ゲンとの日々 ――詩と曲と――
琥志朗から招待を受けた。何でも、坪田君(※)の劇に曲を書き下ろしたらしい。坪田君から良ければ、とオレたちの分のチケットをもらったという。坪田君とは事件以降、顔を合わせていなかった。
先生に相談したところ、オレの症状は落ち着いているから行く分には問題ない、とのこと。
なら行こうと家内と決めた。ゲンも行くかと訊いたら、行けないとのこと。この地から離れることは許されていないらしい。
難しい決まりがあるらしい。琥志朗にチケットの手配を頼んだ。
それにしても、琥志朗も上手くやっていけているようで安心した。大きな仕事を頼まれたとは聞いていたが、あの劇団余情に曲を出すなんて。
(一九×□年五月十二日)
(※)坪田牧彦。劇作家。劇団余情を結成。
琥珀は鷹峰を通じて知り合う。
琥珀との交流は少なかったが、桃源郷事件の際に奔走する鷹峰を支援した。
代表作は『羽を宙へ』『雲居なせ』など。
琥志朗がこのとき書いた曲は『羽を宙へ』の「天界」。
ゲンのにらめっこはまだ収まる気配がない。ベロバーと笑わせてくる。おまけかわからないが、パ行もお気に入りになったらしい。パップン、ポポーンと言葉遊びをしている。
(中略)
ポロポロ 鳴らせ鳴らせ ピチカート
G線上をピョーンと跳ね飛ばせ(※)
(一九×□年五月二十三日)
(※)「ぱぴぷぺぽ音楽隊」の原案。後に「ピチカート」は「弦上を踊れ」に改められる。
ゲンが派手に水たまりに飛び込んだ。水しぶきがオレの顔にまで飛んできた。ピッチピッチ、チャップチャップと機嫌がいい。
(中略)
ゲンに海を知っているかと訊いたら、知らないと答えた。ここは内陸だし、海を知らないのも当然か。
湖よりも広い水の溜まり場と教えた。水たまりよりも? と訊くので、もっと大きいと答えた。これぐらい? と腕を広げるが、もっと、と。じゃあ、とさらに腕を広げるのに、もっと、と。それなら、とぐっと背を伸ばして腕を広げると、よろけて尻餅をつく。
ゲンの腕じゃとてもじゃないけど収まらない。もちろん、オレも。誰の腕の中にも収まらない、だだっ広い青だ。
なら、湖は海の子供なのかと訊いてきた。湖もウミがつくし、海よりも小さいなら子供? と。
その発想はなかった。
(中略)
掬ってみせた小さな海
しょっぱくはなく
青の深みはないけれど
この掌に収まるこれを
ぼくの海とした(※)
(一九×□年五月三十一日)
(※)後に「手の内の海」として所収。
劇を観た。いい劇だったとしみじみ思った。
(中略)
琥志朗が書いた曲「天界」。いい曲だった。主人公が地道に努力して弾けるようになる過程を表しているようだった。遥か空の上、誰も知らない世界である神秘的な曲調に対し、主人公の地を這うような泥臭さ。見事な対比になっていて興味深かった。
(中略)
琥志朗が「銀に咲く花」に曲をつけていいかと訊いてきた。なぜ、と訊けば、曲が浮かんだから、と。作った曲はどうするのか、と訊けば、その意向もオレに確認したい、と。
やめておけ、と伝えた。今日の劇を観て思った。あの曲は本当にいい曲だった。音楽家として、琥志朗が上手くいっていることを感じさせた。坪田君がまた機会があれば曲を頼もうと思うと言っていた。
だから、これからの琥志朗のことを考えれば、オレの詩に曲をつけている場合ではない。孫もまだ幼い。この流れを途絶えさせてはいけない。事件のことで苦労をかけたから、このまま活躍してほしい。
とは言ったものの、琥志朗は譲らなかった。家族を最優先に、仕事をこなしながら空いた時間で作る。ならばどうして詩を送ってきた、感動したから作りたい、作曲の道を選んだのは詩に関わることをしたいと思ったことがきっかけだから、いつか父の詩に曲をつけたいと思っていたから、卯衣さん(※)にも話はつけている、相応しい曲を絶対に書き上げるから、と畳みかけられた。卯衣さんも卯衣さんでニコニコと笑って私も楽しみにしているんです、歌わせてくださいとまで言う。
オレは詩を公にするつもりはない、だから曲を表に出すことは許可できない、それでもいいのか、と訊けば、構わない、ときっぱり言い切った。
どこの誰に似たんだか、頑固な息子だと思った。それならいい曲にしてくれ、オレの詩が霞むぐらいと条件をつけた。
(一九×□年六月二十七日)
(※)高岳卯衣。琥志朗の妻。
琥志朗との間に第一子を授かるまでは歌手として活躍。
琥志朗が主人にあそこまで物を言うとは珍しいと思いました。卯衣さんも珍しいと言っていました。自分の歌に自信がなかったときに色々と助言をくれたときのことを思い出した、と。お義父さんの詩に曲を贈りたいと聞いたとき、私はすぐに賛成したんです、彼の夢でもあったから、と。なら、曲ができたら卯衣さん歌ってくれる? と訊いたら、ぜひ歌わせてください、と答えてくれました。息子夫婦の圧に押される主人に楽しみができましたね、と言えば、もう少し長生きしたいと。
いい心がけです。それにしても、琥志朗の頑固なところは誰に似たのでしょう。
(一九×□年七月頭頃か 祥の日記より)
詩に曲をつけていいかと父に尋ねたとき、いい曲を作ってくれ、と肩を思い切り叩かれました。オレの詩が霞むぐらい、いい曲にしてくれなきゃ困ると。父の詩が霞む曲よりも、父の詩に相応しい曲を作りたいと思ってのことだったのに。
初めは反対された。軌道に乗ったのならそのまま進め、ここで止まっている場合ではない、と。
父の気持ちは理解できた。桃源郷事件の高岳琥珀の息子という目で見られ、辛く思うこともあった。けれど、自分以上に父が癒えない傷を負ったことを知っている。詩を続けないと決断するほどの覚悟をした父が、再び詩と向き合ったとき、本当に嬉しかった。
あの詩を読んだときの感動を音にして、父の詩に見劣りしない曲にしてやる。
そんな思いで父に訴え続けた。あの頑固親父とあんなに言い合いをしたのは久方ぶりだと思うぐらい。
父から渋々ではあるが、了承が取れたとき、何が何でも形にしてやると心に誓った。
(琥志朗「父の詩へ贈る」より)