夜の訪問者
梅雨が過ぎ、熱帯夜が何日も続いている。クーラーの風が苦手な私は、いつもの様に窓を開けて、どうにか夜風だけを頼りに眠りに堕ちられないものかと模索していた。
しかし今晩はどうにも、風が入って来ない。無風と言っても差し支えないだろう。私は静かに目を閉じ続ければ何時しか寝られると思い込み、実際にその通りにじっとしていた。
梅雨は過ぎたにも関わらず、湿気が凄まじいのが日本の夏である。その湿気が、暑さを更に後押しする。私の額、首筋には汗が滲み始めていた。
日付は既に変わっているだろう。今日の朝は一限から講義がある。それまでに少しは寝ておかなければ、日中の睡魔に立ち向かえない。その焦りがまた、私を睡眠から遠ざける。それでも私は目をきつく閉じていた。そうすればきっと眠れる。絶対に眠れる。暗示のように自分に言い聞かせながら。
しかし、視覚は閉ざせても聴覚ばかりはどうしようもなかった。窓を開けている分、蝉の鳴き声が何の遮りも無く、耳に届くのだ。視覚を遮っている分、余計に鋭くなっているとさえ思えた。
そんな喧しい虫の求愛とも威嚇とも分からない大合唱の中で、不自然な音が聴こえた。カラカラ、と枕近くの窓に付随する網戸を開ける軽い音。
泥棒か、いや、こんなボロアパートの一室にわざわざ盗みに来る馬鹿はいないだろう。そもそも、ここは三階だ、人間がここまで登れるはずもない。などとあれこれ思索した結果、何かの聞き間違えだと結論付けた。寝不足とそれに伴う焦りが、私に幻聴を起こさせたのだ。それよりも早く眠りに着く作業に戻らなければ。
私は身動き一つせず、瞳を閉じ続けた。ふと、頭の真横を中心に、ベッドのスプリングが軽く沈み込む。いやいや、そんなはずはない。独りでにベッドが軋むなどあり得ない。ならば、やはり侵入者だろうか。それはもっとあり得ない。ということは……
私は既に自分が眠りに入っているのだと思った。これは眠りの中、つまりは夢なのだ。ボロアパートの三階にある私の部屋の網戸を開き、何者かが侵入するという夢。自分は実際には急速に入り、その一環として脳味噌がこんな幻を作り出しているのだろう。
すると気になるのが、一体どんな侵入者なのだろうか、という事である。休息の一環なのだ。きっと心癒される可愛らしい動物でも入ってきたのだろう。ネコならロシアンブルーだろうか、イヌであればチワワが無難か、もしかすると昨晩テレビで見た、コマン・ローセットという小型のサルかも知れない。
頭に様々な形の愛らしさを思い浮かべながら、若干の期待と共に薄目を開く。急に起きようものなら、夢の訪問者を驚かせてしまうだろうと考えたのだ。
ぼんやりとした視界に映るのは、ネコの様な大きな瞳を持った、犬歯を剥き出しにした……猿、ではなく少女。予想しておいたどれとも違う来訪者に少々嘆息した。
しかしそれを補って余りあるほど、その少女は愛らしかった。威嚇するかのように、牙とも形容できる犬歯を露わにしているが、その目には涙が滲んでいる。それはまるで獲物を傷つけることを恐れているかの様にも思えた。その潤んだ瞳と私の薄く開いた目が合うことはなく、少女のそれは私の首筋を睨みつけている。
どうせこれは夢なのだ、こんな愛らしい女の子になら首を抉られるのも良い経験かも知れない。夢ならば痛みも無いだろう。
一気に齧りつかれるのだろうと、覚悟する。そうして夢の中で死ぬことによって、朝と共に現実に引き戻られる。きっとそんなベターな展開が待っている。
少女の顔が段々私の首に近づいてくる。胸が高鳴るのは、きっと夢の中とはいえ死ぬのが恐ろしいからであり、性的に興奮しているのではないと断言しておく。
予想とは反して、少女はゆっくりと牙を立てた。少しずつ食い込んでくる感触があった。なんだ一気に齧られるのではないのか、この子には二度も予想を裏切られた。などと余裕ぶったことを考えた。
だが何か引っかかった。その正体にすぐ思い至る。感触があるのだ。ということは痛みもあるのではないだろうか。
すぐに首筋の感触が、痛覚に変わった。これは予想通りだ。三度目の正直という言葉は言い得て妙だな、などと感慨に耽る余裕もない。中々に痛い。
少女は未だ口を離さない。日頃、めったに経験しない痛みに耐えられなくなるのも時間の問題だろう。気が遠くなる、しかし失うには至らない。
この少女は何が目的なのかという疑問が生じた。肉を食すために息の根を止めるのが目的ならば、さっさと喉元を切り裂けば良い話なのに。
痛覚への我慢が少しずつ苛立ちに変わり始めた。一体、何のために自分は痛みに耐えているのか。自分の脳が休息の為に作り出した幻影は、一向に心癒してくれる気配がないのに。
「……まだ終わらないんですか」
自制する間もなく、思ったことを聞いてしまった。