ゲンとの日々 ――高岳琥珀死去――
結局、昨夜はゲンを泊めることにしました。今までも泊めたことはよくありますが、帰らないと言って泊めたことは初めて。起きてからもずっと拗ねていました。虎太郎君からいただいたぬいぐるみたちを抱いて、寝室の前でいじけています。昼食後、うとうとと微睡み始めて、そのまま廊下で寝てしまいました。
赤子じゃあるまいし、と主人は言います。主人のことが心配だと思うのですが。
三時頃には起きましたが、それでも機嫌が悪いまま。今日は一日ずっとご機嫌斜めでした。
(一九×▼年八月一日 祥の日記より)
今朝もゲンの機嫌は悪いまま。どうしたものかと思っていると、主人が起き上がりました。やれやれと、身体を起こすだけでも息も絶え絶えな様子の主人を見て、ゲンが飛び跳ねました。少しだけ庭先で遊んでやろう、と主人は笑いながら歩きます。支えようとしたら、いいからと断られ、壁伝いに歩いていきました。ゲンはすぐに主人に手を貸し、庭へ。残念ながら、主人は縁側に出るので精一杯でしたが、座ったままゲンとボール遊びをしました。あまり力が入らないのか、ボールを転がすに留まりましたが、時々あらぬ方へ転がしてはゲンを走らせました。
ゲンはというと、最初は主人の顔色の悪さに困惑している様子でしたが、少しだけ外で遊べたことが嬉しいのか、ぴょんぴょん跳ねたり、走ったりと元気です。
遊んだのは十五分ほど。休ませてくれ、と主人は縁側で横になってしまいました。その後はゲンが庭にいる虫や草木を主人に見せる時間となりました。
ゲンの機嫌はよくなりました。けれど、帰らないと言い張ります。拗ねているよりはいいか、と主人は言いました。
(一九×▼年八月二日 祥の日記より)
朝方、ゲンが出かけたと思ったら、向日葵を持ってきました。最初に持ってきた向日葵は今も枯れないどころか、萎れることもなく咲いています。
機嫌がよくなっと思ったゲンですが、また少しだけ不機嫌に。おじさんがどこかへ行くの嫌だ、と。
仕方ないな、と主人は詩作のノートを持ってくるようにゲンへ伝えました。ゲンは素直に詩作のノートを数冊持ってくると、この詩は自分が作った詩、ここにいるというわけにはいかないか、と優しく語りました。
ゲンは違うと言い張りました。これはおじさんの詩であって、おじさんじゃない、と。それはオレだと主人は言います。
二人の言い合いは長かった。昼食を摂ることもなく、夕飯前まで続きました。
私はただ見ているしかできなかった。最終的に、ゲンのお腹の音で言い合いは一度中断。ゲンはご飯をもりもり食べました。主人も少しだけ多く食べました。
(一九×▼年八月三日 祥の日記より)
詩はおじさんだけど、おじさんじゃない。
だって、詩は身体がない。
ゲンが話しかけても答えてくれない。
こはくおじさんじゃないもん。
(一九×▼年八月三日 ゲンの日記より)
今日も二人の言い合い。とうとう、主人ははっきりと自分は死ぬのだと言い切りました。ゲンは狼狽えながらも、嫌だと主張しました。死とは何かを知っているだろうと主人はゲンに言います。けれど、ゲンは知らない、知りたくないと首を横に振り拒絶していました。
ぼろぼろと泣くゲンに耐えられなくなって、この話はもう、と切り出しましたが、主人に止められました。
わかっています。これはゲンが主人の終わりを受け入れるための大切な話であること。でも、まだ幼い子が受け入れるにはとても難しい話。私だって、難しい。
話は終わりませんでした。泣きながらも、ゲンは終わらない、と主人に訴え続けました。主人も主人でゲンの言葉を受け止め、それでも自分は死ぬのだと静かに語ります。
また昼が過ぎ、おやつが過ぎ、夕刻を迎えました。涙が枯れ果てたゲンは寝てしまいました。
バテやがって、と主人は笑っていましたが、主人も疲れた顔をしていました。こんなに頑固だと思わなったと言いますが、それをあなたが言いますか。
その日はそのまま、ゲンは眠ってしまいました。くっきりと涙の跡が残る頬はそのままに。
(一九×▼年八月四日 祥の日記より)
今日も言い合い。まだ続くのかと思うと、私も苦しい。
主人は変わらず死ぬと。ゲンは嫌だと。互いの主張が衝突します。どうしても避けられないことについての衝突は本当に苦しい。
少しだけ席を立ってしまいました。仲裁するにも、私が割って入る隙なんてない。こうして日記でも書いて状況を整理すれば、落ち着けるだろうか。でも、どうすれば(※)
色々と話はありましたが、ひとまず二人の言い合いは終わり。
ゲンはまだ納得しきれていないようですが、「にらめっこする」ということで少しずつ、あの子は向き合っていくのだと思います。主人が苦しみながら詩と向き合ったように、できるだけ目を逸らさずに。そして、いつか、にらめっこ勝負に勝てたと思えるように。
(一九×▼年八月五日 祥の日記より)
(※)ペンの線が残る。琥珀の怒鳴り声に慌てて席を立ったか。
おじさんのあんなに大きな声、ひさしぶりに聞いた。
おじさんと仲良くなる前におこられたときのこと思い出した。
いやだいやだではどうにもならない。
ゲンがいやだと言ってもおじさんはいなくなる。
いやだけど。
苦しくても、つらくても、進まないといけないときがある。
おじさんはにげたことがある。
じけんのこと、詩のこと。
それでも、にげた先でちょっとずつ進んだ。
にげてもいい。けれど、にげた先でちょっとずつ進まないといけない。
ちょっとずつ進んだ先で、じけんのこと、詩のことと向き合った。
受け入れた、ではなく、向き合ったが大じらしい。
にらめっこしょうぶしたということが進んだしょーこ。
おじさんがいなくなったあと、ゲンはにらめっこしないといけないって。
おじさんが詩とにらめっこしてきたように。
わからない。ゲンにはむずかしくてわからない。
けど、おじさんのお願いをかなえたい。約束した。
おじさんのお願いをかなえることがゲンにできること。
きっと、そのはず。
(一九×▼年八月五日 ゲンの日記より)
向日葵の花と共に仲直り。おじさんとおばさんもそうだったもんね、とゲンはけろっとしています。その話はもうおしまいにしてほしい。
ゲンの声が枯れていて気の毒です。おじさんのせいだ、ゲンが分からず屋なせいだ、とまた言い合い。昨日までの言い合いに比べれば、可愛いものですけどね。
(一九×▼年八月六日 祥の日記より)
主人とゲンが詩を読んでいました。途中、ゲンが部屋を飛び出したと思ったら、「子狐ひょっこりこんにちは」と窓から顔を覗かせました。
(一九×▼年八月七日 祥の日記より)
今日の主人は少し具合がいいのか、ベッドで身体を起こしている時間が長かったように思います。
(中略)
買い物から帰ってきて、二人の様子を窺うと、主人は書き物をしていて、ゲンは大の字になって寝ていました。お昼ご飯は少し遅めにしようかと考えていると、主人に呼ばれました。手招きされ、ゲンを起こさないようにそっと歩み寄りました。そして、声を潜めて、暑い中ありがとう、夕飯は、など、他愛ない話をしました。今日は本当に元気がよさそうでほっとしました。それとなく話していると、徐々に主人の声が小さくなり、聞き取りにくくて身体を主人の方へ少し身を寄せると、不意に抱きしめられました。どうしたのかと問えば、ありがとう、と。囁く声があまりにも優しくて、消えてしまいそうで泣いてしまいました。細くなった腕は弱いけれど、昔のように優しかった。
(一九×▼年八月八日 祥の日記より)
おじさんが読み聞かせしてくれた。
何がいい、と言われたから、きつねのお話を読んでもらった。
あまり読んでもらってなかった本。
だって、最後がこわくて悲しいから。
今なら大じょうぶだと思ったけど、やっぱりちょっとこわい。
あと、詩を読んでもらった。
おじさんの詩。
いっぱいある。
おじさんがにらめっこしてきた分の詩。
全部おじさんのもの。
ひさしぶりにきいてみた。
詩て何、て。
そしたら、おじさんは大じなものと言った。
詩がなければ生きてこられなかった、詩が生かしてくれた、と。
詩があればおじさんは生きられるの、ときけば、おかげさまで時間がのびた、と言った。
なら、まだのびるはず。
でも、もうのこりはないなとか言う。
詩で生きているから、とも言った。
やっぱりわからない。
むむむ、てしてたら頭なでられた。
詩のおかげでゲンとも会えたから、ておじさん。
それはそうだ。
ゲンも詩に出会えてよかった。
おじさんはゲンをくれた。遊んでくれた。教えてくれた。
さんぽもした。詩も作った。
たくさん、たくさん、くれた。
おじさんとおばさんはいっぱいくれた。
ゲンは二人に何かあげられたかな。
(一九×▼年八月八日 ゲンの日記より)
今日は何だか調子がいい。少しだけ身体が軽い。こんな日は滅多にないだろうから、色々と書き残すことにする。
(中略)
久しぶりにゲンに読み聞かせをした。これがいい、と持ってきたのは悪戯狐の罪償いの話。あの話は最後が苦手だと言っていて、ほとんど読み聞かせていなかった。ゲンが持ってきたのなら、と読み聞かせをした。そして、やはり最後の場面。狐が銃に撃たれる場面で、小さく悲鳴をあげていた。
それから、詩を読んだ。この地に越してきてから、色々と詩を作ったと思う。
そんな話をしていたら、ゲンに訊かれた。
おじさんにとって、詩ってなあに、と。
久しぶりに訊かれたと思う。
詩は大事なもの。詩のおかげで、オレは生きることができた。もちろん、辛いこともあった。むしろ、辛い思いをした印象が強い。だけど、その経験は糧となったと思う。まさか、子供向けの詩を作ることになるとは思わなかったし。そのきっかけとなるゲンとの出会いが大きかっただろう。
以前、詩はあってもなくてもいいがあってほしいものと答えたことがあった。今もそう思うが、詩があったから、オレは生きてこられたと思う。本来なら、オレはもう死んでいるはず。いや、もっと前に詩人の高岳琥珀は死んだ。鷹峰君がそんな本を出して、色々と言われていたっけ。
復活。オレが再び筆をとったとき、鷹峰君やコタちゃんに言われた。物凄く苦しかったが、楽しいと思えるときもあった。体調もよくなったことも驚いた。
こうして生きてこられたのは詩と向き合ったからだと思う。
なら、おじさんは詩があれば生きられるの、とゲンに問われた。実際のところ、生きながらえたとは思う。だが、もうそれはおしまい。オレは死ぬ。そう遠くない内に。ゲンの表情が曇ったが、オレは詩で生きていられる。詩のことは鷹峰君とコタちゃんに託した。彼らなら上手いこと残してくれるはず。
詩が残れば、オレは生きていられる。詩人として、これ以上ない栄誉だ。それも、一度はこの世から排除されたものが、実はひっそりと残っていたなんて話、ちょっと格好いいだろう。
唸るゲンの頭を撫で、また詩を読み聞かせた。そうこうしている内に、ゲンは寝てしまった。コタちゃんがくれたぬいぐるみを抱いて丸くなっていたはずが、気がつけば大の字に。小さい身体のわりに、寝相は立派なものだ。
家内が買い物から帰ってきてから、あれそれと話した。まだ比較的涼しい内に買い物を済ませられた、夕飯はお魚ですよ、と声を潜めながらしゃべった。何だか懐かしくなった。こうして家内と視線の高さが近いのは。
オレにはもったいないぐらい、いい人と家族になれたと思う。いらぬ気苦労ばかりさせてしまって申し訳ないと思うほどに。きちんと礼をせねばと思った。だが、どうも気恥ずかしくなって、少しばかり卑怯なことをしてしまったが。
家内も歳を重ねた。やつれたなあと思った。オレが原因だろうし、言えたことではないが、ちゃんと食事を摂って、寝てほしい。
(中略)
久々にこんなに書いた。疲れた。
でも、よかった。すっきりとしていて、いい気分だ。
また明日。
(一九×▼年八月八日)
主人が亡くなりました。朝を迎え、おはよう、と挨拶をした主人。少し眠そうにしていたので、食事ができるまでまだ寝ていていいですよ、と伝えると、食事はいい、傍にいてくれ、と。しばらくゲンと三人で朝の景色を眺めていたら、ありがとう、とぽつりと呟いて、目を閉じました。
眠るように、そっと、主人はこの世を去りました。あまりにも穏やかな顔は本当に眠っているようにしか見えなかった。
(一九×▼年八月九日)
琥珀が亡くなったと聞いたとき、私よりも先に行ってしまうのかと思いました。その可能性はずっとありましたが、ここまで生きながらえてくれたのなら、もしかしたら、と思っていたからです。けれど、琥珀は私よりも先に行ってしまいました。
琥珀は穏やかな顔で眠りにつきましたと聞いたとき、苦しまずに眠りにつけたのか、お疲れ様と心の底から思いました。脚を悪くしてしまったため、離れた地から琥珀を弔うことしかできなかった。葬儀に出られなかったことが心残りです。
(竜大「琥珀のこと」より)
父が亡くなった日、電車に急いで飛び乗った後のことはまともに覚えていません。気がつけば、△△の地に降り立ち、父たちの家へ。
(中略)
父の遺言どおり、葬儀は近しい人たちのみで行いました。忙しい中、菅間さんやコタ君も来てくれました。
(中略)
父の顔は本当に安らかだった。嫌というほど苦しんだ父。その苦労が晴れたと言わんばかりの朗らかな顔。このまま起き上がってきそうなぐらい、父の姿は眠っているようにしか見えなかった。
(琥志朗「父・高岳琥珀」より)
琥珀君が亡くなった。よう、と今にも起き上がってきそうなぐらい安らかな顔だった。狸寝入りはよせと言いたくなるぐらい、彼は静かに眠っていた。
信じたくなかった。もう彼と話すこともないのか、小突き合うこともないのか、と。彼の新しい詩を読むこともなくなったのか、と。
葬儀で友人代表として弔辞を読んだ。情けなく、泣き伏せてしまった。泣きすぎだ、鷹峰君、なんて声が聞こえて、小突かれそうなぐらい。
(中略)
いつまでも感傷に浸っている場合ではない。友から託されたことを僕は叶えてみせる。絶対に。
(一九×▼年八月 鷹峰の日記より)
コタちゃん、と呼ぶ声を二度と聞けなくなってしまった。あまりにも穏やかな顔で眠る琥珀さんの顔をきちんと見たかったのに、視界がぼやけて仕方なかった。祥さんや琥志朗君は静かに涙を零し、鷹峰さんは座り込んで項垂れていた。ゲン君は影からそっと見ていた。泣くのを耐えるように、ぬいぐるみをぎゅっと抱きしめていた。皆が皆、琥珀さんの死を悼んだ。
(中略)
鷹峰さんに呼ばれ、わかっているね、と確認された。目を真っ赤にした鷹峰さんの迫力は圧倒されるものだった。本当に鷹に睨まれているような圧があった。
僕はやり遂げなければならない。琥珀さんの願いを叶える。コタちゃん悪いね、君らにしか頼めそうにないから、と琥珀さんに託された。
あなたへの恩を返すと決めていたから。
(虎太郎「琥珀さんとコタ」より)
おじさんがいなくなった。
本当はねているだけでしょと思うぐらい、おじさんはしずかになった。
やすらかな顔とみんな言う。
苦しんでいないこと、とおばさんがおしえてくれた。
もうおじさんは起きない。
遊んでくれない。
詩を作ってくれない。
むねがきゅうっとなって苦しい。
(一九×▼年八月九日か ゲンの日記より)
慌ただしく日々が過ぎて行く。もう主人はいないのかと思って泣いてしまう。
琥志朗や鷹峰さん、虎太郎君が整理を手伝ってくれる。ゲンも手を貸してくれる。
ゲンが毎日持ってきてくれた向日葵が萎れていく。とても寂しい。
(一九×▼年八月 祥の日記より)
タカとお話した。
おじさんの詩を本にするのを手伝ってくれるか、と。
ぼくは手伝うと答えた。
おじさんの本だなをおしえた。
コタとコジも手伝った。
ゲンのお願いかないそう。
おじさんのお願いもかないそう。
でも、おじさんはいない。
小さく、真っ白になって帰ってきたおじさん。
(一九×▼年八月 ゲンの日記より)




