勉強会
授業が終わり、別のクラスの実来が転がり込んできた。
「お姉ちゃーん、勉強教えて―」
実来が由紀に泣きつくのは何回目だろうか。
この光景だけを見たらとても仲の良い姉妹に見えるだろう。
後ろめたい原因の一端を作ってる俺にとっては、心が痛い。
「俺も教えて―!」
由紀の隣にいる席の俺も由紀に泣きついた。
「あんたたちね。ちょっとは自分で勉強しなさい」
「だってだって、全然わからないんだもん」
えぐえぐと同情を買うように俺と実来は涙を流すふりをした。
由紀は実は勉強が得意なのだ。それに比べて、俺と実来は勉強が不得意。
というか、由紀は基本的にはなんでもできる。運動、料理、勉強と完璧。
「明日、小テストがあるんだって……」
「ああ、あたし達のところもなのよね」
「ええ、そうなの!?」
寝耳に水とはこのこと。
由紀と同じ授業を受けてるのにどうして俺は知らないんだ!
「あんたね、授業中寝ているから聞いてないのよ」
そういえばそうだった。まともに授業を受けてる方が少ない。
「ゆきえもーん!」
このままじゃ明日のテストは0点まっしぐらだ。それだけは回避したい!
思わず由紀の腰に抱き着き、懇願する。
「抱き着くな!」
由紀はやれやれと溜息を吐いた。
「もう、仕方ないわね。じゃあこの後、晴翔の家で勉強会するわよ」
救いの糸に、思わず実来と手を合わせて喜んだ。
「よかったね、ハル君! これで怒られないね!」
「てか、実来はちゃんと授業を受けてるだろ。どうして出来ないんだ」
「授業はちゃんと受けてるんだけど、よくわからないんだもんー」
「実来は要領が悪いのよ。ちゃんと授業は受けてるし勉強はしてるんだけどね」
ああ、なるほど。実来はおっちょこちょいというか、要領が悪いというか。由紀と違って運動も料理もできないからな。
俺と違ってちゃんと努力してる分、それが結果には繋がらないのはもどかしいだろうな。
だからこそ、由紀も実来のことを見捨てることはせず、頼まれるとその都度、勉強を教えているみたいだ。
「ほら、早くあんたの家行くわよ」
学校を後にして家に帰る。外見からでも分かる、あちこち経年劣化が始まっているマンション。15階建てマンションの10階に住んでいる我が家に向かうため、エレベーターに乗り、マンションの外見に負けないさび付いた蝶番が軋みを上げながら家の玄関を開ける。
軋み音が合図であるかのように、奥から妹の琴音が出迎えてくれた。
「おかえりー、お兄ちゃん」
ポニーテールを揺らしながら、パタパタと玄関迎えに来た琴音が、俺の背後にいる由紀と実来を見つけて喜びの声を上げる。
中学生の琴音からしたら同性の年上は嬉しいのか、由紀と琴音が家に来るとすぐ引っ付いてきては喜んだ。
「あ、由紀ちゃん実来ちゃん! いらっしゃーい!」
「琴音ちゃん、こんにちはー」
「お邪魔します」
「俺たちは今から勉強してくるから、お前は自分の部屋でも行ってろ」
シッシッと手で追い払う動作をし、琴音を遠ざける。
由紀と実来に懐いている琴音がいるとどうしてもうるさく気が散ってしまう。実来に対しては特に懐いていて、俺がいないときにも二人だけで遊んでいるようだ。
「えー、琴音も勉強見てほしいー!」
「ハル君、琴音ちゃんも一緒に勉強会に入れてあげようよ」
「えー」
抗議の声を上げるも、琴音は俺の声なんて耳に入っていないのか喜びの声を上げた。
女子三人に男は俺一人。この場では俺の意見なんて通らないな。
溜息をこぼし、琴音を含めた三人を俺の部屋に招いた。
「あんたの部屋、ほんとなんもないわね」
基本的に物を置かない俺の部屋は、ベッドや机、テレビと最低限の物しか置いてない。
物を置けば置くほど、掃除が面倒なので、なるべく物を置かないようにしているのだ。
「整理整頓されていると言ってくれ」
「殺風景って言うのよ」
「嫌味しか言えんのか」
「まあまあ。とりあえず勉強しよ」
「それもそうね。明日はなんのテストが出るの?」
「えっとね、日本史と数学の小テストがあるんだよ」
「じゃあ、あたし達と変わらないわね。まずは数学からやりましょ」
俺と実来は隣同士に座り、対面に琴音と由紀が座る。
問題集を広げ、暗号のような数字の羅列を見た瞬間、眩暈がした。
「由紀、これどうやって解くんだ」
「一問目からって……。ここはね」
ぐいっと前かがみに体を倒し、俺のノートに問題を解説してくれる。
必然的に顔が近付き、由紀の体から漂ういい匂いが鼻腔をくすぐった。
「……聞いてる?」
「あ、ああ。聞いてる聞いてる」
やばいやばい。ちゃんと聞いてないとまた殴られるところだった。
「……こうやって解くわけ」
「なるほど」
由紀の解説はとてもわかりやすかった。バカな俺でもちゃんとわかるように一から十までちゃんと教えてくれる。
「じゃあ今の問題を、同じやり方でいいから最初から解いてみて」
さっき解説してくれたやり方を見えないようにするためか、ノートを捲られた。
おいおい、バカにするなよ。さっき教えてもらったところだぞ。
こんなの簡単に解いてやらぁ!
「……すまん、一から全部忘れた」
目を見開き、驚きの声をあげる由紀。
そりゃそうだ。教えたばかりのことを十秒で全部忘れられたんだ。
人間の神秘だな。ノートを捲られた瞬間、教えられたことが全部吹っ飛んだ。
「あんたバカなの? 頭の中空っぽ? 一から十全部教えて、一から十全部忘れるなんて、逆に清々しいわ。三歩あるいたら全部忘れる鶏と同レベルね!」
由紀の止まらない暴言が降り注ぐ。俺はなにも言い返すことができず、サンドバッグ状態で由紀の暴言を受けとめる。
「鶏の方がまだマシなレベル! 鶏だって三歩繰り返すことが出来るんだから。あんたはその繰り返すことも出来ない鶏以下!」
え、そこまで言う……?
いや、確かに忘れたよ。十秒で教えられたことを全部吹っ飛ばしたよ、それでも人間否定されるほど言われます……?
あまりの言葉の暴力に俺は押し黙ってしまう。
「頭の中、脳じゃなくてうんこでも詰まってるの? ああ、それとも――」
「お、お姉ちゃん! ハル君のHPはゼロよ!」
由紀の罵詈雑言に俺は膝を抱えてしまった。
酷い、酷いよ……一問目からこんな仕打ちって酷すぎるよ……。
「大体ね、勉強なんて一人でやった方が効率がいいのよ」
「ええ、そうかな。みんなでやった方が絶対いいよー」
「いいえ、絶対一人。歴史系なんかは暗記物なんだから当然一人のほうがいいに決まってるわ」
「暗記系なんかもみんなで問題とか出し合った方が覚えやすいと思うけど」
「そんなの一人でやるよりも何倍も時間かかるわよ。それと数学、答えとか解説が教科書に乗ってるんだから、一人で出来るじゃない」
「そんな解説見てもわからないから困ってるんだよー。誰かに教えたり教えられたりすると、復習にもなるし」
「わからなかったところはピックアップして、次の日とかに先生に聞けばいいのよ。復習も自分でやればいいし」
「あと、一人でやると怠けちゃうからな、私」
「そしたら怠けちゃえばいいのよ。人間の集中力なんて続かないんだから、十分とか十五分って決めて休憩する」
「無理無理! 気付いたら一時間とか二時間くらい怠けちゃうもん」
うーん。正直二人の言ってることはわかる。わかるけど……。
実来の言い分としては、複数人で勉強したほうが覚えやすいし、休憩とかもお互いで管理しあえば長い時間サボったりしない。
それに引き換え、由紀の言い分としては、一人でやったほうが自分のペースでできるからそっちの方がいいという真反対の意見。
「ハル君はどっちのほうがいいと思う?」
「うーん、そうだな……」
由紀が凄い形相で俺のことを睨んでいる。
いや、まあ、そんな目で睨まれても……。
「俺は、実来の意見よりかな」
「だよねだよね!」
「なんでよ!」
「由紀の意見もわかるけど、それは理想論かな。そんな自己管理ができればいいけど、俺なんかはそんな自己管理できないから」
俺の意見に由紀が、プイッと顔を逸らし不機嫌になってしまった。
由紀としては恋人である俺は同意してもらえると思っていたんだろう、それが反対されたんだから裏切られたと感じたのかもしれない。
「ふーん。あ、そう」
顔どころか、背中を向けられてしまった。その背中にも不機嫌さがにじみ出ていた。
「まあまあ、お姉ちゃん。機嫌直して、ここ教えてよ。私たちにはお姉ちゃんしかいないんだから」
実来が間を取り持ってくれようとしている。
問題集を由紀の方に寄せ、シャーペンでわからない問題を指し示した。
「たく、しょうがないわね」
「あ、俺もそこ教えてくれよ」
「つーん!」
近付こうとすると、由紀がプイッと顔を背ける。
おい、まじかこいつ……高校生にもなって、そんな不貞腐れたりするか。
「俺にも教えてくれよ」
「つつつーん!」
こ、こいつ……。
てか、おかしくないか。実来と由紀が意見を言い合って、俺は実来の意見に同調しただけで俺全然悪くなくない?
「は、ハル君、後で私が教えてあげるね」
実来が苦笑いを浮かべながら俺をなだめてくれる。
しょうがない、俺は歴史の暗記でもしておくか。
「お兄ちゃん、暇ならここ教えてよ」
歴史の覚えようとしていたところ、琴音が俺の手元に教科書を滑らせる。
中学生の問題か。まあ、それなら俺でも教えられるだろう。
「どれどれ」
「ここなんだけど」
シャーペンで指されたところの問題を凝視する。
うん、わからん。
どうも俺には中学生の問題すら難しいようだ。
「わからん」
「えー、中学生の問題もわからないの!?」
まあ、そりゃ驚くよな。俺自身も驚いてます。
まさか俺がこんなに馬鹿だとは、自分自身でもびっくりだわ。
「お兄ちゃん、本当に高校生?」
「琴音よ、お前も兄を言葉の暴力でサンドバッグにしたいのか」
はぁっと呆れた溜息を吐かれた。どうやらさきほどの由紀の気持ちがわかったみたいだ。
「琴音ちゃん、私が教えてあげるよ」
由紀に勉強を教わったみたいで、実来が琴音の隣に移動して一緒に勉強を解き始めた。
なぜか裏切られた気分。実来は俺と同じだと思っていたのに、琴音の勉強を教えることができるのか……それとも俺が相当な馬鹿なのか。
必然的に残るのは俺と由紀。
勉強ができる由紀と勉強ができない俺。普通に考えれば由紀が俺に勉強を教える場面だが、さっきのことを考えれば簡単には教えてくれなさそう。
二人の間に気まずい空気が流れる。
しょうがない、ここは俺が折れるか……。
「どこわからないの」
俺が折れようとした瞬間、白旗を上げてくれたのは由紀のほうだった。
実来がなにか言ってくれたのか、それとも教えてる間に拗ねている自分を反省したのか。
折角向こうが折れてくれたんだ、それを受け入れよう。
「ここがわからないんだけど」
さっきまで実来が座っていた場所に由紀が腰を下した。
隣に座った由紀が瞬きするたびに、長いまつ毛が上下する。
さきほどとは違い、俺が全部忘れても眉がひくひく動くだけで、罵声などはなく、ゆっくり何度も教えてくれた。それが意外でその教え方はとても丁寧。こういう勉強ができる人はできない人の気持ちがわからない印象だったのだが、まるでこちらの気持ちがわかるかのように教えてくれた。
「……実来ちゃん」
勉強を始めてどのくらい経っただろうか。実来と琴音が小声でひそひそ話している。
なにを打合せしてるのか。琴音になにか言われた実来は顔を真っ赤にしていた。
「ちょっと飲み物持ってくるね」
そう言い残し、琴音が部屋から出て行く。
まったく、何をするのやら。
帰ってきた琴音はトレイを持っていて、その上には、人数分の飲み物が乗っていた。
それを実来と由紀に手渡し、俺にも手渡してくれる直前、演技がかったしぐさで急に躓きだした。
「あー、あぶなーい」
大根役者もびっくりの棒読みで俺に水をかけてきた。
それもコップを逆さまにひっくり返し、頭からぶっかけてきたのである。
水を頭からかぶり、全身ずぶ濡れになってしまった。
「お前なー……」
抗議の声を上げるも、それを遮るように実来が飛んできた。
「は、ハル君、大丈夫?」
すぐそばまで寄って来てくれ、いつの間にタオルを持っていたのか、俺の顔を拭いてくれる。それはいいのだが。
距離が近すぎる。実来と俺の距離感が、吐息がかかるくらいまで近かった。
「ちょっ……近っ!」
慌てて距離を離れようとするも腕を掴まれ、逃げられないようにされた。
しかもよく見たら、シャツのボタンを胸元まで開け、そのおかげで谷間が強調されている。
実来がタオルで俺の顔を拭くたび、その豊満な胸が左右に揺れるのがよくわかった。自分でやっててよほど恥ずかしいのか、耳の付け根まで真っ赤にさせながら。
そんな実来の背後で、般若の顔をさせた由紀が立っていた。
ああ、これはまずい……。
由紀の鉄拳を受けながら、自分の不遇な扱いを呪った。