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第五話

 灰色の雲が空を覆い、大地を薄暗く染め上げる。降り注ぐ雨粒の勢いは激しくなく、だが霧雨と言うには雨粒は大きい。

 緑は濡れた額をぬぐいつつ、目の前にたたずむそれを、懐かしげに見つめる。それは大部分が崩れ落ち、廃墟と化したビル街。この世界の人々にとってそれは、かつてこの世界を支配した、人間の古代文明の遺跡。遠い昔に滅びた今、彼らの築いた街は本来の役目を忘れ、白い霧と森の木々にその身を隠し、だがその異様な存在感を隠さないまま、そこにたたずみ続ける。

 緑の隣にいる哀もまた、彼と同じように懐かしげな視線を送り、だがしばらくして、

「ここはこの世界の人々にとっては、大昔に滅びた人間の古代文明の遺跡。人が入ることすら禁忌とされ、誰も近寄ろうとしない。荒れていて歩きにくいけど、私は小さなころに来たことがあるから道案内できる。川を越えられる場所も知っている。

 ここ以外は相手の警戒も厳しいみたいだし、迂回している時間ももうない。前も一度聞いたけど、私はここを通ろうと思う。それでもいい?」

 そう問いかける。それに緑は無言でうなずくと、哀に言われるより早く、自分の意志で足を前へと踏み出す。そんな彼を見、哀も足を前へと踏み出す。

 初めて会った日から一週間が過ぎていた。難しいと思われた北東の山地の山越えは、時間こそかかったものの何とか成功。そのかいあって二人は追手の追撃から、一時的とはいえ脱することができた。

 だがさすがに疲労困憊し、その後は休息を取りながらの移動となったため、行程自体はあまりはかどらなかった。さらに追手の警戒網が川沿いに展開されていることを知った二人は、本来通る予定だった場所を通ることができず、そこも迂回。最終的にたどり着いたのがここだった。

 一週間もの時間がたっていたにもかかわらず、二人はまだお互いの秘密について口を閉ざしたままだ。それでも歩く二人の距離が心なしか近づいているように見えるのは、多分気のせいではないだろう。

 そうして二人は崩れたビル群の中に入る。だがそこは、かつて人が住んでいたとはとても思えない荒れようだった。形を残しているように見えた建造物も、そのほとんどが根元の部分で崩壊している。さらに樹海の木々が、硬い建材の割れ目から芽吹き、緑色の苔が瓦礫を覆う。この遺跡もやがては森に呑み込まれることになるだろう。

 やがて二人は遺跡の中心へと入っていく。そこまで来ると、樹木は見えなくなり、逆に建造物は、形を残しているものが多くみられるようになった。中にはまだ、人が中に入っても大丈夫そうなものまである。

 二人は瓦礫でほとんどふさがった道を、足下に気を付けながら歩く。建材の中には、中に入っていた鉄筋がちぎれ、とがったまま露出しているものも多くある。緑はそれを見、それから視線を上げて辺りを見回し、そこにかつて広がっていただろうビル街の景色を想像した。

 だがその時、緑は視界の先、距離にして六、七十メートルほどのビルの頂に一瞬、何か動く影を見たような気がした。直後、

「伏せて!」

 叫びつつ哀に向かって飛びかかるのと、ビルの頂から銃声が響くのはほぼ同時。

 直後、突然のことに驚くことすら間に合わない哀を、緑は両手で抱きかかえつつ地面に飛ぶ。その彼の頭上、一瞬前まで哀の頭があった場所を、鉛弾が彼の髪を撫でつつ貫く。その直後、緑は哀が地面に体をぶつけないよう、自分の背中から地面に落ちるように身をひねった。

 一瞬の後、何が起こったのか分からない哀の感覚に、鈍い音と衝撃が伝わる。その感覚に、哀はとっさに閉じてしまっていた目蓋を開く。と、その目に映し出されるのは、頭から血を流し、哀をかばって地面に倒れた緑の姿。

「緑!」

 哀は元から良くない顔色をさらに蒼白にしながら、横たわる彼の両肩を握り、必死に名前を呼ぶ。

「大丈夫」

 緑はそう、うめくように言いつつ目を開ける。それを見た哀は開きかけた口を閉ざし、代わりに一瞬、表情を緩める。緑はその事に気付かないまま、痛む体に鞭を打って起き上がる。哀はそれを見、彼に左手を差し出し、

「来て!」

 そう言い、左手を差し出す。その手を緑は手首を掴まれるのではなく、右手でしっかり握り返す。そして二人は一気に走り出す。哀が走るのに緑が引きずられるのではなく、二人が二人の足で、二人の意志で。

 二人は先ず、先ほど人影が見えたビルから死角になる場所に駆け込む。そして一度足を止め、状況と安全を確認するため辺りを見回す。と、先ほど人影が見えたビルの辺りから、火の玉が勢いよく空に向かって飛び出し、青い煙を吐きながら上空まで上がる。それが携帯用の狼煙のものだと二人は理解すると。無言でうなずきあい、再び走り始める。

 二人は激しく息を吐きながら走る。周りには比較的形状を保ったビルが並ぶ。足元は相変わらず瓦礫だらけで危険だが、二人は構わず、走り続けた。

 だがしばらくして、

「いたぞ!」

 その声がビル群に反響する。声のした方に緑が視線を向けると、そこには槍を手にした追手の姿。さらに二人が向かう先にも、剣を手に道をふさぐ二人の追手。それを見た瞬間、緑は心の中で覚悟を決め、

「やるしかない、やられる前に」

 そう呟くと、握っていた手を離す。そして拳銃を抜き放つと、その照準を追手の眉間に向けた。

 だがその時、

「撃たないで!」

 その言葉が聞こえると同時、緑の視界全体が薄緑色の光に包まれる。その光に、追手も目を覆う。

「哀!?」

 そこにいたのは、薄緑色の閃光を全身から放ち、追手に突進する哀。彼女は追手の目前に達すると、いつのまにか手に握っていた細身の長剣を、追手の握る剣に向かって振り下ろす。それを見た追手はとっさに剣を構え、見えないそれを防ごうとした。

 次の一瞬、哀の一撃を防ごうと構えた追手の剣を、哀の振り下ろした長剣が泥のように切り裂く。そして切られた剣が宙を舞う中、哀は剣の柄で追手の胴体を打ち、一滴の血も流さないまま相手を倒す。

 その状況を、緑は驚愕のあまり呆然と眺める事しかできない。そうしている間にも哀は刃を振るい、もう一人の追手の剣を切り折り、また剣の柄で打って相手を気絶させる。だがその直後、哀は急速に光を失い、いつもの彼女の姿に戻る。その一拍後、彼女は崩れ落ちるように、地面に膝をついた。

「哀!」

 緑は彼女のもとに駆け寄り、フードの中を覗き込む。そこにあるのは激しく息を切らし、尋常ではない量の汗を流す哀の姿。緑には先ほどの現象が何だったのかは分からない。だがそれが原因で彼女がかなりの体力を消耗してしまったということは理解できた。    

 だがそれと同時、緑は背後から迫る足音を聞き取ると、拳銃を手に立ち上がり振り向く。そこには槍を手に走り寄る追手の姿。緑はそれを見ると、哀に近づかせまいと数歩前へ出、銃を構える。

 しかしその時、緑の右腕に誰かがしがみつき、その照準をずらす。緑は早く振りほどいて敵を倒さねばと、とっさに体を力いっぱい回転させる。その回転に、しがみついていた誰かはなすすべもなく振りほどかれ、地面にたたきつけられる。

 だがその時、緑は地面に叩きつけた相手の姿を見、

「哀!?」

 ようやくその事実に気づく。そしてその混乱が彼の反応に、一瞬の遅れを生じさせた。

 次の瞬間、緑は気づく、追手が間合いを詰め、槍を突き出そうとしていることに、それも自分ではなく、哀に向かって。

 それを見た緑は、敵を止めようと銃口を向けようとし、だがそれより早く追手の槍が突きだされる。

間に合え!

 緑は心の中で叫び、反射的に突き出された槍に銃口を向け、狙いも付けないまま引き金を引く。

 次の一瞬、銃弾は偶然か必然か、槍の柄を貫き、その刃の付いた穂先をへし折り、さらに衝撃は槍の軌道も逸らす。だが完全には逸らし切れず、最終的に哀の左足、その脛のあたりに、折れた槍の柄のとがった先端が突き刺さった。

人体の傷つけられる鈍い音が響き、突き刺さったそこから血が飛び散る。だがその量は決して多くはない。それを見た追手は心の中で舌打ちをしつつ、折れた槍を引き、殺傷力が落ちているのも構わず再び突き出そうとする。

 だがその瞬間、追手の視界の端に、左足を軸に体を回転させる緑の姿が映し出された。

 次の一瞬、追手の側頭部に回し蹴りが叩き込まれ、追手は数メートル先の硬い地面にたたきつけられ、気絶して地面に大の字になる。緑はその姿を見、とどめを刺すまでもないと判断すると、

「哀!」

 地面に倒れた彼女に駆けより、赤い血に染まった彼女の傷を確認する。その傷は刃の付いた穂先で貫かれたものではないため浅く、だが歩くのは難しそうだった。緑はそれを見、きつく歯を噛み締める。そして近くの物陰に移動すると、直ぐに包帯を取り出し、彼女の足の傷に巻き始める。足に包帯を巻きながら緑は哀に、

「さっきはどうして?」

 その問いかけに、哀は悲しげな表情を浮かべ、振るえる声で告げる。

「殺さないで」

 その言葉は緑の心を貫くと同時、初めて会った日、彼女が言った言葉を蘇らせる。

 緑はあの後、結局彼女のその言葉に、答えを返していなかった。そしてそのつけは、こうして払わされることになった。緑はそうした自分の姿勢に、自分で嫌気がさす。だがそれでも彼は彼女の願いに、どうしても、首を縦に振る訳にはいかなかった。だから彼は険しい表情を浮かべ、硬く歯を噛み締める。そして彼女の足に布を巻き終えると、

「追手が来るかもしれない。行こう」

 そう声をかけ、彼女の目の前にしゃがむ。それは山越えをしたあの日と同じ光景。

 哀はそんな緑を見、

「ごめんなさい」

 そう言ってゆっくりと緑の背中に負ぶさる。緑は彼女を背負うと、素早く立ち上がり、行くべき先を見つめ、人一人背負っているとは思えない速度で走り始める。

 緑が彼女に言われ向かったのはビルの中だった。樹海と隣接していた場所ではほとんどが崩壊し、木々に包まれ中に入るどころではなかったビル。だが緑が入ると、その中はやはり瓦礫だらけで崩壊しかかってはいたが、中を十分歩ける空間が保たれていた。

 緑は中に入ってすぐ足を一度止め、哀に進むべき方向を聞き、迷いなく走り出す。瓦礫を踏むたび響く硬く乾いた足音。そうして走っているうち、二人の視界の先に光が差し込む。緑がそこに向かい光を潜り抜けると、そこはビルの外だった。

 そんな時、遺跡に甲高い笛の音が木霊する。追手のものと思われるその笛の音に、緑は顔をしかめ、だが止まらず走り続ける。そうして二人はまた別のビルの中へと足を踏み入れる。その中は先ほどのものより崩壊が進んでいた。だが緑は先ほどと同じように一度足を止めると、哀に行く先を確認し、また走り始める。ビルの外からは、追手の二人を探す声が聞こえる。だがそんな声を無視して緑は走る。

 緑は考えていた。この世界の人々にとって、ここは人が入ることすら禁忌とされる遺跡の中。そんな遺跡に入ることだけでも狂気の沙汰なのだ、そびえたつビルの中を入ることには、一層抵抗を感じるはず。ましてビルのほとんどは崩壊して中に入ることすら危険なのだ、実際に姿を確認されない限り、そんな中を進んで探索しようとは思わないだろう。というより、そうでないと困る。

 緑は頭を回転させながら迷いなくビルの中を走り続ける。そんな二人の走るビルの外からは、追手の声が度々聞こえた。だが緑の考えを肯定するように、声の主たちがビルの中に入ってくる気配は一向にない。

 そうしているうち、二人の視界の先にまた光が差し込む。だがその先に緑は人の気配を感じると、今度はむやみに飛び込まず、近くの壁に身を隠して外の様子を伺う。すると外にはやはり二つの人影があった。彼らは何かを探す様子はないが、全く移動する気配もない。二人のいるビルの中など、注意する様子もない。だがもし今、哀を背負ったまま外に出れば、さすがに気付かれるだろう。他に人影はない。が、状況からしてどこかにいるだろうし、待っていてはさすがにいつか見つかる。 緑は頬に汗を流し、ごくりとつばをのむ。そして表情を鋭くすると、地面にしゃがんで背中から哀を下し、ゆらりと立ち上がって

「道を開いてくる。哀はそこで隠れていて」

 そう言って再びビルの外に視線を向ける。だがその緑の腕を、哀は立とうとしても立てない足で、それでも必死に膝立ちになって彼の腕を掴み、殺さないで、そう心で叫ぶ。

 だが緑はそんな哀から顔をそむけ、掴まれた手を振り払う。そうしてまるでなにかから逃れるようにビルの外に出る緑に、哀は最後まで、心で叫び続けていた。

「きれいごとだ」

 緑はビルの外へ出て一人、小さな声で呟く。

「正義も悪もない。殺さなければ自分が殺される。なのに、殺さないで、なんて。そんな事……」

 緑はまた呟く。だがその表情は苦虫をかみつぶしたように苦々しく、声も怒りより悔しさと悲しさの方が強いように思われた。

「俺は……僕は……」

 力なく漏らしたその言葉を聞いていたのは、たった一人だけだった。


「まだ見つからないのか?」

黒いフードの一人が問いかける。その問いかけに、もう一人が首を横に振り、

「この近くまで来ているということは分かっているんだけど、ここまで来て忽然と姿を消したらしい。もしかしたら、この摩天楼の中に隠れているのかもしれない」

そう答える。それに、もう一人は険しい表情を作り、

「くそっ、こんな得体の知れない遺跡、直ぐにでもおさらばしたいのに。この上得体の知れない摩天楼の中を捜索なんて、冗談じゃない。しかも相手は、かつてこの世界を支配したっていう人間の古代文明の軍隊を、たった一人で打ち破ったと伝説に伝わる、あの緑光の魔女本人だって噂じゃねぇか、見つけたら逆に俺たちの命はねぇんじゃないのか」

そう吐き捨てる。彼らは家が貧しく、家族を養う生活費を稼ぐため雇われ、仕方なく見張りをしている。賞金狙いでこの遺跡に来た他の傭兵とやっていることは変わらなくても、そこに至る過程は全く別だった。だから吐き捨てられた言葉に、もう一人は、

「でもこの作戦さえ終われば、私達もあの貧しい生活から、ようやく抜け出すことができる。家族にもまともな食事を食べさせてあげられる。それに緑光の魔女の話だって噂にすぎないし、もし本当だとしても、今はかつての力を失って、相手を気絶させるのがやっとって話じゃない。だったら大丈夫。だから、あと少し……ん?」

そう希望的に話をして、だがその時その者は、何か言葉にできない違和感を感じ取る。それは全く根拠がなく、だが何か、とてつもない冷たさをはらむ。その違和感を伝えようと、その人はもう一人のほうに視線を向ける。だがその視界の中で、もう一人がその人の方を指さし、驚愕の表情を浮かべ、

「後ろ!」

 そう叫ぶのと、強烈な衝撃が足を襲うのはほぼ同時のことだった。

「え?」

 その者はようやくそれだけを口にして地面に倒れる。その姿を見たもう一人は、

「おのれ!」

 そう叫びつつ剣を引き抜き、仲間の足を撃った男に突撃する。だがその足を、続けざまに放たれた一撃が正確に射抜き、彼もまた地面に倒れ込んだ。


「よし」

 物陰から二人の足を撃ち抜いた緑は、そうほっと息を吐く。彼は哀の願いに首を縦に振る訳にはいかなかったが、それでも人を殺さなくて済むなら、それに越したことはないと思っていた。

 そして銃を使う場合、サイレンサーを失った彼は、どのみち発砲音が出るため、敵に位置を気づかれるのを許容するしかない。そしてどのみち気づかれるなら、敵は必ずしも命を奪わなくても、足を打って機動力をそぎさえすれば事足りる。

 目的を達成した彼は銃を片づけると、長居は無用とその場を去ろうとし、だがその前に一言、

「あいつらが言ってた、緑光の魔女、って……?」

 そう疑念を漏らす。彼の脳裏をよぎるのは、先ほど全身から緑の光を放ち、敵を薙ぎ払った哀の姿。だがいくらなんでも彼らの話は飛躍しすぎている。彼はそう疑念を心の中から追い出し、今度こそその場を離れようとした。

 だがその一瞬、背後から放たれた、

「死ね」

 その一言に、緑はとっさに身をよじりつつ背後を振り返る。と同時に左肩を襲う強烈な衝撃。緑は激しく息を詰まらせながら、視界の中央に、声の主の姿を捉える。果たしてそこにいたのは、先ほど緑に足を撃ち抜かれた者の一人だった。

 緑の拳銃は防弾装備を撃ちぬくための貫通に特化した特殊な徹甲弾を使用している。この弾丸は防弾装備に対して極めて有効な反面、人を目標にした場合、肉体をきれいに撃ちぬきすぎ、人体へのダメージが少ない特性がある。そのため人を狙う場合、人体にも相応の破壊力を持つ通常弾を使用するのが最適とされる。だがニホンにいた頃、防弾装備を有する敵とばかり戦ってきた緑は、貫通力のあるこの徹甲弾を装填しておくのを当たり前にしており、この世界に来てからも通常弾に切り替えていなかった。

 緑はこの時になってようやくその事を思いだす。相手は確かに足を撃ちぬかれていたが、その傷は歩くのが不可能なほど深くはなかった。そして相手はその傷の痛みに耐えながら接近し、彼の頭に剣を振り下ろした。緑がとっさに身をよじっていなかったら、今頃頭は真二つだっただろう。

 緑は激痛に襲われる肩を抑えつつ、必死に後ろに下がって体勢を立て直そうとする。だが追手は全く隙を与えずその間合いを詰め、剣を突き出そうと腕を引く。先ほどの一撃はスーツのおかげで何とか防げていたが、今度の狙いが、スーツの無い喉にあることを、彼は直感的に理解した。

 このままじゃ、殺される。殺さなきゃ、殺される。

 恐怖が緑を支配する。そんな彼の喉を狙い、追手は容赦なく突きを放つ。放たれた突きに、緑は反射的に右腕を横なぎにぶつけ、激痛に耐えつつ、その一撃を払う。そして腰を右にひねり、左足を踏み込むと、左腕を大きく引き、腰を一気に左に回転させつつ、相手の脇腹に左のひじ打ちを叩き込んだ。

 強烈な衝撃がフードの男を襲う。緑はその流れのまま、両腕を追手の胸のあたりにあて、一気に突き飛ばす。突き飛ばされた相手は体勢を崩しながら、後方に一歩、二歩と大きく下がり、だが三歩目で大きな瓦礫に足を取られ、背中から地面に倒れそうになる。

 その一瞬、緑は目撃する。追手が倒れ込もうとする地面から突き出す、赤くさび、先のとがった、ちぎれた鉄筋。緑が気づいた時、彼の手はすでに、追手に向かって差しのべられていた。だが相手が握り返すはずもなく。その手はむなしく空を掴む。やがて追手の体はゆっくり倒れていき、その丁度首のあたりに、鉄筋が当たったように見えた。

 気が付いた時、緑は追手に背を向けていた。そんな彼の耳に響く、断末魔の悲鳴。背中に雨とはまた別の、生ぬるい液体が飛び散り、彼の体を赤く濡らす。何かが激しく地面をのたうつ音。おぞましい、言葉をなしていない叫びが、緑の心を締め付ける。その音と声はしばらく続いたが、やがて静かになり、ついに鳴り止む。

 やっと終わった。

 緑がそう思った、その時、

「死にたくない……」

 その言葉が緑の耳に届く。その声は、耳に届くか届かないかという小さなもの。だがその声は、

「帰って、家族と……幸せに……」

 緑の心を握りつぶすには、十分すぎるものを秘めていた。

 それを最後に、背中側からは声も物音も聞こえなくなり、雨音だけが、彼の耳に入る。

 緑はその場に立ち尽くしていた。

 だがその時、やはり背中側から、

「よくも……よくも!」

 そんな怨嗟の声が聞こえてくる。それは緑に足を撃ちぬかれた、もう一人の声。

「必ず、殺してやる」

 かすれ、絞り出された声が、緑を呪う。その声に彼は振り返ることができないまま、走ってその場を逃げ出す。そんな彼を、その声は、

「どこまででも逃げるといい、私はどこまででも、いつまででも貴様を追い続ける。そして必ずお前を殺す。必ず!」

 がっしりつかみ、決して離さない。それはどこまでも終わりの無く、逃れることも出来ない、永遠の亡者の声のようだった。

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