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第三話

腹部から走るすさまじい痛みに、少年の意識が回復する。それと同時、川に落ちた時の事が、彼の脳裏にフラッシュバックした。

 あれからどうなったのだろうと思う。矢を受けた時の感触から、矢がスーツを貫通しなかったことは分かっていた。だがそれ以外の事は全くと言っていいほど何もわからない。

 そこで彼は上半身だけ起き上がり、左右を見回す。だが辺りはわずかな光が入ってくる一点を除いて、暗闇に包まれていて何も見えない。そこで彼は身に着けていた装備からライトを手探りで見つけ、辺りを照らし出す。

 そこは洞窟の中だった。どうやら昨日流された川とつながっているらしく、わずかな光の入ってくる穴から水流が洞窟内に流れ込み、洞窟の奥へと続いていた。

 川に流されたのか、昨日身に着けていたメットがなくなり、他にもサイレンサー(消音器)等、いくつかの道具も失った。矢を受けた腹部もひどいあざができている。それでも追手から逃れられ、何より死なずに済んだと少年は納得し、立ち上がる。

 へたにその場を動かない方がいいのではとも思った。だが助けが来るあてが全くないこの状況で、それを選ぶことは少年には出来なかった。穴からはかなりの水流が勢いよく流れ込んできているため、そこから外に出るのは難しく、水流の続く先に向かうのも危険に思われた。

 幸い洞窟には他にも人が通れる大きさの穴が多数あった。地上に向かって上り坂になっている所を進めば、そのうち地上に出られるだろう。少年はそう気を取り直して歩き始める。だがその足は若く力もあるはずなのに、どこか頼りない。

 少年は全く知らない洞窟を奥へと、ライトの光を頼りに進む。分かれ道ではどちらから来たのか分かるよう印を書く。だがそうしていても不安は拭えない。加えて少年は時間を確認できるものを持っていない。そのため時間の経過も感覚に頼るしかない。不安になって途中からは時間を数えながら歩くようにしたが、その数が増えていくうち、余計不安があおられるように感じられ、また数えるのをやめるのだった。

 それからしばらく後、少年の視線の先で洞窟はにわかに大きくなり、自然に形成されたものからコンクリートで覆われた人工と思しきものに変化する。少年は足を止め、ライトで辺りの様子を確認し、呟く。

「これは……地下鉄?」

 そこはひどく荒廃し人の気配も全く感じられず、線路の部分には水がたまっているものの、造りはまさしく地下鉄のホームのそれだった。少年は、地上に出るための階段や通路があるのでは、と辺りを見回す。だがその視線がまずとらえるのは、それまで光のほとんどなかった洞窟内に差し込む光の柱。

 その光は天井部分に空いた穴から差し込み、水のたまったホームの水面を照らし出す。少年はその天井の高さから、そこから脱出するのは難しいだろうと思いつつ、ふと光の差し込む水面に視線を送った。

 その瞬間、少年は見る。

「あれは……人?」

 水のたまったそこには、フードを被った人と思しきものが浮かんでいた。そして次の瞬間、その人は水の中へと沈んでいく。

 その時、少年の中を凍てつくような冷たい何かが走り抜ける。そして何かを考えるより早く、反射的に、ライトを片づけつつ、その人めがけて駆けだす。

 その人の体は全く動いておらず、おぼれたというより沈んだという様子だった。単に意識がないだけかもしれないが、もう死んでいる可能性も高い。だとすれば、自分の行動は完全に無駄だ。そんな考えが少年の脳裏をよぎる。だが、彼の動きが鈍ることはない。そして彼は光の差し込む場所にたどり着くと、一気に水に飛び込む。

 水は澄んでいて、水中でも光が差し込む場所だけは、ぼやけながらも水中の様子を見ることができた。少年は、彼の背丈より少し浅い程度の深さの水底に潜ると、沈んだその人を掴み、足でしっかり水底を捉え、鉛のように重いその体を抱え上げる。だが何度も体勢が崩れ、うまく持ち上げられない。

 冷たい水に体は凍え、息は切れ、自分が溺れそうになる。それでも何度も繰り返し、水底にたまった何かが体に引っかかるのを感じながら、ついに水面の上に、その人と共に顔を出す。

 待ち望んだ新鮮な空気を吸い込み、何度もせき込みながら、全身に酸素を供給する。鉛のように重い体をかかえるのは決して楽ではない。それでもかかえたその人から伝わる、確かなぬくもりと生き物の鼓動は、彼に大きな力を与えた。

 だが少年一人でホームの上にその人を引き上げるのは困難だ。彼はそれを理解し、どこか引き上げられそうな場所はないかと探す。と、幸運にもホームには一部、コンクリートが崩れてなだらかになった場所があった。少年はそれを見つけると、水底を蹴りながら慣れない足でその場所まで行き、その人を引き上げようとする。

 もし彼が生身の体なら、それも容易ではなかっただろう。だがスーツで運動を補助された彼は、体をコンクリートでこすりながらも何とかその人を引き上げる。そうして引き上げた直後、ほとんど全力を出し尽くした少年は、ホームに大の字に倒れ、激しく息をつく。その疲労感は尋常ではなく、しばらく休憩しないと体を動かすのさえままならないほど。だが少年の表情は、あくまで満足げなものだった。

 

 人の絶えて久しいその空間に、久々の人の息遣いが反響する。

 どれくらいの時間がたった頃だろか?ようやく疲れが和らいだ少年は、あまりもたもたしてはいられないと、疲れた体に鞭を打ち起き上がる。その時、彼はその体にいくつも何かがひっかかっているのに気づき、ふとそれを手に取る。そしてそれが何なのか見、思わず息をのむ。

 それは何か生き物の骨だった。中には人間のそれと思われものも混じっている。少年は直ぐ平静な思考を取り戻し、恐らく穴に落ちて溺れた者達の遺骸が、先ほど人を引き上げた際に引っかかったのだろうと推測する。だが思考は平静を取り戻しても、その心臓は激しく脈打ったままだった。

 少年は体に引っかかったゴミや骨を全て取り除くと、水面から引き上げたその人の方を見る。だが辺りは非常に暗く、ライトを使っていない今は、うつぶせになったシルエットくらいしか見えない。ただ聞こえてくるわずかな息遣いから、その人が無事なのは分かった。

 そこで少年は、このまま冷たい水にぬれた体を放置しておくのは、体が冷えて危険なのではと気づく。そして光が差し込んでいる場所まで運べば幾分体が温まるのではないかと思いいたると、その人を抱え、光の差し込む場所に移動し、そこにその人を仰向けで下す。その時になって初めて、少年はその人の顔を見、その瞬間、

「……え?」

 その日何度目かの、だがそれまでとは違う純粋な驚きに、おもわずたじろいでしまった。その直後、

「うっ、つ」

 その人は少年の見つめる先で辛そうに呻くと、一呼吸の後、ゆっくりと上半身を起こす。そして目蓋を開くと、徐々に焦点の合いつつある瞳で、少年を見上げた。

 

 その人は少年が今までの人生で見たことがある中で一番の、とても美しい少女だった。

 その人の外見年齢は少年とほとんど同じ。全身を深緑色のフード付きマントで包んでおり、体は細く、凹凸は少なく、頬も心なしか痩せこけているように見える。髪は黒く、腰まで届きそうなほど長い。肌色は少年と同じ東洋系だが、ひどく、というよりもはや病的なまでに色白。瞳は光の無い闇のような黒。目の下にはひどい隈があり、その表情はどこか生気がなく、半分死んでいるようにさえ見える。

 それらは彼女の本来の魅力をかすませているようだが、それでも十分彼女は美しく、顔立ちは整っていた。それは例えるなら、日の光の下咲き乱れる、赤や黄の派手な花の全く逆。日の光の届かない険しい崖、その岩と岩のわずかな隙間から芽吹き、厳しい風雨に打たれながらも健気に咲き誇る、一輪の清楚な花。

 二人はその一瞬、何も言えずただお互いを見つめ合う。それは単なる驚愕からではなく、お互いが持つ独特の雰囲気と、そこから生まれる不思議な感情からだった。

 だが数秒もたたないうち、

「降りるぞ!」

 天井に空いた穴から、そんな声が聞こえてくる。二人が同時に声の方に視線を向けると、穴から一本のロープが降りてきて、そのロープを伝い、片手に松明を持った人影が手際よく降りてくる。

 少年は全身を黒いフード付きマントで覆ったその人の姿を見、昨日の事を思いだし、追手が来たのだと判断、手を拳銃に伸ばす。一方黒いフードの方はその松明で少年と少女を照らし、

「目標を捕捉、それとは別に少年が一人います!」

 そう叫ぶ。するとその声に呼応し、穴の方から、

「目標を確保、他は全て口を封じろ」

 そんな返答が返ってくる。少年はそのやり取りを聞き、相手の目的は自分ではなく少女の方だが、どのみち自分は口封じで殺すつもりなのだと理解する。そして逃げるか、戦うか、思考を巡らせようとした、

 だがその時、今にも拳銃の柄を握ろうとしていた少年の右手を、誰かがつかみ、強く引く。振り向くとそこには、立ち上がり、両手で彼の手を引く少女の姿。

「来て!」

 彼女は少年の瞳を真っ直ぐ見つめ、必ずしも大きくない、だが強い意志を感じさせる声でそう言う。その言葉に、少年はどうすればいいか分からず、だが、少女の力に流されるように数歩よたよたと歩き、そこでこのままながされてはいけないと踏みとどまる。そんな少年に、少女はもう一度彼の瞳を見つめ、

「お願いだから。一緒に来て。信じて」

 そう、今にも泣きだしそうな表情で、懇願するように言う。その言葉、その表情に、彼は一瞬、心が握りしめられるような、そんな今まで感じたことの無い苦しさを感じたような気がした。そして再び手を引かれると、なぜだか抵抗できず、最初はよたよたと、だが徐々に足並みを揃え、気づいた時には全力で走っていた。

 後方からは人が地面に着地し、走って追いかけてくる音が聞こえる。一方少女は、いつの間にか少年の持ち物から抜き取っていたらしいライトを右手で握って洞窟を照らし、左手で少年の右手の手首を握って走る。その足取りは確かで、洞窟の造りをある程度理解しているかのようにほとんど迷いが感じられず、足が止まることも少ない。

 少女は地下鉄ホームから枝分かれした通路を進むと、現れた階段を駆け上がる。だが階段の出口は何かでふさがっているのか、光はわずかしかない。それでも少年は彼女についていく。と、たどり着いたそこは、倒木と落ち葉、少量の土砂などで半分以上ふさがっていた。

 だが少女は倒木の隙間に体を迷いなく入れると、土砂をかき分け、力づくで外に出る。それを見た少年も、少女に倣い、外に出ようとする。が、少女より体格の大きい少年は、簡単には抜け出せない。

 その一瞬、少年は少女が、自分をおいて逃げるのではないかと思う。そしてもしそうだとしても、決して少女を責められないと思った。

 だが直後、誰かが少年の手を握り、強く引く。見ればそこには、懸命の表情の少女がいた。その姿に、少年の中で何か熱い感情がこみあげてくる。そして少年自身も精いっぱいの力を込めると、ついに少年も抜け出すことができた。

 少年は数度息をつき、だが直ぐに立ち上がる。そして少女に感謝の言葉を言おうとし、だがそれより早く、少女は少年の手を握り、また強く引く。そんな少女に、少年も今度は抵抗せず、また走り始める。

 一方追手の方は、造りも分からない暗い洞窟で追跡するのに苦戦し、少年が抜け出してから少し遅れて、ようやく入口に達する。彼らは何とか外に出ると、笛を鳴らして外の仲間に状況の急を伝える。するとその音に反応し、即座に地上待機していた仲間たちが集まる。彼らは状況を知ると、狼のように無駄なく追跡を開始する。

 森のあちこちで甲高い笛の音が響き渡る。少年と少女は木々に姿を隠すよう走る。それでも追手は難なく二人を捕捉し、その姿を背後から視界にとらえ、

「あれは目標。と、誰だ、あの少年は?」

 その問いかけに、追手の一人が、

「分かりません。しかし、あの見たこともない出で立ち、もしかしたら……」

 その言葉に、もう一人は、まさかと声を上げ、

「あいつが影隊長を?」

 そう否定したい気持ちと、疑問の声を口にする。そんな問答を、最初に声を上げた男は、もういいと制し、

「相手が誰であろうと関係ない。確実に捕えるぞ」

 そう声を上げ、得物を抜き放つ。それにしたがって他の者たちも、それぞれの得物を抜き放つ。そんな彼らの視界の先で、目標である二人は姿勢を低くし、再び彼らの視界から姿を消す。だがそんなことはすでに何度も経験している彼らは動じず、

「急ぐぞ」

 一気に足を速める。同じような過程で目標を見失う苦汁を何度もなめていた彼らは、今度こそは見失うまいと辺りを警戒しつつ走る。

 逃げるより追う方が有利。木々の影に入り込んで追手をまこうとする二人を、追手は見失わずに追い続ける。そうこうしているうち、逃げる二人の動きが、追跡者をまこうとする動きから、直線的に変わる。

 その時、追跡者は耳に聞こえる川の音が大きくなっていることに気づき、違和感を覚える。川の音は、その場所に川が流れている事と、逃げ場のない川に向かって進んでいる事を指しているからだ。

 逃げる二人が気づいていないはずがない。ではなぜ?

 そんな疑問が脳裏をよぎるものの、それ以上のことは分からず、追撃を続ける彼ら。やがて彼らの視界の中で、追うべき二人は光の差し込む木々の間から森林の外へと出る。追跡者たちも迷わずにそれを追って森を出る。と、そこには、彼らの感じていた違和感の答えがあった。

「くそっ、まさか」

 森から出た彼らの見たもの。それは川と、その急流の作り出した切り立った岸。そしてそこにかかる、かなり前に打ち捨てられ、管理されなくなり朽ち果てたと思われる、太い縄で作られたぼろぼろの吊り橋だった。

 少年と少女はその不安定な吊り橋を、揺れに苦戦しながら何とか進む。それを見た追手は追撃をかけようと、吊り橋へ足を踏み出す。だがその時、追手たちの耳に伝わる橋の軋む音。

「吊り橋が……!」

 言葉と共に、追手は足を止める。彼らの視界の先で、吊り橋は見ていてわかるほどにたわみ、支える木材は今にも折れそうに曲がり、縄もいつ切れてもおかしくない状況だった。

 橋は打ち捨てられ、長年管理されていなかった上、元々が人一人通れればいいくらいの造り。数人が一度に通れる強度など最初からなかったのだ。

 その状況に追手は追撃するか一瞬迷い、

「戻るぞ」

 その言葉と共に踵を返す。彼らは橋と共に心中する危険を冒してまで、二人を追う気はなかった。それを見た少年と少女は、心の中でわずかに安堵しつつ、進み続ける。

 だが追手は、完全に諦めたわけではなかった。彼らは岸に戻ると、少年の視界の中で、おもむろに剣を掲げる。それを見た瞬間、少年は

「橋を落とす気だ」

 呟くと、一刻も早く対岸に渡ろうと足を出す。だが前を進む少女は、対岸まで橋の残り三分の一は進まなければならない位置にいた。

 少年はそんな少女を見、このままでは間に合わないと拳銃を抜き、追手の一人に銃口を向ける。揺れる吊り橋の上から狙うのは本来容易ではない。だが彼の所持する拳銃は、火薬式自動拳銃の完成形と評された優秀な銃。あまり動いておらず距離も近い追手に命中させることは十分可能に思われた。

 だがその時、何者かが少年の腕に激しくしがみつき、照準をずらす。少年がしがみついたその人を見ると、それは、

「だめっ!」

 そう強く叫ぶ少女。

「撃たないで、殺さないで」

 その言葉に少年は、撃たなければ殺されると、しがみつかれた腕を引き抜こうとする。だがしがみつく少女の力は決して強くはないのに、どこか執念を感じさせる粘り強さがあり、どうしても振りほどけない。

 そうしているうち、追手は振り上げた剣を、既に切れかかった吊り橋の縄へと振り下ろす。それと同時、吊り橋が大きく揺れ、元々安定性の低かった橋が、さらに安定性を失う。吊り橋を支える縄は本来頑丈で、そう簡単には切れるものではないが、元々ぼろぼろのこの橋では、長くはもたないだろう。

 少年はそのことを理解し、一層腕に力を込める。だがそれでも少女は少年の腕を離さない。少年は少女がどうしてそこまでして止めようとするのか分からなかった。だがこれではらちが明かないと思い、もう橋がもたないことも確認すると、

「分かった、撃たないから、離して、ロープに掴まって!」

 そう必死に言う。その言葉に少女はようやくしがみついたその手を離す。少年は少女の手をまだ比較的持ちこたえていた吊り橋の右側の縄に握らせ、自分も銃をしまい、右手で縄を握りつつ、左手は少女の背中を包み込むように抑え、つま先を橋の縄にかけた。

 次の一瞬、物の斬れる鋭い音と共に、橋の左側を支えていた縄が切られる。それと同時、少年の体に強力な遠心力が加わり、そのすべてが、縄を握っていた右手の指と足、少女の背中を抑えていた左手にかかる。だが彼はそれに耐え、手を離さない。その少年の目に映るのは、恐怖に瞳を閉じる少女の姿。少年が背中を抑えていたおかげで、少女もまだ吊り橋に掴まっていた。

 だが次の瞬間、残された右側の縄も切って落とされる。直後伝わる、体が急速に降下し、肺が浮き上がるような感覚。両方の手に伝わる質の違う重み。それも一瞬のことだった。

 次の瞬間、二人は対岸に激突する。そのすさまじい衝撃に、少年の右手に、身を引きちぎるような凄まじい痛みが走り、つま先は縄から外れる。

 そしてその一瞬、少女は衝撃に耐えきれず、手を縄から離してしまった。直後、少女の体が少年左腕からすり抜けていく。

 考えている暇はなかった。ただ無我夢中で、少年はとっさに左手を、落ちていく少女に向かって突き出した。


 少女は縄から手を離したとき、漠然とだが、自分は死ぬんだと思っていた。だが瞳を閉じた今、少女が感じているのは、地面に向かって全身を引く重力と、それに対抗する、右腕を引きちぎらんばかりに締め付け引っ張る力。

 少女は瞳を開く。と、左右にわずかに揺れる視界に映し出されるのは、両岸が切り立った急流の景色。視界を下にやれば、足元数十センチのところに水面がある。

 見上げるとそこには、右腕一本で必死に縄を握り、左手一本で少女の右腕の手首を掴んで支える、少年の姿があった。少女の見ている中、少年は足を吊り橋の残骸の縄にかけ、体を安定させ、

「な、縄を、掴んでっ!」

 必死の声で、その言葉を絞り出す。その時ようやく少女は、吊り橋が落ちた時、この少年は腕一本で、二人の落下の衝撃に耐えていたことに気づく。

 関節が外れていてもおかしくなかった。少女にもそのくらいは分かった。だからせめて少年にこれ以上迷惑をかけないように、少女は空いた左手で縄を掴み、足を縄にかける。


 少年と少女が吊り橋の残骸を伝い、岸を登りはじめる。そんな光景を追手たちは対岸で眺め、

「くそっ、飛び道具を持った奴はまだ来ないのか!」

 そう地団駄を踏む。辺りには遅れてやってきた追手が多数いたが、いずれも手裏剣以外の飛び道具を持っておらず、対岸の位置から手裏剣で二人を狙えるほどの者は、誰一人いなかった。

 やがて追手がうらめしそうに見つめる中、少女は少年の手を引き、走って森の中へと消えていく。それを追う影は、一つもなかった。



 深夜の闇を、森の木々が一層深くする。そんな中に差し込む、優しげな青白い月の光。見上げれば、空を覆う木々の枝葉の屋根にできた小さな穴。そこから見えるはるかな宙に、大きく欠けた三日月が浮かぶ。

 そんな場所に座る少年と少女。彼らは昼間から何時間もかけて移動し、ようやくこの場所に行きつき、休んでいた。    

 驚くべきことに、彼らはこの場所に至るまで、一言も会話をしていなかった。少女が手を引き、少年はそれに黙ってついて行った。それだけだった。

 やがて少女の息遣いが落ち着き、表情から疲労の色が和らいだ頃、少年はいくつも聞きたいことを聞こうと思う一方、その前に自分が名を名乗るのが先だと思う。だが戦争で偽名を使うことが習慣になっていた彼は、自分ながら少し警戒しすぎなのではと思いつつも、

「これは本当の名前じゃないけど、僕の名前は緑。君のことは何て呼べばいい?」

 静かな声で尋ねる。それに対し、少女は、一呼吸ほどの間の後、

「あい、哀しむと書く方の哀。あなたはどこから来たの?」

 その問いに、緑は本当のことを言うか一瞬迷い、だが情報を集めない事には始まらないと思い、

「僕は、地球の、ニホンという国からきたんだ……言ってる意味、分かる?」

 するとその言葉に、哀は複雑な表情を浮かべ、やっぱりと小さく呟き、

「分かります、私も一年くらい前、ニホンから逃げてきたから」

 その言葉に、緑は一拍ほど時間をかけその意味を理解し、次の瞬間、

「えっ?なっ、なら、ここがどこだか、分かるの?ここは一体どこで、今はどういう状況で、それから」

 そう仰天した様子でまくし立てようとする。そんな緑に、哀は、落ち着いて、と声をかけ、

「あなたの質問に答える前に、ひとつ、聞かせてほしいことがあるの」

 その言葉に、緑は数秒の時間をかけ平静を取り戻し、何?と落ち着いた声で問いを促す。すると哀は真剣な表情で彼を見つめ、

「あなたはどうしたいの? ニホンに帰りたいの?」

 その言葉に緑は直ぐには答えず、静かに思考する。それからたっぷり一分ほどをかけた後、彼はおもむろに口を開き、

「帰りたい。ニホンには廃墟しか残ってないかもしれないけど、帰って、またニホンで生きていきたい。それに生き残った人が力を合わせれば、ニホンもまた立ち上がれるかもしれない」

 そう、震える、だが強い意志の籠ったその答えを返す。そんな緑を、哀はどこまでも暗く深い深淵のような瞳で見つめ、

「そう」

 どこか悲しげな声で答え、目を伏せる。そして視線を合わせないまま、

「ここはあなたの知ってる世界じゃない。別の世界だと考えた方がいいと思う」

 その言葉の意味を、昨日からの体験でよく理解していた彼は、それよりもと、

「君は、元の世界に帰る方法とか、その手がかりとか、何か知ってる?」

 そう問いかける。その問いに、哀は変わらず視線を逸らしたまま首を横に振る。緑はそれを見、一年もこの世界にいて、帰る方法どころか手がかりもないのかと一瞬落胆する。だが直後には、ここでニホンの事を知っている人に出会えただけでも幸運だと気を取り直し、

「じゃあここは、どんな世界なの? 僕はここに来たばかりで何にもわからないから。説明するのが大変なら、最低限知っておかなければならないことだけでも教えてよ」

 そう問いかける。その問いに哀も頷き、説明を始める。

 哀の説明を要約すると、この世界には、ニホンで言う戦国時代後期くらいの技術、文化を持った人間と、それと同等くらいの知能と技術、文化を持つ生き物が何種かいる。彼らはそれぞれがいくつもの小さな国を作っており、互いに激しく争ったり、逆に交流を持ったりしている。

 今自分たちがいるのは、人間の大国グラフィス。竜と人の合わさったような外見をもつ竜人と、高い知能を持つ竜の支配する国ドラグール。その二つの国に挟まれる位置にある人間の小国テル。その三国の国境で互いに不可侵としている場所。

 以前この三国の関係は非常に良好だったが、最近になってグラフィスとドラグールの関係が悪化するような事件が多発、小競り合いも起こり、もう直ぐ本格的戦争が始まろうとしている。

 緑はその話に違和感を覚え、

「どうしてそんな危険な場所に哀はいるの?昼間君を追っていた人たちと何か関係があるの?」

 そう問いかける。その問いに、哀はどこまでも暗い声で、

「実は今の話、グラフィスとドラグールの戦争の話には裏があるの。私はその秘密を知ってしまった。だから私は、戦争が始まる前に、この話を伝えたい。そうすればもしかしたら、この戦争を、止めることができるかもしれないから。

 そのために私は、グラフィスとドラグール、二つの国で実力があり、信用できる人に手紙を書いた。そしてその人たちと会うために、ある場所に向かっている」

 そう答える。その言葉に緑は、昼間哀を追っていた者達は、戦争が起こってもらわないと困る者たちなのだと理解する。一方哀は、その視線をさらに下げ、申し訳なさそうに、

「ごめんなさい。あなたを巻き込んでしまって。本当はあなただけでも逃げて。って、言いたいけど、もうあなたは口を封じる対象になってしまったみたいだから、一人で逃げるのは逆に危険。でも……」

 哀はそこで一度言葉を止めると、僅かの間の後、意を決したように、

「私と一緒に来てこの戦争を止めることができれば、きっと保護してもらえる。追われている張本人の私と逃げる事になるし、危険だと思うけど、結果的にはこの方法があなたの身の安全を確保するのに、一番の方法だと思う。多分……ごめんなさい、今の私には、他に方法が思いつかない」

 そう、絞り出すように言う。緑は持っている情報が少なすぎて、彼女の言っていることが正しいのか、簡単には判断できない。ただ自分を利用しようとしているだけの可能性もある。そう思う一方で、彼女がうそを言っているようには全く見えなかった。

 だが今は何よりも分からないことが多すぎると思う彼は、

「哀はどうしてそこまでして、戦争を止めようとするの? それに、もっと安全な方法は無かったの?」

 そう問いかける。その問いに哀は、暗い表情を崩さないまま、

「もう戦争でたくさんの命が奪われるのを見たくないから。もっと安全な方法は、もしかしたらあったのかもしれないけど、その時にはこれしか思いつかなかったから」

 そう答える。だがその答えに緑は、どこか違和感を覚える。方法に関しては彼女の置かれた状況が分からない以上なんとも言えない。だが動機に関しては、そんな大仰で実感しにくいもののために命を懸けようとする、その気持ちが理解できなかった。少なくとも自分なら、自分の命や、それと同じくらい大切で、自分のためになることでなければ、命を懸ける事は出来ないと思った。

 ただそれはあくまで自分の感想で、彼女からすれば、それも十分戦う理由になるのではないか、と緑は思い、その点に関してはそれで納得することにし、代わりに、 

「じゃあ、哀はどうやってニホンからこの世界にやってきたの? ニホンでは……」

 緑はそのまま言葉を続けようとし、だがそれを遮るように、

「ごめんなさい!」

 哀は悲痛な声で叫ぶ。その表情は苦痛に満ちているようで、

「ニホンでのことは、聞かないで」

 その言葉に緑は、

「お願い」

 それ以上、問いかけることができなかった。その時緑の中で、本当に彼女はニホンから来たのだろうか、という疑念が生じる。だが少し考えると、彼女のこれまでの反応や振る舞いの中には、ニホンにいたことがあるものか、よほど詳しいものでなければできないものもあったと思いだし、単に触れられたくない過去があるのかも、とも考える。

 いずれにしても、いきなり放り込まれた見知らぬ土地で、幸運にも出会うことができた彼女の他に、今は頼れるものがないと彼は思う。そこで彼は、彼女の事を信用するかは別にして、それ以上は聞かないことにし、この際だからと、

「えっと、僕の方こそごめん。じゃあ、他に聞かれたくない事とか、僕にしてほしい事とか、ある?」

 そう問いかける。その言葉に哀は数秒の間思考する。そして視線を戻し、緑の瞳をまっすぐ見つめ、 

「ひとつだけ」

 そう一言。続けて、

「こんなこと、私から言う資格なんてないのは分かってるつもり。けど、その上で一つだけ、お願いがあるの」

 そう前置きし、

「私と一緒にいて、もし追手と戦闘になったら、その時は」

 必死の表情で、

「誰も、殺さないで」

 そう告げる。その一言は緑にとって、予想外の奇襲に近いものだった。

「殺さ……ない?」

 緑は思わずそう漏らす。その言葉に、哀は少し視線を落としながら、

「……私はこれ以上、誰にも死んでほしくない。誰にも、あなたにも、殺してほしくない。例えそれが、わがままだってわかっていても……」

 そう言の葉を紡ぎだす。その言葉は重く、切実で、彼女が本気でそう言っているのだと理解できた。だが、いや、だからこそ、彼女の言葉に、緑は頷くことができなかった。

 生暖かい風と沈黙が辺りを包み込む。

 その様子を密かに見守る人影の存在に、二人が気づくことはない。

 空を覆う漆黒が徐々に色を薄くする。空に浮かぶ月が二人を、優しげに見守っているようだった。

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