第五章:それは追加契約になります(7)
それでもこうやって過ごしているうちに、情はわく。笑って、声をかけてもらえるだけで、心が満たされる。それはマリアンヌの愛嬌のせいかもしれない。だからこそ、何がなんでもマリアンヌを手放したくないし、彼女の成長を見届けたい。
きっと、イリヤはそういう性分なのだ。妹たちの生活のためにあの家を出たように。
しかしイリヤは、はっとする。
マリアンヌは、元々はどこの子なのだろう。マリアンヌの本当の母親は? 家族は?
イリヤがマリアンヌを失うことを恐れているように、マリアンヌの母親は彼女を失って悲しみに暮れていないだろうか。
ちくりちくりと胸に針が刺さるように痛んだ。
マリアンヌが眠ったのを確認してから、イリヤは寝台を出た。
ナナカに声をかけてから、クライブの執務室へと向かう。胸の奥が苦しくて、痛い。
扉を叩くと、すぐに返事があった。
「……あの。閣下……」
「どうした? マリーと昼寝をしていたのではないのか?」
「そうなんですけど。横になったら、ちょっと目が冴えちゃって」
クライブは少しだけ微笑んだ。
「そこに座れ。今、お茶でも淹れよう」
「あ、いいです。すぐにマリーのところに戻りますから」
「そうか?」
不思議そうに首を傾げてから、クライブはイリヤの隣に座る。
「ですから。近いです、閣下」
口ではそう言うが、本当はこうやって熱を感じる距離に彼がいてくれることが心強くもある。
彼はまた笑みを浮かべてから、少しだけ距離をとった。拳二個分。
「何があった? 何か悩み事か?」
「え?」
「昨夜。イリヤはオレの悩み事を聞いてくれただろう? だから次は、オレがイリヤの悩み事を聞く番かと」
「あ、あぁ。そうですね」
その彼の悩み事が、まさかの聖女の身代わりの件だとは思わなかったが。
ただ、互いに悩み事を言える相手がいてよかったのかもしれない。彼は口が堅い。信頼だけはできる。ただ、エーヴァルトとチャールズの言葉を素直に受け入れ過ぎる面はあるが、それすら彼を信用できる理由の一つにすらなっている。
「マリーのことなんですけども……」
イリヤはぽつんぽつんと言葉を紡ぎ出した。
マリアンヌが異世界からやってきたというのであれば、どのようなところからやってきたのだろう。彼女にも家族はいただろう。その家族の気持ちを思ったら――
クライブの手がイリヤの背に回ってきて、抱き寄せる。
「……閣下?」
「泣きそうな顔をしている」
たったそれだけであるのに、胸のつかえがとれた気がした。すんなりと息ができるような、そんな気持ち。
「……そうですね。マリーの母親の気持ちを考えると、自分がいけないことをしているような気になります」
彼の胸元に額を押し当て、静かに目を閉じる。目尻からは少しだけ涙が溢れるものの、頬を流れることはない。
その間、クライブは優しく背をなでてくれた。いつもイリヤがマリアンヌを宥めているときのように。
「マリアンヌがどこからやってきたのかはわからない。彼女が向こうでどのような暮らしをしていたのかもわからない。過去の文献での話しかないが、過去の聖女様たちは、こちらで過ごすことができてよかったともおっしゃっていたようだ」
それが事実であるかどうかはわからないが、クライブがそうやって声をかけて、イリヤを励まそうとしている事実だけで胸が熱くなる。
父親を失ってからというもの、妹たちを引っ張り母親を支えてきたイリヤにとって、誰かを頼れる安心感というものは大きい。
義父でもあり伯父でもあるマーベル子爵、そして子を想いながらもイリヤに情欲の眼差しを向けるサブル侯爵。彼らのことも最初は信頼していた。だけど、イリヤを一人の女として見るその眼にたえられなかった。
小心者でもある義父は、クライブの睨みにあってこれ以上は何かするとは思えない。会いたいとは連絡を寄越すものの、今のところ、クライブが多忙を理由に断っている。
だけどクライブは、その二人とは大きく違う。
厳しい言葉をかけながら、イリヤを一人の人間として扱ってくれる。初日のアレには驚いたけれども、それ以降、彼は心をわかり合いたいと言ってくれるのも、イリヤが彼への警戒心を解く原因にもなっている。
今だって、イリヤの気持ちが落ち着くようにと、寄り添っている。その寄り添い方がどことなくぎこちなく感じるのだが、きっと彼自身がそういったことに慣れていないせいだろう。
「……イリヤにはマリアンヌが召喚されたときのことを、詳しく伝えていなかったが」
突然、クライブが話し始めた。
イリヤはマリアンヌが召喚されてから一か月後に彼女と出会った。話を聞いたときには、よく泣く赤ん坊のイメージしかなかった。だけどクライブが言うには、召喚されたときのマリアンヌは怪我をしていたとのこと。また、ミルクの飲みも悪く、全体的に小さく痩せ細っていたらしい。
「もしかしたら、魔物に襲われたのかもしれない。家族とはぐれたのかもしれない」
クライブの言葉は予想にすぎない。事実と異なるかもしれない。それでも、そう思いたくなる。
「マリアンヌがここに来たことで、彼女の命が救われたと考えることはできないだろうか? 然るべきときがきたら、マリアンヌに事実を話し、彼女がどうしたいのかをきちんと話し合おう」
「……はい」
イリヤはクライブの腕の中で、小さく頷いた。
マリアンヌのあたたかさを、そしてクライブのぬくもりを、今は手放したくないと思った。




