館長と青年と記念館
白い煙が空へと昇っていく。晴れ渡る空に溶ける弔いの煙を前に青年は手を合わせる。
金髪の青年はただ静かに目を閉じ、手を合わせている。派手な見た目の彼の所作は静かで、丁寧。安らかに眠る二人に何を語り掛けているのだろうかと亥太朗はその背中を見つめる。しばらくの時間、彼はこうして手を合わせている。
「……すみません、つき合わせてしまって」
青年のつり目が開かれる。
「いいえ。こちらこそ、ありがとうございます。畑さん」
亥太朗は青年、畑駿輔に感謝を伝える。
「二人も丁寧にお参りしてくださる方がいて、嬉しいと思いますよ」
「そうだといいな」
二人は墓を見つめる。
高岳琥珀と祥の墓。生前、この地で暮らした夫婦は同じ墓で眠っている。
「あーあ。お供え物、持ってくるの忘れなければ完璧だったのに」
しまったなあ、と駿輔はぼやく。忙しなかったため、供物の用意ができなかった。
「お気持ちだけでも十分です。本当にありがたいことです」
「次は忘れないようにします。……挨拶はここまでにします。本題はこれからでしょ?」
「ええ」
亥太朗は夏の色彩が落ち着いてきた道の先へ視線を向けた。
◇◇◇◇◇
「この子可愛い」
指さされた先にはちょこんと座る狐のぬいぐるみ。琥珀色の狐は円らな瞳で来館者をお出迎えする。
「可愛いでしょ? うちの名誉館長・コンことコン坊です」
亥太朗は冷えた麦茶を駿輔に出しながら答える。
ちゃんと「名誉館長 コン」と名札もついている。ポロシャツを着て、麦わら帽子と斜めがけの鞄、虫取り網は夏休み仕様。遅めの夏休みに入ったため、しばらくは彼の仕事は休み。五月からずっと受付で来館者を出迎えた働き者の名誉館長に頭が上がらない。
今はこの館長室で次の開館を待っている状態だ。閉館期間中のSNS用の写真を撮ろうかと、と亥太朗は構図を思い浮かべながら駿輔の対面に座る。
「以前来たときも思っていたんですよ。へえ、コン坊か……」
「ええ」
亥太朗は仕事机の上に座るコンを畑の前に座らせる。駿輔はしげしげと名誉館長を見て、お疲れ様です、と頭を下げる。
「何で、コン?」
「狐はコンコンと鳴くから」
「え、そんな安直な理由?」
「あはは。まあ、「子狐のご挨拶」にあやかってですよ」
亥太朗は駿輔の対面に座りながら答える。
高岳琥珀の代表作「子狐のご挨拶」。「コンコンコンと窓叩く」はそのまま窓を叩く音でもあり、子狐の挨拶とも言われている。
「それがひとつ。あとは、琥珀とゲンの名前から一文字ずついただきました」
「なるほど。……ゲンじゃなくて?」
駿輔の言うとおりだ。
高岳琥珀にとって、非常に大きな影響を与えた存在。少年の名にすればいいじゃないかと思われるのも当然のこと。
「もちろん、有力候補でした。琥珀を語る上で外せませんが、ここは高岳琥珀の記念館。何かしら、直接的に琥珀の要素もいれたくて」
「あー、そういう理由。いい話だ」
うんうん、と駿輔は頷くも、少し首を傾げる。
「虎じゃなくて?」
琥珀は名前に虎の字が入ることもあり、虎と評されることがあった。それならば、狐ではなく、虎でもよかったのではないかと駿輔は思う。
「虎は虎太郎記念館さんがマスコットキャラクターにしているので。虎のコタ君です。写真見ます?」
「ぜひ」
亥太朗はスマホを取り出すと記念館のアカウントを開き、投稿を遡る。
「こちらがコタ君です」
亥太朗はスマホを机に置き、駿輔に写真を見せる。
「へえ……。一応確認ですけど、この虎がコタ君ですよね?」
駿輔は見せられた写真を指さして確認をとる。
写真は記念館の受付で撮られたもの。右に虎のぬいぐるみ、左にコン、中央に男性のアクリルスタンドが写っている。
「はい。ちなみに、こちらのアクスタは鷹峰です」
鷹峰記念館、虎太郎記念館の館長との三者会談を開催したときに撮った写真だ。可愛らしいぬいぐるみに挟まれるセピア色の男性こと、菅間鷹峰の絵面は何とも言えない。
「アクスタ、恰好いいですよね。ご本人がイケメンなので、素敵です」
鷹峰自身がハンサムな顔立ちに手足の長い人物だったため、全身姿のアクリルスタンドが映えると亥太朗は思う。
「これ、鷹峰本人の写真使ってる?」
「ええ。うちも作ろうかな……」
「いや、可愛い名誉館長がいるんだからいいでしょ」
厳つい顔した琥珀本人のアクリルスタンドよりも、可愛らしい顔立ちのコンのグッズを作った方が受けがいいに違いないと駿輔は思う。
鷹峰に気を取られたが、本題は、と駿輔は縞模様を持つぬいぐるみへ視線を移す。
「コタ君は……虎にしては弱っちそう」
駿輔の直球な言葉に亥太朗は少し笑ってしまう。虎と言えば、肉食で捕まったら一たまりもない強い動物というイメージがある。が、千里虎太郎記念館のコタ君は垂れ目でおっとりとした表情をしている。性格も温和で、好きなことは読書、料理、苦手なことは運動。コタ君というキャラクターは虎という動物のイメージから離れている。
「虎太郎をモチーフにしていますから」
千里虎太郎という作家を色濃く映したのがマスコットキャラクターの虎のコタ君。先ほど、駿輔が弱っちそうと言ったところがゲンが虎太郎のことを弱っちいと言ったという話と重なる。
「この子の名前を決めるとき、わざわざ高岳家に確認をしてくださいました」
「琥珀がコタちゃんとか、コタッコちゃんって呼んでたから?」
「はい。可愛いですよね、コタ君。うちのコン坊も可愛いですけど」
亥太朗はコンの頭を撫でる。皆から愛される名誉館長だ。
「虎太郎記念館さんは気にされないと思いますが、いつもよくしてくれくださるので同じ動物にするのもと思って。それに、狐は琥珀とも縁のある動物ですから。琥珀の名前から一文字もらうという案でよかったと思います」
「へえ、キャラクターひとつとっても、考えることが多いんだ」
「考えてみると結構楽しかったですよ」
「確かに。写真、ありがとうございました」
亥太朗はスマホをしまう。そして、表情を引き締める。
「さて、改めまして、本日はご足労いただきありがとうございます」
亥太朗は深く頭を下げる。記念館の館長として真摯に対応したい。
「もう、真面目だなあ。館長さん、顔上げてくださいよ」
駿輔は苦笑する。年下の自分に対して、この館長は腰が低すぎると思う。
「感謝してもしきれないですから」
亥太朗は顔を上げて答える。本当にこの青年には恩がある。
「あの……何度も確認して申し訳ないのですが、本当にお心当たりはないのですか?」
亥太朗は青年に尋ねる。諦めきれない、期待をわずかに覗かせる亥太朗の問いかけに駿輔は寂しそうに首を横に振る。
「はい。期待させて申し訳ないですが、本当に」
「ああ、いえ。こちらが勝手に思い込んでしまっただけですから。畑さんからすれば何のことやらと思われるのも当然で」
亥太朗は駿輔に謝罪する。
彼は高岳琥珀研究の進展に大きく寄与した人物。本当に頭が上がらない。
だからこそ、亥太朗たちは彼に期待してしまった。その気持ちが駿輔には痛いほどわかる。向けられた期待の眼差しが落胆したところを何度見たか。
「寄贈したオレがゲンと縁のある人間なんじゃないかと思われるのもわかります」
少年・ゲン
高岳琥珀を語る上で外せない存在。しかし、少年に関する情報は本当に少ない。素性もわからない、存在していた公的な証明もない、謎多き存在。琥珀と交流していた頃の推定年齢からして、琥珀の孫にあたる亥太朗の両親と世代が近い。そのため、存命だろうと思われる。しかし、今まで一切の手がかりはない。
不思議な存在。そんな彼の現在を知りたいと思う者は多い。亥太朗もその一人だ。
正体不明の少年に関する資料は駿輔が記念館に持ち込んだ。思わぬ発見と共に、亥太朗や研究者はゲンの所持品を持ち込んだ駿輔のことを血縁者、もしくは、近しい立場の者なのではないかと思った。
しかし、駿輔はわからないと答えた。亥太朗や記念館の職員、研究者からあれこれと尋ねられ、本当にこの人たちが欲しかった物なのだろうと思った。また、彼らの熱意を見て、自分をゲンと縁のある存在と思うのも無理もないと理解した。
駿輔はテーブルの隅に置かれたパンフレットを見やる。それは先日まで開催していた展示のパンフレットだ。
<琥珀おじさんとゲンの詩の時間>
この展示ではゲンの持ち物やゲンの日記など、目新しい資料が展示された。それができたのはゲンの持ち物が多く発見されたから。
謎に包まれていたゲンという少年がどのような人物だったのか、少し紐解くことができるいい機会だと亥太朗が言っていたことを思い出す。
「見てもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
駿輔はパンフレットを手に取る。すでに何度か見たもので、内容も頭に入っている。パンフレットを開き、改めて中を読み進める。「新たな資料の発見」という文章を目に留めると、その一文を指で撫でる。
「……寄贈してよかった」
「その節は本当に何とお礼を申し上げればいいのか」
少年・ゲンの持ち物は駿輔が記念館に持ち込んだ後、調査などを経て寄贈された。
駿輔がわざわざ記念館まで足を運んで見せてくれたことを亥太朗は昨日のことのように思い出す。
家の整理をしていたところ、鞄や玩具、日記が見つかったとのこと。日記やノートを見ていると、「こはくおじさん」「ゲン」といった名前が出てきたという。扱いに困ったため、琥珀の資料を扱う記念館なら詳しいだろうと急いで持ってきたようだ。
「あんなにたくさん見つかるとは思ってもみなかったもので……」
今までゲンに関する資料と言うと琥珀たちの日記が多かった。琥珀や祥の日記を主にゲンという存在を紐解くことしかできなかった。
高岳琥珀の晩年の活動における重要人物。だが、彼に関する資料は少なく、研究が難航している部分もあった。そのような状況でゲンの持ち物が発見されたとなれば、大騒ぎにもなる。実際、亥太朗たち記念館だけでなく、他の記念館や研究者、愛好家たちの間で大きく取沙汰された。
「ええ。そりゃあ、館長さんも、職員さんも、オレのことをゲンの身内かと問い詰めたくなりますよ」
「うう……。本当にあのときはごめんなさい」
最初、亥太朗は好奇心半分、疑い半分で駿輔が持ってきた物を見た。色々と見ている内に本物の可能性が高まり、興奮してしまった。
これだけ多くのゲンに関する資料を持っていた。となれば、ゲンの身内なのではないか。謎多き少年のことが解明されれば、晩年の琥珀のことをさらに知ることができるまたとない機会。そんな思いで駿輔を質問責めにしてしまい、恥ずかしいと亥太朗は恥じる。
「面白い姿を見られたので、オレは気にしてませんよ」
へへへ、と駿輔は笑う。
「面白い……」
「ええ。いやー、今まで記念館とか、博物館、美術館とは縁がなくて。お堅い感じの人が館長やってるのかなーって思ってたら、出てきたのはオタクだったし」
「オタク……」
否定はできないが、オタクなのは亥太朗だけではない。数少ない職員たちも琥珀のことに精通しているし、この記念館に限らず、鷹峰や虎太郎の記念館の館長や職員も癖が強い。ある種、特殊な人間たちの集まりだと亥太朗は思う。
「あの高岳琥珀の子孫が館長って聞いて、怖いおじさんだったらどうしようって覚悟してた。でも、出てきたのは腰の低いお兄さんでびっくり。オレとそんなに歳変わらなさそうで」
晩年の琥珀は落ち着いている印象を抱かれやすいが、若い頃のエピソードや桃源郷事件のこともあり、世間では荒くれ者、やんちゃ、怖いという印象を持つ人が多い。
とくに、学生時代に鷹峰と取っ組み合いの喧嘩をした話は有名。自分よりも体格のいい鷹峰を投げ飛ばし、大怪我をさせたというエピソードは人々に強烈な印象を与えた。
また、琥珀の写真でよく使われるもののひとつに、まさに虎が睨んでいると言われるような眼光の鋭いものがある。琥珀の荒々しい一面が強調される。
琥珀の若い頃のエピソード、強面の写真、桃源郷事件の発端となった「桃源郷」の作風。それらの影響で、高岳琥珀は怖いと思われがちだ。
駿輔は学生時代の鷹峰との喧嘩のエピソードを知り、気が短い人だと感じた。琥珀の顔も厳ついと思ったこともあり、子孫である記念館の館長も人相が怖いのではないかと思っていた。
しかし、実際に会った館長は物腰の柔らかい人物だった。眼鏡の奥の目は思慮深く、落ち着いていた。頭がよさそうな人だと思いきや、興奮すると早口になる。そんなところを目の当たりにし、館長という肩書を持つにしては若い彼に駿輔は親近感を覚えた。
「いや、私、これでも三十代で……」
駿輔の言葉に亥太朗は苦笑する。
「え」
駿輔は表情を引きつらせる。
「多分、畑さんより一回り上ですよ」
「……ちょっと上ぐらいかなと思ってました」
駿輔はじろじろと亥太朗を見る。館長にしては若いと初めて会ったときに思っていた。二十代半ばだろうと思っていたところ、まさかの三十代。それでも十分若いと思う。
「それは無理がありますね」
駿輔は二十歳。今時の若者という感じで、金髪がよく似合う。
そんな彼にちょっと上ぐらいに見られるなんて、本当に無理がある。亥太朗は頬を掻く。
「おじさんです」
「いや、若く見えますけど」
「童顔なんです」
はあ、とため息をついてしまう。館長としての威厳が全く感じられなくて悔しく思うことが何度もある。交流がよくある鷹峰記念館の館長に館長として初めて挨拶に行ったとき、ウリ坊はいつ見ても顔が変わらないじゃないかと言われたのは本当にショックだった。
「あー……。館長さん、誰かに似てると思ってましたが、あの人だ」
そう言って駿輔はパンフレットに掲載されている写真を亥太朗にも見えるように指さす。
肩を組む二人の男性の写真。一人は歯を見せてにかっと笑う琥珀、もう一人は琥珀に肩を組まれて緊張した面持ちの青年。
亥太朗はその写真を見てはにかむ。よく言われると同時に、誇らしくも思う人物だ。
「千里虎太郎ですね。母方の曽祖父です」
「え!? 千里虎太郎の子孫でもあるの!?」
「はい」
父方は琥珀、母方は虎太郎の血筋。すごい血筋だと亥太朗は常々思う。
「へえ……。見れば見るほどそっくりだ」
畑さんは写真の虎太郎と亥太朗を交互に何度も見る。目尻の緩やかな曲線はそっくりだ。
「名前もそっくりだし。性格も似ているんじゃない?」
「祖父の琥志朗から似ていると言われたことは何度もありますね」
「あ、そっか。琥志朗はおじいさんになるのか」
うわあ、と駿輔は感心する。
「すっげー……」
「血筋は特殊ですが、私自身は何も」
「その歳で館長やってるの、立派だと思う」
館長と聞くと、年長者を想像する。若くて四十代だろうか、と思う駿輔からすると、亥太朗は本当に若くして館長の座に就いたと思う。
感心している駿輔に対し、亥太朗の胸がズキリと痛む。
「……立派でしょうか」
「立派でしょ。この間の展示も大成功だったわけだし」
<琥珀おじさんとゲンの詩の時間>
この展示は多くの人が訪れた。駿輔も何度か見に来た。小さな記念館に人々が並んで展示を眺めているところを見て、こんなにも興味を持つ人がいるのだと実感した。
「ほら、ゲンの探検鞄とか、すぐ売り切れになってたし」
「ああ……。あれは、本当に予想外でした」
今回発見されたゲンの探検鞄を参考にし、琥珀の詩を題材にしたイラストや記念館のマークをいれた鞄。そこそこの値段がするにもかかわらず、早々に売り切れたグッズだ。
「値段は抑えたものの、高かったはずなのですが……。想定以上に売れて驚きました」
初めは二代目の探検鞄の再現を目指した。しかし、思いのほかコストがかかってしまったため、ポケットの数を減らすなどして何とか形になった。それでも少し高いと記念館側は思ったが、来館者からは人気のグッズとなった。
「小さなお子さんがいらっしゃるご家庭から人気でしたね。お子さんの習い事や遠出用の鞄にちょうどいいとか。意外にも、大人にも人気でしたね」
「イラストや記念館のマークがシンプルで控えめだったから、普段使いによかったんじゃない?」
「確かに、普段使いしやすいようにイラストやマークはシンプルかつ目立たないようにしましたが……」
「銀に咲く花」からは雪の結晶を花に見立てた意匠、「子狐のご挨拶」からは窓からひょっこりと顔を覗かせる子狐のイラスト、記念館のマークは琥珀糖を思わせる幾何学模様に琥珀の名前を崩した意匠。三種類のデザインのものをグッズとして発売した。
「オレ、子狐モチーフの鞄が一番好き。あれ、すっごい可愛かった」
「ありがとうございます。あれが一番人気でした」
「でしょうね。もしかして、あの狐って名誉館長?」
「はい」
「やっぱり」
ふふふと駿輔は笑う。
「他のグッズもよかった。ハンカチとか、メモ帳とか。たくさんありましたね」
どれも素朴ながら、可愛らしい物だった。柔らかな色彩やタッチが普段使いにもちょうどいいだろうと駿輔は思った。
「ええ。本当に、皆さんがたくさん手に取ってくださって嬉しい限りです。ただ、こちらの読みが甘かったせいで、売り切れが多発してしまったのは反省点です」
売り切れか、残念、との声が聞こえてくると、本当に申し訳なかった。大人の事情があるとは言え、もう少し用意してよかったのかと勉強になった。
「でも、受注販売するんでしょ?」
「取り急ぎですが」
次の入荷や再販の問い合わせや希望が多く寄せられた。亥太朗としても、多く寄せられた声に応えたいと思い、関係各所との相談した。結果、受注販売をするという決断に至った。受注販売の様子次第では一部のグッズは常設しようかと検討している最中だ。
「はー、すっげーや。対応が早いというか、行動力がすごいというか」
「たくさんの方のお力添えがあったからです」
展示の表からは見えないほど、多くの人々の支えがあった。ここまで力を借りたのは初めてのことで、亥太朗にとって、あっという間に時が過ぎるほどだった。
「もちろん、畑さん。今回の展示はあなたなくしてはできなかったことです」
「オレは寄贈しただけだから」
ゲンの所持品。それを記念館へ贈った。それ以降、駿輔はとくに関わりがない。あまり協力したという実感が湧かない。
「何をおっしゃいますか。あなたが寄贈してくださった物がなければ、今回の展示はなかった。高岳琥珀という詩人の研究に大きく貢献したのです」
「それはそうだけど」
「本当に感謝してもしきれないんです」
亥太朗は困ったように眉を下げる。
「楽しい話ではないのですが、当館の経営状況はあまりよくなくて」
先代のときから決して楽ではない経営状況だった。常にギリギリの状態で記念館は成り立っており、亥太朗の頭を悩ませ続けていた。
「……そうだろうね」
「ご存知でしたか」
「だって、資料を持ち込んだとき、誰もいなかったし。閉館時間間近とは言え、人がいた気配が一切なかった」
建物の掃除は行き届いているものの、全体的に古さが目立つ。あまりにも静まり返っていた記念館からは活気を感じられず、暗い空気が漂っていた。
「交通の便もいいとは言えないため、遠方から来館する難易度が高い。立地の面でも不利ということもあり、中々来館者数を伸ばすことができず」
「地の利は確かにそうだけど……。入館料安すぎない?」
駿輔は確認のため、パンフレットに記載されている入館料を見る。
大人三〇〇円、中高生一五〇円、小学生以下は無料。範囲はごく一部だが、記念館の隣にある旧居の見学もできてしまう。
「経営も火の車になるって」
初めて入館料を見たとき、もう少し値が張ってもいいのではないかと駿輔は思った。
「これぐらいだと思いますが……」
他の記念館も同じぐらいの金額だろうと亥太朗は思う。規模や企画によって多少の差はあるだろうが、この入館料を特別安いとは思っていない。
「そういうものなの?」
「ええ。本当は中高生も無料にしたいぐらいですし」
「そんなに自分の首絞めたいの?」
経営が厳しいのなら入館料を引き上げるとか、補助金の申請をするとか方法はあるだろう。どれも簡単ではないが、苦しいところをさらに苦しめては記念館の存続にかかわると駿輔は思う。
訝しむ駿輔にもっともだと思う反面、亥太朗には記念館が果たすべき役割を重視したいと考えている。
「そういうわけではありません。当館に限ったことではありませんが、学びの場として若い方々には気負わずに来館してほしいので」
記念館に限らず、美術館や博物館は物の保存、研究だけでなく、多くの人々に学びを提供する存在。難しそうとか、近寄りがたいと思ってほしくない。金銭的なハードルを下げることで、若者の来館を少しでも促したいとも思う。
「わかるけども……」
駿輔は不安を表情に出す。
人を呼びやすくするためとは言っても、続かなければ意味がない。それに、亥太朗たちが苦しむのは違うのではないかと思う。
「ご心配痛み入ります。ただ、今回の展示のおかげでゆとりができたのも事実。だから、あなたには感謝しているんです」
この記念館を救ってくれた。まるで、苦しむ琥珀を救ったかのように、時を越えてゲンが救ってくれたようだ。駿輔という青年の手を介して、記念館は救われた。
「お伝えできませんが、いい知らせがいくつも入ってきています。だから、これを機に当館は新しいことに挑んでいきたい。そう思えるいいきっかけをくださった」
このチャンスを逃してはならない。亥太朗はゲンの所持品を広げて眺めたとき、そして、来館者の数を見てそう思った。
「残していくためですから」
「……」
「ごめんなさい。お金や生々しい話をして」
記念館の裏事情だ。聞かれて困る話はしていないが、年若い駿輔に愚痴をこぼしてしまい、亥太朗は申し訳なく思う。
「ううん。別に、館長さんの私利私欲のためだと思ってないし。記念館のためだってことはずっと伝わっているから」
駿輔は不快に思っていないと真っ直ぐに伝える。
金儲けをしようという魂胆が亥太朗には見られない。むしろ、内気で、表立って動き回るようには見えない彼が頑張っている姿を尊敬する。
駿輔は穏やかに微笑む。
「うん。やっぱり寄贈してよかった。きちんと手入れしてくれるって約束してくれたし、記念館にとっていいきっかけになったのなら、オレは嬉しい」
駿輔の本心だ。持ち込んだ時点で損傷が激しい資料も多かった。いらないと門前払いされるかと思いきや、修繕を試みると約束してくれた。比較的状態のいい資料については展示や保存に耐えられるように手が加えられた。
持ち込んだときよりも輝いて見えた資料。綺麗なケースに収められ、安全が確保されたことにほっとした。
「……本当に、当館の収蔵品という扱いにしてよろしいのですか?」
亥太朗は今日の本題を切り出す。
駿輔は初め、寄贈したいと言って持ってきた。調査などを経て、受け入れられると判断した後、亥太朗は駿輔に寄贈の意志があるのかを再度確認した。
寄託ではなく、寄贈。寄託の場合、所有権は駿輔のままになる。一方、寄贈の場合は記念館が所有権を持つこととなる。亥太朗は駿輔に両者の違いを説明をし、どちらにするかと尋ねた。
寄贈。駿輔はそちらを選択した。
「はい。オレが持っているよりも、記念館が持っていた方がいいでしょ。大事にしてくれるんだし」
「それはもちろん」
「手放すつもりで来たのだから」
初めからそのつもりで駿輔は記念館へ持ち込んだ。
「正直言うと、少し寂しいけれど……。オレが持っているわけにはいかないし、預けるのも違うし。もう書類も作ったんだ。これが最良だとオレは思う」
駿輔は自分が寄贈したものをじっくりと見る来館者の姿を見た。謎多き少年、ゲンのことを知りたがる人々は多く、物珍しそうに見る人が多かった。ゲンの字は子供らしい字だ、この万華鏡の中はどんな風に見えるのだろう、ゲンの文章のクオリティが上がっている、など、来館者の声を実際に聞いた。
こうして人々の目に触れ、高岳琥珀という詩人のことをさらに知ってもらえるのなら。駿輔は改めてそう思った。
また、記念館が適切に保存し、活用すると約束してくれた。その活用法を自分の目で見た。駿輔には展示の良し悪しはわからない。だが、多くのパネルや資料が所狭しと並び、全てをきちんと見ようとすると疲れてしまったが、見ていて満足感のある展示だと思ったことは事実。
「よろしくお願いします」
駿輔は頭を下げる。駿輔の少し震えた声に亥太朗はぐっと口元に力を込める。
「承知しました。では、改めて。今回の寄贈、心より感謝申し上げます」
亥太朗は駿輔よりも深く頭を下げる。
高岳琥珀という詩人はゲンという少年に救われた。時を越えてなお、不思議な少年は助けてくれた。その縁を繋いでくれた駿輔には感謝してもしきれない。
「……ふふふ。館長さん、やっぱり真面目だなあ」
先に顔を上げた駿輔はまだ頭を下げている亥太朗に顔を上げるように促す。責任感の強い人だと本当に思う。
「本当に、この感謝の気持ちをどうお伝えすればいいのか。表す手立てがわからず……」
顔を上げた亥太朗は苦笑する。ただひたすら、ありがとう、と頭を下げることを続けるぐらいしから思い浮かばない。
「じゃあ、ちょっと感謝の気持ちに便乗してお願いしようかな」
「叶えられることであれば」
亥太朗はお願いとは何だろうと思いながら尋ねる。
「見られるのなら、もう一回展示を見たい」
駿輔はくしゃりと笑った。




