意に重くなったかと思うと、何かが地面に倒れる音が耳に入る。
「哀!」
振りかえるとそこには、地面に膝を突き、激しく息を吐く哀の姿。その顔色はどこまでも生気のない白で、頬を何滴もの汗が流れていた。
そんな中、緑の視界の先に、十人ほどの追手が姿を現す。
「逃げて、緑」
哀はかすれ声で、やっとそれだけ口にする。その声は確かに緑に届いたはずだった。だがその声を聞いても、彼はその場を動こうとしない。そんな間にも追手はどんどんと二人に近づいてくる。そんな中で哀はもう一度、
「逃げて!」
残された力のすべてを絞り出すように、かすれ声で叫ぶ。
「いやだ!」
言の葉が世界を駆け抜ける。それは強くなる雨音を貫き、辺りに強く、大きく響き渡った。
「緑?」
哀は力なくその名を呼ぶ。そんな彼女の目の前、迫る追手の前に緑は立ち塞がる。そんな緑の姿を見、追手もそれぞれ得物を向ける。そして両者は互いを睨み、足を前に踏み出そうと脚に力を込めた。
次の瞬間、
「待ってください」
放たれたその一声が両者の足を引き止める。緑は己の耳を疑った。なぜならその一声が放たれたのは、追手の側だったからだ。そうしているうち、追手の集団の中から一人、背の低い者が進み出てくる。緑の目にはその者は、他の追手とは少し違う雰囲気を持っているように見えた。
進み出た追手はその場でフードをとり、その下の覆面を外す。
その瞬間、緑は自分の目を疑う。なぜなら覆面を外したそこに現れたのは、まだ年端もいかない、自分より少し年下くらいの金髪の少女の顔だったからだ。
「どうしてあなたが?」
緑の背後で哀はふらふらと立ち上がると、絞り出すように言葉を口にする。その言葉に、緑は面識があるのか?と、心の中で疑問を口にする。
一方その言葉に、追手の少女は視線を哀の瞳へ向けると、たっぷり数秒の間をおき、それから大きく息を吸って、
「哀様、どうして逃げるのですか?」
そう強く、切実な声で問いかける。
哀……様?どうして追手が追う相手に様なんてつけて呼ぶんだ?
そう緑は心の中で疑念を深める。
哀は答えない。少女は続けて問いかける。
「私達は今まで、計画を成功させるため、あらゆることをしてきました。汚い事もいくつもしました。失敗すればすべてを失う。それが分かっていて、だからこそみんな命を懸けてやってきたんです。
計画は上手くいきました。グラフィスとドラグールは、裏にいる私たちの存在に気づかないまま、戦争をはじめました。全てがうまくいっているんです。あと少しで、私たちの求めていたもの、そのすべてが手に入る。なのに、なのにどうしてほかならない哀様が、私たちの計画を止めようとするのですか?」
そう少女は必死に訴える。その、もとは味方だった者に向けられた言葉に、緑は哀が何者なのか、状況を整理することができなかった。
一方哀は少女のその言葉に、悲しげな表情を浮かべて、
「ごめんなさい。でも私はもう二度と、誰かが殺し合う所なんて見たくない。それがどこの国の人かなんて関係ない。私にどんな良い事があるかなんて関係ない。ただ、私は……」
そう、語勢は強くなくても、相手に負けないくらい、切実に、訴える。
「でもっ、」
相手も負けず、そう必死に食い下がって、
「そんなことをしたら、それこそ今まで死んでいった人や竜、仲間たちに申し訳が立たないじゃないですか! もしこの計画がうまくいかなければ、私たちは全てを失ってしまうんです。哀様はそれでもいいというのですか!? 私達から、全てを奪ってもいいというのですか!?
それにこの計画が全てうまくいったとき、一番大きなものを得るのは、ほかならない哀様ではないですか! あのお方の言うことが本当なら、哀様は、元いた世界の元いた国、ニホンに、帰れるかもしれないんですよ!」
その言葉は、緑の脳裏を、深い霧を貫く稲妻のように駆け抜ける。
「どうして?」
その言葉は緑の口から、ほとんど自然に零れ落ちていた。
一方の哀は視線を落とし、沈黙を守る。そんな彼女に少女は続けて、
「哀様もあのお方も言っていたではありませんか! 私はこの国の人間ではない。もっとどこか遠く、ニホンという国から来たんだって。そして出来るなら、ニホンに帰りたいって。
哀様はそう言いながら、心のどこかで諦めておられました。私たちも、それはどうにもできないと思ってました。でも今、私たちにはそれが目の前にあるんです。あと少し、あと少しなんです。哀様が私達と共に来てくれる、ただそれだけでいいんです。だから、哀様」
そう少女は哀に手を伸ばす。
その瞬間、
「私は!」
哀の叫びが世界に響き渡る。
「私はニホンにいた頃、世界を救う希望になると言って、この手で何千万という人を殺し、結果的に何十億という人を死に追いやった。
私はそんな生粋の魔女。大量殺人者なの。
その魔女は本当は、守りきれなかった故郷で、ニホンで死ぬつもりだった。でも死ねなかった。そんな魔女のことを、命がけで守って、こんな魔女に、生きろって、言ってくれた人がいたから。
その魔女はこの世界にやってきて、皆に出会って、皆と笑って、本当に幸せなひと時を過ごした。魔女の自分が、こんなに幸せになっていいのかって思えるくらい」
その声は聞く人の心を引き裂くように悲痛で、、心臓を直接握りしめられているかのように苦しげで、
「魔女は、確かに皆に言ったことがあった。ニホンに帰りたいって。それは嘘じゃない。
でも魔女には、もっと、もっと、大切なものがあった。願いがあった。だから私は言った。血も繋がっていないのに、魔女の私に人として接してくれた皆に。
私は皆と一緒にいられるなら、囲まれていられるなら、ここで死んだ方がよかった。私の、魔女の本当の願い。それは平和な世界で、今度は誰も殺さず生きて、死ぬこと。ただ、それだけだったから」
つむがれた言の葉は緑の心に、ゆっくりとしみわたる。少女もまた、その言葉に、ただ沈黙することしかできなかった。
哀の瞳に、降り注ぐ雨粒とは違う、暖かで切ない水滴が浮かぶ。
「もし私一人が死ぬことで全てがうまくいくのなら、私は今すぐにでもこの命を絶つ。でもそれじゃあだめ。それじゃあこの悲しみは終わらない。だから……」
涙は雫となり、魔女の白い頬を、
「私は、自分がどんなにひどいことを言っているのか、どんなに身勝手なことを言っているのか、勝手に理解した気でいて、でもきっと理解できていない。ううん、理解できるはずがない。だってそんなの、実際に味わうその人にしか、理解できるはずがないんだから。でも、それでも私は、これ以上、誰にも殺し合ってほしくない。大好きな人たちが、命を奪い合うところを見たくない。
だから、だから、お願い。これ以上、誰も殺さないで。私を魔女にしないで。
お願いだから」
ゆっくりと流れ落ちた。
沈黙が世界を包み込む。勢いを増した雨が、人々の体と心を、激しく打つ。
やがて追手の一団の中から、リーダーと思しき大柄の男が一人、前に進み出てくると、先ほどまで哀と話していた少女の肩を乱暴に掴み、強引に後方に下げさせる。そして他の者達に指示を飛ばすと、追手の一団の中から、弓と鉄砲を持った者四人が前へと進み出た。リーダーはその四人に、
「恐れるな。魔女の力を発揮するには莫大なエネルギーの供給が必要。だが今あの魔女はそのエネルギーを、自分の体内の糖分や脂肪といった養分を用いてしか供給できない。あのやせ細った体。大きな力どころか、もう何度と力を発する余力もないはずだ。何より今あの魔女は人を殺さない。いや、殺せない。腕の一本や二本傷つけても構わん。確実に捕えるぞ」
そうためらわず、冷淡に命令する。命令を受けた追手も、鉄砲を構え、弓に矢をつがえると、それを引き絞って、銃口と矢尻を魔女に向ける。
哀はそれを見、ふらふらとした足取りで、だが確実に緑の前へと進み出る。そして全身に薄緑色のひどく弱々しい光を纏い、愁いを帯びた瞳に、わずかな闘志を宿らせ、背中の緑に、つぶやいた。
「黙っていてごめんなさい。でもせめて、あなただけでも」
その瞬間、哀の肩を背後から熱い手がつかみ、
「え?」
何が起こっているのか理解できていない彼女を、力ずくで地面に引き倒す。その哀の視界の中で、緑は彼女の前に、盾になるように立ち塞がる。そんな彼の背中は、かつて彼女に生きろといったその人の背中と重なって、
「どうして?」
哀が呟くのと、矢と銃弾が放たれるのは同時だった。
かつてニホンにいた頃弓道部に所属し、これまでの戦いでも矢玉を何度か浴びた緑は、その威力を十分わかっていた。それでも彼は、
「死なせない!」
そう強く言い放つ。そして心の中で、
せめて、せめて目の前の少女の、たった一つの命くらい、たった一つの願いくらい。
そう叫んだ。
その直後、飛びくる矢が緑を叩く。その衝撃は彼のスーツを貫くように伝わり、その内側の肉体を傷つけ、骨にひびを入れる。さらに続けざまに命中する弾丸。その瞬間、急激に力を失う左足、傾く視界。緑は残った右足一本で体を支える。さらに彼の眉間をめがけて飛びくる矢。緑はとっさに右腕を頭にかざす。
次の一瞬伝わる強烈な衝撃に、右腕は感覚を失い、痛みさえ分からなくなる。直後、彼の右肩に走る、身を砕くような衝撃。その瞬間、張りつめていた糸が切れるように、緑は膝を折り、背中かから地面に向かって体を倒し、
「緑!」
その体を、暖かく柔らかい肌が優しく受け止める。彼の名を呼ぶその声は悲痛に震えて、雨粒とは違う暖かな雫が、彼の首筋に零れ落ちた。
暗くなっていく視界。動かなくなる体。死の淵に向かって、深く、深く、沈んでいく感覚。そんな緑を、どこまでも優しく、暖かいものが包み込む。
世界に木霊する、彼の名を呼ぶ声。その声は彼女の喉を、心を、全てを、砕かんばかりに悲痛に震わせる。その彼女の白い頬を、思いの丈は雫となって伝って、彼の体に落ち、優しく温める。
剣を握った追手の剣士たち三人が、地面にたまった泥を高く蹴り上げ、二人に向かって走り出す。彼ら三人は二人より余程、悪魔か殺人鬼にしか見えない殺気を放ち、剣の切っ先を振り上げた。
その瞬間、三人の右側の森の中から、一人の騎士が猛スピードで飛び出してくる。三人ははその時になってようやくその存在に気づき、目を騎士に向ける。その騎士は、全身を白銀で洋風の鎧で包み、その上から黒地に白で稲妻の紋章を描いたマントを羽織る。左手には、黒色で城塞の絵が描かれた白銀の盾。右手には全長が二メートル強ほどの、特異な形状をした白銀のランス。駆るは、白銀に輝く鱗で全身を覆い、頭に一本の小さな白い角を持つ、見たこともない幻想的な白馬。
追手はその姿を見た瞬間、噂に伝え聞いたその者の名を思い出し戦慄する。だがその時には、騎士はすでに彼らを間合いにおさめていた。
次の一瞬、騎士は三人の側面をつくと、白馬の突進でそのうち二人を蹴り飛ばし、地面に叩きつける。その巻き添えをかろうじてかわした一人が、反撃しようと剣を騎士に向けるが、それより早く、騎士のランスがその剣を突き折り、次の一撃でその頭を横なぎに薙ぎ払い、気絶させる。
突然の事態に動揺する追手達。それでも追手のリーダーはひるまず、鉄砲と弓を持った四人に射撃を命じる。その指示に彼らは射撃の準備を終え、弓に矢をつがえ、騎士に向かって狙いを定めようとした。
だがその一瞬、追手の一人が上空を指さす。それを見た弓兵が上空を見上げるとそこには、はるか上空から急降下する、翼をもった影があった。
直後、その影は一瞬で距離を詰めると、追手達に対応する間を与えず、彼らに強烈な体当たりをかます。急降下で加速したその一撃はあまりに重く、一撃で二人を同時に弾き飛ばす。さらに影は体当たりの衝撃を利用して減速し、両足を地面について着地すると、残った一人の側頭部に、左腕で強烈な裏拳を放つ。その重い一撃は追手をまた軽々と打ち倒し、地面に叩きつけた。
残った追手達がその影の全容を捉えられたのはようやくこの時の事。そこにいたのは、全身を漆黒の鱗で包み、頭部に細長い二本の角を後ろ向きに伸ばし、両手に三本の爪のついた手甲、両足に脛当てを身に着け、背中に二枚の大きな漆黒の翼をもった竜人。
残った追手達は、その竜人に向かって刃を振るう。だがその刃を竜人は手甲でいなすと、相手の懐に潜り込み、零距離からひじ打ちを叩き込み簡単に一人を打ち倒す。それでももう一人はひるまず、竜人に向かって槍を突き出す。だが竜人はその刃を、手甲の爪の間に通して受け止めると、その腕を軽くひねる。するとそれだけで、槍を握る指に強烈な力が加わり、槍はあっさりその手からねじとられてしまう。その状況に、槍をねじとられた追手は、腰の剣に手を伸ばそうとする。だがそれより早く竜人は間合いを詰めると、その胴に鋭く膝蹴りを打ち込み、相手を打ち倒す。
それまで指示を飛ばしていた追手のリーダーは、その光景にただ呆然とするしかなかった。当然だろう。いかに奇襲だったとはいえ、つい先ほどまで、自分を含め十人もいた一団が、今の一瞬でたった二人となってしまったのだから。
先ほどまで哀と話をしていた少女は、戦意を喪失してその場にへたり込む。一方で追手のリーダーはそれでも剣を抜き放つ。が、その体は小刻みに震えていた。
「き、貴様らは、まさか……!?」
恐怖をはらんだ声でリーダーが呟く。その言葉に、白馬から降りた騎士と竜人は並ぶと、先ず騎士が、
「俺はグラフィス軍少将、アカバ」
次に、竜人が、
「ドラグール軍少将、ブレイズ」
そう名乗った。その名にリーダーは戦慄する。なぜならアカバはグラフィスで、ブレイズはドラグールで、それぞれ一、二を争うほどの実力の将であり戦士として名を知られていた。それに加えて、
「そんなはずはない。お前たち二人の動きは封じていたはずだ。警戒の者は何をやっていたんだ」
そう狼狽する。その言葉にアカバは、
「確かにお前らの警戒を突破するのは骨だった。だが警戒の中央を強行突破されるとは考えなかったようだな」
そう含みの無い真剣な口調で言う。と、ブレイズは、
「それより今は……」
そう左右の腕の手甲をぶつけあう。その声はどこまでも低く、聞く者に恐怖を植え付けるような威圧感を持っていた。そして次の一瞬、二人は瞬間的に間合いを詰めると、アカバは左手の盾で、ブレイズは殺さないためにわざわざ手甲を外した右手で、容赦なくその体を殴り飛ばした。
直後リーダーの体が軽々と宙を舞い、地面に仰向けに倒れてのびる。すると丁度そのタイミングで、
「将軍!」
十数騎の騎士がアカバを追って現れる。
「中佐か」
アカバがかけた言葉に中佐は頷くと、
「付近の敵はあらかた蹴散らしました」
そう報告する。だがその報告にアカバは、
「よくやってくれた、だが今はそれより」
そう言って視線である場所を示す。そこには全く動かなくなった緑と、その体を抱きしめ、名を呼び続ける哀の姿があった。
「ここでは治療どころじゃない、直ぐに移動する。それとそこでのびている二人も連れていく。後で役に立つかもしれない」
そうアカバは中佐に指示する。その指示に騎士たちは頷くと、倒れているリーダーと、地面にへたり込んでいる少女に縄をかける。リーダーは単にのびていたからだが、少女の方も全く抵抗しなかった。
アカバがそうして指示を出している間に、ブレイズは緑と哀に駆け寄り、
「君が哀さんだね?」
そう尋ねる。その言葉に、それまで一心不乱に彼の名を呼び続けていた哀は、たくさんの涙を頬に伝わせた顔を上げ、
「緑を、緑を、助けて」
そう、かすれ声で訴える。
雨足は弱まってきていたが、空はいまだ暗雲に包まれていた。
深夜の暗闇が森を包み込む。暗雲が月を覆い隠すため、世界はほとんど完全な闇に包まれていた。そんな世界を照らすのは、人工的に作り出された小さな火種のかすかな明かりのみ。その火種の周りには今、四つの人影があった。
「あの不思議な衣服のおかげか、矢も弾丸も貫通していない。だが衝撃で骨が折れているし、臓器へのダメージは特に深刻だ。恐らく、今晩が山になるだろう」
そうブレイズは、地面に仰向けに寝かされた緑を見、ためらわずに言う。その言葉に沈黙する哀。
彼らは追手の追跡を振り切るため、緑が倒れた場所からかなり離れた場所まで逃げ、緑の手当をしていた。今のところ追手の追撃の兆候はない。だが騎士たちは全員が追手に備え、あるいは捕まえた二人が逃げないように、見張りに立っている。本来彼らにそんなことをしている余裕などあるはずがない。だが今、彼らはたった一人の少年のために、全員が足を止めていた。
哀は緑を、ただ悲しげに見つめる。彼女は何も言わない。言えない。それでもそばから離れられなかった。流れる沈黙。刻々と過ぎていく時間。そうしている間にも、緑の命の炎は、確実に弱っていく。
どれほどが過ぎた頃だろう? どこまでも静かに沈黙する森の中、哀の耳にかすかに、
「哀」
そう名前を呼ぶ声が届く。
「緑!」
哀もまた名前を呼び返して、かすかに動いた彼の右手を、両手でそっと握った。
「意識が戻ったのか?」
緑のかすかな声を聞きとることができなかったブレイズとアカバは、哀の様子を見てそう問いかけ、彼の容体を確かめる。だが緑が目を覚ます様子はなく、目を閉じたまま大量の汗をかき、ただ悲痛に表情をゆがませ、
「ごめん哀、ごめん」
そう繰り返した。その言葉に哀は、
「どうしてあなたが謝るの?」
そう問いかける。その言葉は痛々しく、彼女の表情は一層悲しみに沈む。そんな哀の言葉に、
「君のことを、分かってなくて、殺してしまったから」
緑は目を覚まさないまま、そう言葉を返す。そんな緑を見、ブレイズは、
「意識が戻っているとは思えないが、声は届いているみたいだ。話しかけるなら、今のうちだろう」
そう口にする。その言葉には、今を逃せば緑の意識が戻ってくることは二度とないかもしれない、という意味が暗に込められていた。その事は哀も理解していた。彼女はそこで、
「ブレイズ将軍、アカバ将軍」
二人の方に向き直り、
「私を緑と、二人きりにしてくれませんか?」
願いを、口にする。
アカバとブレイズにとって、彼女は国の未来のかかった重要な存在だ。だが、外見から言うなら、まだ十六歳程度の年端もいかない少女にすぎない。しかし今向けられた彼女の瞳は、二人の目に、他の何にも動じない強さを持っているように映った。
かすかに吹く風が、小さな火種を揺らす。
「ブレイズ」
アカバはそう視線を送り、
「ああ」
ブレイズもそれに応じる。そして二人は立ち上がると、何も言わないままその場を離れていく。その暗闇に消えていく背中に、哀は立ち上がると、深々と頭を下げた。
二人きりになった。風の無かったはずの森に、再び一陣の風が吹く。その風は火種の火を吹き消すと、上空の分厚い暗雲をも押し流す。すると、その向こうにあった白く輝く月が姿を現し、二人の姿を青白い光で照らし出した。
「緑」
哀はその名前を呼ぶと、緑の横に、そっと寄り添い、
「どうして・・・?」
そう言の葉をつむぐ。哀の心もまた、彼の暗闇の世界へと、ゆっくり、落ちていく。
「緑」
誰かが名前を呼ぶ声が響く。その声はとてもとても心地よく、だが、だからこそ彼は、その声に甘えるなんてできないんだと思った。それなのにその声は、彼の心に心地よく響く声で、
「どうしてそんなに苦しむの?どうして私に謝るの? 教えて。緑」
そう問いかける。その問いかけに緑は直ぐに答えようとして、だが言葉に詰まってしまった。そう簡単に一言二言で答えられるとは思えなかった。だから彼は、一度すべてを吐き出すことにした。吐き出してしまった方が楽だという勝手な甘えを、自分の中に見た気がしたが、口を開いたらもう止まらなかった。
彼はニホンで戦争が起こってから哀に出会うまでのことを話す。家族と離ればなれになり兵になるまでの事。たくさんの仲間の犠牲でニホンを離れた時のこと。その時、ニホンに帰ることを決意したこと。この世界に来て最初に人を殺したこと。哀に出会った時の事。
そこまでを話、緑は悲しげな表情を浮かべ、
「初めて会った日の夜、哀は僕に、殺さないで、と言った。でも僕には、どうしてそんなことを言うのか分からなかった。それ以上に、無理だって思った。そう思う一方で、生き残るためには、ニホンに帰るためには、誰かを殺す事になっても仕方ないって、そう思ってた。僕は全くわかってなかった。哀がどんな気持ちでで今まで逃げてきたのか。だから僕は殺した。殺さないで、そう言われたのに。
でも今日、哀が今まで逃げてきた理由を聞いて、僕は初めて、自分がどんなにひどい事をしてきたのか、分かった気がした」
今にも心がねじ切られてしまうかのように、苦しげに話す。
「哀は、大好きな人たちが命を奪うところを見たくない、そう言った。哀だって本当はニホンに帰りたいはずなのに、それでも哀は、愛おしい人たちに刃を向けてまで戦っている。
それに比べて僕は、自分の事ばかり考えて、ニホンに帰ることばかりを求めて、哀がどんなにつらい思いをしているか、その気持も知らないで、君の大好きな人たちやその仲間を殺してしまった。その事を謝りたかったんだ」
緑はそう一気に吐き出して、そこでようやく言葉を止める。それから緑は、吐き出して楽になったのか、すぐまた息を吸うと、今度は少しだけ穏やかになった声で、
「でもそれも今日で終わりだ。僕は多分ここで死ぬ。最後の一瞬まで諦めないつもりだったけど、なんとなく分かるんだ。ここで僕は死ぬ。これで僕はもう誰も殺さなくて済む。僕に殺された人達も、それで悲しい思いをした人たちも、皆少しは救われる。うまくいけば多分戦争も終わる。君の願いも叶う。本当は君に謝れない事だけが気がかりだったけど、それも出来た。やるべきことは全部終わった」
そうさっぱりとした口調で言った。そして、
「だから、僕はもう行くね。おやすみ」
そう、やり残したことはないとばかりに告げる。その一瞬から、彼の意識は再び闇の淵にどんどんと沈んでいく。
なにもかも終わった。そう思うと、なぜだか心は落ち着いて、彼の意識は眠りに落ちる時のようにどこまでも、深く沈んで行く。
その時、
「だめ!」
放たれた震える声は必死に、すでに闇の淵の深くまで沈んでいた彼の心を掴んで、
「死なないで」
離さない。
「どうして?」
緑はその声に問いかける。彼のその声は、もう疲れたから寝かせてくれと言っているようだった。それでも彼女は、
「聞いて緑」
彼の心を決して離さない。
「緑は今までいくつもの命を奪ってきた。ニホンでも、この世界でも。でもそれは私も同じ。ううん、私の方がはるかにたくさんの命を奪った。だから緑の気持ちも、少しくらいなら、分かるつもり。
でもね、緑はさっき、あなたに殺された人達も、それで悲しい思いをした人達も、あなたが死ぬことで皆少しは救われる。と言った。それは違うと思う。緑が死んでも、だれも救われない。失われた命は決して帰ってこない。そのことは、皆分かっている」
彼女は暖かい声でそう言う。だがその言葉にかみつくように、
「それでもその仇が死んだなら、少しは報われた気持ちになるかもしれない!」
緑は吠える。その言葉を、彼女もまた、
「そうかもしれない」
そう一部認めるように、だが、
「でもそれだけ。そして直ぐ失ったものの大きさと、心に空いた穴の大きさに気づいてしまう。それに緑が死んだら、あなたのために死んでいった人たちはどうなるの?
誰かの命を望まず奪うのは、辛くて悲しい事だと思う。でも自分が死ぬことで自分が犯した罪から逃れようなんて、ただの自己満足だと思う。同じ自己満足なら、罪の意識に押しつぶされそうになっても、自分と、自分を思ってくれる皆、自分のために死んでいった命のために、その死を背負生き続けること。そっちの方が私は、尊い事だと思う」
そう優しく告げる。緑は何も言えなかった。哀は続けて、
「緑はもしかしたら、自分のわがままのために相手の命を奪った事を辛く思っているのかもしれない。でもそれは私も同じ。私は多くの人を救うためなんて、そんなたいそうなことのために逃げてきた訳じゃない。ただこれ以上、自分のために誰かが命を奪い合う光景を見たくなかっただけ。ニホンに帰るのを望まなかったのもそれが理由。
だから私も、ただ自分のわがままのために、緑が願ってやまなかったものを捨てた。私だって緑と同じ、結局自分のために戦ってる。
むしろ、謝らなければならないのは私の方。私は、緑が苦しんでいることを知っていた。もう誰も殺したくないと心の中で叫んで、涙を流しているのを知っていた。
分かってた。緑はニホンで戦ってきた経験があるといっても、本当は私と同じ。どことも分からない世界で、運命に振り回されて、それでも必死に生きようと、ニホンに帰ろうともがく、ただの背伸びした子供なんだって。
分かっていたのに、私は緑に守ってもらった。殺さないで、そう言って、余計緑を追いつめてしまった。自分は緑にそんなことを言う資格がないとわかっていて、緑が苦しむとわかっていて、それでもあんなことを言ってしまった。
だから、
ごめんなさい緑。あなたに、こんなに命を奪わせてしまって。あなたをこんなにボロボロにして。あなたに、辛くて、悲しい思いをさせて」
暖かな雫が体を打つ感覚が、緑の中によみがえる。そのあたたかな雫は、その冷たくなった心を温めるようにしみこんで、それでも緑は、
「違う、僕にもっと力があったなら。僕が誰も殺さなかったなら。ごめん、哀」
そう何かに抗うように答える。差しのべられた暖かさから逃れようとするのは、その暖かさに、自分の身や心までもが、溶かされてしまいそうに感じられたからだ。そんな緑を、暖かく柔らかな感触が優しく包み込んで、
「ごめんなさい、緑。」
暖かな雫は、彼の心を包む氷を溶かして、
「でも私は魔女。魔女は、とてもよくばりなの。だから、私はあなたに」
熱くなった瞳から、
「生きていてほしい」
暖かな雫が、どうしようもなく溢れ出して、
「死んでほしくない」
頬を伝って零れ落ち、彼女の心に染み込んで、
「それが今の私の、魔女の、一番の願い。だからお願い、緑」
彼女の心をむしばむ血を、
「私の願いを、叶えて」
優しく洗い流して、
「叶えてよ」
何かが、彼女の心を優しく包み返す。それはとても弱々しく、震えて、でもその暖かさと優しさが、彼女にはかけがえなく愛おしく思われて、
「緑」
互いが互いの心を、
「哀」
優しく包み込んで、
闇の深淵の中、真っ赤な血に染まった世界の中で、二人は互いを二度と離さないよう、強く、強く、抱きしめあった。
いつぶりか雲一つない快晴の空に、煌々と世界を照らし出す太陽が浮かぶ。青白い月はその役目を太陽に譲り、だが遠くで密かに二人を見守る。そんな太陽と月が見守る森の中、いくつかの人影が機敏に動き回っていた。だがその中には、全く動かないで仁王立ちしている人影が二つある。その全く動かない人影に、機敏に動いていた人影が近づくと、
「将軍、準備が整いました、急いで出発してください」
そう少し焦りの混じった声で言う。だがその言葉にアカバは全く動かず、
「いや中佐、もうしばらくここにいよう」
強い口調でそう告げる。だが中佐はその言葉の意図を酌むことができず、
「しかし、ドラグールとグラフィスの開戦は間近に迫っています。すぐ出発しないと」
そう、こちらも強い口調で返した。だがそれでもアカバは首を横に振り、それから視線で地面の方を示す。その視線の先を中佐は見、再び開こうとしていた口を閉じずにはいられなかった。そしてわずかの後、呆れと諦めを含んだ表情を浮かべ、だがわずかに微笑む。そして直ぐに表情を真剣なものに戻すと、
「移動時間を短縮できるよう全力を尽くします。出発できるようになったら言ってください。すぐに出発します」
そう言って踵を返した。アカバは去っていくその背中を見つめる。と、隣から、
「軍人としてはありえない判断だが、な」
そうブレイズが微笑と共に声をかける。その言葉にアカバもまた、自分も甘いなと微笑を返す。そして二人は同時に視線を地面の方に向ける。
そこにあるのは地面に横になる二つの人影。二人は互いに向き合い、寄り添いながら、胸をかすかに上下させ、心地よさそうに寝息を立てる。
そんな二人の寝顔は、これ以上ないほど幸せそうに見えた。