きみにひとつかくしごと
慣れないところに無理しているもんじゃない。
部屋に入って一時間も経たないうちに、私は超後悔していた。
頑張ってカラオケルームに入ったはいいけれど、頭上でミラーボールライトがグルグルギラギラ回ってるし。大音量が音割れしてわんわん言っているし、画面はチカチカして目に焼きつくし。
窓も時計もない部屋の中じゃ、時刻を知ることもできないし。
「キミさぁ、歌わないの?」
名前も覚えてないお兄さんBに、いかにも具合を気遣うようにして肩に触られる。
私はびっくりしてのけぞってしまった。だって、今の触り方って、なんというか、こう……
「音にあてられた? だったらさ、外連れてってあげるよ、外に――」
「と、トイレ! トイレに行ってくるので!!」
自分のバッグをひったくるようにつかみ取り、返答も聞かないまま外に出た。
「あづみぃ、どうしたのー?」
5分後、店の外の非常階段でげんなりしている私に、誰かが駆け寄ってきた。
かなり明るく染めたミディアムヘアに、両耳合わせて6つは垂れ下がっている金色ピアス。
階段に座る私を屈みこむものだから、大きく開いたカットソーから谷間がこれでもかと見えてくる。
私をここへ連れ出した張本人。――去年、同じ吹奏楽同好会に入ったってことで話すようになった、高来 深夜だ。
「どうしたのって……ミヤ、あのねぇ……」
げんなりして先が続かない。鉄骨の非常階段は、雑居ビルの隙間にあって薄暗かった。
ケータイに「大好きなあづみんへー☆彡 ゴハン食べない?」なんてかっるいメールが入ってきたのは日曜の午後、つまり今から3時間ほど前。「みんな集まるからね!」といううたい文句に載せられて、集合場所の駅前カラオケ店に入ったのはいいけれど……待ち構えていたのは名も知らないお兄さんふたりと、マイクとジュースを掲げてテンション高く歌っているミヤだった。
うん、ミヤは嘘をついてない。カラオケ店でご飯は食べられるし、みんながスイガクの女子だなんて一言も書いてない。つまり鵜呑みにしちゃったのは私ですよ引っかかっちゃったのは私ですよぉ!!――と心中で叫んでも遅かった。
用があるからとかなんとか言って帰ってくることもできたけど、誰かに連絡することもできたけど、なんていうか……お兄さんふたりが明らかにミヤの胸とフトモモをガン見してたりするのを目撃しちゃったからには、女子校生ひとりをカラオケ店に閉じ込めるわけにはいかなかった。
「あの人たちとどこで会ったの? それでなんでカラオケなの……」
「んー? なんかさっき駅前で声掛けられた。あたしお腹すき過ぎてて倒れそうでさ、ゴハンおごってくれるって言うから、ついでに歌うたえるとこがいいっしょーってコトでココに」
「………」
はっきり言ってしまおうか。なんでミヤはそんなに危機管理意識が低いのか、と。
それよりもこれが今の女子の感覚なんだろうか。
ゴハン食べれるー わーラッキー♪ みたいな。カラオケくらいならまあいっかー♪ みたいな。
どこかへ連れ込まれるとかそういう危機感は持たないの? 警戒心ないの?
というか、私が女子意識失格ってことなの? ……だめだ落ち込んできた。
「あづみも歌いたいなら手ぇ挙げればいいじゃんー。あっ、もしかしてあたしとふたりで歌いたかった?」
隣にすとんと座ってくるミヤ。悪びれずにしししと笑う目は、豹かピューマあたりの猫科の獣を連想させた。
「……ミヤは、どうしていつもそんななの」
気付けば、私はそんなことを口にしていた。
たぶんミヤは私がいちばんヒマそうにしてると思ったんだろう。
私が断れないタチの人間で、日曜の午後にリビングでのんびりテレビを見てるような人間だって。
ミヤは交友関係も幅広い。複数の女子グループを行き来しているとも聞いた。派手系の女子だけじゃなくて、体育会系のグループとか男子とかとも平気で混ざっているとか。
小規模の数人グループから外れないように、いつも気を使っている私とは大違いで。
……つまり、ケータイの電話帳一覧に真っ先に載ってる名前を適当に押して、ホイホイついてくるような相手を ミヤは適当に呼んだというわけだ。
私はみんなが行くんなら行かなきゃと思って、行かないなんて言ったら気まずくなるかなとかも考慮して、結構考えて文を送って、悩みながら服を選んだのに。
来てみたら、これだ。
「えー、なぁに、あづみ怒ってる? だから、あたしとふたりになりたかったら言ってくれれば……」
「だから、そういうところが……!」
「ミヤちゃーん、おトモダチ具合良くなったー? こっち戻ってこようよ~」
反論しようとした私の口が塞がれたのと、近くで野太い声がしたのは同時だった。
正確には、口を塞がれたんじゃない。
後頭部をぐいと手で抱え込まれて、何か柔らかいものが唇に押し付けられたのだ。
顔ごとミヤの胸に引き寄せられていたと分かった。ミヤの鎖骨の下辺りに、私の唇が当たっている。
「ミ、ミヤ?」
わずかに頭を浮かせて 唇を引き剥がしたけれど、ミヤは手を外さない。
「しっ、黙って」
「えっ?」
私を低く叱り付けると、ミヤはそのまま腕を広げて、私の上半身に手を回してきた。
軽く咳払いし、すうと息を吸うと、このどちらかといえば渋谷系な派手目の化粧の子が、いきなり……
「あづみぃ、あたしも疲れちゃったぁ……」
「え、え、ミヤ!?」
「ぎゅーっ……んふふっ、やわらかーい。やっぱりあづみでエネルギーチャージしないと元気出ないよぉー」
……って、なんですかこの甘ったるい猫なで声!?
「んぅっ……やだぁ、こんなところでそんなとこ いじっちゃだめぇっ……」
……え、え、えーーーー!!?
そっちが勝手に思いっきり唇押し付けてるんですけど!?
パニック状態になった私がもがくと、非常階段の鉄筋がかんかんと揺れた。ミヤちゃーんもしかしてここー?なんて声がすぐ近くで聞こえる。ヤバいでしょこれ、何考えてるのミヤ!
「ん、んんーっ!」
「はっ、あ、やんっ、あたしが触ってるんだからあづみは触っちゃ らめぇっ、なのっ……」
ミヤの演技に拍車が掛かる。頭を押さえつけて、手を離してくれない。私がじたばたするのを楽しんでるとしか思えなかった。耳元でクチュクチュと唾液の水音が聞こえてきた。果実が発酵したような匂いがあたりをとりまくような気さえする。
この状態とミヤの演技じゃ、第三者には私がミヤを撫で回しているように見えるだろう。
というか、そんな艶かしい仕草といい、上ずった声といい、いったいどこでそんなのを覚えてくるんだろうとか考えていたら、やめてとも言えなくて……
「ふふふっ…そうだね、キスくらいなら……ココでも許してあげちゃおう、か、なっ……」
「ミヤちゃー…? ……、……………」
押し付けてくるミヤの肌から逃れて、やっとの思いで顔を上げたのと、キィと開けられたドアで、眉間に皺が寄ったまま、口が金魚みたいにぱくぱく開き、凝固しているお兄さんAと目が合ったのは、やはり同時だった。
ああ、ああ、やっぱり。この展開は。ミヤがやろうとしてたのは。
「何?」
しれっと答えるミヤの一言は、相手にとって衝撃的かつ決定的な出来事だったに違いなくて。
「……お、お邪魔みたいだったね……。は、はは……悪いっ!すぐ帰るからっ」
きびすを返すみたいに一目散で逃げ出すお兄さんA。その哀れな背中を見送ると、非常階段には私とミヤだけが取り残された。
しばらくして、唇を塞いでいたミヤの手が、するりと抜けた。
「……。あのひと、逃げちゃったけど」
唇を塞がれる行為から解放されたのだ。
窒息寸前、私はやっと深い溜息をつけた。
体に回されていた腕も解かれる。そこで分かったのだけれど、ミヤの左の鎖骨下には、くっきりと赤く、てらてら光る個所が付いていた。
……キスマーク。
私が唇を押し付けられてもがいて、結果ミヤのカラダにひとつできた跡だ。
暴れたせいで、ミヤの服も肩が丸出しになっている。そんな半開きのカットソーに、ぬらぬら光る個所は、扇情的でどきりとしてしまった。
これは、暴れた私が悪いんだろうか。押し付けて離さなかった、ミヤが悪いんだろうか。
「いいよー別に。あたしの大好きなあづみが助けに来てくれたしね」
私の視線に気が付いたミヤは、それとなくトップスの襟ぐりを直した。
いつもと同じ軽口。少しだけ顔が紅潮していたと思ったのは、きっと気のせいだ。
「それに、アイツらどうせホテル行くことしか考えてないんだから」
あっけらかんと返される。ミヤは特別 危機管理が薄いわけではなかったらしい。
「そしたら、どうしてついてきたの」
「しつこいんだもん。人が体力ないのいいことに立ちはだかってきて。こうでもしなきゃ、納得しない、っしょ……」
私の話もそこそこに、ミヤは背伸びをして立ち上がろうとした。けれど、くらりとよろめいてしまう。
「ミヤ!?」
「あー…でも、ちょっと悪ノリ…しすぎたかも。気持ち悪い……」
「え、ええっ!? ちょっとミヤ、もしかして元から具合悪かったんじゃ……!」
慌ててミヤに付き添って起こす。ふわりと甘い匂いが漂ってきた。石鹸の匂いが好きな私とは真逆な、甘ったるい蜜と果実のようなまぜこぜの匂い。
ミヤがいつも好んでつけてるオードトワレの匂いだとばかり思っていたけれど。
確かに甘ったるくて、でもこのつんとする独特の臭いは、まさか……
「ミヤ! まさかあれ、ジュースじゃなくて……」
そこまで嗅いで、私はやっと思い当たったのだ。
ミヤがマイクと一緒に掲げてたジュース。てっきりハイテンションで歌っているんだと思っていたけれど、あれはお兄さんたちに煽られて飲まされた結果だったのだ。
「……なぁんかあづみってさぁー…」
非常階段であわあわする私と、間の抜けたミヤの対比がなんともいえない。
「お母さんみたいだよねぇー」
やっぱりミヤは酔っていた。あのねぇ、となかば呆れる私に、ううん良い意味でだよ、ほんのり赤ら顔のミヤが言う。
「スイガクの中でも割ときっちりしてるっしょ? ネット系で会ってる子に忠告したりー、化粧品で契約させられた子に解約しなよって言ったりー。みんなアタマカタいとか言ってたなぁー」
気持ち悪いとか言ってるくせに、ぺらぺら話すのはやっぱり酔っているということなんだろうか。
「…はいはい、わかったから地味にへこむから」
おせっかいと言われている私には、追い打ちのような言葉だ。
友達だから諭すのは当然だと考えていたんだけれど、当人からしてみれば「余計なお世話」らしい。そのことで色々言われてたのは知ってたけれど――こうして聞かされるとやっぱりへこむ。
けれどミヤの本心は次に続いていた。
「えー? あたしは、人のこと心配して言えるあづみがいいなって思う」
――それは、私にとっては予想外で、唐突で、理解するのに数秒かかる言葉だった。
「いつも見てたから分かるんだー…あづみはねー、やめたらいいことはちゃんと言えるすごいコだって。今日だって……あづみなら来てくれると思ってメールしたんだから」
意外で呆然としてしまったのか、ミヤの言葉にふっと力が抜けてしまったのか、分からない。
ただ、救われるとか身体が軽くなるような言葉とかいうのは、たぶんそのミヤのひとことが当たるんだろうな、とぼんやり思った。
細い腕がいつのまにか身体にきゅっと巻きついているのにも、抵抗せずに受け入れていた。
「……本当はね。『絡まれたから助けて』って書きたかった」
「え……」
「でも、あづみがもっと心配しちゃうと思って。…そしたら何も言わずに来てくれた。すっごくすっごく嬉しかった」
「…ミヤ……」
たぶん、これは酔っているから、本当に怖かった心情が露呈しているんだろう。
饒舌さも増しているのかもしれない。
自由奔放で、部活内どころか学校内でも目立つ存在で、知り合いがたくさん居て。
嬉しいと男の子女の子構わずスキンシップして、抱きついたり、平気で好きだって言ったりして。
気まぐれで、ネコみたいで。
なのに周りを自分のペースに乗せちゃって、みんなを引っ張っちゃう存在。
部活が一緒にならなかったら、きっと卒業まで話さなかったかも知れない、私とタイプの違う女の子。
そのミヤが、私をそんな風に見ていてくれるなんて知らなかった。
「……うん。こっちこそ、頼ってくれてありがとうね、ミヤ」
ミヤの大きく開いた背中を、あやすように擦る。なんだか私が母親のような気持ちになった。
「あのね。私も、ミヤのこといいなって思ってたよ。明るくて、みんなから好かれてて。最初はネコみたいなきまぐれな子だなって思ってたけど……ミヤがスイガクを盛り上げてくれてたんだよね。ありがとう」
「……本当?」
「嘘つくわけないじゃない。どこかの誰かさんみたいに、私はかるーく好きだなんて言わないし……」
私にしてみればほんの冗談だったけれど、ミヤにとっては何かの線に触れる一言だったらしい。
言うが早いか、腕を引き抜き、私の唇に何か柔らかいものを押し当てていた。
それはごく一瞬で、本当に触れたかどうかも分からないくらいの短さだった。
ずずいっとミヤの顔が私に迫る。かなりの至近距離だった。
「ねぇ、あづみ。あたしは嘘なんかついたつもりないよ? いつでもホントのことしか言ってない」
「へっ――?」
人間、思考の範疇にないことを突然されると、間抜けな声しか出ないということが分かった。
「好きって気持ち、嘘じゃない。あたしは、あづみが世界で一番大好きだよ」
見たことがないくらい、ミヤの表情は真剣で、私を真っ直ぐ見ていて。
ミヤの頬が桜色なのは酔っているせい?
ミヤの吐息が甘ったるく感じるのも、私の胸がざわついているのも、きっと――
「だから……さっきだって……あたしは、うん、あづみとなら……そう思われてもいいかなって…――」
「えっ…!? ちょ、ミヤ! ミヤ!?」
そこでミヤは事切れて、ぱすんと私の肩に頭を乗っけて目を閉じた。
非常階段の踊り場で、すぅすぅと息をして眠っているミヤ。
まるで王子様に助けてもらった直後のような、すっごく幸せそうな眠り姫だ。
「ほんっと……ミヤにはドキドキさせられっぱなしだよ……」
具合が悪い時にお兄さんたちに絡まれて、カラオケ店になかば連れ込まれたというのは分かった。
私が来るまでの間に何か呑まされていたというのも分かった。
私を好意的に見てくれて、助けを求めてきてくれたということも。
だけど……だけど……
“だから、あたしはあづみが好きなんだよ。知ってた?”
“好きって気持ち、嘘じゃない。あたしは、あづみが世界で一番大好きだよ”
リフレインする言葉。
……ああもう、なんでこんなに私が別の意味でドキドキしなきゃいけないんだろうか。
好き? ミヤが私のこと……世界で一番大好き?
いつもいつも軽い調子で「好き」だなんて言ってて、私にも「大好き」なんて言うのは…てっきりその場しのぎの冗談かと思っていたのに。
ミヤの顔が反対側にあって助かった。私の顔は今、ものすごく真っ赤に火照ってしまっているから。
外の爽やかな風が通り抜けていったのを機に、すうとひとつ深呼吸をする。
なるべく平然とした態度にしようと努めながら、私は眠り姫に声を掛けた。
「……ほら、ミヤ。こんなところで寝ちゃうと風邪引くよ?」
不覚にもときめいたなんて、言っちゃいけない。
不覚にもドキドキしっぱなしだったなんて、言っちゃいけない。
好きだなんて、言っちゃいけない。
ずっと、ずっと気になっていて、これが恋なのかなんて知る前に、こんなことされたんだから。
――だからこれは、私が彼女にひとつ、隠し事。
<きみにひとつかくしごと fin>
主人公は本名・安積さきこと言います。
ミヤはずっと苗字で呼んでいた、という(笑)。
飲まないと本音を聞き出せない奔放なミヤと、
振り回されつつも結局はベタ惚れされている安積。
なんだかんだで丸く収まるコンビのような気がします。
ここまでお付き合いくださりありがとうございました。
またどこかで会えますように!
100601 R.Shadow