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夢花火

作者: 春井 武修


 深夜二時-それが喫茶店「花火」の開店時間である。遠く夜空の満月が、うっすらとたなびく雲に隠れる頃、季節外れの蛍のように、河川敷に面した店の窓にはぼんやりと光が灯り、テラスに並べられた二、三のテーブルが、ほのかな(だいだい)に映し出される。その明かりは、寝静まった町並みの中でいかにも頼りなく、ともすれば、いつの間にかどこかへ漂って、消えていきそうなぐらいである。


 今夜はやけに、外が騒がしい。そう思って、「花火」の主人は、丁寧にコーヒーカップを磨きながら、窓の外、昼に振った雨で、少なからずかさを増した、黒い川の流れる河川敷を眺めていた。


 まるで、この目の前の川が生死の世界を画しているかのように、川のこちら側ではすべてのものが息もひっそりと動かず、そして向こう側では、都会の明かりー眠ることのない街の明かりが、煌々(こうこう)と輝いている。その光を受けて、真黒い川の水面がきらり、きらりと輝く中には、境目にのみ生じ得る静かな渦潮が、誰の意思でもなくとぐろを巻いているのが見える。しかし、主人の耳に届くささやかな喧噪(けんそう)の出所は、この窓から縁取られた世界からは発見できない。


 もうそろそろ、いらっしゃるころでしょう。主人が、そう思ってエプロンの最後の手入れをしていると、店のドアが、ギイと音を立てて開き、入店を知らせる鈴の音がカラカラと鳴った。


「いらっしゃいませ。お久しぶりでございますね」


「やあ、うん。そうだね。どうも足がこっちに向かなくて」


 入店した男は、ほどよく疲労に染まった形相を崩して、使い古された焦げ茶の提げ鞄を首から外し、既に乾いた雨傘を傘立てに挿して、店内を確認することもなく主人の目の前のカウンターに座った。どうやら常連であるらしい。彼は、それまで背負っていたもの諸共にコートを脱いで、椅子の背もたれに掛ける。軽くなった背中に、彼は一つ、ふうとため息を吐いた。


「今日はどうも外が賑やかなようだけど、何かあったのかい」


 男は、窓の外の、やはり川面に映る瞬きを眺めながら聞いた。腰を落ち着けた彼の表情には、どこか、たがの外れたような、喜ぶでもなく悲しむでもなく、その気持ちをどうさばこうか、それさえもままならないということへの困憊(こんぱい)が浮き出ている。


「さあ、どうでございましょうか」


「こんな夜中に騒ぐなんて、またずいぶんと……」男は、また酔狂だね、と言おうとしてやめた。夜中に騒ぐのが酔狂なら、夜中にこうしてあてもなく閑かな喫茶店に顔を出すのも、十分酔狂というものだろう。別にそれも構わない。どうせ、放っておいても一人の夜なのだから。


「今夜は、いかがなさいましょう」


 そう聞きながらも、主人は既に、カウンター裏に並んだ幾百もの銘柄を選び始めていた。彼は、顔なじみの客の嗜好を知悉(ちしつ)している。


「そうだね、じゃあ、ウンと強いやつを頼むよ。どうもまだ眠りたい気分じゃない」


「かしこまりました。少々お待ちください。――本日は、何かおありになったようですね」


 主人は、豆の銘柄を一つ一つ吟味しながら、聞く。選択に迷いがあるというのではない。場合によっては、時間をかけることに意義が宿る。


「いや、なに、喜ぶべきことなんだろう。きっと。うん――」


 男は、多くを語りたいというようではなかった。いや、できるのなら、胸の奥に沈み、長い年月を掛けて灰色に濁った沈殿物を、今このとき、喉の先口までその先端をのぞかせようとしている心の澱を、ため息と共に嗚咽(おえつ)してしまいたいという願望も、確かに彼の中には存在していた。しかし、ここは酒場ではない。酒気と勢いついでにカウンターを汚すような場ではないのだ。そしてまた、彼は下戸であった。


 主人は、ついに選び抜いた豆を二人分取り、ゆっくりと、それでいて手際よく、豆を煎るところから始めた。冬と春の狭間に、どろりと横たわる夜長の闇は、東の空に未だ獅子座の光を知らぬまま、眠った世界を巻き込み渦を巻き続ける。夜明けは、まだ先のことである。焦れる理由は何もない。


 いつからであっただろうか。男は記憶を巡らせた。いつから自分は、この、危うく闇夜に隠滅されそうな、灯火の(とりで)として真黒い海に臨むような喫茶店に、足を通わせるようになったのだろう。しかし、彼に思い当たる節はどれも、泡立つ水面に浮いた月影のようで、またおぼろ雲に隠された星々のようで、まるでとりとめがない。去年の今頃は、この場所にはいなかったような気がする。しかし、去年の今頃、というのが、はたしてどれほど前のことなのか、彼はうまく想像することができなかった。

 彼にとって、この場所はどうやら特別な場所ではあるが、それ以上の評価も位置づけも、この「花火」という存在は、決して彼にその権利を与えなかった。


 主人の手によって焙煎機に掛けられた豆が、その粗い編み目の中で、爆ぜてバチバチと音を立てた。香ばしいかおりが、二人の間にふくらむ。コーヒー豆が最も気高くかおる瞬間である。その匂いは、かぐものの鼻を紳士的に弄び、否応なく覚醒をもたらす。彼らにはそれに抗う必要さえ持ち上がらない。主人もこの刹那に限っては、恍惚(こうこつ)とした表情を見せる。


 それまで店の中に飽和していた、穏やかなコーヒーの残り香の中へと、焙煎豆の不調和なほど濃厚な香りが、その密度差に妨げられながら、徐々に混ざり合ってゆく。



「また、一人になっちゃったよ」


 男は言った。いや、これは誰かに向かって言ったのではなく、心の中で呟いた声が、偶然空気を震わせただけと言う方が、本当かも知れない。


「そうでございますか」


 主人の声は同情的であった。が、彼の示すものは、その同情以外の何物でも有り得ない。主人も、男が彼の目の前にあることについて、自分の中で飲み込んでしまおうとしていることを知っていた。ここは、独り愚痴をこぼすための密室である。


 四、五分であるか、それともどれだけか、豆が煎られ終わるまで、二人はお互い、緩く口を結んで、豆の放つ香りに心を澄ましていた。既にして前に放たれた言葉の余韻は、とけ馴染んだ空気の中へと消えている。


「まだ、結婚するまではって、安心してたんだけどな」


 男は、主人が骨董物のコーヒーミルで豆を挽いていくのを見ながら、呟いた。主人は豆を挽くのに集中しているのか、答えない。


「一度言い出したら頑固な口だっていうのは分かってたけど、本当に行くなんてさ。俺の立場からしたら、褒めてやらないといけないのかな」


 やはり、主人の口から言葉はない。男は、自分の言葉が独り言なのだと分かってはいても、主人の態度に、心のどこかでやきもきした。心の底では、誰かからの、的確な一言を求めているようである。しかし、それも馬鹿らしくなったと見えて、彼は自ら支えを求めるように、コートの掛かった椅子の背へもたれかかった。そして、


「――は遠いなぁ」


 と、閉じた目を絞りながら、堪えきれずに唸った。


 そう唸ってしまうと、彼は存外楽になったようで、次第に目に寄らせた皺を伸ばして、一つ大きなあくびをした。


 するとそこへ、カランカランと、鈴の音が来客を知らせた。男は、少し意表を突かれたように扉の方へ顔を向ける。彼が、自分のより後にこの鈴が鳴るのを聞いたのは久しぶりである。


「いらっしゃいませ」


 主人の言った先にいたのは、まだ十七、八ともおぼしき少女だった。男は、自分の眼がぼけているのかと思って目をこすったが、そこにいるのは確かに一人の少女である。それも、滅多には直接目を向けることもはばかられるような美少女だ。


 紺無地のワンピースに、真白な毛のコートを腰の位置まではおった肌は、夜を背景にして浮かび上がるほど白く、また彼女の身につけるコートのそれよりも、空白という意味での白に近い白だった。そのせいで、実際以上に、彼女の四股は細って見える。瞳は大きく、虹彩は透き通るような琥珀色で、小さな唇と両方の頬には、そこだけうっすらと、血色のよい淡い紅が差している。男は、彼女のような種類の美しさを見たことがなかった。


 少女は、主人に小さく会釈をすると、(わず)かに首を振って店内を見渡し、客が男一人であることを確認してから、カウンターから一番離れた――と言っても、小さなテーブルを二つ挟んだぐらいのことではあったが――、河川敷の見える窓辺の、ちょうど店の隅になっていて一番展望のきく席に、男とは背を向けるように座った。呆然として彼女が歩いていく様を横目に眺めていた男は、無意識のうちに、彼女が一体何者であるかの思案を張り巡らせていた。


 いくら最近の子供の行動範囲が広いとは言え、今は深夜の二時過ぎだ。高校生とも見える娘が、コーヒーを飲みに喫茶店へ寄るような時間ではない。彼自身も、時に場違いに感じるぐらいである(この少女は、ちっともこの喫茶店に場違いな感はないのだが)。それでは、家出か何かだろうか。いや、そのような様子もない。もっとも、彼には家出をする者がどのような様子であってしかるべきなのか知らなかったが。それでも彼女の、孤独をまとうでもなく、他を寄せ付けないような隔絶感を装うのでもない、ただ単に、この眠りについた夜の海を、漂いながらぼんやりと光る海蛍のような雰囲気からは、家出とか、人情を描いたような理由は当てはまりそうにない。


 普通最も排除されるべき、幻想的、詩的な仮想こそが、この少女の場合には、一番納得がいくような気がした。


 主人が、男の分のコーヒー作りを、きりを見て中断し、彼女へ注文を聞きに行った。例のように伺いをたてる主人に、少女は、男にはその注文が何であるかが分からないぐらい小さな声で答えた。男に知れたのは、その声が、遠慮がちに引きつ戻りつする細波のように細く、琴線に触れるほど透明であるということだけだった。

注文を受けてカウンターへ戻ってきた主人は、それまで挽いていた男のコーヒーは後にして、彼女の注文したコーヒーを選び始めた。今度の注文では、はじめから目当てが決まっているようだ。


「珍しいね。ああいう子が来るなんて」


 男は言った。できるだけ、嫌みにならないぐらいの声で言ったつもりだが、その声が少女に聞こえているかどうかは気にしていない。どうせ、向こうも聞く耳を持っていないだろうという了見(りょうけん)である。


「あのお客様でしたら、いつもあのお席で、先週ごろから、続けてお越し頂いております」


 主人は言った。彼の声に一切の浮沈はない。当然のこと、というような口ぶりで、これもやはり、彼女に大して何かしら気を遣っているような様子もない。


「うちのと同じくらいに見えるけど、それとはだいぶ違うようだ」


 そう言いながら、男はずっと、少女が自分に背を向けているのをいいことに、彼女の後ろ姿を、半ば振り返って観察していた。彼女はそれに気づいている様子もなく、ある種超然として、膝に両手を置き、物音立てずに座りながら、何かを待ち望むかのように、窓の向こうの夜空を見つめていた。


 少女は一体、何を求めに、この喫茶店へと足を通わすのだろうか。男は思った。心配などではない。純粋な興味である。だが一方で、彼女がこの場所にいる理由は何もないようにも思われた。この場所こそ、彼女のいるべき場所ではないだろうかと男には思われたのだ。


 主人はようやく、男のコーヒーをネルに移して、ドリップを始めた。お客が一人増えたが、彼には全く、急ごうという気がないらしい。ネルの中に敷かれたコーヒーの粉へ、少しの湯をかけ蒸らすと、主人は迷うことなく、手を動かしていく。その動きによって銀のポットの口が上下し、それに合わせて水を含んだコーヒーが、ネルの中を盛り上がったりへこんだりする。彼の手さばきは、まるで高速度写真を見ているように、鮮やかだ。


「お嬢さんのお見送りは、なさったのですか」


 主人が聞いた。彼のドリップに目を釘づけていた男は、主人の急な質問に軽く取り乱しそうになった。そして、その「お嬢さん」というのが誰のことか気がつくと、また、思い出したようにため息を吐いた。


「いや、できなかった。どうしても仕事を抜け出せなかったよ。まだ、帰ったら家で待っているような気もしたんだけどね。会社を出たときにメールを送ってきたよ――向こうはいいとこだって。下宿先も良くしてくれたそうだし、空気もおいしいって。見送りは、俺の変わりに、友達がしてくれたってさ」


 男は、言い切ってから、急に喉の渇きを感じだした。漉し出されたコーヒーが、一滴一滴落ちていくのを見ていたからかも知れない。とにかく、何か熱いものを体の中に流し込みたくなった。


「それは残念ですねえ。お嬢さんも、さぞ寂しがっていらっしゃったことでしょう。なかなか、上手く人を見送るというのは難しいものです」


 主人は言った。彼の視線は、ネルの中の、焦げ茶のふくらみ一点に注がれている。その溢れては消えてゆく水泡の中に、彼は一体何を見ているのであろうか。男は、彼の眼差しをゆかしく思った。


「どうやら、そんな経験は、あなたには全く及ばないようだね」男は冗談半ばに言う。


「いえいえ、 ――そのようなことは、誰とも及びたくはないものです」


 主人の声は、案外に明るげであった。人が一口つけただけでむせてしまいそうなきついブラックを、ひと思いに飲み干してしまった人の気質である。男はそう解釈した。未だにミルクの滑らかさを舌に懐かしがる人間には、とうていまねの出来ないことである。

 コーヒーがまた一度膨らみ、そしてしぼんでいった。


「今となっては、こうして分かったようなことを言うしかできません ――さあ、お待たせいたしました」


 主人は、いつのまにか満ちていたサーバーからネルを取り出し、立ち上る湯気に僅かに鼻を湿らすと、男の分のコーヒーを、閑かにコーヒーカップへ注いだ。銀のさじとミルクが添えられて、男の前に差し出される。サーバーの中にはまだ一人分残っているが、主人は、構わず次の注文の豆を焙煎し始めた。


 するとその時である。突然何かが夜の静寂を切り裂いて、彼らの鼓膜を鮮烈に振るわせた。皆の視線が、音の出た方の窓へ集められる。その視線の向こうには、暗い夜空を背景に、季節外れの流星群とも思われる幾筋もの光の束が、地平線へ真っ直ぐ落ちかかっていた。


 今にもコーヒーを口に含もうとしていた男は、危うくそれを取りこぼしそうになる。主人も焙煎機を回す手を止めた。窓際の少女は、見ると、既にテーブルに手を突いて立ち上がり、その光の出所を、食い入るように見定めていた。



「花火――」



 男は呟いた。しかしその呟きも、次の爆発にかき消されてしまう。彼は、その音につられて、反射のように立ち上がり、窓辺へと近づいた。窓の真ん前に立った彼の目には、黒のキャンバスに放たれた、色とりどりの光たちが踊っていた。間に合わせの小さなものではなく、天高く、より星々の近くで、満開の花を咲かせる花火である。彼にも、また、その横でやはりこの一瞬の輝きに目を奪われている少女にも、言葉にならないため息以外、口を衝くものはなかった。


「テラスを、お開けしましょう」


 主人は言った。二人は、花火を見上げたままうなずいた。



 夜の空気は、未だに昼の生暖かな、湿った熱が放散し尽くされずに残っているようだった。いや、彼らが気づかなかっただけで、すでにこの闇夜の中だけでは、冬が終わりを告げていたのかも知れない。それも知れず、二人は、主人の促すままに、小さな丸テーブルへ一緒に腰掛けた。主人は、カウンターから道具一式を持ち出して、男と少女の前で、豆を挽き始めた。今度は心なしか、男の時よりも進みが早いようだ。男と少女は、その間、挽かれたコーヒーと、夜の香りとのブレンドを背景に、主人の背後、川の流れてゆく向こう側から、広大なステージへと飛び出しては消えてゆく花火を見つめていた。


「今年もいつの間にか、このような季節になっていたのですねぇ。例年(いつも)より、いくぶんか季節も気が急いているようでございます」


 主人は言った。すると、今まで何も発せなかった少女が、「はい」と、消え入るような声で答えた。気をつけずに触れれば手を引っ込めてしまいたくなるような、冷たく、薄く川面に張った氷のような声であった。


 男は、多少呆気にとられて、彼女の顔を見た。間近で見たその顔も、やはり言葉では形容できないほどの、完璧な美しさだった。しかしこうして見ると、男には、この美しさにはどこかで見覚えがあるような気がした。いや、どこかで、ではなく、記憶の闇の奥底へ投げかけた光が、偶然表へ出ていたかけらかけらに反射して、きらりきらりと小さな星がまたたくように、彼女の面影に似た何かをぼんやりと連想しただけかもしれない。いずれにせよ、彼女の白い肌に新しくまとわれた、古い記憶という薄い皮膜は、彼に懐かしさに似た安らぎを感じさせた。


「お客様は、ここで花火をごらんになられるのは、初めてでございましたね」


 主人が男に言った。


「そうだね。いや、こんなに落ち着いて花火を見たのも久しぶりだよ。でも、こんな夜中にお祭りなんて、聞いたことがないね」


 男は、少し(いぶか)しくなって、花火の発射されているとおぼしき場所を探した。が、河川敷にはどこにも人だかりができている様子はない。これほどの大がかりな花火を、一体誰が打ち上げているのだろうと、彼は思った。


「この花火は、四季と四季の境目に、ある季節が終わり、次の季節が始まったことを、天へとお示しするための花火でございます。

この花火は、決して眠った人々を起こすことはございません。また、目をつぶる人々に、この花火の音が聞こえることもございません。季節というのは、夜、皆が眠りについたころ、静かにその役目を入れ替わるのです。その、去りゆく季節を(ねぎら)い、来る季節を暖かくお迎えしようというのがこの“花火”であり、それをこうして愛でるために作られたのが、この喫茶店なのです」


 少女のコーヒーをドリップしながら、主人は言った。


「季節を、迎える ――」


「そうです。この花火の終焉を以て、冬は残らず大地から去りゆき、そして訪れる春が、枯れ野の隅々にまで、新芽のふくらみを与えてゆくのです」


 そこまで言ってしまうと、主人は、手を止めて、眩しそうに目を細めながら、恍惚として後ろを振り返った。花火はちょうど、その華やかさも頂点を迎えていた。幾重にも重なった破裂音が、町並みの静けさを吹き払ってゆく。これで本当に、誰も眠ったまま気づくことがないのだろうか、と男は思った。しかし、自分たちだけがこの夜空の宴を愉しむことができているのだと思うと、彼はとてもよい心地だった。


「ことに、長く厳しい冬の終わりには、多くの別離があり、あらゆるものごとが幕を閉じます。ですが、すべての始まる春の訪れによって、別れたものはまた別のものへと惹きつけられ、終わったものは、また新しい息吹の潮流を託されて、土の中から、一歩ずつ天へ向かって登り始めるのです――」



 瞬間、すべての音が鳴りを潜め、仮初めの静謐(せいひつ)が辺りを包んだ。夜空はそこに光を失い、刹那、明かりの掻き消されたステージとなった。舞台に踊るものは、誰もいない。



 と、主人の背後から、一際大きな火の玉が天へ向かって放たれ、何よりも高く、どの花火よりも孤独に、星々の近くへと歩み寄った。


 そして、その動きが止まったかと思った途端に、空一面に強い白光が広がり、飛び散った炎の粒は、豊かに葉のたわんだ枝となって、そして今光の登っていった道は、ついには太い幹となって、白き大樹はこの世界を覆っていった。



「――大変、お待たせいたしました」


 主人は、淹れ立てのコーヒーを、少女にそっと差し出した。そして、暖めておいた、サーバーの残りを、自分のカップに注いだ。


「それでは、いただきましょう。夜は、まだまだ続きます」


 再び勢いよく夜空に舞い始めた花火たちとともに、三人は、たっぷりとその芳醇な香りを楽しんで、一口、また一口と、時間をかけてすすっていった。あれだけ淹れてから時間が経っていても、男のコーヒーは、涙の出るほどに熱く、そして濃かった。いや、熱く火照っていたのは、彼の舌の方であったかもしれない。

 そして今、冬が、終わろうとしている




 ――しめやかに、長かった夜は、更けようとしていた。川の向こうの空には、東雲の薄い靄か、時今かと地平に隠れる朝日を受けて、赤く滲んでいる。見ると、いつのまにか、あの少女の姿はない。


「お代はよかったのかい?」少女の、うっすらと残ったカップの中身をのぞきながら、男は聞いた。


「いえいえ、私のコーヒーなどでは、どれだけおかわりをなさられても足らないぐらいでございます」


 そうか、と男は言った。そして、朝日の昇る方向を、遠くに見つめた。


「本当に、春が来たのかな」


 呟いた男に、主人は、にこりと笑って、そして言った。




「新しい春は、お客様、あなたでございます――・・―― ― -- ‥







 深夜二時、それがこの喫茶店の開店時間である。

 眠りし世界の眠りし街に、静かないろを投げかけさすらう、それはまるで川面に浮かぶ月影のように。

 夜は、眠りし者の夢をも惹いて、誰にも知れず渦を巻く。

 そして一人、また一人と、誰にも知られぬ足音たちが、誰にも知られぬ灯りを求め、扉の鈴は、長き夜に鳴る。


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