意味のない文章の羅列
店員たちが:いらっしゃいませ:と作った声で言う。かくして世界の均衡は保たれているようだった。これからも毎日そうだろう。誰しも置いてきぼりになどはなりたくないと思っているはずで、僕自身もそのようであるはずなのに気づけばまた無意味なルーティンの繰り返しだ。最近の僕の暮らしぶりはほとんど緩やかな自殺といってよさそうだ。しかし自殺するんでなければ(人は)他殺に手を染めなくてはならない。それがこの世の中の難しいところで、「どちらかしか選べない」というのは人間に関する問題のなかでも相当に大きなものだ。ほとんどの問題はそこに起因してそこで議論が執着する。かしこぶった知識人(僕のような)どもはそのことに目を付けて本当は何事も問題たりえないなんて言ってみちゃったりして、数年後にはそんな××な立場──なんて名前がついていたか忘れてしまった。どっちもどっち理論なんて名前ではなかったと思うけど──が何も生み出さないことに絶望するのだ。なぜ絶望するのかといえば、そういう主張をすることで自分を救おうとしていたことに気づくからである、たいていの場合。(……さっきの立場の名前はたしか「ニヒリズム」だったと思う) 何かを生み出すのは嘘つきの力を借りる必要がある。ここでいう嘘つきはと具体的な誰かではなく、いわゆるもう一人の自分的な、自分じゃない自分みたいなものだ。自分の中に他人がいるっていったら誰か信じるだろうか。信じないだろうね、お前たちバカだから。でもバカだからみな幸福なのかもしれない。毎日自分の家に強盗が入っていても気づかないのだ。あなたが本当に必要のないと信じているものだけをそそくさと盗んでいく、そんな透明な強盗が君の家にも毎日来ている、このことは疑いようもない!! その強盗は帰るときキチンと自らの足跡を拭き取って、おまけに水道の栓やエアコンの消し忘れをしっかりと点検し、近隣の迷惑にならないよう静かにドアを閉め、アパートの管理人のおじいちゃん/おばあちゃんにもにこやかに挨拶をして出ていく。
”こんにちは、お暑いですね”。
その言葉が合図になって、きみは眠たい授業や会議のまどろみから意識を取り戻すのだ。だから多分彼も、そんなに悪い奴じゃない。もしばったり出会っても殺さないでやってくれないか。多分そいつはいい映画やいい音楽を知ってる。君んちの取調室でじっくり話を聞いてみるといい。努々。