プロローグ
イリヤは天蓋付きの寝台の上で、目の前の黒髪の男を見上げた。オイルランプの灯りは弱められているが、はっきりと彼の表情は確認できる。今は眼鏡をかけておらず、先ほどまでの知的な雰囲気とは異なる。
「閣下……いったい、何を?」
寝ようと思って寝台に潜り込んだところである。イリヤが三人寝ても、まだ余裕ある広い寝台。きっといい夢がみられるだろうと思って瞼を閉じようとしたとき、いきなりこの男が掛布を剥ぎ取ったのだ。
「何をって。これから夫婦の営みをするのだろう?」
なるほど。だから、黒髪の男――クライブはこれからイリヤを組み敷こうとする体勢をとっているのだろう。
彼は、イリヤの身体をまたぐように寝台の上で膝をついていた。さらに両手は、彼女の顔の両脇にある。眼鏡もかけずに。
「なぜ……?」
イリヤはラベンダー色の瞳を大きく見開く。
「なぜ? お前も変なことを聞く女だな。オレたちは夫婦になった。それは理解しているよな?」
「え、えぇ。そうですね。私たちは夫婦となり聖女様……マリアンヌの親となりました。親としてマリアンヌを慈しみ、立派な淑女として育て上げる。それが陛下から伺っている内容です」
「その通りだ」
クライブの顔が近づき、右耳の下あたりに彼の吐息が触れた。
「ひゃっ」
「安心しろ。オレは、お前で勃つ」
彼の髪がさわさわと頬をなでた。見た目よりもやわらかくて、少しだけくすぐったいのだが。
「安心できません。別に、私で勃たたせなくてもよろしいのですよ?」
イリヤは左手で彼の頭を押しのけた。
「なんだ? オレの妻は照れているのか?」
「妻ではありますが、本当の妻ではありません。ですから、営まなくてけっこうです」
「お前は難しいことを言うな。オレたちは結婚したのだから、身体の相性を確認するのも大事ではないのか? 子がなせるかどうか、重要なことだろう?」
「結婚したとしても、営みは必須項目ではありません。それに、私たちにはマリアンヌという子が授けられていますし、陛下からはマリアンヌの親となるように言われているだけです。私たちの関係については、陛下はむしろ、興味がなかったように思えますが? ですから、このまま契りのない関係でいきましょう。夫婦に見えれば……マリアンヌの親に見えれば、それでいいのです」
クライブは困ったように、澄んだ森を思わせる目を細くした。
そこで、さらにイリヤは畳みかける。
「そしてマリアンヌが無事に結婚をされたとき、私たちは離縁いたしましょう。あの様子ですと、マリアンヌが十六歳になったとたん、結婚させそうな勢いでした。ですから、私たちも十六年だけの期間限定の関係といきましょう。その間、閣下の持て余す性欲については、娼館でもどこでも、お好きなところで発散していただいてかまいません。私は、それについては何も言いませんので」
「お前……。本気でそう思っているのか?」
「はい。何か問題でも?」
「問題だらけだろうが!」
そう言ったクライブは、そのままイリヤに口づける。
「ん、んっ、んー!!!!」
それから逃れたくて顔を左右に振ると、寝台の上でマホガニー色の髪が暴れた。
クライブは彼女の頬を両手でしっかりと固定するものの、彼も緊張しているのかその手はしっとりと汗ばんでいる。
「んっ、ん!!」
イリヤは彼の黒い髪を両手で握りしめる。これが作り物だったら、ずるっと抜けるだろう。だけど、しっかりと根付いているから本物のようだ。
心の中で「引きちぎるぞ」と悪態をつくが、彼の周到なる口づけからは逃れられない。
クライブの手が頬から首筋へと落ちてきて、ナイトドレスの合わせ目を大きく広げる。さらにそこから胸元へと入り込もうとしている。
イリヤは我慢の限界であった。
口は塞がれているため、声は出ない。だから勢いよく膝を立て、彼の腹部を狙う。
「うごっ……」
どうやら、きれいにみぞおちに決まったようだ。
イリヤは唾液でべたべたになった口元を右手の甲でぬぐう。
クライブは身体を起こして、腹部を押さえた。
「お、お前……。お前が好きなところで発散しろと言ったんじゃないのか?」
苦しそうな声をあげるクライブを目にしたら、ちょっと悪いことしたなという思いが生まれたけれど、もっと悪いことをしたのは目の前の彼である。
「ご、ごめんなさい……。ですが、今のは閣下がいけないのです」
けして責任転嫁をするわけではない。だけど、嫌がる女性と無理矢理契ろうとするのは、いかがなものか。
「そんなにオレが嫌いか?」
「き、嫌いではありませんが……。何よりも私たち、知り合ったばかりですよね?」
そう、イリヤがクライブと出会ったのは、十時間ほど前だろうか。
「それが問題か? 人を好きになるのに、時間が必要だとでも言うのか?」
身体から始まってはいけないのかと、言いたそうな目をしている。そういう場合もあるかもしれないが、イリヤとしてはそれを望んでいない。
「そうですね。時間をかけて相手を知り、そこから愛情が生まれていくのかと」
「……わかった」
そこでクライブがシャツを脱ぐと、引き締まった胸元が露わになった。腹部にも程よく筋肉がついており、性別の違いを見せつけられる裸体である。
「時間はやる。……だから、オレを知って、オレを好きになれ」
いったい何を言っているのか、わけがわからない。
イリヤの頭は混乱した。
――ドン!
その結果、彼女の魔法が暴走した。




