ゲンとの日々 ――決断――
この地に来て、ここまで生きられるとは思わなった。越して来た日のことを思い出す。
あの日と変わらず、この地はのどかで麗らかな春の光が愛おしい。淡くて、溶けてしまいそうな空模様が優しい。
水なき空に花筏(※)
(一九×◆年四月二十四日)
(※)「空のクジラ」の原案か。
また、ゲンが作った詩(コラム ゲンの探検鞄参照)「空をこぐ(以下略)」に影響を与えたか。
ゲンに好きな季節は何かと訊かれた。オレは夏が好きだ。昼間は暑くて敵わないが、朝夕の涼しさにあれこれと思案する時間が好きだから。昼間の熱が引き下がるというのも不思議だ。あと、世界の輪郭がはっきりとするから。色彩が鮮やかになって、空間が浮かび上がる。
それと、向日葵が咲くから。家内の好きな花が咲く季節。
ゲンはどうかと訊くと秋と答えた。世界が金色になるからとのこと。
金色かと思った。確かに、黄色や赤は錦のようで、華やかだ。
と思ったら、油揚げと一緒とか言いやがる。食い意地が張っているものだ。
(一九×◆年四月二十八日)
鷹峰君から荷物が届いた。まさかの原稿用紙だ。圧をかけてきやがる。
おまけで、菓子類とゲンへの贈り物。玩具が入っていた。早速、ゲンははしゃいでいた。中でも、万華鏡が気に入ったのか、ずっと覗いていた。
(中略)
鷹峰君への返事を考えなければ。それにしても、誕生日間際に何をしてくれやがる。
(一九×◆年五月六日)
ゲンが詩を作ってくれた。「おじさんおめでとう」の詩らしい。
今までの思い出を詩にしてくれた。そんなこともあったなあと懐かしく思うぐらい、ゲンと過ごしてきたと思う。
(中略)
ゲンに万華鏡を見せてもらった。よくできている。仕組みは案外単純だが、見える世界は不思議なものだ。
(一九×◆年五月八日)
鷹峰君からの手紙を読んでいた。例の詩を載せたいというあの手紙。すると、ゲンが後ろから覗き込んで、読んでとねだられた。あまり声に出すのは気乗りしなかったが、読み上げた。
それからあれこれと質問責めにされた。坪田君とは何か、雑誌とは何か、などなど。
結局、何の手紙なのかと問われ、鷹峰君の我儘だと答えた。
ふむむ、と唸った後、ゲンは鷹峰君の手紙を指でなぞった。
おじさんの詩、雑誌に書かないの?
無邪気に訊かれた。おじさんの詩色んな人が読めるんでしょ、と。
読まれてほしいかと訊いたら、うん、とゲンは言う。
いい詩だから、皆に知ってほしい。それで、一緒にお話できたら嬉しい。
その気持ちはわかる。自分がいいと思う物を分かり合える誰かと話す時間は本当に心地いい。
だが、オレはそれが恐ろしいとも知ってしまった。分かり合える者同士が集まった結果が、桃源郷事件だ。もちろん、あの事件が特殊であることは理解している。
事件のことがあって気が進まないと答えると、ゲンは首を傾げた。
事件は起きないよ。
確かに、今のオレの詩は事件を引き起こすような物ではない。だが、出したとて、桃源郷事件の高岳琥珀は消えない。
やはり、出せない。鷹峰君にそう返事を出そうと思ったとき、ゲンに抱き着かれた。
コジにおじさんの名前を出さずに曲を出せばいいって言ったのは何? と。
それは琥志朗が作った曲をなかったことにできないと思ったからと答えると、ゲンはさらに強く抱き着いてきた。
おじさんの詩もなかったことにはできないよ。「銀に咲く花」はおじさんとコジが作った物でしょ。どっちもなくすのも、どっちかをなくすこともできない。
おじさんの詩はおじさんの詩でなくちゃ、詩が可哀そう。ボクの楽しいや嬉しいもどこかいっちゃう。
詩が可哀そう。それは事件のときに嫌というほど思い知らされた。処分された詩集を思うと、オレの名前がついているばかりにと悲しかった。
ゲンにぐりぐりと頭を押しつけられた。どうして、この子はオレが詩について悩み、苦しんでいるときにこうして言葉を掛けてくれるのだろうと思った。
オレの詩はオレが埋めてしまっている。隠してしまっている。ただの自己満足のつもりだったんだがな。
(一九×◆年五月二十八日)
菅間鷹峰君
先日は菓子と玩具をありがとう。ゲンが喜んでいた。とくに、万華鏡がお気に入りのようだ。こうして手紙を書いている隣で、コマで遊んでいるよ。
さて、例のことについて、色々と考えた結果、君からの依頼を受けたいと思う。
ただし、条件がある。高岳琥珀の名前を出さないでほしい。これだけは絶対に譲れない。
それと、もうひとつ。オレが詩を出すのはこの一回きりだ。以降は二度と受けつけない。
以上を守ってくれるのであれば、君の依頼を受けることにする。
高岳琥珀
追伸
文句があった。原稿用紙を送って圧をかけるな、社長様。
タカへ
おもちゃ、おかし、ありがとう。
まんげきょきれいだね。
なわとびたのしみ。
またおもちゃちょうだい。
ゲンより
(一九×◆年六月上旬 鷹峰への手紙。ゲンの手紙も同封されて送られた)
高岳琥珀君
返事ありがとう。君には無理なお願いをしたことは承知の上だ。君の決意を覆すようなこと、傷口を広げるようなことについては本当に申し訳ない。
高岳琥珀の名は出さないこと、今回限りの依頼であることの二点、必ず守ると誓おう。近い内に詳細を話し合いたい。またそちらへ伺うよ。
それと、原稿用紙については誤解だ。圧をかけるつもりはなかった。原稿用紙に詩を書くって気分がよくならないかと思っただけだ。気を悪くしたのなら謝罪する。
それと、雑誌の名前。長いこと知らせていなかった。君が出してくれた『青空』で決まりそうだよ。実はちょっと揉めていたんだ。君の気持ちはよくわかるが、雑誌名にしては安直ではないか、と。なら、他の案はどうかとなったが、そちらも微妙。『天籟』のときほど激しくはなかったが、色々あった。
けれど、『青空』になったのは理由がある。「子供のこれから多くを見ていくこととなる目はあの空の青は穢れのない存在として映すのだと思った。」と君は書いたね。それだよ。
終わりの見えないほどの空は様々な姿を見せる。雲ひとつないだだっ広い様も、雲が群れ成して少し影を作る様子も、全てを覆い隠してしまうことも、雨も雷も落とす。日々変わるその光景は人の表情が変わる様子に似ている。
子供の表情がころころと変わるように。まだ多くを知らない、まんまるな目はありのままを映す。そして、それを子供たちは咀嚼する。子供たちの生活環境によっては、見ることができない物事が多数ある中、空ならどこでも見ることができる。
青空の下、元気にいる子供の姿を見ていたいとも思ったよ。
明るく、広大な空は未来の象徴。暗闇でもがいていた君にとって、青空がそういった象徴であるのならば、僕はそれを受け入れたい。
それとね、これは僕の個人的な感想なのだけど、ゲン坊の笑顔は青空によく合うと思った。君もあの子の目に映る空からインスピレーションを受けたみたいだし。
玩具はあの子へのお礼でもあるんだ。気に入ってくれたのならよかった。
では、また、会いに行くよ。
菅間鷹峰
ゲン坊へ
お手紙ありがとう。
気に入ってくれてよかったよ。
おじさんとなかよくあそんでね。
タカより
(一九×◆年六月上旬 琥珀とゲンへの手紙)
さて、雑誌に載せる詩を考えなければ。本当にこの決断でよかったのかと今更迷ってしまう。こんな迷いを見せたら、また、鷹峰君に怒られる。いや、別にそれが嫌というわけではないのだが。
詳しいことは後日話すことになる。期限もあるだろうし、対応できるようにしておかねば。
(一九×◆年六月二十五日)
勝巳君(※)が来てくれた。社長は行く気満々だったみたいだが、急用が入ってしまい、代理で来たとのこと。親父に振り回されて、大変なこった。まあ、社長がするような仕事ではないしな。
(中略)
詳しい話を聞き、契約書に署名をした。きちんと、オレが提示した内容も入っていた。
勝巳君は何度も、名前を出さなくていいのですか、と確認してきた。そうしてくれ、とオレは何度も返した。鷹峰君もその条件を守ると誓ってくれたから、と言っても、不安そうにしていた。署名後に、本当にいいですか、と最終確認があった。鷹峰君に何か吹き込まれたかと訊けば、言いにくそうに、はい、と。
鷹峰君は守ると言ってくれたらしい。事件のことを悔いて、色々と考えてくれているようだ。だから、名前を出しても構わない、と。
ありがたいが、そこは決めたことだ。これで頼む、よろしく、と契約書を彼に渡した。勝巳君は再度契約書を確認し、確かに、と言って封筒へしまった。
(中略)
さあ、詩を作っていこう。
(一九×◆年七月十日)
(※)菅間勝巳
鷹峰の息子。後に鷹峰の跡を継ぎ、蘭亭社の社長に就任。
彼から詩を載せる許可が出たとき、本当に嬉しかった。ただ、名前を載せないでほしいと提示されたとき、悲しかった。私は高岳琥珀の詩を載せたいと思っていた。もちろん、名前がなくとも、彼の詩ではある。彼の名前がなくとも、立派な詩だった。けれど、その意志表示は彼にまだ迷いがあるようにも思った。逃げのように見えた。ただ、それだけが残念だった。
無理やり表に出そうとした私も私だ。ただ、『青空』という雑誌の第一号に彼の詩は必要だった。以前とは違う、平易で慈愛のある詩。事件のことを知らない子供たちにこれほど優しい詩を作ることができる詩人がいるのだと知ってほしかった。
高岳琥珀の詩が埋もれてしまうことを私は避けたかった。ただの自己満足だ。
(鷹峰「『青空』を振り返る」)