月が笑うと星が降る
綺麗な話が読みたい、書きたい。そんな思いから生まれた話です。
隣の席のあの子は、いつも窓の外を見ている。
晴れた日も、雨が降る日も、風が吹く日も、曇っている日も、あの子はいつも窓の外を見ている。
休み時間も、授業中も、頬杖をついて窓の外を見ている。
移動教室や体育の授業の、教室にいる時以外は、いつも窓の外を見ている。
長い前髪の奥に隠れたあの子の目には何が映っているのか、私は知らない。
私もあの子も、毎日新しい日を過ごしている。でも、私は毎日同じ日を過ごしている。
「瀬戸さんは、いつも何を見ているの?」
器が当たる音、水の流れる音。隣り合って食器を洗う私とあの子の間に出来ている波紋に、私の声という水滴が落ちた。
何が私の口をそのように動かしたのか、わからない。
いつもの学校だけど、宿泊合宿という、いつもと少し違った状況だったからかもしれない。食器を洗う私達の間には、他人という壁が無くなっていたのかもしれない。家庭科室には、私とあの子の2人だけだったからかもしれない。
理由はわからない。わからないけれど、気が付いたら私の口は動いていた。
私達は、普段から何気ない会話を交わしています、とでもいえように、入学してからずっと隣の席だったのに、この時、初めて言葉を交わした。
「いつも?」
隣のあの子の、食器を洗う手が止まった。
私は手を止めなかったけど、目線はずっと手元を向いていたけど、あの子はきっと私を見ている。そう確信していた。
初めて私に向けられたあの子の声は、鈴の音が鳴るような、夜になっても暑い夏の空気をシャンと冷ますような、どこまでも透き通った声だった。
あの子の声を、あの子の声だけを聴いていたい。あの子の声を邪魔するものは、私達の間からなくなってほしい。なのに、食器を洗う私の手は止まらない。
「休み時間も、授業中も、いつも窓の外を見ているから。何か、面白いものが見えるの?」
初めてのこの会話を、あの子との初めての繋がりを断たれたくない。あの子に離れてほしくない。なのに、私はあの子の顔を見ることはできない。
暫しの間、私とあの子の間には、水の流れるザーとした音が続いていた。
「自然を見ているの」
「自然‥‥‥」
ポツリと、独り言のようにあの子は呟いた。
私が聞いていても聞いていなくてもどちらでもいいというように、すぐ隣にいる私が耳を澄ませてやっと聞こえるくらいの声で、あの子はただ事実を語っていた。
「風が木を揺らしているところとか、鳥が空を悠然と飛んでいるところとか、雲が色んな姿をしているところとか」
気付けば、私は手を止めて、再び食器を洗い出したあの子の顔をじっと見つめていた。
スッと通った鼻筋と、ぷっくりとした小さな唇と、仄かに赤みの差した頰。いつも私が見ている、あの子の顔。
長いまつ毛と、パッチリした二重の大きな目と、形の整ったきれいな眉。前髪に隠れて見ていない、あの子の顔。
長い前髪の奥のあの子の瞳を、私は初めて見た。
夜なのに、家庭科室の蛍光灯は薄暗かったのに、あの子の前髪はいつものように目に入りそうだったのに、あの子は俯き気味だったのに、私の目にはあの子の顔がはっきり映っていた。
それは、いつもよりも近い位置にあの子の顔があったからなのか。私達を取り巻く空気が、いつもより透き通っていたからなのか。
「きれい‥‥‥」
きっと、そのどちらもだ。
勝手に動いた私の口が、勝手に空気を振るわせた私の声は、不純物のない空気を抜けて、あの子の耳に届いてしまった。
「うん、綺麗」
あの子の大きな綺麗な瞳が、真っ直ぐ私を捉えている。初めて、あの子と私の視線が絡んだ。初めて、私とあの子は正面から向き合った。
ポタリ。濡れた食器から水が落ちる。食器の下には、小さな水溜りができている。
「自然って、いつも違う顔をしているの。でも、いつも、いつ見ても、すごく綺麗」
ポタリ。濡れた食器から水が落ちる。ギリギリまで耐えていた小さな水溜りが、決壊する。
「いつも……」
ツゥと、細い水の筋が、シンクに流れ落ちる。
流れ落ちた水は、シンクを濡らす水と合わさって、混ざって、排水口に吸い込まれていく。
私とあの子の目線は、透明な空気の中絡んで、溶けて、霧散する。
透明な空中に霧散した私達の視線が、キラキラ輝いて私達を包み込む。まるで星空の中のように。
「うん、いつも綺麗。こっち」
あの子が、私の手を引く。
手を拭いていない私達の掌を濡らす水が混ざり合う。
パシャ、とあるはずのない水を踏んだ気がした。私とあの子が床に足をつけるたびに、あるはずのない水が波紋を生み出す。私とあの子の波紋がぶつかる。
窓際まで私の手を引いてきたあの子は、繋いでいない方の手でカチャン、と鍵を回して窓を開ける。
「ほら」
あの子の指の先には、窓から覗いていたのは、夜の世界。
白い屋外照明に照らされた校庭。校庭を取り囲む桜の木。どこまでも続く星空。
「昼間の校庭は活動している。今は校庭も静かにお休み中。周りの木にはいつも鳥達が集まっている。時々猫や狸が木の周りに来ることもある。今は虫達の寝床になって、静かな夜を見守っている。空はその日によって違う。晴れの日も、雨の日も、風が強い日も、曇りの日も、全く同じ顔はしていない。今日は、雲ひとつない、輝く星に覆われた、幸せが溢れる空」
語るあの子の目は、キラキラ輝いている。まるで、あの子の瞳に星が宿っているかのよう。
その場から動いていないのに、あの子の足元には新たな波紋が生まれる。消えることはない波紋は、私の足にぶつかる。
「綺麗だなぁ」
ただの日常に、あの子は命を見ている。あの子の見ていたものは、生きた世界の輝きだ。
零れた言葉は、透き通った空気を微かに揺らす。
「! うん、綺麗だよね」
パァ、とあの子の瞳の輝きが増す。
私達を包み込む星たちも、キラキラ輝きを増す。
「瀬戸さん……ううん、梛月ちゃん」
再び私とあの子の視線が絡み合う。
あの子の大きな瞳が、まっすぐ私を捉えている。
「って、呼んでもいい? 私のことは、星凪って呼んで」
あの子の長い前髪が揺れる。
前髪の奥の、綺麗な瞳が大きくなって、一際強く輝く。
私の言葉を掬うように、あの子は両手で私の左手を包み込む。
「うん! 星凪ちゃん!」
キラキラと、私とあの子を包み込んでいた星たちが、動いている。
私達を包んでいた星は、あの子の周りを舞うように降下している。まるで、星が降っているかのように、キラキラあの子を包むように舞っている。
キラキラ降る星の中心で、あの子は眩しいほどに輝く笑顔を見せている。あの子の瞳は、優しく輝いている。あの子の瞳に宿っていたのは、星よりも優しい光だ。まるで、太陽の光を受けて、暗い夜空を明るく照らす月のようだ。
私の手を取るあの子の笑顔は優しく、美しく輝いている。
隣の席のあの子は、いつも窓の外を見ている。
太陽が元気いっぱいに晴れた日も、雨が悲しげに降り注ぐ日も、風が嬉しそうに木の葉を揺らす時も、雲が怠そうに空を覆い隠す時も、あの子はいつも窓の外を見ている。
休み時間も、授業中も、頬杖をついて窓の外を見ている。
あの子が窓の外以外を見るのは、移動教室や体育の授業の、私達の教室にいない時。それから、
「梛月ちゃん、おはよう」
「星凪ちゃん! おはよう!」
あの子の優しい瞳は、私を映し出している。
美しく輝くあの子の周りには、今日も星がキラキラ降っている。
淡い灰色のベールを纏った白い空気、なイメージ。




