館長と青年と詩
第一印象は溌剌とした今時の大学生のように見えた。綺麗に染められた金髪、砕けた口調、懐に軽々と入り込める性質の青年。本人には悪いが、亥太朗の目には文学に興味があるように見えなかった。
しかし、その青年は真剣な眼差しで展示物を見ては亥太朗にあれこれと尋ねてくる。催し物の話や琥珀の交流関係のこと、琥珀の詩や創作論のことなど、細かに訊いてくる。一部の展示は引き払ってしまっているが、ここにあったあの資料について、と訊かれることもあった。
また、自身が寄贈した資料についても訊いてきた。ゲンの探検鞄や日記、詩に対する見解など、興味を示した。
じっくりと見る青年・駿輔の腕の中には名誉館長・コンも一緒だ。彼も一緒に展示を見て周る。
そして、最後の展示に辿り着く。存在はわかっていたものの、現物が発見されて話題となった詩「理想郷」。切れ長の目は優しく、詩を追うと、亥太朗へと視線が送られる。
「これ、いい詩だよね」
「ええ」
琥珀とゲンが作った詩。琥珀が生前最後に作った詩である可能性が高い。
「存在はわかっていましたが、内容やタイトルまでは長らくわかっていませんでした。ゲンに託すとありましたが、ゲン自身の消息は不明、詩の所在も不明。それがこうして出てきたのですから」
正直、出てくることは思ってなかった。亥太朗に限らず、研究者の中にもそう考えていた者が多かった。
「掘り出し物だったってわけだ」
「本当に。できることなら、詩作ノートも展示したかったんですけどね」
「理想郷」の本文を書き起こしたパネルとゲンが清書した原本の展示となった。琥珀とゲンが案を出し合ったり、推敲の様子が見られたノートの展示もしたかった。しかし、展示スペースの問題と修復の必要があったため、今回の展示では見送られた。
「あれ面白かったよねえ。少しずつ詩の形になっていく過程が見えて」
「そうですね。お互いにアイデアを出し合って、試行錯誤した様子が窺えました」
修復できたらぜひ展示したいと亥太朗は改めて思う。
「それにしても」
駿輔は視線を下げる。ケース内に展示されているのはゲンが清書した「理想郷」の原本だ。末尾には高岳琥珀、ゲン、とそれぞれ自筆の署名が書かれている。琥珀の字は弱々しく、衰弱していたことが見てとれる。対して、ゲンの字は本文の字よりも幾分か丁寧に書かれている。
こうして幻のような扱いをされていた詩が見つかった。新たにわかることもあるだろうが、謎の根本はどうなるのだろうかと駿輔は思う。
「ゲンって何者だと思います?」
「難しいことを訊きますね」
亥太朗は顎に手を添える。
駿輔から寄贈された資料のおかげで、ゲンという少年についてわかったこともある。しかし、いまだわからないことが多い存在だ。相変わらず、素性のわからない少年で研究者たちは頭を悩ませている。
「正直、わからないというのが答えです。彼の人となりはわかったものの、素性は本当に謎」
ゲンの生い立ちやその後はやはりわからずじまい。ゲンの素性を追う研究は進みそうにない。
「じゃあ、あの話はどう思う? ゲンは狐が化けた少年だったとか、稲荷神のお使いとか」
「よく聞く話ですね」
謎多き少年・ゲンにまつわる話。それは人々の興味を惹きつけるもので、根拠とされることが多々ある。
狐に貸したはずの傘を持っていた。琥珀と出会った当時は口数が少なく、常識がない。琥珀が少年のことを狐に例えることがあった。稲荷神社の近くに住んでいる。稲荷信仰がある。
根拠として言われている話だ。もちろん、亥太朗も知っている。
「ですが、あまりにも現実的じゃない」
「まあ、そう思うのが自然だよなあ」
駿輔はコンを目の高さまで持ち上げる。円らな瞳の館長は物を言わない。
「話の種として面白いと思う」
「そこは私も同意見です」
亥太朗は歴史上の人物の逸話や伝説、伝承に近い話と認識している。歴史に名を残したとある人物は超常的な能力を持っていたとか、その人物にまつわる不思議な逸話があるとか、地域に受け継がれる伝承を聞いている感覚に近い。そういった話は大抵、現実ではありえないようなことも多く、物語のようだと思うことが多々ある。
現実的ではない。それぐらいの偉業を成し遂げたり、説明ができないようなことが起きたりしたことが誇張されて現代にまで伝わっている事例は多い。そういった内容は不思議と記憶に残りやすかったり、楽しめるものであったりすることもある。
ゲンと呼ばれた少年は確かに存在しただろう。琥珀たちと交流した事実もある。しかし、あまりにも不明な点が多く、伝説と化しているのではないかと亥太朗は考える。
「ゲンという少年は狐が化けた姿なのではないか。そういった話が出ることで、琥珀という詩人を成立させる、一種のストーリーとも言えるのではと思います。琥珀の晩年に大きな影響を与えたという意味で、ゲンの存在は大きい。学術的には受け入れがたいですが、そんな不思議な話が出るぐらい、ゲンという少年のミステリアスなところが際立っているという証明にはなり得るかと」
「そういう解釈か」
それもまた面白いと駿輔はコンに同意を求める。コンをコクコクと頷かせ、同意を得る。
「ちなみに、畑さんはどう思われます? ゲンは何者だと思いますか?」
亥太朗が話したことは研究者の見識を踏まえたものに加えた自分なりの考えだ。
世間一般的にはどう思われているのか。亥太朗としては興味がある。
「オレ? ゲンの縁者ではと思われた身からすると……」
「その節は本当に申し訳ありませんでした」
頭を九十度下げた亥太朗を見て、駿輔は慌てて手を振る。
「嫌味で言ったわけじゃなくて」
駿輔に悪意は一切ない。ただ、ゲンの縁者なのではないかと問われた立場として思ったことがあるだけだった。
駿輔は亥太朗に顔を上げるように促す。申し訳なさそうに顔を上げた亥太朗の困り眉に駿輔は戸惑う。
「言葉の綾で、本当に皮肉とかはないです。えーと、オレもゲンの正体はわからないです」
駿輔はコンを抱き直す。
「今後、ずっと、ゲンの正体はわからないんじゃないかと思います。館長さんたちはゲンの所持品を持ってきたオレのことを縁者と思うぐらい手がかりがない状態だった。今回見つかった資料でも不明のまま。今後、ゲン……というのも本名じゃないから、変だけど」
駿輔は適切な表現を考えるように展示の内容を思い返す。
色々と見てきた中で、展示の初めの方にあった琥珀の関係者の中にあったゲンの項目の内容が思い浮かぶ。
<琥珀を語る上で欠かせない存在だが、当時の記録の中に彼のことを指すものはなく、本名すらも不明な謎多き存在>
この説明はゲンという少年を見事に言い表していると駿輔は思う。
「……琥珀の近くにいた“少年”に関する資料が出たとしても、それを“ゲン”と結びつけられるのか。その逆もそう。“ゲン”と呼ばれていた“少年”に関する資料が実はすでに発見されているけど、“ゲン”と“少年”を同一視できていないから結局は謎のまま。“ゲン”という“少年”を証明できるのかという問題もあるから、“ゲン”は“ゲン”のまま、謎多き存在として名前を残すと思う」
「ゲン=少年の等式を成立させることができるのか、ということですね。中々、鋭いことをおっしゃいますね」
亥太朗は駿輔の言ったことに感心する。
琥珀に大きな影響を与えた“少年”に関する資料が見つかったとしても、その“少年”を“ゲン”と言えるのか。“ゲン”と呼ばれた“少年”を証明する手立てはあるのか。
それもまた、琥珀とゲンの関係を研究する者たちを悩ませる種だ。
「いっそのこと、正体不明でいいんじゃないかとオレは思う。そっちの方が高岳琥珀という詩人がいたことを強く印象づけられるでしょ? “ゲン”という“少年”による影響で生まれた詩は確かなのだから、それが“ゲン”の存在証明であればいい」
謎の多い少年は確かにいた。彼の持ち物や書き記した文字、琥珀たちが残した物の中に彼はいた。
「それでいいんじゃない? 館長さんや学者さんは困るかもだけど」
「研究が進み、新しいことがわかるのは非常に嬉しいことではあります」
ゲンは晩年の琥珀を研究する上で外せない。喉から手が出るほどほしい鍵だ。
ただ、と亥太朗は言葉を続ける。
「私の両親と世代は近いため、存命である可能性は高い。また、親族がいたって不思議ではない。そのような状況で、本人なり、親族が名乗り出ない、情報がない。ということは、すでに亡くなっているか、事情があって名乗り出ないのか。そういった事情を鑑みて、我々も捜索しきれていない節があります」
「そうか。そういう事情があるか」
駿輔はそこまでは思い至らなかったと感心する。
「ゲン自身、自分の素性を琥珀たちに話していないかもしれませんし、琥珀たちは知っていたが残していない可能性もある。知っていて琥珀たちが残さなかったのは何か訳があるのか。色々な可能性が絡み合っているのです」
「ははーん。大変だね、研究って」
少ない手がかりから推論して、ひとつの説や謎を生み出す。中には事実として確定されることもあれば、別の資料によってひっくり返されることもある。研究という行為は地道に証拠を積み上げ、何かを立証していく。時間がかかる上、並大抵の精神では成り立たない。
そう思った駿輔は先の自分の言葉にはっと息を呑む。
「オレ、大分失礼なこと言いました? 正体不明のままでいいなんて」
駿輔は研究者たちの底知れぬ努力や時間を侮辱するようなことではないかと思い至る。
「そう思う方も一定数いらっしゃると思います。ミステリアスな存在のままがゲンという少年らしいとお考えの方もいますし」
ロマンがある。ゲンのことがわかることは喜ばしい一方で、素性不明な少年という立場は神秘的ではないか。
そう話していた人物を亥太朗は知っている。
「知りたいという気持ちも、正体不明であってもいいという気持ちも、私はどちらもわかります。私自身、知りたい気持ちの方が強いですが、正体不明のままでもいいと思うこともありますから」
それがゲンという少年が持つ魅力なのだろう。琥珀の晩年を強く印象づける存在にもなる。
不思議。本当にそう言い表すのが適切な存在だと亥太朗は思う。
「そっか」
駿輔はくすぐったそうに笑う。見た目よりも幼い笑い方をすると亥太朗は思う。まるで、少年のようだ。
「素性はわからずとも、性格はよくわかりました。館長挨拶にも書きましたが、感受性豊かな心優しい少年だった」
亥太朗は「理想郷」の原本を目を細めながら見つめる。子供らしい字が並ぶ原本には優しい詩が紡がれている。
「琥珀が死ぬことを拒絶し、琥珀と大喧嘩をした。ゲンの日記が見つかったことで、彼の心境がよくわかりました。それと同時に、彼にとって、琥珀という人間と詩の存在がどんなものであったかを知ることができた」
「……」
駿輔は愛しそうに詩を見つめる亥太朗の横顔を見やる。噛み締めるように詩を読んでいるように見える亥太朗の姿は嬉しそうだ。
「……館長さんはこの詩についてどう思う? いい詩だと思いますか?」
「ええ。私は好きですよ、この詩」
亥太朗は即答する。
「この詩は何かを諦めてしまったり、傷ついたことがあったりする人に響くのではないかと思います」
まさに琥珀が詩を諦め、詩で傷ついた人間。そのような経験がある琥珀が作った「夢」を語り、「理想」を構築した詩であると思うと感慨深い。
「……館長さんも何かを諦めたり、傷ついたことがあるの?」
駿輔の純粋で鋭い問いかけに亥太朗は苦笑する。
「もちろん。人間、誰しもあるでしょう」
亥太朗の胸がズキリと痛む。この痛みを忘れることはないだろうと常々思っている。
「痛みも苦しみもなく生きていけるわけないですから」
「うーん……。話したくないならいいんですけど、事情を聞いても?」
「面白くないですよ」
「面白さを求めて尋ねたわけじゃない」
駿輔は一歩亥太朗に歩み寄る。
「苦労人の顔してるから」
「そんなに疲れた顔してますか?」
「してるね」
駿輔にきっぱりと言い切られた亥太朗は乾いた笑みを浮かべる。
「あはは……」
「記念館の経営云々以外でもありそう」
「おっしゃるとおりで」
亥太朗は胸の内でどろどろとこびりつく痛みを見せていいものかと沈黙する。別に話すことが嫌ではない。以前よりも、この痛みは多少軽くなったため、抵抗があるわけではない。
話したくないなら話さなくてもいい。駿輔は逃げ道を用意してくれた。
そこへ逃げ込んでもいいものか。それでは以前と同じではないかと思うと、また胸が痛む。
別になくたって生きていける
命を救うわけではない
苦しい思いをしたこともあった
けれど、僕には必要なものなんだ
「理想郷」が目に入る。この部分が亥太朗にとっては眩しく、傷を押し広げる。
「……私も筆を折ったことあるのです」
曽祖父が詩を書く筆を折ったことがあるように、亥太朗も筆を折った。ペンを持てなくなったあの日のことが蘇る。
「と言っても、琥珀のように周囲の状況に追い詰められたわけではありません。自分が嫌になって筆を折った」
「館長さんも詩を?」
「いいえ。私は絵を」
幼い頃に読み聞かせてもらった絵本がきっかけだった。綺麗な水彩画のようなタッチの絵本。少年が旅をしながら成長していく、内容としてはありふれた絵本だった。少年の行く先々で出会う人々や景色の美しさに子供ながらに感動した。
いいなあ、と。単純な感想だったが、無垢な子供には十分なきっかけだった。文章と絵によって物語が引き立つ。そこに憧れたのだと思う。
それからはクレヨンで拙い絵を描くようになった。周りの大人が上手だと褒めてくれた。お世辞だったかもしれないが、幼い亥太朗には嬉しかった。
亥太朗は絵を描く日々を続けた。学校の図工や美術の授業で褒められることもあった。コンクールで入賞することもあった。そんな日々は楽しく、満たされていた。いつしか、幼少期に抱いた絵本への憧れから、物語を際立たせるイラストを描く仕事をしたいと思うようになった。
しかし、その日々にも影が見えた。高校生のとき、大学でも絵を学びたいと思った。受験のために絵を描く日々が続いた。その中で、あえて見てこなかった現実を突きつけられた。
自分よりもいい絵を描く人間がごろごろといる。それも、自分と同い年。彼らにしがみつく勢いで亥太朗は絵を描いた。惜しくも、第一志望の大学は不合格だったが、第二志望の大学に受かり、進学した。
そこでも現実を見せつけられる。自分よりも魅力ある絵を描く人間がいた。そして、それに苦しむ人間もいた。
芸術家の現実を嫌でも見せつけられる日々が四年続く。入学して一週間足らずで亥太朗は思い知らされ、実際、その現実の中で四年を過ごした。
「もうしんどくて、しんどくて。命を削るってこのことだと思うぐらい」
イラストを描く手がどんどん重くなっていった。作品を生み出すことがこんなにも難しかったかと思うほどに。
「大学は無事に卒業できました。卒業後はゲーム会社に入って、そこでもイラストを描いていたのですが……」
会社でも苦しい日々が続く。中々思うようなイラストが描けずにいた。
自分でも気がつかない内に自分を責めていた。周囲の才能に嫉妬してしまった。ギリギリの精神状態が続いた結果、とうとうペンを持つことができなくなってしまった。
「自分のイラストが汚いと思ってしまっただけでなく、自分の目に映る全ての色彩感覚がわからなくなってしまいました。これでは物語の一部になる絵を描けないと悟り、会社も、絵も辞めてしまいました」
両親に会社を辞めたと伝えると、きちんと休むように言われた。ごちゃまぜの色彩になった世界を見るのも辛く、引きこもりかけていた。部屋のカーテンを閉じ、黒が多く占める世界に入り浸っていた。それに目が慣れてしまったのか、部屋の外に出ると目の奥を刺激するような光と色に疲弊してしまい、余計に外を嫌うようになりかけていた。
「そんなときにですね、伯父……先代の館長に呼び出されまして」
『こちらで休め。お前のひいおじいさんがそうしたように』
ちょうど琥珀の命日が近いタイミングでの呼び出しだった。両親から避暑にいいのではないかと後押しされ、気乗りしないながらも亥太朗は赴くことにした。
夏の世界は色が極彩色で亥太朗の目を刺激した。やはり止めておけばよかったと思う頃には到着して、伯父に出迎えられた。
「のんびりさせてもらいましたよ。ここは琥珀が最期の地に選ぶに相応しいぐらい、心地のいい場所だと思いました」
車さえあれば快適に過ごせる。亥太朗はそう思った。
のんびりとしたのどかな地。ギラギラとした人工の光よりも、あるがままの自然の色が多い地では不思議と視界の色味が正されていった。
ある程度落ち着いた頃、伯父からリハビリがてら記念館の手伝いをしてくれないかと言われ、それを受けることにした。
「それで、記念館で働くことになったんだ」
駿輔は感心した様子で呟く。
「そうなんですけど……」
亥太朗は小さく息をつく。
「初めは本当に雑用ばかりだったんです。それがだんだんと経営に関することも任されて、こんなに重要なこと私がしていいのかと思うことまで携わり……」
ある日、菅間鷹峰記念館へ同行したとき、伯父はとんでもないことを言った。
「鷹峰記念館の館長に、今後はこいつに館長やらせるからよろしくとか言ったんです」
「その場で初めて聞いたの?」
「はい」
「うわ……」
駿輔は亥太朗に同情する。館長にしては若く、館長らしく見えない亥太朗が今の立場になった理由がわかってしまった。
「ちなみに、先代館長は?」
「今は世界を飛び回っています」
亥太朗は遠い目をする。自分には無理だと言い続けたが、先代は大丈夫、お前ならできる、と亥太朗の言葉を流し続けた。そして、ある日、後は頼んだ、と置手紙を残して姿を消した。
「信じられませんよ、本当に」
館長になりたての日々のことを思い出しただけで亥太朗の胃がキリキリと痛む。
「お疲れ様です……」
「痛み入ります」
腹をさする亥太朗に駿輔は心の底から同情する。
「まあ、三か月後にはケロッとした顔で帰ってきたんですけど」
調子はどうだ、と呑気に帰ってきた先代に亥太朗は持っていた書類を放り投げて捕まえた。問い詰める亥太朗にケラケラと笑った伯父は上手くやれているな、やっぱり大丈夫じゃないか、と言ってまた姿を消した。時々届く絵葉書の文章を見るに、世界中を飛び回って好き勝手しているらしい。
「一発ぐらい伯父を殴っても許されますよね」
「いいんじゃない? オレ、責任持てないけど」
駿輔は亥太朗の怒りはもっともだと思うが、ひっそりと亥太朗の手が握られたところを見て見ぬふりをする。穏やかな亥太朗にも殴り飛ばすという発想があったのかと思うと、琥珀の子孫だと納得する。
「記念館の経営も大変で……。と、まあ、これが私の経歴です」
「壮絶だ……」
絵を描く筆を折ったことも、記念館の経営を任されたことも、どちらも苦労が窺える。駿輔が亥太朗の立場だったら逃げ出したくなる。
「記念館のことは大変ですけど、意外と楽しいです。どんな配置だとよく魅せられる展示にできるかとか、パンフレットはどんなデザインがいいだろうかとか……。イラストや美術の勉強をしたことが役立って、よかったと思うんです」
イラストを描くことには抵抗がある。しかし、身に着けた知識を活用するという行為は嫌ではなかった。
「そうなんだ。……絵はもう描かないの?」
幼い頃に追いかけた夢は本当に諦めてしまったのか。
自分が嫌になったから。自信がなくなったから。
亥太朗が抱いた苦しみを駿輔は全て理解できないが、とても惜しいことではないかと思う。
「実は、今回、描いたんです」
「そうなの!?」
駿輔は目を丸くする。
「はい」
亥太朗は照れ臭そうに答える。
「今回のグッズのイラスト、私が描きました」
「え!?」
静かな展示室に駿輔の声がよく響く。
「鞄も、メモ帳も、ハンカチも!?」
「はい。琥珀糖のパッケージやお酒のラベル以外は全て」
琥珀糖と酒は琥珀の実家である酒造会社の物。そのため、あちらが今回の展示の特別版として用意したもので販売した。
「あの可愛いイラスト、全部館長さんが!?」
「恐縮です」
「何か、心境の変化があったの?」
精神的に追い詰められた亥太朗が再びイラストを描くに至った経緯。それは、琥珀が再び詩を作るようになったように、何かしらのきっかけがあっただろうと駿輔は思う。
「きっかけは今回の展示です」
亥太朗は「理想郷」を眺める。
「先ほども申し上げましたとおり、この詩は諦めたことがある人、傷ついたことがある人に響く詩だと思います。私もその一人です」
暗闇を恐れた「僕」が「ボク」に手を引かれ、幸せを享受する。あってもなくてもいいものを必要とする「僕」、夢を叶えたいと望む「ボク」。彼らが過ごす箱庭を神様は見ていた。
箱庭の名前は「理想郷」。琥珀とゲンが作り上げた「理想郷」は、望みが届かず、破滅へと導いた「桃源郷」と対になるような詩だ。
「この詩に背を押されたと言えば、恰好がいいのですが実際は描かざるを得ない状況だったという方が先ですね。今回の展示にあたり、グッズを出すとなったとき、金銭的にかなり厳しいところがありまして。イラストレーターさんにお願いできる状態じゃなかった。グッズを出さないか、予算を削るか。結果として、予算を削ることになりました」
「それで、自分で描くことにしたの?」
「ええ。私が描けば、少なくとも、グッズを出さないという選択は消えます。イラストレーターさんにお願いできないのなら、自分で描いて予算を削ればいいと判断しました」
「でも、苦しいんじゃないの?」
「苦しかったですよ」
絵を描くと思うと、紙とペンを前にしただけで震えた。普段の書類仕事とは違うと身体が拒絶した。
「以前ほどの拒絶感はなかったのですが、鈍っていたのでしょうね。何度描き直したことか」
亥太朗は学生の頃や会社勤めの頃を思い出した。描いても描いても納得ができない。これは違う、どうにもできない、とそんな感情と闘った。
やっとの思いでいくつか案を出したものの、どれもパッとしない。やはり自分には才能がないのだと自己嫌悪に陥りかけた。
「晩年の曽祖父もこうだったのかと思いましたよ」
晩年の琥珀の葛藤を知っている。彼も、違う、こうじゃない、を繰り返したのだろうと。
それを何と言っていたか。
「館長さんもにらめっこしたんだ」
駿輔に言われた亥太朗は微笑む。ゲンが琥珀にそう言った。
「そうですね。職員から別人みたいな顔をしていたと何度言われたか」
館長生きてますか、と確認されることもしばしばあった。疲れ果てたときの茶や菓子の差し入れにどれだけ助けられたか。
「実際に業者さんにイラストを渡して、サンプルが届いたとき、本当に安堵したんです」
まだ調整はいると思ったが、形になってくれたことが嬉しかった。職員からの評価もよく、鷹峰記念館館長と虎太郎記念館館長からもよくやったと褒めてもらえた。
「一人でもがき苦しんでいたと思っていましたが、周りの方はよく見てくださいましたし、認めてくださった。そして、形となった物を皆さんが手にしてくださる。最高の形になったと私は思います」
自分には才能がないのだと諦めていた。筆を折ってしまい、逃げてしまった。
それが、再び筆を手にし、向き合った。嬉しいことに、自分が描いた物を認めてくれる多くの人がいた。
記念館だけでなく、自身の心も救われた。完全に私情ではあるが、亥太朗としては本当に嬉しかった。
「それはいいきっかけになったね」
駿輔は目を細める。
「これからも絵は描くの? 記念館のグッズとか」
「どうでしょう……。正直、描こうとはあまり」
やはり、苦しい。成功体験はあったが、継続するかは別問題だと亥太朗は思う。むしろ、成功したからこそ、失敗が怖いと思うし、プレッシャーになっている。
「趣味の範囲でも?」
「趣味か……」
亥太朗は楽しめるだろうかと疑問に思う。昔のように、純粋に楽しめるような気がしない。嫌でも苦悩がよぎってしまい、手が止まってしまう気がしてならない。
悩む亥太朗を駿輔はじっと見つめる。
「……気乗りはしないかもしれません」
亥太朗は不安を吐露する。絞り出したような声に駿輔は眉を下げる。
「館長さんにとって、絵を描くことは苦しいこと?」
「そうですね……」
昔は楽しかったはずなのに、道を間違えてしまったのだろうか。そう思う亥太朗の胸がひどく痛む。
「オレには館長さんの苦しみを全て理解できない。だけど、あなたが描いた絵はとても素敵だと思う」
駿輔は腕に抱くコンの頭を撫でる。綺麗な毛並み、可愛らしい服と随分大切にされている。
可愛がられている名誉館長はグッズとなり、多くの人の手に渡った。そこに至るまでの亥太朗の苦悩は計り知れない。
亥太朗は真剣に向き合った。この事実は大きな一歩だろう。駿輔はそんな亥太朗のことを尊敬する。
「また描いてよ。記念館のためでも、そうじゃなくても。記念館のために苦しいとにらめっこしながら絵を描けたのだから。稲荷様も見てくださっている。誰かのために、自分の苦しみと向き合うなんて、簡単にできることじゃないから。きっと、あなたのことを助けてくれる」
なんてね、と駿輔は笑う。
亥太朗は駿輔の言葉に胸の内からこみ上げてきた熱い物をぐっと抑え込む。彼の言葉はまるで、昔、曽祖父が少年からもらった言葉のようだ。曽祖父もこんな風に思ったのだろうかと思いを馳せる。
「あはは、館長さん、すごい顔してる」
「すみません。少し……」
亥太朗は顔を背ける。
駿輔の言葉がお世辞だとしても嬉しい。いや、この青年はお世辞など言うような感じに見えない。思ったことをそのまま言葉にする。ゲンの言葉を真似ているところもあるだろうが、彼と同じように伝えてくれた。
亥太朗は深く息をする。逸る鼓動を落ち着かせるように何度も。
「……すみません。お時間を」
いただいて申し訳ない、と駿輔に向き直ろうとしたときだった。駿輔は口を尖らせ、視線はどこを見ているのか、ひょっとこのような顔をしてコンと向き合っていた。
「……ふふ」
亥太朗は思わず笑い声をこぼしてしまう。
駿輔は今度は舌を出して、目を見開く。著名な物理学者の顔が浮かぶ。
「畑さん、どうされたのですか?」
亥太朗は笑いを堪えながら駿輔に問う。
「へ?」
駿輔は亥太朗の方を向く。次は口を縦に開き、目をまん丸にする。
「ふふ」
亥太朗の口からまた笑いが漏れる。別に面白いわけではないが、不思議と笑ってしまう。
「へへへ」
駿輔もつられて笑う。
「何だかおかしくて笑っちゃった。これは名誉館長の一人勝ちか。あ、一匹勝ち?」
円らな瞳の館長は物を言わず、じっと黙っている。表情ひとつ変わらない。にらめっこ勝負において、名誉館長は無敵だろう。
「ですね」
「理想郷」ににらめっこをする節があった。どちらも負けを認める、とても微笑ましい部分だ。
「すみません、本当に。情けないところをお見せして」
「いいや。オレから話を振ったんだし」
ねえ、と駿輔はコンに尋ねる。コンはただ静かに駿輔に頷かされる。
「あなたも詩に心を動かされた内の一人ということだ」
駿輔の言葉に亥太朗は「理想郷」を見やる。亥太朗にとって、Ⅲの後半からⅣの内容がとくに響いた。
「畑さん」
「んー?」
亥太朗は「理想郷」の展示から離れ、順路を戻る。隣の「館長のご挨拶」のパネルの前に立つ。
「私から質問しても?」
「え、オレが答えられること?」
「ええ。あなたの感性でお答えください」
亥太朗は展示室を見渡す。今回の企画の主軸となり、展示の始まりを告げる、ある言葉。それは無垢な少年・ゲンが苦悩に満ちた詩人・琥珀に尋ねた言葉だ。
「あなたにとって、詩とは何ですか?」
<おじさん、詩ってなあに?>
このゲンの言葉が今回の展示における重要な位置にある。それは琥珀にとって、詩や過去と向き合うこととなった言葉でもあるからだ。
「難しいなあ」
うーん、と駿輔は考え込む。自分の中に考えはあるが、どう伝えたものかと言葉を探す。
「率直な意見でも、感想でも、何でも。お聞かせいただけるのであれば」
「そうだな……」
駿輔はコンを抱き直す。
「オレにとって、詩はお守りかな」
「……お守り、ですか」
亥太朗は駿輔の言葉を繰り返す。まさか、そのように言い表すとは思いもしなかった。
「うん、そう。「理想郷」なんて、まさにそうでしょ? 琥珀とゲンが願ったまさに「理想郷」の世界を紡ぐ」
とても平和な詩だと駿輔は思う。そして、優しさが滲み出る詩とも思う。
「館長さん言ったじゃん。諦めたり、傷ついたことがある人に響くって」
「ええ」
それは自分自身の経験でもある。亥太朗の傷をそっと撫でた詩は痛みと同時に、奥の方を少しだけ温かくした。
「詩はなくたって生きていける。館長さんの傷を深くさせてしまうかもしれないけど、絵も絶対必要ではない。詩や絵に限らず、文化芸術は必須じゃない」
駿輔は眉根を寄せる。
生きていくために必要な物はもっとある。衣食住や医療は最優先にされる。もしも、生きていく上で何かを犠牲にしなければならないとなったとき、文化芸術は真っ先に削られる分野だろうと駿輔は思う。
他に優先すべき物事があるのだから。なくても生きていけるのだから。
「でも、なくなったらきっと寂しい」
文化芸術が残るということは豊かさやゆとりの象徴だと駿輔は思う。人によって求める物は違えど、それらは影響を与え、記憶に残る。時として、人生を変えることもあるだろう。
「たくさんの文化芸術がある中の、あくまで詩という分野に限定した話にはなるけど、詩は小説と比べれば短いでしょ? 短い中にぎゅっと情報が詰められている。さくっと読めるからこそ、印象を残すのも難しい」
下手をすれば目が滑っていくだけになりかねない。それが詩という作品の危ういところでもあると思う。
しかし、その危うさを乗り越えることができれば、詩は輝く存在になるだろう。
「その短い中の一節だけでも印象に残れば、記憶に残れば、きっといい影響になるんじゃないかと思うんだ。館長さんが感じたようなきっかけみたいに」
琥珀と同じように道を諦めてしまった亥太朗。その彼の背を押したのは環境だけでなく、詩の影響もある。実例があった。
「進むためでも、休むためでも、逃げるためでも、何でもいい。言葉という形のないお守りがあると思えば、少しは気楽になるでしょ? お守りは加護だけでなく、厄除け、招福の役割を持つのだから」
ね、と駿輔は微笑む。
「言霊とか言うし。まあ、詩がなくたって生きていけるし、興味のない人からすればどうでもいいんだろうけど。必要なときに必要な誰かに届けばいい」
万人に受け入れられなくてもいい。時として、排除されることもあるだろう。琥珀の詩がそうであったように。
排除されようとも、受け入れられなくとも、時を越えて必要とされ、評価されることもある。不思議なことだと駿輔は思う。
「だから、オレにとって、詩はお守りだと思う。皆違うお守りを持って、幸せになれればいいんじゃないかな」
「……」
亥太朗は照れ臭そうに笑う駿輔をじっと見つめた後、脳内の収蔵品リストを辿る。記憶に新しい資料の内容を思い返す。
「……畑さんはそう思われたのですね」
「うん。変なこと言ったかな?」
「いいえ。非常に素敵な考えだと思います。必要なときに届けばいい、形のないお守りという考え方がとても」
亥太朗の本心だ。駿輔は心優しい青年なのだろうと思う。
駿輔の言ったことは本当に駿輔が思ったこと。それにしては、と思い当たる資料の内容を反芻する。
「……」
「館長さん?」
駿輔は黙り込む亥太朗に声を掛ける。亥太朗は逡巡した後、ぽつりと話す。
「実は、あなたと同じように詩はお守りだとおっしゃった方がいるのです」
「……え?」
駿輔は小さく声を漏らす。
「この展示期間中に手紙が見つかりました。琥珀の実家の蔵から」
今回の展示の記念グッズに、琥珀の実家である酒造会社の商品を出した。その関係で何度かやり取りをする中で、手紙が見つかったとの連絡を受けた。
「琥珀亡き後、祥から竜大に宛てた手紙です。内容はゲンとの会話を綴ったものでした」
琥珀が亡くなった年の秋、墓参りに行った祥とゲン。琥珀の墓の前で話した内容が記されていた。
「祥がゲンに尋ねたのです。詩とはどういうものなのか、と。琥珀から色々と教わり、一緒に詩を作ったあなたはどう思うの、と」
「……それで、ゲンはお守りと答えた?」
「はい」
ゲンがこれからを生きていくためのお守り。おじさんはいっぱい教えてくれた。おじさんとの約束を守るための大事な物。おじさんにとっても大事で、にらめっこし続けた証。おじさんが作ってくれた詩、ゲンが作った詩、一緒に作った詩はずっとゲンを助けてくれる。守ってくれる。だから、お守り。
ゲンはこのようなことを答えたと祥は手紙に綴った。
「偶然なこともあるんだ」
「ええ。ですから、びっくりしました。畑さんもお守りとおっしゃったので」
まだ発見されたばかりで、手紙のことを知るのは限られた者だけ。偶然とは言え、同じ答えが駿輔の口から出てきて、亥太朗は驚いた。
「じゃあ、機会があれば、その手紙も展示することになる、と」
「そうですね。ただ、修復しないといけないので、時間はかかりますが」
今のままでは損傷が進む。また、一部解読できていないため、展示はしばらく先になるだろう。
「また機会がありましたら、ぜひ見にきてください」
「……そうだね」
駿輔はくしゃりと笑った。
◇◇◇◇◇
時刻は十八時を回った。この季節になると、日が沈むのも早い。
「ごめんなさい、長いこと引き留めてしまって」
「オレこそ、長居してしまってごめんなさい。休館日だってのに、展示を見たいとか我儘言って」
「そんな、こちらがお呼び出てしたものですし」
互いに、申し訳ありません、すみません、と続く。ペコペコと頭を下げる亥太朗に対し、駿輔は本当にこの人は真面目すぎると思う。
「でも、オレ、もう一回見られてよかったです」
亥太朗の性格上、まだ続きそうだと思った駿輔は切り上げることとする。
「貸し切りって気持ちいいものですねえ。館長さんの解説つきだったし。すっごい特別」
「展示物は少なくなっていましたが、色々とお話できてよかったです。それと、私の身の上話を聞いてくださり、何と申し上げればいいのか」
情けない話をしてしまった。振り返ってみると気恥ずかしい。
「オレが訊いたことですから。館長さん、無理はしないでくださいよ」
「はい。ぼちぼちとやっていこうと思います」
絵を描くかはわからない。ただ、以前よりも前向きにはなれたと思う。
「そうだ。畑さんに渡したい物が」
「え?」
「ちょっとお待ちくださいね」
亥太朗は受付のカウンターへ入り、駿輔への贈り物を持ち出す。
「こちらを」
亥太朗は手提げ袋を差し出す。
「え?」
「ん?」
首を傾げる駿輔に対し、亥太朗も首を傾げ返す。
「それ、何?」
「ご自分の目で見てみてください」
さあ、と亥太朗は手提げ袋を押しつけるように差し出す。駿輔は控えめに手提げ袋を受け取ると、中を見る。いくつも入っているそれらを順に手に取る。
メモ帳や記念館のロゴが入ったボールペン、コンのマスコット、琥珀糖、小冊子が入っている。
「……こんなにもらっていいの?」
「ええ。もしかして、購入済の物がありました?」
「琥珀糖は買ったけど。美味しかった。……いや、そうじゃなくて」
こんなにもらっていいのか。駿輔の怪訝な眼差しに反し、亥太朗はにこにことと笑っている。
「せめてものお礼です」
「そんなに気にしなくてもいいのに……。でも、嬉しい。ありがとう。とくに、コン坊のマスコット、すっごい可愛い」
駿輔はコンのマスコットを手に、受付に戻したコンと並べる。いいなあと思いながら、駿輔は改めて手提げ袋の中を見る。全体的に可愛らしいグッズばかりだ。
その中で、気になった物を再度取り出す。
「これは?」
駿輔は小冊子を開く。
「そちらはおまけです。「銀に咲く花」「子狐のご挨拶」「理想郷」など、琥珀の詩をいくつか集めた冊子です。今後、館内に置こうと思っていて」
「え? これってまだ世に出てないってこと?」
「ええ。本当は今回の展示に間に合わせたかったのですが……。諸事情により遅れてしまいました」
「いいの?」
今後出回る物とは言え、自分がもらっていいのかと駿輔は疑問に思う。
「はい」
「なら、ありがたく」
駿輔は小冊子をそっとしまう。お土産をもらうというのは嬉しいものだと駿輔は笑みをこぼす。
「じゃあ、お邪魔しました」
「いいえ、こちらこそ。本当にありがとうございました」
互いに頭を下げる。駿輔は、名誉館長もまた、と受付のコンに軽く手を振る。
二人は玄関へ歩き出す。自動ドアが静かに開き、外の空気が二人の頬を撫でる。
「あ」
「おや」
二人は空を見上げる。ぽつり、ぽつり、と雨が降っている。しかし、空には雲がほとんどない。
「天気雨ですね」
強くもなければ、長雨になることもなさそうな様子だ。
「すぐに止むと思います。もう少し館内で待ちますか?」
「いや、もう帰るよ。これ以上長居するのも悪いし」
「ですが、距離があるでしょう?」
駿輔は徒歩で来たという。自転車で来たこともあるが、今日は歩きたい気分だったらしい。
駿輔が住んでいるところは記念館から歩いて三十分ほどかかる。家に着く頃には止んでいるだろうが、濡れてしまう。
「走ればすぐだし」
「いいえ、さすがにそれはよくありません。車で送ります」
引き返そうとする亥太朗の手を駿輔は引く。
「大丈夫ですって。これぐらいの雨、何てことないから」
「ですが……」
「本当に大丈夫! オレ、足には自信があるので」
亥太朗には遅くまでつき合ってもらった。記念館の戸締りなどがあることやしばらくすれば雨が止むことを考えると、世話になるのも申し訳ない。
「なら、せめて傘だけでも」
亥太朗は玄関口の傘立てから一本傘を取ると駿輔に差し出す。
「記念館の名前が入っていて目につきやすいですが、使ってください」
傘の持ち手のところに高岳琥珀記念館と記されている。少々目立つが、雨に濡れるよりはよっぽどいい。
「でも」
「いいですから」
ほら、と亥太朗は傘を広げ、駿輔に差し出す。駿輔は肩をすくめると傘を受け取る。
「ありがとうございます。じゃあ、お邪魔しました」
「こちらこそ、ありがとうございました。お足元にお気をつけてお帰りください」
「はい」
駿輔は会釈をすると歩き出す。亥太朗は暗闇に浮かぶ金髪が見えなくなるまで、その背中を見送った。




