ネガティブ令嬢、迷走中
「えっと、ネル・リヴィです。よろしく…したくないですよね、はい。そもそも今まで休んどいて突然何なん(笑)?って感じですよねそうですよね私なんかと同じクラスなんて迷惑極まりないですよねすみません私なんかが貴族令嬢名乗るのすらおこがましいですよねもう平民にでもいや修道院に入るのが正解なんでしょうかやはり私は人様に迷惑かけないように人里離れた森の奥にでも行くべきなんでしょうかだって私なんてどうせ道端に生えてる雑草…いえ雑草に失礼ですね雑草も頑張って生きてるわけですし私なんて腐ったミルクに漬け込んだカビたパン以下ですよきっとそもそも自己紹介のはずなのに話がズレてしまってますし本当に何で私はこうなんでしょう昔からこうなんですよこんな私なんか視界に入れたくもないですよねごめんなさい私なんか存在しない方が良かったですよねお父様お母様生んでくれてありがとう生まれてきてごめんなさいこんな私と同じ空気を吸わせてしまってごめんなさいそれにクラスのみなさ」
「お嬢、ストップ。落ち着いてくださいっす」
「あ、また私…ネガティブになってた…?本当に私は何でこんな性格なのかしら?やっぱりダメダメだわ…心なしか私が立ってる床も泣いてるように見えるわ私なんかが踏んじゃってごめんなさいこのドアさんも私が触れたところから汚れてしまうわねしっかり綺麗にしなきゃだわ本当に私なんかが来てしまってごめんなさい私が存在してごめんなさい…」
傍に控えていた従者に諫められてもなお、ネルは言葉を止めない。
現在仄暗い顔をして世界に懺悔する彼女こそ、密かに世間を騒がせている『ネガティブ令嬢』である。
◇◇◇◇◇◇◇
「アルううう、やっぱり無理よおお…私なんかがこんな場所にいるなんてみんなきっと邪魔だって思ってるものぉぉ…」
「はいはい、お嬢は相変わらずっすねぇ」
学園までついて来た彼女の従者に愚痴をこぼすネル。従者ことアルはネルのカップに紅茶を注ぎながら適当に相槌を打っている。
ネルは侯爵家の出身でありながら内気な性格だ。社交界に出てもなお、人とまともに話せずいつも俯いており、話しかけられても怯んでしまう。貴族らしく振舞うこともままならず、人の陰に隠れてしまうような子だった。
そしてそれは成長に伴ってなりを潜めるどころか悪化した。
『ひえええごめんなさいごめんなさい私なんかが存在してごめんなさいいぃぃぃ』
ある程度の年齢になると全然うまく話せない自分を卑下するようになった。ちょっとしたことで卑屈になり、ただひたすら謝りたおす貴族にあるまじき性格となってしまったのである。
それは不味いとネル自身も分かってはいるのだが、長年にわたって染みついた思考回路がそう簡単に変わることはなく。
その結果が『ネガティブ令嬢』だ。
ネルは机に伏せながら己の従者を見上げて言った。
「アルは凄いわよね、私なんかと違ってはっきり意見できるし」
「そんなことないっすよー。俺はお嬢に拾われるまではそこら辺の犬みたいなもんだったんで」
「犬でも十分凄いわよ。私なんて枯れてカラカラになった雑草が良いところだわ」
「なんでこう、お嬢って自己肯定感が低めなんすかねー?」
暢気に話すアルとは反対に、ネルの表情は暗いままである。
(わかってるわよ、この自分の考え方が異様だって……)
何度も何度も自分を変えようとしてきたが、やっぱり人前に出るとまともに会話もできない。そんな自分が情けなくてただただ謝ることしかできないのだ。
そんなだから現婚約者に見向きもされず、ネガティブ令嬢だと後ろ指を指される。果たしてこんな自分を愛してくれる人などいるのだろうか?再びネガティブな思考に入り浸ったネルは、ぼそりと呟く。
「私はきっと死ぬときは一人寂しく干からびるように死ぬのだわ」
そんなネルを見ながらアルは紅茶の注がれたティーカップをネルの目の前にそっと置き、清々しいまでの笑顔で告げた。
「それは無いですよ、絶対」
◇◇◇◇◇◇◇
軽快な足音が鳴り響く。そしてその足音の主はとある教室の扉を開くと、今日も陰鬱な雰囲気を醸し出す少女に飛びついた。
「ね・る・さ・んっ!!お久しぶりですわねっ!!」
「る、ルイーズ様…?」
ネルは突然のことに硬直し、彼女の名を呟くのに手いっぱいだった。そんなネルを置き去りに、彼女、ルイーズはネルを抱きしめながら早口でまくし立てる。
「入学式以来ですわねっ!相変わらずの可愛さで安心しましたわ!このふわふわの髪もくりっとした目も全てが可愛らしいですわぁ~!もうっ、ネルさんがいないっていうだけでこの学園もつまらなくてつまらなくて…。いっそ学園ごと潰してやろうかとも思うくらいには私も心配していましたのよ?あっ、でもネルさんの制服姿は何とも尊い…。これに免じて学園を潰すのは止めて差し上げましょうか…いやでも私とネルさんの華々しい学園生活を奪ったことは許せませんわっ!やはりここは潰しておかなけ」
「ちょっと、お嬢が困惑してるじゃないっすか!…あとしれっと学園潰そうとしないでください」
ネルのそばに控えていたアルがルイーズを無理矢理引きはがす。ルイーズが離されてもなお、ネルは未だに呆けていた。心ここに在らず、といった感じである。一方でネルから引きはがされたルイーズは名残惜しそうな声をあげた。
「ああっ、私のネルさんが…」
「あんたのじゃないでしょう!?」
思わずツッコミを入れるアル。そんなアルを一瞥したルイーズは、それはそれは可憐な笑みを浮かべる。
「まーたあなたなの?ネルさんに付きまとう子犬さん?」
「子犬なんて失礼っすねぇ?せめて忠犬と言ってくださいよ」
「ネルさんに付きまとってないでそろそろ飼い主離れしたらどうかしら?」
「こちらは仕事でもあるんでね?そちらこそ、同性同士とはいえもう少し節度を守ったほうがいいんじゃないっすかぁ?」
可憐な笑みの下で毒を吐くルイーズと額に青筋を浮かべながら笑うアル。バチバチと火花を散らして睨み合い、お互いに一歩も引く気配はない。そんな険悪な空気が漂っているわけだがこれでもまだ、二人にとっては社交辞令。
「――この駄犬が!」
「――この猫かぶりが!」
――本性はこれである。
社交辞令が終わった途端に本性をさらけ出し、アルもルイーズも早口に言い募った。
「なんであんたお嬢とそれ以外とでそんな態度違うんすか!せいぜい婚約者に本性晒して見捨てられてしまえ!」
「あなただって似たようなもんじゃない!ネルさんに尻尾振りまくってんじゃないわよ!」
「尻尾なんて無いっつーの!そっちこそお嬢に付きまとってんじゃねぇ!」
「あなたこそネルさんを独り占めしないで頂戴!嫉妬深い男は嫌われるわよ?」
「し、嫉妬なんてするわけがないでしょう!?変な言いがかりは止めてくださいよ!」
この二人はまさに、犬猿の仲である。貴族令嬢と平民出身の使用人では身分差がかなりある筈なのだが、二人に関してはそのようなことなど関係なかった。まさしく身分など関係ない友情(?)である。
さて。アルとルイーズがぎゃいぎゃいと騒ぐことしばらく。彼らは周りの様子を気にも留めずに言い争っていたわけだが。
「ごめんなさいごめんなさい私なんかに付き合わせてごめんなさい私なんか無視されて当然の存在よね今この瞬間の一分一秒が私なんかに消費されてしまってごめんなさい私なんかが存在してごめんなさい…」
――彼らが正気に戻った頃には既にネルは虚ろな目で世界に懺悔していた。
「あっ、お嬢すみません!戻ってきてくださいー!!」
「ごめんなさいネルさん!お願いだから戻ってきてー!!」
ネルの懺悔はなかなか止まらなかったという。
◇◇◇◇◇◇◇
「改めましてネルさん。久しぶりですわね」
「そ、そうですね…。ごめんなさい迷惑をかけたみたいで…」
あれから場所を変え、現在はルイーズの屋敷の一部屋で過ごしていた。ルイーズはラウントリー公爵家のご令嬢であり、この国で五本指に入るほどの財力のある家系の生まれなのである。よってネルの座っている椅子の生地だけとっても、とてつもないほどのお金が掛けられている。ネルの実家の伯爵家の全財産でようやくこの生地少しを買えるといったところだ。そのおかげでネルはここに来るたび内心で懺悔を重ねていた。
(こんな高い椅子を私なんかが使っちゃってごめんなさいぃぃぃ)
これでもだいぶ慣れたほうである。ルイーズの屋敷に来た当初は、侍女にも庭師の老人にも小石一つにすらも懺悔を垂れ流していたので。言葉にしなくなっただけでも進歩であった。
反対にネルの従者として来ているはずのアルは、堂々とルイーズ本人に啖呵を切っていたわけだが。
「ネルさん。お休みの間、そこの従者に何かされたなら言ってくださいね?」
「はあ?なんでそんな話になるんすかぁ?」
「あなたみたいな猛獣が近くにいると私のネルさんが危ないもの」
「だーかーらー、あんたのお嬢じゃないっての!」
今回もバチバチと火花を散らせるアルとルイーズ。そんな様子を見てようやく懺悔の世界から目を覚ましたネルはたどたどしくも弁解する。
「だ、大丈夫です。アルはすっごく優しかったので。むしろ私の方がアルに迷惑ばかりかけて…」
自分で言っておいて思わずしゅん、と落ち込んでしまうネル。しかしその姿に思わずほっこりしてしまうのがこの二人である。先程まで言い争っていたのが嘘のように息ぴったりのタイミングだったという。
やがてルイーズは傍に控えていた使用人から綺麗に梱包された箱を受け取り、箱を開くとネルに差し出した。
「あ、ネルさん、こちら我がラウントリー公爵家秘伝のチョコレートですわ。鮮やかな薔薇色のチョコレートでフルーツのような香りが最高の、まだ市場に出回っていない一級品ですの」
「わ、私なんかに食べられたらチョコレートさんが可哀想です…」
「あ、じゃあ俺がもらいますね!」
「ちょっと!あなたにあげる用じゃないわよ!!」
ルイーズに制止されつつもアルは一切の躊躇なくチョコレートを口に運ぶ。
「やっぱりうまーいっす。お嬢も一口でいいから食べてみてくださいよ」
「で…でも…」
「いいからいいから。はい、あーん」
アルからチョコを差し出され、諦めてネルは口を開いた。チョコレートが口の中に入ると同時、チョコレートはみるみるうちに溶けていく。フルーティーな風味が口全体に広がり、なめらかで苦みをあまり感じない味は、実は甘党であるネルにとってはとても食べやすいものだった。
「ん、おいしい…」
頬を抑え、思わず顔を綻ばせたネルの姿は、目の前の二人の心臓をもろに貫く。
((か、かわいい…!!))
◇◇◇◇◇◇◇
今日もまた、ネルは暗いオーラを放って歩いていた。理由は簡単、先生方への連絡を任されたというのに、最終的に先生方への懺悔の時間となってしまったからである。
「うぅぅ。また失敗したぁ。やっぱり私なんていないほうがいいんだわ」
「いやあ、先生方も困惑してましたねえ?お嬢が突然謝りだすから宥めようと必死でしたもん」
アルはいつも通りヘラヘラと笑う。その容赦のない言葉がネルの心臓に刺さった。結局ネルは何もできなかったから。頼んでくれた方にも、余計な時間をとってしまった先生方にも、わざわざネルの代わりに要件を話してくれたアルにも、申し訳が立たない。
(結局私は何にもできなかったな…)
とぼとぼと歩いた先、追い打ちをかけるように二人の生徒が目に入った。
…思わずヒュッと息が詰まる。
(い、イアン様っ…何で!)
ネルの視線の先にいたのは間違いなく、婚約者のイアン・ウォルトンだった。この学園には彼も通っていると聞いていたが、彼はネルより一年早く入学しており、会うことなど滅多に無いと考えていたのに。
イアンは見知らぬ女子生徒と楽しそうに話していた。女子生徒もイアンの肩に甘えるようにしなだれかかっており、親密な雰囲気だった。
(ひっ…こっちに来ちゃう…!)
あろうことかイアン達はこちらに向かってきていた。あちらはネルに気づいていないようだが、近くに来てしまったらネルの存在がばれてしまう。
『こんなのが私の婚約者だと?笑わせるな』
『いつまでも従者の後ろに張り付いて、まるで幽霊じゃないか』
かつて彼から言われた言葉が脳を反芻し、カタカタと体が震える。今すぐにこの場所から離れなければいけないのに体が動かなかった。
(どうしてっ!動いてよっ…!)
自分の情けなさに涙が出そうになった瞬間、体がグイッと引っ張られた。
「お嬢、こっちっす…!」
アルに近くの部屋に押し込まれ、扉がパタンと閉められた。
「おやおや、君は婚約者殿の従者ではないか?とうとう従者にも見捨てられたのかな、あの幽霊は」
扉の向こうでイアンの声が響く。思わず喉が引きつり、声をあげそうになるのを必死で手で押さえた。
「いえいえ、今は先生方に頼みごとをされまして、その帰りですよ」
「そうか。君も大変だね?あんなのの従者にされて」
アルが助けてくれたにも関わらず、ネルは未だに動けない。本来ならば従者ではなく主人がやるべきことだったのに。そう頭では理解しているのに、指先が震えて目の前の扉すら開けることができなかった。
「君の実力なら他に働き口など選び放題だろう?あんなところより私の元に来ないか?」
思わず目を見開いた。そしてその言葉を脳が理解した瞬間、視界が白黒になった。すべてが色を失っていく。
(そっか。アルなら何にでもなれるわね。私なんかよりも優秀だし、優しいし…。私なんかと一緒に居なくてもうまくやっていけるんだわ)
『お前みたいなネガティブ令嬢なんかと一緒にされてたまるかよ』
幼い頃にかけられた言葉が呪縛のようにネルの体を縛り付ける。今すぐにアルを引き留めたいのに臆病な体は決して動くことはない。
――もしもアルから拒絶されたら、ネルの世界は真っ暗になってしまう。
アルもネルを鬱陶しいって思っていたら、存在しないほうがいいって思われていたらと考えると、本当に消えてしまいたくなる。
それにネガティブ令嬢なんて後ろ指差されるネルよりも、他のところにいたほうがアルの為にもなるだろう。きっとそれが正解だ。
(…それでも、アルがいなくなるのは嫌だなぁ…)
心のどこかではアルが否定してくれることを願っている自分もいた。このままネルのそばにいてくれるんじゃないか、と考えている自分が嫌になる。アルは物ではないというのに。
――それでも、アルはずっと隣にいるものだと思っていたから。
「誰が来るかよ、アホが」
(え…?)
ネルは思わず顔を上げた。そうはいっても目の前に見えるのは閉ざされた扉だけ。
「婚約者がいる身でありながら日中から堂々と浮気するような奴のもとに誰が働きたがると思いますか?婚約者も気遣えない奴が使用人を気遣えるようには見えないっすね」
「何…だと?」
「それにお嬢…ネルお嬢様から離れる気は無いんで、他を当たってくださーい…って誰かそちらで働きたがる変わり者がいるかは謎ですけどね?」
「っ…!お前みたいな平民にはいらん心配だったようだな!」
そうして足音が一つ遠ざかっていった。
やがてガラッと扉が開いて、光が差し込んでくる。白黒だった世界が、色鮮やかに染まっていく。
「お嬢、もう大丈夫っすよ」
そう笑って手を差し伸べてくれるアルを見て、ネルは泣きそうになった。
「ありがとうね、アル」
ネルは秘かに決意する。
こんな自分についてくれるアルのためにも、変わらなければ、と。
◇◇◇◇◇◇◇
「え、えっと、ここここ、ここ、これ、お願いしますっ!!」
「えーっと、これは何かな?」
「そそそそそそ、それではっ!!!」
「って、待ってどういうこと!?」
困惑しているまだ若い教師を残してネルは走った。息を切らすほどの全力疾走で。
(ううぅぅ、やっぱり不自然だわ…ごめんなさいごめんなさい出来損ないでごめんなさいっ!!)
これで三回目。せっかくアルが引き受けてたものをわざわざ変わってもらったのに。口頭で伝えるのは厳しいから紙に書いて渡したけど、違和感しかない。失敗してばかりの自分が嫌になりそうだった。
(それでも、アルに相応しい主人であれるように頑張らなくちゃ)
だけどやっぱり自分自身がそう簡単に変わることなどできない。そのためにどうしたものかと考え込んだネルはやがて、一つ名案を思い浮かんだ。
「アル、コーヒーを用意してくれる?」
「え?コーヒー?紅茶じゃなくていいんすか?」
「だ、大丈夫。お砂糖もミルクもなしでお願い」
困惑しながらもコーヒーを入れてくれたアルは、ネルの前にそっと差し出した。ネルは真っ黒な液体の入ったカップを恐る恐る手に持つ。幼い頃に飲んでしまったときにトラウマレベルに苦手になってしまったコーヒー。ネルが甘党になった元凶であった。
(これを飲めれば、きっと弱い自分に打ち勝てるはず…!)
しかし肝心の手は震えっぱなしである。
「お嬢、やっぱりやめといたほうが」
「だだだ、だ、大丈夫」
「大丈夫じゃない奴ですってぇぇ」
おろおろとしながら止めようとするアルを制止し、ネルはカップに口を付け、一気に飲んだ。その瞬間にネルはビタンと倒れた。
「うぐぅ、に、にが、にが」
「お嬢―――!!」
甘党のネルに、ブラックコーヒーはまだ早かった。
「まあ、そんなことがありましたの?」
「そうなんすけど…なんであんたがいるんですか」
「私はネルさんのし・ん・ゆ・う、よ?ネルさんが倒れたと聞けば何処に居ても駆けつけるわ」
ネルが倒れて一時間もしない内にネルの部屋のソファを陣取ったルイーズは、アルが渋々出した紅茶を一口飲んだ。
「さて、コーヒーのくだりは大変可愛らしいのだけど。そのイアンというのは…ウォルトン侯爵家の次男ですわよね?婿入りする分際でよくそんな態度とれますわね…」
「ホントにそうっすよねー」
「さっさと婚約を解消させたいけど、下手に公爵家が干渉すれば家同士のバランスが崩れかねないもの」
舌打ちしそうな顔でそう吐き捨てると、チラリとアルの方を見た。ルイーズと話しているにもかかわらず未だにネルの様子を伺っており、相当過保護に扱っていることは目に見えてわかる。
「さて、ネルさんも眠っていることですし、もう行きます」
そう言ってルイーズが立ち上がったと同時、ネルが「うぅ」と呻き声をあげる。ルイーズがそちらを振り返るよりも先に、真っ先にアルがネルのもとに駆け付けた。
「お嬢、大丈夫ですか?」
「ある…?」
負担にならぬように優しく声をかけたアルを視界に映すと、ネルはぎゅっとアルの袖を掴んだ。未だに夢うつつのようで、どこかぼんやりしていた。
「ある…ごめんね。わたし、がんばるから…いかないで…」
「大丈夫ですよ、お嬢。俺はお嬢のそばにいますから」
その声を聞いてようやく、ネルは落ち着いた寝息を立て始めた。
馬車に乗り込んでしばらく、ルイーズはため息を吐いた。ネルが倒れたと聞いたときは心臓が止まるかと思ったが、問題なさそうで一安心だ。
「全く、相変わらずね。ネルさんも、アレも…」
正直いうとネルに近づきすぎて気に食わないアレも、なんだかんだネルを想っていることは伝わっているから、二人を引き剝がす気は無い。
――そう、本気で引き剝がすとするなら…
「ルイーズ様、例の件についての報告書です」
「ええ、ありがとう」
ざっと報告書に目を通すと、ルイーズは頭を抱えた。
「イアン・ウォルトン。面倒そうなことを企んでますのね…。せめてネルさんの地雷を踏み抜くことが無ければ良いけれど」
◇◇◇◇◇◇◇
「ひひ、人がいっぱいいるううう…」
「お嬢、無理しなくてもいいんすよ?」
学園主催の舞踏会は、毎年多くの人数が参加している。参加自体は自由なのだが、社交の練習ということもあり、大抵の貴族が参加するのだ。
今までのネルの場合、こういう会場に出向くことなど滅多に無かったわけだが、今回は勇気を出して参加することを決めた。
(アルに迷惑かけっぱなしだもの。せめて貴族らしく社交ができなくちゃっ…!)
そう決意して俯いていた顔を上げた瞬間、全く知らない男性と目が合ってしまった。それはもうばっちりと。男性はグラスを持ってこちらへとやってくる。
「これはこれは美しい人。ご機嫌いかがかな?」
(ひいいいいいっ、なんで話しかけてくるのっ!)
目の前の男性はニコニコと笑みを浮かべる。対してネルは固まるばかりだ。挨拶を返さないと不自然だし、一歩間違えれば相手の信頼も損なってしまう。それは貴族にあってはならない失態だ。
(どどどどうしよう…何か、何か話さないと…)
しかしそんな思いも虚しくネルは怯えて縮こまる。何かを話そうと口を開くも、決して音が出ることがない。そんな自分に嫌気がさして、脳内には懺悔の言葉が蠢きだす。とうとう男性が不審そうに眉を寄せたころ、グイッと肩を引き寄せられた。
「申し訳ありません。どうやらお嬢様の体調がすぐれないようなので、ここで失礼します」
そう言ってアルは困惑した様子の男性を置いてその場から離れていく。アルに引かれる手を見つめながらようやく我に返ったネルは慌てて首を振った。
「ご、ごめんなさいっアル!また迷惑かけちゃって…。わ、私大丈夫だからっ!」
「お嬢、今日のところは帰りましょう。無理して出ても体を壊しますから」
「で、でも…」
「最近のお嬢は無理しすぎなんですよ。色々考えこみすぎです。たまにはしっかり休んでください」
その声を聞いてしまうとネルには黙り込むことしかできない。
(ホントに、アルはとっても優しいな…)
初めて会ったあの日から何も変わっていない。
『偽物を押し付けようとするなんてどうかと思うぞ、おっさん』
そう言って見ず知らずの私を庇ってしまうほどにやさしい心を持っている彼。あのとき既に、アルはネルにとってキラキラと輝いた存在だった。
ぼーっとあの日のことを思い出していると、突然アルが歩みを止めた。何だろうと首を傾げていたネルだが、アルの視線の先にいる人物を見て、体が硬直した。
「これはこれは婚約者殿ではないか?珍しいな、君がこんな会に参加するとは」
「ひっ」
婚約者、イアン・ウォルトンだ。その傍らにはこの前見た女子生徒もいる。そもそも学園主催の舞踏会なのだ。彼がいても不思議ではないのに、その可能性を想定していなかった。想定外の出来事にネルの体は震えだす。
『このネガティブ令嬢が』
吐き捨てるように告げた彼の言葉が脳裏を過る。
「てっきり君はいつも通り家で大人しくしているものだと思ったのだがな?」
「あ…う、ご、ごめんなさいっ」
思わず漏れた謝罪の言葉が発端となり、ネルの中の感情が堰を切ったように溢れる。がんばって蓋をした感情が口を通じてこぼれだした。
「ごめんなさいごめんなさい私なんかがこんな場所に来てごめんなさい生まれてきてごめんなさい…」
「お嬢、大丈夫ですから」
目が虚ろになっていくネルをアルが宥めるも、効果はなくひたすらに懺悔の言葉を続けている。そんな様子を一目見たアランは不快だと言わんばかりに顔を顰めた。
「…本当に相変わらずのネガティブだな、貴様は」
やがて、いまだに俯いているネルを見据え、言い放つ。
「ネル・リヴィ!今このときを持って、貴様との婚約は破棄する!」
会場全体に響き渡る様に響いた声は、会場をざわつかせた。
「全く、最初から不愉快だったんだ。誰がこんな根暗と婚約したがると思うかよ」
「さすがに失礼じゃないですか?こんな人目の付くところで家同士の婚約を破棄するなんて」
吐き捨てるように告げるイアンにアルが苦言を呈す。流石にこれ以上言われたらネルの従者として看過できるわけがない。ネルは未だに虚ろな目で懺悔を続けている。こんな状況を作ったイアンに対して、アルは殺意を含むような鋭い目で睨みつける。
しかしイアンはそんな彼を一目見るや否や、鼻で笑った。
「お前、こんな奴に付くなんて変わった趣味だな?」
「そういうあんたこそ常識がなってないんじゃないですか?」
アルが挑発するように笑うと、イアンの頬が引きつった。そしてイアンは怒りを前面に押し出す。
「黙れよ、平民が。そもそも、薄汚い平民を傍に置く時点でおかしいと思ったんだ」
その瞬間、ネルの懺悔がピタリと止まった。それはもう突然だった。俯いているため表情を見ることはできないが、先程までの陰鬱さは消え、ただただ時が止まったように立ち尽くしている。
「…それって、アルのこと?」
やがて話す言葉は普段のネルからは考えられないほど何の感情も感じない。そのことに多少の違和感を感じつつもイアンは答える。
「そいつ以外に何がいる。そもそも平民が貴族に意見するなんて身の程を知――」
その瞬間、ナイフがイアンの顔の真横を通った。思わず頬を抑えると、頬に一筋、血が流れていることに気づく。
「私のことはどう言おうがかまわないわ、事実だし。…でもね?」
そうして顔を上げたネルはいつものオドオドした雰囲気は消え去り、怖いほどの無表情だった。そのままイアンの目の前まで近づくと、近くに置いてあったフォークを彼の首元に近づける。
「こーんなに優しくて気配りができて賢くて強くて護衛もできて紅茶を入れるのがうまくて料理もできて掃除もできて字も丁寧で髪をとかすのも上手で服のセンスも良くて声も良くてとにかくカッコよくて完璧なアルになんてことを言うのかしら?薄汚い平民ですって?それはあなたにそっくりそのまま返しましょう薄汚いお貴族様?つい最近アルを引き抜こうとしたこと知ってるのよ?確かにアルは優秀だけれど、断られただけでアルを侮辱するなんて許せないわね?森に埋めて野獣の餌にあげましょうか?」
そう言いながらフォークを彼の首に押し当てるネル。それも段々力が籠ってきており、イアンの顔は恐怖で引きつっていた。目の前のネルからは何の感情も伝わらないのだ。言葉には怒りが籠っているはずなのに、無表情で抑揚のない声で告げられたことで不気味さが際立つ。そしてネルは尚も言い募る。
「ああそれとも手足を一本一本切り落としていきますか?全身に切り傷を付けて塩水に漬け込みましょうか?生きたまま火であぶって鞭で打ちましょうか?つめたーいところに放置して氷漬けにしてやりましょうか?大量の虫の巣に放り込んでじわじわ食われてみますか?もういっそ人間料理にでもしましょうか?丸ごと茹でたり切り刻んで炒めたり?あ、もしかしてその達者に回る口から毒薬を飲んで内側からじわじわとがお好みですか?私の趣味には合わないのですけど、そちらをお望みなら」
「ヒェッ」
とうとうイアンは情けない声をあげて後退った。想像してしまったのか、あまりの恐怖に顔が真っ白になっていた。
「あら?どうしたのかしら?もしかして足りない?まあ私のアルを侮辱したんだものそれ相応の罰を与えなくちゃね。少し待っていなさいまずは逃げられないように足の腱を切ってアルの名前を呼べないようにその口を縫い付けなきゃ…私の裁縫セットは何処にあったかしら」
「お嬢、ちょっと失礼しまーす!」
アルは声をかけると同時にネルを抱きしめた。あやすように背中を撫でていると、突然ネルの力が抜け、穏やかな寝息を立て始める。
すでにイアンは白目を剥いて倒れており、会場は大惨事である。
「それではうちのお嬢様の体調が悪そうなのでこれで失礼するっす!」
アルがネルを抱えて会場を出るのを見届けたルイーズは人知れずため息を吐く。
(本当に呆れましたわ。まさか本当にネルさんの地雷を踏み抜くなんて)
イアンがこの舞踏会で大衆の前で婚約破棄劇を企んでいたのはとっくに知っていたからこそ、ルイーズが色々準備していたのに、それをすべて無駄にされた。その上であのネルの地雷を土足で踏み抜いたのだ。あの状態になったネルは止めるのが大変なのである。今回はアルがいたから何とかなったものの、アルがいなかったら止めるのはルイーズなのだ。そう考えると頭が痛くなる。
そもそも何故ネルが入学式以来学園に来ていなかったのか知っていればこんなことにはならなかっただろうに。
入学式当日。何故か由緒正しい王立学園に平民がいるということでネルとアルに突っかかった哀れな方々がいた。平民だとアルを見下していたし、そんな従者を連れるネルすらも見下していた。
ことが始まったのは、ネルより高位の貴族令嬢が放った一言だった。
『こんな下賤な従者を連れないでくれる?神聖な学園が台無しだわ』
その後、その令嬢が学園に来ることなく退学になった。それも誰が言ったわけでもなく、その令嬢自らが自主退学したのだ。それから社交界にも出ることはなく、いまだにこれといった情報もないまま。
しかしルイーズはあの場にいたが故、その令嬢がどうなったのか察しがついていた。
(大方鬱になって引きこもっているんでしょうね…)
『下賤な従者?それがアルのことを指すなら大変ね?そんなふうに見えているその目をくり抜かなくちゃ…』
そう言いながらペン先を彼女の目に当てたときは本当に肝が冷えたものだ。
《ネル・リヴィの地雷は従者アルの侮辱である》
あの一件は令嬢の退学とネルの休学処分で大事になることこそなかったが、知る人ぞ知る話になっている。
まあ、つまるところネルはアルが好きすぎるあまりに暴走するのだ。それも無意識に。
ルイーズと初めて出会ったときもそうだった。
『貴方みたいな根暗で陰気な方に後ろの従者の方は似合わないんじゃないかしら?そんなに優秀な方なのに』
当時のルイーズはネルの存在を快く思っていなかった。いつもおどおどしていて優柔不断で、口にする言葉は謝罪ばかり。そんなネルが同じ貴族令嬢とは思いたくなかったのだ。だからこそこのときのルイーズはあえて彼女に毒づいたのだ。
しかし。
『そうでしょうそうでしょうっ!強くて賢くてカッコ良くて優しくて…。アルって本当にすごいのっ!!』
頬を紅潮させ、はにかむような笑顔を浮かべる彼女を見たルイーズは一瞬で態度を変えた。
(か、かわいいですわっ!!)
…ルイーズは小動物のようにかわいいものに弱かったのである。
「さて、しっかり後処理はしておかないとですわね。まずはそこで倒れてる愚か者の処分からっと…。ネルさんは頼みましたよ、自称忠犬さん」
そう言ってルイーズは動き出した。
◇◇◇◇◇◇◇
『お前のせいでっ!売れなくなったじゃねぇか!下民のくせに出しゃばりやがってよぉ?』
そう言われて頬を殴られ、倒れたところを踏みつけられる。いつも偽物を売り捌いてる男相手にあんな発言をすればこうなることなんて目に見えていた。だが、こちとら平民の中でも最下層と呼ばれるスラムの出だ。こうして理不尽な暴力を振るわれることは慣れていた。
スラムの出の者は大抵が下民と呼ばれ、ゴミを漁ったり遠くに出稼ぎに出たり、時に盗みを働いてでも必死に生きている。今日を生きることが精一杯で、明日同じように生きていられる保証もない。国はそんな自分たちに何の施しも与えることなく平民からたっぷり奪い取った金でのうのうと生きている。そんな現状が嫌いで必死に生にしがみついてきたのに。
『お前らみたいな下民はどうせ何にも価値がない、空っぽなんだから人様の邪魔をすんじゃねぇ!』
最後にもう一度顔面を蹴り、男は去っていった。
(ちっくしょう、結局こんなところで終わりかよ…)
もう既に指先一つ動かすことすらできない。かろうじて意識はあるが、これはもう駄目だと察していた。下民は満足に治療すら受けられやしない。怪我や病気なんか罹ろうものなら、野垂死ぬしか選択肢がない。
とうとう視界が歪み始め、目を閉じた。
…その時だった。
「あ、あの!すすすすみません…!」
なんとも情けない声が聞こえてきた。
仕方なく一度閉じた目をもう一度開く。服装的にどこかのお貴族様だろうが、下民が倒れているところを嘲笑いに来たのだろうか。いや、そうに違いない。下民に手を差し伸べるような怖いもの知らずはいない。そう考えていると、目の前の少女はカタカタと震えだした。そして突然謝りだした。
「ご、ごめんなさいごめんなさい私なんかを視界に入れさせてごめんなさい…!さ、さっきの人が出ていくのが見えて…すみませんすみません、私なんかが来てしまって…」
(…なんだコイツ?)
いったい何をしに来たのか見当もつかない。今も顔を青くしたり白くしたり、一人で騒がしいやつだ。やがて彼女は何かを決意したように顔を上げた。
「で、ですが一度手当させていただいてもよろしいでしょうか…!!」
(だれが…クソ貴族なんかの、手を借りるか、っつーの…)
そう考えていたが、彼女の目元を見て目を見張った。
「あ、貴方しか助けられなくてごめんなさい…他にも苦しんでいる人がいるのは分かっているけど私じゃ貴方くらいしか助けられないの…役立たずでごめんなさい。でも、せめてあなただけでも助けさせて欲しいの」
彼女はただただ泣いていた。大粒の涙をこぼしながら。
(何で泣くんだよ、コイツ…)
自分は何の意味も持たない、空っぽの存在なのに。
やがて好きにしろ、と言うかの如く少年は意識を失った。
◇◇◇◇◇◇◇
「なんか、懐かしい夢を見たっすね」
職務中に寝るなんて褒められたことではないが、まあ気づかれなければいいか、ということでアルは暢気にあくびをした。
『なんで俺を助けた…んですか?何にもない、空っぽな俺を助けたところであんたには何の得にもならないでしょう?』
『な、何にもなくないです!』
『金どころか名前すらない下民ですよ?』
『貴方にはしっかり優しさがあるんですっ!空っぽなんかじゃないです…!』
(あの言葉があったから俺はお嬢に一生ついてくことを決めたんすよね)
思わずあのときのことを思い出してクスリと笑う。あの後ネルが、むしろ自分の方が空っぽですよってカーテンに謝りだしたときは宥めるのに苦労したものだ。
やがてもぞもぞとネルがベッドから起き上がった。
「…うぅ、ある?」
「何ですか、お嬢?」
「あ、また私、会場で気を失ったのね…変わろうと決意したばっかりなのに、本当に情けないわ…」
そう言ってネルはしょぼしょぼしながら椅子に座った。
今回も記憶は無さそうだ。ネルが暴走した後は記憶がすり替わっていることが多いので、今回もそうだろうと予想はしていたが。まあ、下手なことは言わない方が得策だ。アルはネル用のカップに紅茶を注ぐ。
「お嬢が変わる必要なんてないですよ…こんなに可愛いんですし」
そう言ってカップをネルのそばに置いた。
(…それにお嬢は元々優しいんだから)
その優しさにアルが救われたのも事実なのだ。
可愛いと言われたことでネルの顔は真っ赤に染まっている。ネルは確かにネガティブで迷走しがちだが、感情はむしろ顔に出やすいほうだ。ネガティブが態度に出てしまうように、喜びや楽しいといった感情も同様に態度に出てしまうのだ。何なら反応を見るのが楽しいまである。
――昔では考えられなかった、温かい世界。
そんな楽しい日々をくれたネルには、一生分の恩を感じているのだ。
やがてネルはぷいっと顔を背け、ポツリと呟いた。
「…アルの方がカッコいいわよ」
ネルは拗ねたようにそっぽを向きつつ、カップを手に取る。そしてこくりと一口飲むと、表情が緩んだ。
「ん、やっぱりアルの紅茶が一番おいしいわ」
「あ、そうだ、主人公をめちゃくちゃネガティブにしよう」という考えから生まれたお話でした。
割と性癖を詰め込めて個人的には満足しております。お読みいただきありがとうございました!