ゲンとの日々 ――「さようならのじゅんび」――
雑誌の件があって以降も、主人は詩を作っています。自分で字を書くことが難しくなった今、ゲンの手を借りて文字起こしをしています。初めの頃よりもゆとりがでてきたのか、ゲンは唸ることが減ってきました。辞書を引くことも慣れてきたみたいです。
(中略)
二人で作っている詩は完成までまだ時間がかかりそうです。
(一九×▼年五月二十四日 祥の日記より)
主人の具合が日に日に悪くなっていきます。詩を作る時間もうんと減り、呼吸するのも辛そうです。ですが、ゲンが顔を出すと、嬉しそうに笑うのです。今日は何を持ってきた、どんなことがあった、と訊き、ゲンが話す。あの子の話を聞きながら笑うのです。時々、うとうととしてしまいますが、ゲンがおじさんと呼ぶと反応を示します。
あの子は主人の元気の源なのでしょうね。
ゲンは元気のゲン(※)
そうね。ありがとう。本当に。
(一九×▼年六月十三日 祥の日記より)
(※)ゲンに書かれたもの
ゲンは元気のゲンだもの。
おじさんがちょっとでも元気になるなら、ゲンがんばる。
がんばっているけど、おじさんの元気がちょっとずつなくなる。
いなりさまにおねがいしてももうむりだと言われる。
おわかれのじゅんびをしなさいと言われる。
おわかれのじゅんびとは何。
(一九×▼年六月中旬頃か ゲンの日記より)
おわかれのじゅんびのことをいなりさまにきいた。
さようならをすることといなりさまは言った。
さようならはいつもしてる、またねも言う。
べつにじゅんびしてない。
なら、何。
いなりさまは二どと会えなくなる心のじゅんびをなさいと言った。
どうして、いなりさまはそんなことを言うの。
(一九×▼年六月中旬頃か ゲンの日記より)
ここのところ、ゲンが向日葵の花を毎日持ってきます。花瓶に一輪ずつ増えていく様子を見る主人の眼差しはとても優しい。また向日葵畑を見たいなあと主人は惜しそうに言います。
私も、あなたと一緒に青空の下で向日葵を見たい。
(一九×▼年七月四日 祥の日記より)
今日もゲンは向日葵を持ってきました。もう花瓶に生けるのも難しいぐらいに向日葵が増えました。全く枯れる様子のない向日葵。そのような向日葵が存在するなんてと疑いたくもなりますが、実在している。とても不思議。
ゲンにどこで摘んできたのか訊きましたが、答えてくれません。本当に不思議。
(一九×▼年七月六日 祥の日記より)
今年の七夕も雨。しとしとと雨が降っていました。
ゲンと出会ったばかりの頃を思い出す、と主人と話しました。あの日は土砂降りの雨。そんな中、あの子は家に来て、木の実を置こうとしていましたね。
随分なつき合いになったなあ、と主人はしみじみと言いました。初めは坊主と呼んでいたのに、今はゲンという名前が馴染む。あまり話すことが得意ではなかった子が、よくおしゃべりをするようになりました。字を書くことも苦手だった子が主人の詩を書き起こすまでになりました。
いい先生ですね、と主人に言うと、先生ねえ、と苦笑しました。やんちゃな弟子は取るものじゃないとまで言います。それを言うなら先生もか、苦労されただろうと叔父のことを話しました。
叔父は主人との時間を楽しそうに話していました。あの荒くれた若虎をどうしてやろうか、とぼやいていたこともありますが、でもいい詩を書くんだよ、身の内の弱さに負けない咆哮を上げる、と苦笑しながら話すのです。
今の主人はあのときの叔父と似たような顔をして話します。師弟は似るのでしょうか。
(中略)
一度帰ったゲンが夜にまた来ました。星を拾ったと雪のように真っ白に輝く石を見せてくれました。星の河から降ってきたか、と主人は星を受け取りました。そして、空を見上げました。よく晴れた空には星がたくさん輝いていました。彦星と織姫も会えそうだと。
(一九×▼年七月七日 祥の日記より)
いなりさまが星をくれた。
真っ白できれい。
ちょうちんの灯みたいにふんわりとした光。
おじさんにあげた。
七夕の日はお願いする日。
おじさんとおばさんとお願いした。
おじさんに何をお願いした、ときかれた。
おじさんとまた外で遊びたいとお願いした。
油あげじゃなくていいのか、と言われたけど、いい。
またおじさんと探けんするんだ。
(一九×▼年七月七日 ゲンの日記より)
ゲンにおじさんはどこかへ行ってしまうのかと訊かれました。薄々わかってはいると思います。けれど、あの辛そうな表情を見ると受け入れたくないのだと思います。
本来であれば、主人はこの地に越してきて間もなくこの世を去っていたと思います。当時ですら、辛そうにしていたから。けれど、少しずつよくなって、今まで生きてきました。
本当に奇跡。それも、今年の春までもつかと言われていたのに、夏を迎えられた。とても恵まれている。
もしかて、と期待してしまう。まだ元気になるんじゃないかと。私も目を逸らしているのでしょう。
おじさんは一人でどこかへ行くの、と。また一緒に外で遊ぶんだ、と。泣きそうな顔で訊くあの子を抱きしめて、仲良くしてくれてありがとう、と告げることしかできませんでした。情けない。
(一九×▼年七月八日 祥の日記より)
いなりさまにおわかれのじゅんびはできたかときかれた。
わからない。じゅんび何。
いなりさまは二度と会えなくなるから、きちんとじゅんびをなさいと言った。
わからない。二度と会えないなんて知らない。
いなりさまはおじさんがはかなくなる日が近いと言った。
はかない。
いなくなるということといなりさまは言った。
どこかへ行くのときけば、ぼくが行けないところへ行くと。
だから、二度と会えない。
どうして行ってしまうの。
おばさんをおいて行くの。
ぼくをおいて行くの。
だから、さようならのじゅんびをすること、こうかいしないように、と。
いなりさまはどうしてそんなことを言うの。
ずっといなりさまにお願いしたのに。
昨日、星に願ったのに。
ひまわりを持っていくのに。
(一九×▼年七月八日 ゲンの日記より)
かなしいかおをしないでくれ。わらってみおくってほしいんだ。
(一九×▼年七月十五日)
夕飯の支度をしていると、ゲンが寝室から飛び出してきました。詩ができた、と興奮するゲンに腕をぐいぐいと引っ張られました。包丁を使っていて危ないのに、と思ったのですが、早く早くと急かすゲンに支度を中断しました。
寝室では主人が満足げな顔をして待っていました。やっとこさできた、と。主人とゲンが詩を読み上げてくれました。可愛らしくて、こうであってほしいと思える詩でした。あなたがこのような詩を作るとは意外でした、と主人に言うと、主人もそうだなあ、と。
向き合ったから、と。ゲンの頭を撫でる主人の顔は晴れ晴れとしていて、本当によかったと思います。
(一九×▼年七月二十九日 祥の日記より)
詩ができた。
おじさんと作った詩。
いなりさまにも聞いてもらった。
よい詩を作りましたね、とほめてくれた。
うれしい。
いい詩でしょ。
ふふんとなった。
けど、いなりさまはこれでおわかれできますね、と言った。
そんなことない。
また明日も会う。その次の明日も、次の次の明日も会う。
ずっと、明日の続きに会う。
いなりさまは悲しそうにもう長くは続かない、じゅんびをなさいと言う。
いつまでも見ていないことはできない、受け入れなさいと言う。
いやだ。
(一九×▼年七月二十九日 ゲンの日記より)
しできた。ゲンにたくす。
(一九×▼年七月三十日)
ゲンと稲荷様にご挨拶に伺いました。最近ご挨拶に行けなかったから、ゲンの帰りを見送るついでにお参りしました。ゲンには稲荷様の声が聞こえているのか、ぶつぶつとお話していました。すると、ぽろぽろと泣くのです。そんなことない、嘘言わないで、と。どうしたの、と訊いてもやだやだと駄々をこね、神社を飛び出しました。ゲンを追いかけようとしましたが、あっという間に姿が見えなくなってしまいました。少し探しましたが、見当たらず。仕方なく家に帰ると、ゲンがいました。寝室で主人に宥められ、ぐすぐすと泣いていました。
おじさん行っちゃやだ、と訴えるゲンを主人は困ったように笑いながら頭を撫でていました。
悪いな、二人とも、と主人は言います。悪いと思うならしないで、とゲンは怒ります。それもそうだ、と笑う主人に私も泣いてしまいそうになりました。
(一九×▼年七月三十一日 祥の日記より)
おじさんはいなくなっちゃう。
ぜったいやだと言っても、おじさんは行かなくちゃ、長いこと時間をもらったから、と。
ゲンがいやと言っても、行かないでと言っても、行かなくちゃと言う。
いやだ。おじさんがいないのはいや。おばさんもいっしょ。
おじさんにお願いされた。
わかってほしいと言う。
わかりたくない。
なら、こっちのお願いをきいてほしいと言う。
ないしょのお願い。
ゲンならかなえてくれるだろう、と。
そのお願いなら、ゲンできる。
おじさんのお願いかなえてみせる。
守るから。
だから、行かないで、と言ってもおじさんはそれはむりだと言う。
おじさんのいじわる。
ゲンはおじさんのお願いかなえる約束したのに。
おじさんはゲンのお願いかなえてくれない。
いじわるおじさん。
いなりさまもいじわる。
さようならをしなければいけないなんて、どうして言うの。
二度と会えないなんて、うそだ。
いなりさまに会いたくない。
しばらく帰らない。
(一九×▼年七月三十一日 ゲンの日記より)




