第六話
灰色だった空が色を濃くし、降り注ぐ雨は勢いを増して、地面に流れる赤い血を洗い流す。
「くそっ、奴らは近くにいるはずだ、探せ!」
遺跡に怒声が響き渡る。その言葉に、黒いフードたちはそれぞれ頷き、目標を追って走り出す。だが彼らは気が付かなかった。彼らの走り抜ける瓦礫の道。その脇に、半ば瓦礫に埋まるようにして空いていた地下に続く穴の存在。その近くにわずかに残る血痕に。
しかしその十秒ほどのち、一人の男がそれに気づき足を止める。男は血痕を人差し指でなぞると、暗く何も見えない穴の中を覗き込む。そして不敵な笑みを浮かべると、
「なるほど。だが、俺からは逃れられないぞ」
そう呟き、血痕をふき取る。そして穴には入らず、ビルの間をどこかに向かって走り始める。肩に鉄砲を担いで。
同じころ、長年人の声が絶えていた暗闇の世界に、いつぶりかの人の声が反響する。そこは地中を走る、直径2メートル半程の排水管の中。それは地中深いところにあるが、天井部のあちこちが崩落して穴が開き、そこから地上の光が、光の柱となって中を照らし出す。足元には十センチほどの深さの冷たい水が流れ、中には外の道ほどではないが、小石などの瓦礫が大量に沈んでいた。
そんな排水管の中を、緑は激しく息を切らし、冷たい水に足を踏み入れながら、哀を背負って走る。空気は真冬の空の下にいるように冷たく、その場にとどまっているだけで凍えてしまいそうなほどだが、緑は決してペースを落とさない。
そんな彼に背負われた哀の表情は険しく、冴えない。彼女の視線の先にあるのは、返り血に染まった彼の背中。本当は分かっていた。それでもどうしても言いたくて、だが自分にそれを言う資格はないと、口を閉ざす。
そうしているうち二人の視線の先に、天井に空いた穴から差し込む光とは別の、通路の出口と思われる光が現れる。その光に向かって緑は走る。
やがて二人が光の差し込む場所までたどり着くと、そこにあるのは、高さ約二十メートルの切り立った崖と、その下に流れる川、どこまでも広がる森の景色。
遺跡の北東部は高さ約二十メートルの断層で切られている。その面で遺跡は北東側が沈降、南西側が隆起し、その面が垂直に近い角度の崖になっているのだ。崖にはもとは下水道や排水管だったり、地下通路だったりの穴が他にも多数空いていて、そのそれぞれから水が滝のように崖下に落ち、川を作っている。
緑は敵がいないか確認しようと、崖下の川と森、それから崖の上を見回す。そうすると彼から見て右側、僅かに張り出した崖の上、距離にして百メートル弱ほどの位置に、不気味にたたずむビルが見えた。そのビルの位置から緑たちは丸見えであり、狙撃には絶好。緑はそれを見、この世界の銃の精度がいいとは思えないが、それでも安全距離とは言えないと思う。そんな彼の思いに哀の方も直ぐに気付き、その上で、
「たぶん私以外の誰も知らないことだと思うけど、この排水管の左側の崖には、誰かがこの崖を登り降りしようとしたのか、人が足をかけられる杭がたくさん打ってある。だから降りること自体は可能だし、降りた先にも一応川を渡れそうな場所はある。
でも勿論あのビルから狙撃を受ける可能性もあるし、降りている途中で追手に見つかったら、逃げる術はない。引き返している余裕もない。でも私はここを下りる以外、遺跡を抜ける方法をしらない。だから……」
そう弱々しい口調で告げる。緑はその言葉に、今はここを下りる以外に方法はないと思い、彼女に頷きを返す。それを見た哀は、その一瞬少しだけ安心したかのように表情を緩め、だがその一瞬後には表情を引き締める。
緑はそんな哀の反応を見、彼女を背中から降ろすと、排水管の左側のふちに近づき、そこを手で握り、足を崖におろす。そして下した足が杭を捉えるのを確認すると、手招きして哀を呼び寄せる。それを見た哀も排水管のふちに近づくと、彼と同じように崖を下り始める。
崖には杭がある程度の規則性をもって無数に打ち込まれていた。だがいくら杭を足場にしているとはいえ、こんな崖を命綱もなしに降りるなど、安全とは言えない。だが今の二人にはそれ以外の方法がなかった。しかしこの崖を下りるという方法自体が追手の想定を超えており、彼らを出し抜く事が出来るのではと思われた。
それから数十秒、二人は追手に見つからないことだけを祈りつつ、崖に足場となる杭を探し、泥だらけになりながら、少しずつ崖を下りていく。追手の気配は全く現れない。気がかりはビルからの狙撃だが、ビルと二人の間には、排水管から水が滝のように流れ落ち、二人をビルから隠してくれるように思われた。だが見つかれば終わりという思いが二人を焦らせる。
濡れて滑りやすくなった杭に、緑が足を滑らせたのはそんな時だった。
「緑!」
哀の叫びが木霊する中、緑は残った両手と足一本で何とか体を支え、崖にすがりつく。
だが哀が緑に気を取られたその瞬間、今度は彼女が右足を乗せた杭が抜け落ち、運の悪い事にその衝撃で左足のかけていた杭も抜け落ちてしまう。両手だけでは体を支えきれない哀は、それでも懸命に杭を掴んでいたが、数秒でついに手を放してしまう。
「哀!」
緑は彼女に向かって懸命に右腕を突き出す。それに応えるように哀も必死に手を伸ばす。次の瞬間、重なり合う二人の手。緑の細くも筋肉質な指が、哀の手を離すまいと握り、彼女の細く白い指もまた、彼の手をしっかりと握り返す。直後伝わる彼女の重み。それを緑は腕一本でしっかり支える。その重みは同時に、崖に張り付く彼の左腕や両足にも伝わるが、それらも彼の思いに応えるように、しっかりと崖を捉えて離さなかった。
緑に支えられ、体を左右に揺らす哀。緑はそんな彼女を腕一本でしっかりと支える。哀を救うことができた。だが緑の腕に伝わる哀の重みは、彼が初めて彼女に会った日、落とされた吊り橋で彼女を支えた時と比べ、明らかに軽くなっていた。つまりそれは、彼女がすでにやつれていたあの頃にもまして、やせ細っていることを意味していた。
緑はその時、先ほど哀が緑の光を放った後、激しく消耗していた姿を思い出す。そしてそれがこの体重の減少にも関係しているのではないかと考え、だが今はそんなことを考えている場合ではないと、ひとまず頭からその考えを追い払い、彼女の体を引き上げようと右腕に力を込める。
その瞬間、緑の右腕のひじを、見えないほど高速の何かが掠め、聞きなれた銃声が辺りに響き渡った。緑が銃声のした方を見ると、そこにあった緑の警戒していたビルの中階層の窓から、漆黒の銃口が突き出されていた。程なく銃口は窓の奥へと消える。
それを見た緑は状況の悪さに歯ぎしりする。突然の狙撃手の出現。二人はまだまだ崖の高い位置におり、降りる時間はない。かといって再び戻るのも難しい位置だ。その状況に、緑は対抗手段を考えるより先に右腕に力を込め、哀を引き上げる。引き上げられた哀は自力で崖の杭に手足をかけ、崖にとりつく。緑はそれを確認し、再びビルの方を見る。
そんな二人に対し、ビルの狙撃手は素早く次弾を込めると、反撃される恐れがないと判断したのか、悠々と身を乗り出すように銃を構える。直後、再び辺りに響き渡る銃声。放たれた弾丸は排水管から流れ落ちる水を貫くと、ビルを睨んでいた緑の左頬を、見えないほど高速で駆け抜けた。刹那、浅く一直線に引き裂かれる肌、宙を舞う赤い血。そこから伝わる、焼けるような痛み。
「くそっ」
緑はそう吐き捨て、ビルの狙撃手を忌々しげに睨みながら考える。狙撃手から二人までの距離は目算で百メートル弱。ニホンにいたころ使っていたライフルならともかく、この世界の銃では、この距離での正確な射撃は難しいはず。だが相手は、排水管から流れ落ちる水でこちらを視認しにくい状況で、正確な射撃を行っている。このまま射撃を受け続ければ、命中は時間の問題だ。次の射撃が脳天を撃ち抜く可能性だってある。少なくともニホンで戦っていた頃は……
「緑」
届く不安げな声、肩を掴む弱々しい手の感触に緑が振り向くと、そこには申し訳なさそうな表情で彼を見つめる哀の姿。
「ごめんなさい。私がここを下りようなんて言ったから」
かけられる言葉。その瞬間、緑は心の中で、自分は何をやっているんだ、これからニホンに帰らなければならないというのに、こんな所で弱気になってどうする。そう自分を叱咤する。
先ほどの射撃からこの間わずか十数秒。再び急速に回転を始める思考。良くも悪くも、彼は絶体絶命の状況を何度も体験してきた。そしてそのたび生き残ってきた。次の一瞬、緑の脳裏にひらめく活路。だがそれは同時に二人の身を滅ぼす危険をも伴うもの。しかし緑は迷わず決断する。そして隣の哀を見ると、その瞳を見つめて、
「飛び降りよう」
真剣に、
「下は川になっているから、運が良ければ死なずに済む。それにこのまま銃撃にさらされながら降りるより、まだ可能性はあると思う。だから……」
そう告げ、手を伸ばす。
「一緒に、来て」
その言葉に、哀は緑の瞳を見つめ返す。その瞳は、自分と同い年くらいの少年とは思えないくらい大人びて見えて、だが彼女は確かにその姿の中に、自分と同じくらい幼く、弱い少年の姿を見ていた。だが哀は、そんな緑に優しげな微笑を送ると、
「はい」
そうとだけ告げて、その身を預ける。そんな彼女の言葉、預けられる体に、緑 は、
「せめて……」
気づかないうちに、そう呟いていた。
次の一瞬、緑は哀の体を強く包み込むと、自分の体が下になって、哀を水面の衝撃から守れるように。そう思いつつ、杭から手を離し、崖を蹴った。
「なっ!?」
思わずそう漏らしたのは、ビルの中から二人を銃撃していた狙撃手。彼にとって二人の崖を飛び降りるという行動は、そう思わず漏らしてしまうくらい常軌を逸したものだった。
だが彼もプロだ。直ぐに思考を回復すると、落ちる二人に向かって銃口を向けようとする。だがそれとほぼ同時、彼が銃口を突き出す窓に、外側から何かが投げ込まれる。そして彼の足下で硬い音を立てながら転がる黒い球体。
「爆弾!?」
狙撃手はそれを確認すると同時、足でそれを蹴り飛ばすと、逃げ場のないビルの中で、必死に身を伏せる。直後外から聞こえる、二人が川に落ちる音。それとほぼ同時、狭い空間の中に何か気体が噴き出す、気の抜けるような音が響いた。
狙撃手はそれでもしばらくは、伏せた体勢のまま爆発に備える。だが球体が爆発する気配は一向になく、猛烈な白い煙が、ビルの中に充満した。そうなるに至ってようやく、狙撃手は布で口元を抑えつつ立ち上がり、辺りに充満する白い煙を見、
「ちっ、煙玉か……」
そう忌々しげに吐き捨てる。それから彼は窓の外、二人の落ちた川を見た。だがそこに人影は無く、川の流れる先は森の木々が覆っていて、その様子は全く分からなかった。その状況に煙の中で狙撃手は、
「あいつらに協力者がいるのか、それとも内通者か、はたまた……」
煙玉を投げ込んだ主を予想し、そう漏らす。
だが次の一瞬には思考をやめ、不敵な笑みを浮かべると、誰に対してか、
「まあいい。このことと、奴らがすでに遺跡を突破したことは、他の連中には黙っておいてやる。俺としてもあの得物を他の連中にとられるのはしゃくだからな。だが奴らを仕留めるのは俺だ。たとえどれほどの時間がかかろうと、必ず。それだけは覚えておけ。」
そう大声で独り言を言い、去っていく。
彼が去ったのち、ビルの中に、願うような声だけがわずかに響いた。
「無事で……」
視界の中、先ほどまで自分がとりついていた崖と、灰色の空が遠ざかっていく。肺が浮き上がるような感覚の中。緑は哀を抱きしめ、目を閉じて衝撃に備えた。
次の一瞬、背中を襲う水面を突き破る痛み。速度のある体が一気に水面下に沈んでいく感覚。その一瞬後、硬い石の水底が彼の背中をしたたかに打つ。背中に伝わる痛み。水底に跳ね返される体。直後には、息のできない苦しさと、痛いほど冷たく、下流へ押し流そうとする水流が襲いかかる。その感覚に緑は、閉じていた目を開け、痛む体を動かし、何とか水面に向かう。その体はじれったいほど鈍重だったが、間もなく水面に浮かんでいった。
やがて濁った川の流れの中に二つの顔が現れる。川は崖から落ちた二人を受け止め、押し流すのに十分な深さと水量があった。
「哀!」
緑は腕の中、瞳を閉じた彼女の名を呼ぶ。
「緑」
応える声と共に、哀は目蓋を開け、優しげな笑みを緑に送った。そんな彼女の笑みに、緑は全く余裕のない中で、
「よかった……生きてる」
そう噛みしめるように言い、彼女を抱きしめる。もし普段の緑なら、恥ずかしさからこんなことはしなかっただろうし、できなかっただろう。ただこの時は、何も考えないまま、気づかないうちにそうしていた。そしてそんな緑を、哀もまた抱きしめ返す。
だがそうしているうちにも、服は水を吸って重くなり、冷たい水に体の感覚は麻痺していく。同時に二人を押し流していく水流。
「行こう」
緑はそう哀に告げ、動かない体を必死に動かして岸を目指す。哀もまたそんな緑についていくように、動かない体を必死に動かす。
泳いでも二人の体は全くと言っていいほど前に進まない。沈まないようにもがくのがせいぜいといったところ。だが泳いで進まなくても、水流が二人を下流へと押し流す。
その内、緑の視界の先に、岸辺近くの水面に突き出す、先のとがった岩が現れる。緑はその岩に近づこうともがいたが、そうするまでもなく、体は岩に吸い込まれるように押し流されていく。その数秒後、緑は岩に引っかかるようにぶつかる。
麻痺した体にかすかに伝わる、硬い岩の感触。それを緑は必死に右手で掴むようにしつつ、隣にいた哀に左手を伸ばす。そして偶然か必然か、哀も緑とほとんど同じように流されていて、伸ばされた手は直ぐに哀の手を掴む。緑は掴んだ手をほとんど麻痺した腕で、それでも離さず引き寄せた。
再び寄り添う二人。すでに水深はかなり浅いところまで来ている。だが同時に二人の体力もほとんど限界だった。それでも緑は、
「もう少し」
絞り出すように励ます声を哀に送って。哀もまたその言葉に応えるように前に進む。やがて二人は両手両足で水底を這うように進んで、とうとう小石だらけの岸に、もはや立ち上がる力もないながら、必死に這い上がった。
ぼやける視界、感覚の全くと言っていいほどない体。そんな中で緑は隣を振り向き、視界の先に瞳を閉じた哀の、確かに胸を上下させ息をしている姿を見て、
「よかった」
そうとだけ呟くと、ゆっくりと瞳を閉じる。
その直後、それまで雨を降らせていた灰色の雲に切れ間ができ、太陽が姿をのぞかせる。そこから差し込む明るく暖かい陽光が、冷え切った二人の体を温めていった。
「例の事件を調査した所、裏で奴らが関わっているらしい証言、情報が多数得られました」
深夜の森。そこで誰か女性の声が男に報告する。その声に今度は男の声が、
「グラフィス軍武器庫の襲撃に関してもやはり奴らの影。なるほど、そういうことか」
そう返答する。その声色は、その先の全てを見通しているようにはっきりしていた。さらに男は続けて、
「だがこれだけでは決め手に欠ける。上層部の石頭どもを黙らせるには、やはり彼女の力が必要だ。お前たちは例の準備をしてくれ。俺は彼女を保護しに向かう。だが奴らの警戒を迂回するとなると、到着は明日の夜以降になってしまうか……」
そう言い、すこし表情を曇らせる。
その時、どこか森の奥から、
「それでは間に合わない!」
そんな怒声が響き渡る。その声に、その場にいた二人は、得物に手をかけながら、森の奥の声の主の方に視線を送る。だがそこにいた人物を見、男はさらなる驚愕の表情を浮かべ、言葉を発そうと口を開きかけた。
だがそれより早く、視線の先の相手は
「説明している暇はない。今すぐいかないと間に合わない」
そう言い放つ。その言葉に、男の頬を一筋の汗が流れ落ちる。
宙に浮かぶ欠けた月を、黒く厚い雲が覆い隠す。