父を引退に追い込んだ最強の騎士に求婚されましたが、お断りです!~王女の私が馬上槍試合であなたを倒します!~
レオノーラは、窓の向こうに広がる馬上槍試合場を眺めていた。
夕暮れの光が、長い木柵を赤く染めている。つい先ほどまで騎士たちが稽古をしていた場所には、蹄の跡が幾重にも残っていた。
明日になれば、また馬が走る。
鎧が鳴り、槍が砕け、観客たちが歓声を上げる。
想像しただけで胸が高鳴った。
「姫様。また試合場をご覧になっているのですか?」
背後から声をかけられ、レオノーラは振り返った。
侍女のミリアムが、呆れた顔で立っていた。
栗色の髪を一本の三つ編みにまとめ、紺色の侍女服に白いエプロンを重ねた十九歳の娘だ。琥珀色の瞳には、幼い頃から仕えてきた主への遠慮のない親しみが浮かんでいる。
「景色を見ていただけよ」
「試合場しか見えていない窓から、ですか?」
「……馬も見えるわ」
「なお悪いです」
レオノーラは頬を膨らませた。
十八歳になる彼女は、腰まで届く金色の髪と、春の若葉を思わせる緑の瞳を持っていた。白い肌に、整った鼻筋。宮廷の画家たちは、その容姿を妖精にたとえて褒めそやす。
今夜のために用意された淡い青のドレスには、銀糸で小さな花が刺繍されていた。胸元にはサファイアの飾り、髪には同じ宝石をあしらった細いティアラ。
鏡に映る姿は、誰が見ても立派な王女だった。
ただし、本人はその格好を気に入っていない。
「ねえ、ミリアム。このドレス、もう少し裾を短くできない?」
「できません」
「まだ何も説明していないわ」
「馬に乗りたいのでしょう?」
「……どうしてわかったの?」
「姫様が裾を短くしたがる理由は、それしかありませんから」
ミリアムはため息をつき、ドレスの背中にある紐を整えた。
「今夜は大切な晩餐会です。どうか、馬のお話ばかりなさらないでくださいね」
「わかっているわ」
「去年もそうおっしゃいました」
「去年のことは忘れてちょうだい」
「隣国の公子様に、馬の歩法について一時間も説明なさったことですか?」
「三十分くらいだったと思うけれど」
「一時間です」
レオノーラは口をつぐんだ。
ミリアムが笑う。
その笑顔につられ、王女も小さく笑った。
けれど、もう一度窓の外に目を向けたとき、彼女の表情は自然と真剣なものに変わった。
父、アルドリック王。
かつて「ヴァルドリアの獅子」と呼ばれた男。
三十二の大会で優勝し、誰もがその名を恐れた伝説の騎士。
幼いレオノーラにとって、父は王である前に憧れの馬上槍試合の選手だった。
六年前までは。
「……いつか、あそこに立ってみせるわ」
小さな呟きは、窓から吹き込む風に消えた。
ミリアムは何も言わなかった。
ただ、レオノーラの背中をそっと見守っていた。
◇
大広間には、数百人の貴族が集まっていた。
高い天井から吊るされた燭台が黄金色の光を落とし、磨き上げられた大理石の床には、華やかな衣装をまとった人々の姿が映っている。
楽団が優雅な曲を奏でる中、レオノーラは父の隣に立っていた。
アルドリック王は四十八歳。
短く整えた金褐色の髪には白いものが混じり、顎には同じ色の髭を蓄えている。広い肩と厚い胸板は、現役を退いた今でも騎士としての面影を残していた。
深紅の上着に金糸の刺繍を施し、肩には重厚な王の外套を掛けている。
ただ、歩くときだけ右脚をわずかに引きずった。
レオノーラは、その脚を見るたびに胸が痛んだ。
「どうした、レオノーラ。浮かない顔だな」
「いいえ、お父様。少し退屈なだけです」
「ははは。昔から変わらんな」
王は娘の頭に手を置こうとしたが、ティアラに気づいて手を引っ込めた。
「今夜はお前に会わせたい人物がいる」
「また結婚相手ですか?」
「まだ何も言っておらんぞ」
「お父様がそういう顔をするときは、決まってそうです」
王は苦笑した。
そのとき、広間の扉が開いた。
「レイヴンシールド侯爵家嫡男! 七冠の覇者、セドリック卿、ご入場!」
楽団の演奏が止まった。
人々の視線が一斉に扉へ向かう。
黒い甲冑をまとった若い騎士が、赤いマントを翻して現れた。
年齢は二十五歳。
背は高く、鍛え上げられた体は甲冑の上からでもわかるほど均整が取れていた。襟足まで伸びた黒髪を後ろで束ね、切れ長の青い瞳を持つ。左眉の上には、細い傷跡が一本走っていた。
黒い胸甲には銀色の鷹が彫られている。
歩くたび、磨かれた金属が燭台の光を反射した。
「あの方がセドリック様……」
「なんて素敵なのかしら」
「陛下を破った唯一の騎士ですって」
貴婦人たちの囁きが聞こえた。
レオノーラの指が、ドレスの布を強く握った。
忘れるはずがない。
六年前、父を落馬させた男だ。
当時十九歳だったセドリックは、無敗を誇ったアルドリック王を決勝戦で破った。
その試合で負った怪我が原因で、父は二度と競技に復帰できなかった。
セドリックは王の前まで進み、片膝をついた。
「陛下。お久しぶりでございます」
「顔を上げよ、セドリック。ずいぶん立派になったな」
「陛下にそう言っていただけるとは、光栄です」
「今ではお前が大陸一の騎士か」
「まだまだです。私が目標とした方は、今も目の前にいらっしゃいますから」
王は愉快そうに笑った。
レオノーラには、そのやり取りが理解できなかった。
なぜ父は、自分を引退に追い込んだ相手に笑いかけられるのだろう。
セドリックが立ち上がった。
そして、彼女を見た。
「レオノーラ王女殿下。ご無沙汰しております」
「……お久しぶりです、セドリック卿」
「お美しくなられましたね」
「あなたは相変わらず、お世辞がお上手ですこと」
「お世辞ではありませんよ」
彼は微笑んだ。
その笑みが、レオノーラにはどうにも気に入らなかった。
ところが、次の瞬間。
セドリックは彼女の前で片膝をついた。
「殿下。本日は、どうしてもお伝えしたいことがございます」
「何でしょう?」
セドリックが懐から小さな箱を取り出した。
蓋を開く。
青い宝石をはめ込んだ金の指輪が、燭台の光を受けて輝いた。
「レオノーラ殿下。どうか、私の妻になっていただけませんか」
広間が静まり返った。
誰かが息を呑む音まで聞こえた。
レオノーラは指輪を見た。
次に、セドリックの顔を見た。
「……お断りします」
あまりにも即答だった。
セドリックの笑顔が固まる。
「え?」
「お断りします、と申し上げました」
「理由をお聞きしても?」
「私には、結婚より大切な夢があります」
「夢、ですか」
「馬上槍試合に出場することです」
セドリックは目を瞬かせた。
そして、思わずといった様子で笑った。
「馬上槍試合? 殿下が?」
「何かおかしいでしょうか」
「失礼。しかし、あれは危険な競技です。美しいドレスを着て観戦するのとはわけが違います」
レオノーラの眉がぴくりと動いた。
「私だって馬に乗れます」
「それは存じております」
「槍の扱いも勉強しています」
「なるほど。ですが、実際に騎士と槍を交えたことは?」
答えられなかった。
セドリックは穏やかな声で続けた。
「殿下。馬上槍試合は憧れだけで勝てるものではありません。どうか無理はなさらず――」
「それなら!」
レオノーラは一歩踏み出した。
「私と勝負してください!」
広間がざわめいた。
セドリックの表情が変わる。
「……本気でおっしゃっていますか?」
「もちろんです」
「私と、馬上槍試合で?」
「ええ!」
王が立ち上がった。
「レオノーラ!」
その声に、娘は振り返った。
「馬鹿なことを言うな。お前には危険すぎる」
「お父様まで……!」
「お前は実際の試合を知らん」
「だから学びたいのです!」
「ならん!」
鋭い声だった。
レオノーラは思わず肩を震わせた。
父は厳しい顔をしていた。
けれど、その目には怒りだけでなく、何か別のものが浮かんでいた。
「私は、お前まで失いたくない」
レオノーラは唇を噛んだ。
「……私の夢は、そんなに馬鹿げていますか?」
王は答えなかった。
彼女は小さく頭を下げた。
「失礼いたします」
そして、広間を後にした。
◇
翌朝。
まだ朝露の残る厩舎で、レオノーラは白芦毛の牝馬に話しかけていた。
「ねえ、ステラ。昨日、求婚されたの」
ステラが鼻を鳴らす。
「とっても立派な騎士様だったわ。背が高くて、顔もよくて、お金持ちで」
馬は耳を動かした。
「でも、あの人は私の夢を笑ったのよ」
レオノーラは愛馬の額を撫でた。
「あなたなら、笑わないでしょう?」
ステラが彼女の肩に鼻先を押しつける。
「ふふっ。くすぐったいわ」
「馬に相談するとは、相変わらず変わった姫君ですな」
背後から野太い声がした。
振り返ると、ローランドが立っていた。
五十六歳になる元騎士で、かつて父の従騎士を務めた男だ。灰色の髪に立派な口髭を蓄え、左頬には古い刀傷がある。厚い胸板と節くれだった指は、長年武器を扱ってきた証だった。
茶色の上着の袖をまくり、片手に木製の練習槍を持っている。
「ローランド!」
「昨夜の騒ぎは聞きましたぞ」
「……お説教なら聞きません」
「説教ではありません」
ローランドは槍を彼女に差し出した。
「本当に試合に出たいのなら、まずは腕前を見せていただきましょう」
レオノーラは目を輝かせた。
「教えてくれるの?」
「教えるかどうかは、それから決めます」
「もちろんよ!」
「ただし、姫様」
ローランドの声が低くなった。
「馬上槍試合は遊びではありません。鎧を着けても、落馬すれば命を落とすことがあります。痛みを知り、危険を理解し、それでも学ぶ覚悟が必要です」
レオノーラは槍を受け取った。
「……あります」
「では、始めましょう」
その日の最初の相手は、騎士ではなかった。
木の柱に取りつけられた、回転式の標的だった。
片側には小さな盾。
反対側には、砂袋をつけた木の腕が伸びている。
盾を打てば柱が回転し、反対側の腕が後ろから襲ってくる仕組みだ。
「まずは馬を常歩で進め、槍先を盾に合わせます。速さは要りません」
レオノーラはステラにまたがった。
今日はドレスではなく、白いシャツに革の胴着、黒い乗馬ズボンと長靴を身につけている。金髪は邪魔にならないよう、一本の三つ編みにまとめていた。
右手に槍。
左手に手綱。
「行くわよ、ステラ」
愛馬が歩き出す。
レオノーラは槍を構えた。
狙うのは盾の中央。
しかし、槍先がわずかに揺れた。
木の盾をかすめ、空を切る。
「あっ!」
「槍先を見すぎです!」
「見なければ当たらないでしょう!」
「目標を見なさい! 槍先は腕と体で支えるのです!」
もう一度。
今度は盾に当たった。
カンッ!
柱が回転した。
砂袋が背後から迫る。
「きゃっ!」
レオノーラは慌てて身を伏せた。
砂袋は頭上を通り過ぎたが、彼女は危うく鞍から滑り落ちそうになった。
ローランドが大きく息を吐く。
「……今ので本物の試合に出れば、落馬していましたな」
「わかっているわよ!」
「ならば、もう一度」
その日は何度も失敗した。
槍が重く、右腕が震えた。
肩が痛み、太腿の内側が擦れた。
何より、思いどおりに動かない自分が悔しかった。
夕方になる頃には、手袋の内側に水ぶくれができていた。
レオノーラは厩舎の前に座り込み、手を見つめた。
「……お父様は、こんなことを毎日していたのね」
「ええ」
ローランドが隣に腰を下ろした。
「陛下が若い頃など、ひどいものでした」
「ひどい?」
「練習用の馬から何度も落ちましてな。馬のほうが呆れていたほどです」
レオノーラは顔を上げた。
「嘘でしょう?」
「本当です。私が数えただけでも、ひと月に十回は落ちました」
「お父様が?」
「ええ。ですが、次の日にはまた馬に乗っていました」
ローランドは彼女の手を見た。
「姫様。才能があるかどうかは、まだわかりません」
「……はい」
「ですが、続ける覚悟があるかどうかは、これからわかります」
レオノーラはしばらく黙っていた。
やがて立ち上がり、ステラの首を撫でた。
「明日もお願いします」
ローランドは口髭の下で笑った。
「承知しました」
◇
それから十日が過ぎた。
レオノーラは毎朝、日が昇る前に厩舎へ向かった。
槍を構える腕が痛くても、雨で地面がぬかるんでいても、練習を欠かさなかった。
ローランドは最初、歩く馬の上で槍を安定させる練習ばかりさせた。
次に速歩。
そして駈歩。
標的を打つ瞬間に体をひねらないこと。
槍を脇の下に固定し、肩と腰を一直線に保つこと。
盾を見つめすぎて、馬の進路を乱さないこと。
簡単そうに見えた動作ほど、実際には難しかった。
ある日の午後。
レオノーラは標的に向かって駆けた。
ステラの蹄が土を蹴る。
風が頬を打った。
槍先を下げる。
目標は盾の中央。
呼吸を止めない。
そのまま――。
バキッ!
練習槍の先端が折れた。
レオノーラは衝撃に耐え、鞍の上で姿勢を保った。
「やった!」
彼女は思わず声を上げた。
ローランドが腕を組む。
「ようやく一本ですな」
「もう少し褒めてくれてもいいでしょう!」
「では、次は三本続けて折っていただきましょう」
「鬼!」
「褒め言葉として受け取っておきます」
そのときだった。
「見事な一撃ですね」
聞き覚えのある声に、レオノーラは振り返った。
柵の向こうにセドリックが立っていた。
今日は甲冑ではなく、黒い上着と灰色の乗馬ズボンを着ている。腰には細身の剣を下げ、黒髪を革紐で束ねていた。
「……どうしてあなたがここに?」
「ローランド殿に用がありまして」
「なら、さっさと済ませてください」
「ずいぶん嫌われたものですね」
「自覚があるなら結構です」
セドリックは苦笑した。
そして、折れた槍を見た。
「ですが、先ほどの一撃は悪くありませんでした」
「……そう?」
「ええ。ただ、打つ直前に右肩が上がっています」
レオノーラは眉をひそめた。
「それが何か?」
「実際の相手なら、その動きを見て狙いを読めます。肩を上げず、槍の軸を保ったまま打つべきです」
彼はローランドから一本の槍を借りた。
地面に立ち、槍を右脇に固定する。
「こうです」
その姿勢は美しかった。
背筋が伸び、肘の角度に無駄がない。
槍先は少しも揺れなかった。
レオノーラは思わず見入った。
「……なるほど」
「お試しになりますか?」
「言われなくても」
彼女は新しい槍を受け取り、ステラにまたがった。
セドリックが柵の外から見守る。
もう一度、駆ける。
槍を構える。
肩を上げない。
標的に集中する。
バキッ!
今度も槍先が折れた。
しかも、先ほどより姿勢が安定していた。
「できた!」
レオノーラが笑う。
セドリックも微笑んだ。
「お見事です、殿下」
その言葉に、彼女は少しだけ頬を赤くした。
「……べ、別に、あなたのおかげではありませんから」
「もちろんです。努力なさったのは殿下です」
意外な返答だった。
レオノーラは言葉に詰まった。
セドリックは、彼女の手袋にできた傷を見た。
「本気で練習されているのですね」
「最初から本気だと言ったでしょう」
「ええ。ですが、私はそれを信じていませんでした」
彼は静かに頭を下げた。
「申し訳ありません」
レオノーラは目を見開いた。
あの自信家が謝ったのだ。
「……わかればいいのよ」
「では、次の大会を楽しみにしております」
「え?」
「殿下が正式に出場できるなら、いずれ私と戦うことになるでしょう」
セドリックは笑った。
「そのときは、手加減いたしません」
レオノーラの胸が高鳴った。
彼女は槍を持ち上げた。
「望むところよ!」
◇
しかし、実際の騎士を相手にすることは、木の標的を打つのとはまるで違った。
数日後。
ローランドは経験豊富な騎士エドリックを呼び、実戦形式の練習を行うことにした。
エドリックは三十八歳。
短く刈った茶髪に、日に焼けた顔。厚い首と太い腕を持つ、いかにも頑丈そうな男だった。
今回は両者とも、先端を丸く加工した練習槍を使う。
鎧の上には厚い保護具を重ね、速度も抑える。
それでも、初めて向かい合う騎士の姿に、レオノーラは緊張していた。
「姫様、無理に当てようとしなくて構いません」
ローランドが声をかける。
「まずは相手が近づいても、姿勢を崩さないことです」
「わかっているわ」
レオノーラは深く息を吸った。
向こう側で、エドリックが槍を構える。
合図の旗が上がった。
レオノーラはステラの首を軽く叩く。
「お願いね」
旗が振り下ろされた。
二頭の馬が走り出す。
蹄の音が近づいてくる。
レオノーラは槍を下げた。
相手の盾を見る。
しかし、エドリックの槍先が自分の胸元へ向けられた瞬間、息が止まった。
怖い。
頭ではわかっていた。
練習だ。
相手は熟練の騎士だ。
危険を抑えている。
それでも、真正面から迫ってくる槍は恐ろしかった。
レオノーラは無意識に体を左へ倒した。
「姫様、姿勢を!」
ローランドの声が聞こえた。
次の瞬間。
ドンッ!
練習槍が左側の盾を打った。
衝撃で、レオノーラの上体が後ろへ揺れた。
左足が鐙から外れる。
「あっ……!」
鞍の縁を掴もうとした。
だが、指が届かなかった。
体が横へ滑る。
視界が回った。
そして、地面に落ちた。
鈍い衝撃が背中を走る。
肺の空気が一気に押し出された。
「……っ!」
息ができない。
目の前が白くなる。
遠くから、誰かの叫び声が聞こえた。
「レオノーラ!」
父の声だった。
アルドリック王が駆け寄ってきた。
王は娘のそばに膝をつき、震える手で兜に触れた。
「レオノーラ! 聞こえるか!」
「お……父様……」
「動くな! 医師を呼べ!」
ローランドがすぐに駆け寄り、エドリックも馬を止めた。
やがて医師が到着し、首や背中に注意しながら彼女の状態を調べた。
幸い、意識ははっきりしていた。手足も動かせたが、左肩に強い痛みがあった。
医師は安静と詳しい診察が必要だと告げた。
レオノーラは父を見上げた。
「ごめんなさい……」
王は何も言わなかった。
ただ、娘の手を強く握っていた。
◇
その夜。
レオノーラは寝台の上で、窓の外を眺めていた。
肩には包帯が巻かれ、動かすたびに鈍い痛みが走った。
医師からは、しばらく馬に乗ることを禁じられている。
扉が静かに開いた。
「……入ってもいいか?」
父だった。
「はい」
アルドリックは椅子を引き寄せ、娘のそばに座った。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
やがて王が口を開く。
「今日、お前が落ちるのを見たとき……心臓が止まるかと思った」
「……ごめんなさい」
「謝らなくていい」
王は首を振った。
「お前を叱るつもりで来たわけではない」
レオノーラは父を見た。
アルドリックは、自分の右脚に手を置いていた。
「六年前の試合を覚えているか?」
「もちろんです」
「セドリックとの決勝戦だ」
王は小さく笑った。
「あのとき、私は負けるはずがないと思っていた」
「お父様は、ずっと無敗でしたから」
「そうだ。だからこそ、愚かだった」
レオノーラは眉を寄せた。
父は続けた。
「最初の一騎で、セドリックに見事な一撃をもらった。あの若造は強かった。私より速く、冷静だった」
「……」
「だが私は、それを認められなかった。次の一騎で無理に勝とうとした。体を乗り出し、槍を強引に押し込んだ」
王は右脚をさすった。
「その結果、落馬した。怪我をしたのは、私自身の判断が原因だ」
「でも、セドリックが……」
「彼は正々堂々と戦った」
父の声は穏やかだった。
「私が負けたのは、彼が卑怯だったからではない。私が自分の限界を認めなかったからだ」
レオノーラは俯いた。
六年間、彼女はセドリックを憎んできた。
父の夢を奪った男だと思っていた。
けれど、父自身はそう考えていなかった。
「……どうして、今まで教えてくれなかったの?」
「格好の悪い父親だと思われたくなかったのだろうな」
アルドリックは苦笑した。
「三十二回も優勝した男が、最後は自分の驕りで怪我をしたのだから」
レオノーラは首を振った。
「そんなことない」
「そうか?」
「お父様は、今でも私の憧れです」
王の目が細くなった。
レオノーラは膝の上で拳を握った。
「私……怖かった」
「……ああ」
「槍が近づいてきたとき、体が動かなかったの。お父様が落馬したときのことを思い出して……」
声が震えた。
「私、向いていないのかもしれない」
アルドリックは娘の手を包んだ。
「怖いと思うのは、当然だ」
「お父様も?」
「毎回、怖かったとも」
レオノーラは顔を上げた。
「嘘」
「本当だ。試合の前は、いつも腹が痛くなった」
「……お父様が?」
「そうだ。ローランドには何度も笑われた」
レオノーラは思わず吹き出した。
王も笑った。
やがてアルドリックは、娘の目をまっすぐ見た。
「レオノーラ。私は、お前が危険な目に遭うのが怖い」
「……はい」
「だが、お前の夢を笑うべきではなかった」
レオノーラの瞳が揺れた。
「お父様……」
「もう一度、きちんと学んでみるか?」
「え?」
「医師が許可するまで休むこと。ローランドの指示に従うこと。危険だと判断されたら、無理をしないこと」
王は微笑んだ。
「その約束ができるなら、私も教えよう」
レオノーラの目から涙がこぼれた。
「……はい!」
彼女は父に抱きつこうとして、肩の痛みに顔をしかめた。
「いたっ!」
「こら、まだ動くな!」
二人は顔を見合わせた。
そして、笑った。
◇
回復には時間がかかった。
レオノーラは焦っていたが、父との約束を守った。
馬に乗れない間は、ローランドと一緒に試合の記録を読み、騎士たちの稽古を観察した。
やがて医師から軽い運動を許されると、まずは地上で姿勢を確認した。
その後、ステラにまたがって歩く練習を再開した。
以前のように、すぐ槍を構えることはしなかった。
まずは馬の動きに体を合わせる。
呼吸を整える。
足の位置を確かめる。
そして、ゆっくりと速度を上げていく。
アルドリックは毎日、練習場に姿を見せた。
「レオノーラ、右の肩が上がっているぞ」
「はい!」
「槍を力任せに押し込むな」
「はい!」
「もっと馬を信じろ」
「はい!」
ローランドが隣で腕を組んでいた。
「陛下、少々口を出しすぎでは?」
「そうか?」
「姫様が槍を構えるたびに三つも四つも指示を出しておられます」
「……そうかもしれんな」
レオノーラは笑った。
父と一緒に練習できることが、何より嬉しかった。
そんなある日、セドリックが再び姿を見せた。
彼は柵の外で、レオノーラの練習を静かに眺めていた。
練習が終わると、彼女は馬を寄せた。
「何かご用?」
「お体はもうよろしいのですか?」
「ええ。医師にも許可をもらったわ」
「それはよかった」
セドリックはほっとしたように笑った。
その表情を見て、レオノーラは少し驚いた。
いつもの自信に満ちた笑みとは違っていた。
「……心配してくれたの?」
「もちろんです」
「私を笑ったくせに」
「そのことは、謝らなければなりませんね」
彼は真面目な顔になった。
「殿下の夢を軽く見ていました。申し訳ありません」
レオノーラはしばらく彼を見つめた。
それから、視線をそらした。
「……もういいわ」
「ありがとうございます」
「でも、許したわけじゃないから」
「承知しております」
「それと、あなたに聞きたいことがあるの」
「何でしょう?」
レオノーラは手綱を握り直した。
「六年前、お父様に勝ったとき……嬉しかった?」
セドリックはすぐには答えなかった。
風が吹き、彼の黒髪を揺らした。
「勝てたことは、嬉しかったです」
レオノーラの胸が少し痛んだ。
だが、彼は続けた。
「ですが、陛下が落馬された瞬間、その喜びは消えました」
「……」
「私は、陛下に憧れて騎士になりました。いつか正面から戦い、勝ちたいと思っていた」
セドリックは練習場の向こうを見た。
「けれど、あれが最後の試合になるとは思っていませんでした」
レオノーラは彼の横顔を見つめた。
初めて、彼の中にある後悔を知った気がした。
「……そうだったの」
「はい」
セドリックは彼女に向き直った。
「だからこそ、殿下には無理をしてほしくありません」
レオノーラは眉を上げた。
「また子供扱い?」
「いいえ」
彼は微笑んだ。
「次に戦うときは、万全の状態で来ていただきたいのです」
その言葉に、彼女の胸が熱くなった。
「……もちろんよ」
レオノーラは槍を持ち上げた。
「次は絶対に負けないわ!」
「楽しみにしております」
セドリックは軽く頭を下げた。
そして立ち去ろうとした。
「あ、待って!」
彼が振り返る。
「何でしょう?」
レオノーラは少し迷った。
それから、小さな声で言った。
「……この前、槍の持ち方を教えてくれて、ありがとう」
セドリックは目を見開いた。
次の瞬間、嬉しそうに笑った。
「どういたしまして、レオノーラ殿下」
「な、何よ、その顔!」
「いえ。殿下からお礼をいただける日が来るとは思わなかったもので」
「もう言わない!」
セドリックの笑い声が、練習場に響いた。
◇
大会当日。
ヴァルドリアの馬上槍試合場は、朝から大勢の観客で賑わっていた。
木造の観客席には色鮮やかな旗が掲げられ、売り子たちが焼き菓子や果実水を売り歩いている。
場内の中央には、長い木製の仕切り柵が設けられていた。
その両側を、二頭の馬が反対方向から走る。
騎士たちは互いの左側をすれ違いながら、右腕に抱えた槍で相手の盾や胸甲を狙う。
使用するのは、先端を安全な形に加工し、衝撃で折れるよう作られた競技用の槍だ。
それでも、馬の速度と騎士の体重が加われば、衝撃は凄まじい。
鎧を着けていても、落馬すれば重傷を負うことがある。
今回の大会では、三度の交差で勝敗を決める。
有効部位への命中は一点。
槍が正しく折れれば三点。
正当な一撃で相手を落馬させた場合は、その時点で勝利となる。
三度の交差で同点なら、決着がつくまで追加の交差を行う。
レオノーラは控えの天幕で、最後の準備をしていた。
白い下衣の上に厚い防具を着け、その上から銀色の甲冑を重ねている。
胸甲には青い獅子の紋章。
肩と腕には動きを妨げないよう調整された金属板。
左腕には専用の盾を固定し、右手には槍を扱うための厚い手袋をはめていた。
金色の髪は後ろでまとめ、兜の中に収めている。
ミリアムが最後の留め具を確かめた。
「姫様、本当にお綺麗です」
「鎧を着ているのに?」
「ええ。ドレスより、ずっと姫様らしいです」
レオノーラは笑った。
「それ、褒めているの?」
「もちろんです」
天幕の入口が開いた。
アルドリック王が入ってきた。
彼は娘の姿を見て、しばらく言葉を失った。
「……よく似合っている」
「本当?」
「ああ」
王は手にしていた赤い布を差し出した。
「これは、私が初めて大会に出たとき、母上からいただいたものだ」
細い赤いリボンだった。
アルドリックはそれを、娘の槍の根元に結んだ。
「勝っても負けても、胸を張って帰ってこい」
レオノーラの目が潤んだ。
「はい、お父様」
王は微笑んだ。
「行ってこい、レオノーラ」
◇
「第一試合! バスティアン卿対、レオノーラ王女殿下!」
観客席がざわめいた。
銀色の甲冑を着た王女が、白芦毛の馬に乗って姿を現したからだ。
「本当に王女様が出るのか?」
「大丈夫なのか?」
「相手は騎士だぞ!」
そんな声が聞こえてくる。
レオノーラは聞こえないふりをした。
対戦相手のバスティアンは、緑色の甲冑を着た若い騎士だった。
がっしりした体格で、短い茶髪と人懐っこい顔をしている。
「殿下。どうかお怪我のないように」
「あなたもね」
レオノーラは兜の面頬を下ろした。
視界が狭くなる。
呼吸の音が、兜の内側に響いた。
向こう側で、バスティアンが槍を構える。
審判が旗を上げた。
レオノーラはステラの首を軽く叩いた。
「行こう」
旗が下りた。
二頭の馬が駆け出す。
蹄が土を蹴り上げる。
柵が視界の左側を流れていく。
レオノーラは槍を脇に固定した。
相手の盾が近づく。
バスティアンの槍先も、こちらへ向いている。
怖くないわけではなかった。
けれど、目をそらさなかった。
狙いを定める。
槍先が盾の中央に重なる。
次の瞬間。
バキィッ!
右腕に激しい衝撃が走った。
槍が折れた。
レオノーラは歯を食いしばり、鞍に体を残した。
相手の槍は盾の外側をかすめ、空を切った。
馬が走り抜ける。
レオノーラは息を吐いた。
「……当たった?」
背後から歓声が上がった。
「レオノーラ王女、槍を折った! 三点!」
観客席が沸いた。
レオノーラは思わず笑った。
だが、まだ終わっていない。
二度目の交差では、バスティアンの槍が彼女の盾を捉えた。
ゴンッ!
衝撃が左腕から肩へ伝わる。
レオノーラは体を揺らしながらも、なんとか姿勢を保った。
バスティアンに一点。
三度目。
両者の槍が盾に当たった。
レオノーラの槍は折れなかったが、相手の槍も折れなかった。
互いに一点ずつ。
最終得点は四対二。
「勝者、レオノーラ王女殿下!」
歓声が上がった。
レオノーラは兜の面頬を上げた。
額から汗が流れる。
息が荒い。
腕も痛い。
それでも、笑顔が止まらなかった。
観客席を見る。
父が立っていた。
大きく手を叩いている。
その姿を見た瞬間、胸がいっぱいになった。
「……お父様」
◇
次の相手は、ベテラン騎士のガリックだった。
灰色の甲冑を着た四十代の男で、赤茶色の髭を蓄えている。
彼はレオノーラを見ると、静かに兜を下げた。
「殿下。よい試合にいたしましょう」
「ええ。よろしくお願いします」
最初の交差。
ガリックは槍を低く構え、無駄のない動きで迫ってきた。
レオノーラは盾を狙った。
しかし、相手の馬がわずかに速度を変えたことで、狙いがずれた。
槍先が盾の端をかすめる。
同時に。
バキッ!
ガリックの槍が、彼女の盾の中央で折れた。
衝撃が体を突き抜けた。
「くっ……!」
レオノーラは上体を反らされた。
鞍の後ろに体が押しつけられる。
それでも、両脚で馬を挟み、なんとか耐えた。
三点を奪われた。
次の交差では、レオノーラが一点を返した。
三度目。
今度は互いの槍が折れた。
ガリックが三点。
レオノーラも三点。
合計は六対四。
レオノーラの敗北だった。
――そう思われた。
だが、審判たちが協議を始めた。
二度目の交差で、ガリックの槍が規定の有効部位を外れていたことが確認されたのだ。
その一点は取り消された。
しかし、それでも得点は六対三。
レオノーラの敗北に変わりはなかった。
彼女は悔しさに唇を噛んだ。
ガリックが馬を寄せてきた。
「殿下。見事でした」
「……ありがとうございます」
「最初の一騎で、私の馬の速度に合わせようとしましたね」
レオノーラは顔を上げた。
「はい」
「それが失敗でした。相手に合わせるのではなく、ご自分の馬を信じるべきです」
ガリックは微笑んだ。
「ですが、最後まで逃げずに槍を構えた。その勇気は立派です」
レオノーラは深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
彼女の大会は、そこで終わった。
◇
控えの天幕へ戻ると、レオノーラは椅子に腰を下ろした。
兜を外す。
汗に濡れた金髪が頬に張りついた。
ミリアムが水を差し出した。
「姫様、お疲れ様でした」
「……負けちゃった」
「はい」
「悔しいわ」
「そうでしょうね」
レオノーラは水を飲んだ。
喉が痛いほど乾いていた。
「私、もっと強くなりたい」
ミリアムは微笑んだ。
「なれますよ」
「どうしてそう思うの?」
「だって、姫様は負けたばかりなのに、もう次のことを考えているんですもの」
レオノーラは目を瞬かせた。
そして、小さく笑った。
「……そうね」
そのとき、天幕の入口から声がした。
「失礼します」
セドリックだった。
黒い甲冑を着ている。
これから決勝戦に出場するところらしい。
「見ていたの?」
「ええ」
「……笑いに来た?」
セドリックは首を振った。
「いいえ。お伝えしたいことがあって」
彼はレオノーラの前に立った。
「最後の一騎、見事でした」
「でも負けたわ」
「ええ。ですが、最初の頃の殿下なら、あの衝撃で落馬していたでしょう」
レオノーラは黙った。
セドリックは続けた。
「今日は最後まで馬上に残った。相手の槍を恐れず、自分の槍を出した。それは大きな進歩です」
「……本当にそう思う?」
「もちろん」
彼は微笑んだ。
「私は、殿下が次にどこまで強くなるのか楽しみです」
レオノーラは少しだけ頬を赤くした。
「……ありがとう」
セドリックが目を丸くする。
「おや。今日は素直ですね」
「やっぱり取り消す!」
彼は声を上げて笑った。
そして、兜を脇に抱え直した。
「では、私は決勝へ行ってまいります」
「……勝ちなさいよ」
セドリックが足を止めた。
レオノーラは彼を見上げた。
「私を笑った男が、簡単に負けたら許さないんだから」
セドリックは一瞬驚いた顔をした。
それから、嬉しそうに笑った。
「承知しました、殿下」
◇
決勝戦。
セドリックの相手は、隣国の名高い騎士だった。
観客席は熱気に包まれていた。
レオノーラは父の隣に座り、試合を見守っていた。
セドリックの黒い馬が走る。
相手の槍が迫る。
しかし、セドリックはまったく姿勢を崩さなかった。
槍を構える腕が安定している。
視線は相手の盾から動かない。
そして、交差する瞬間。
バキィッ!
彼の槍が砕けた。
相手の騎士は大きく揺れ、鞍から落ちかけた。
観客席から歓声が上がる。
レオノーラは思わず立ち上がった。
「すごい……!」
父が隣で笑った。
「強いだろう?」
「……ええ」
「あれが、今のセドリックだ」
レオノーラは拳を握った。
悔しかった。
けれど、それ以上に胸が高鳴った。
いつか、あの男と同じ場所で戦いたい。
今度こそ、正面から。
その願いが、以前よりずっと強くなっていた。
試合はセドリックの勝利で終わった。
観客席から大きな拍手が起こる。
彼は兜を脱ぎ、王のいる席へ向かって槍を掲げた。
その視線が、一瞬だけレオノーラに向けられた。
彼女は思わず笑った。
そして、小さく拳を突き上げた。
◇
大会から三日後。
レオノーラは城の庭園を歩いていた。
淡い青のワンピースを着て、金色の髪を緩く編んでいる。
今日は鎧も槍もない。
隣にはセドリックがいた。
彼も甲冑を脱ぎ、黒い上着に白いシャツという落ち着いた服装だった。
「……それで、何の用なの?」
レオノーラが尋ねた。
「お誘いしたかったのです」
「何に?」
「散歩に」
「それだけ?」
「それだけです」
レオノーラは不思議そうに彼を見た。
「あなた、変わっているわね」
「よく言われます」
「嘘でしょう」
「ええ。今、初めて言われました」
レオノーラは吹き出した。
二人は庭園の小道を歩いた。
白い花が咲き、噴水の水音が静かに響いている。
しばらくして、セドリックが口を開いた。
「殿下。以前、私はあなたに求婚しました」
「……覚えているわ」
「そして、見事に振られました」
「当然でしょう」
セドリックは苦笑した。
「今なら、あのときの自分がどれほど愚かだったかわかります」
レオノーラは足を止めた。
「どういうこと?」
「私は、あなたのことを何も知りませんでした」
彼はまっすぐに彼女を見た。
「王女であること。美しいこと。陛下の娘であること。それだけで、あなたを妻に迎えたいと思っていたのです」
レオノーラは黙って聞いていた。
「ですが、今は違います」
セドリックは少し照れくさそうに笑った。
「槍を握るときの真剣な顔も、負けたときの悔しそうな顔も、馬に話しかけているときの楽しそうな顔も……もっと見ていたいと思うようになりました」
レオノーラの頬が熱くなった。
「な、何よ、それ……」
「ですから、もう一度お願いしたいのです」
セドリックは片膝をつかなかった。
指輪も取り出さなかった。
ただ、彼女の前に立っていた。
「私と、もう少し一緒に過ごしていただけませんか?」
レオノーラはしばらく彼を見つめた。
以前の自分なら、すぐに断っていただろう。
父を倒した男。
夢を笑った男。
そう思っていた。
けれど、今は違う。
彼がどれほど努力してきたのか、少しだけわかった。
父を尊敬していたことも。
自分の夢を認めてくれたことも。
そして、試合のあと、負けた自分に真っ先に声をかけてくれたことも。
「……いいわよ」
セドリックの目が見開かれた。
「本当ですか?」
「ただし!」
レオノーラは人差し指を立てた。
「条件があるわ」
「何でしょう?」
「次の大会で、私と勝負すること」
セドリックは笑った。
「もちろんです」
「絶対に手加減しないでね」
「約束します」
レオノーラは満足そうに頷いた。
そして、少しだけ視線をそらした。
「……それと」
「はい?」
「次の大会が終わったら……また、一緒に散歩してもいいわ」
セドリックは一瞬、言葉を失った。
それから、心から嬉しそうに微笑んだ。
「喜んで」
レオノーラは顔を赤くしたまま歩き出した。
「ほら、行くわよ!」
「はい、レオノーラ殿下」
「……レオノーラでいいわ」
セドリックが足を止めた。
「よろしいのですか?」
「何度も言わせないで!」
彼は笑った。
「では、レオノーラ」
名前を呼ばれただけなのに、胸がどきりとした。
レオノーラは慌てて前を向いた。
「……ばか」
小さな声だった。
けれど、セドリックには聞こえていたらしい。
彼は何も言わず、ただ彼女の隣を歩いた。
◇
翌朝。
レオノーラは厩舎にいた。
ステラの首を撫でながら、昨日のことを思い出していた。
「ねえ、ステラ」
白芦毛の牝馬が耳を動かす。
「私、あの人のこと……少しだけ、嫌いじゃなくなったかもしれない」
ステラが鼻を鳴らした。
「な、何よ。その顔は」
馬は当然、何も答えない。
レオノーラは頬を膨らませた。
「別に、好きになったわけじゃないんだから!」
「ほう。誰をだ?」
背後から声がした。
振り返ると、父が立っていた。
「お、お父様!」
アルドリックは愉快そうに笑っている。
「セドリックと散歩したそうだな」
「ど、どうして知っているの!?」
「ミリアムが教えてくれた」
「ミリアムーッ!」
厩舎の向こうから、侍女の笑い声が聞こえた。
アルドリックも笑った。
「まあ、よいではないか。あれは悪い男ではない」
「わかっているわよ!」
「ならば、結婚も近いか?」
「気が早すぎます!」
レオノーラは真っ赤になって叫んだ。
父はますます笑った。
やがて、彼女は厩舎の外へ目を向けた。
朝日が、遠くの馬上槍試合場を照らしている。
昨日までの自分なら、あの場所を見て悔しさばかり感じていたかもしれない。
けれど、今は違う。
もっと練習したい。
もっと強くなりたい。
そして、いつか――。
「お父様」
「何だ?」
「私、次の大会にも出るわ」
アルドリックは娘を見た。
レオノーラは笑っていた。
「今度こそ、セドリックに勝ってみせる」
王はしばらく黙っていた。
それから、静かに微笑んだ。
「ああ。楽しみにしているぞ」
レオノーラはステラの額を撫でた。
「頑張ろうね、ステラ」
愛馬が嬉しそうに鼻を鳴らす。
金色の髪が朝風に揺れた。
レオノーラは、もう一度試合場を見た。
そこには、まだ誰もいない。
けれど彼女には、馬の蹄が地面を蹴る音が聞こえる気がした。
槍が砕ける音。
観客たちの歓声。
そして、いつか自分の名前が呼ばれる瞬間。
王女だからといって、夢を諦める必要なんてない。
誰かの妻になるために、自分の人生を捨てる必要もない。
大好きな人と競い合いながら、同じ未来を目指したっていい。
レオノーラは笑った。
「次こそ、絶対に勝つんだから!」
その声は、朝の青空へと高く響いた。
そして、白い馬が元気よくいなないた。
まるで、彼女の夢を応援するように。
――おしまい。
この短編小説を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。
楽しんでいただけたなら幸いです。もしよろしければ、コメントや星評価をいただけると大変嬉しいです。
お時間を割いていただき、そして私の物語に目を通してくださったことに、心から感謝いたします!




