慟哭の衝動は原始の情動
どんな日も真剣に生きる、という振る舞いは殊の外難しいもので、人はいつしか自分自身の持つ力、ないしは感情というものを、大なり小なり制限しながら生きるようになるものである。もしかしたら無制限とかいう奴もいるかもしれんが、社会性を保つためには、原初のままの在り方をすることは、基本的には許容されない。よほど魅力があるとかなら知らんが。
私がそういう話をする機会というのは、大きく分けると二つある。
一つは、いい歳をした大人が、どういう事情があるにせよ、社会生活を送るには到底不適合な我儘を、臆面もなく通そうとしていることに対し、明確な不快感を覚えているとき。私は社会秩序に対しては、明確に全員が幾許か以上の寄与をして然るべきだと考えている。……まあ、それはよくて。
一つは、そういう振る舞いが当たり前に行える、行われることが自然な時期の子供を見かけたとき。具体的に言うと、大体初等教育以前のお子様、もっと言えば乳幼児が元気よく泣いておる、というのを見たとき。
要するに、今回の話もまた友人の愛娘、Yちゃん絡みの話である。
取り敢えず今回もまた、基本的には事実をベースに記載していく。日常をただ記録するというのも、悪いことではない。
我々は時折、語ることもないような日常には、価値がないという認識を持つ事があるように思う。だが、別にそうでもない。価値がないのは顧みられることがないためであり、その一端には「そもそも語られない」という事情がある。つまりは、日常に価値を見出すために、事実を誇張して語ることが必要なのではなく、語ることで語られたことに意味が生じるのだ。
もちろん、何でも語りさえすれば、無条件に価値が伴うという意味ではない。結局のところ、普通の人間の普通の経験というのは、敢えて見返して意味があるものではないと言える。
お前は結局どっちだと言いたいのか、という話ではあるが、そのあたりは最後にでも答え合わせをすることにして、私はこれからも意味のあるような、ないような話をしよう。
数ヶ月前の陶芸教室で作った成果物を手土産に、例によって京都に向かい、その流れで彼女らの日常に溶け込む。私にとっては非日常の一部ではあるが、一方で彼女らにとっては日常の延長に過ぎない。
Yちゃんと実際に対面するのは、概ね二ヶ月か三ヶ月ぶり(※)のことであった。らしい。そのあたりの時間の経過に関しては、毎度のことながら自覚的でない。より厳密に言うのであれば、過去が具体的にどの瞬間に起きていたのかについて、私はほとんど興味がないので、客観的記録がない限りは本当に忘れていく。
全然関係ないが、つい最近髪を切った。その髪を切ったのが「最近」で、土曜日であるというところまでは憶えていたが、それを素で直近の土曜日だと勘違いしていた。実際にはその一週間前であることを、自身のTwitterの投稿を遡ることで、やっと思い出したくらいだ。
その一方で、「その前に」髪を切ったのが約半年前、師走の二十一日頃であったという、相対的にはやけに具体的な記憶が残っていた。これは単に直近の髪を切った日に、これまたTwitterで前回の髪を切った際の記録を掘り起こし、引用リツイートによって再認識していたためである。言葉にして記録することが、私の認知においてかなり大きな比重を占めていることがわかる。
ちなみに実際には二十二日だったので、間違ってはいた。当方、記憶力には自信がないのは変わりませんので。
関係のない話は切り上げるが、ではそもそも「関係のある話」とは何として定義されるのか、という点には疑問が残る。基本的には、随筆であれ、一次創作であれ、二次創作であれ、なにか文章を記載することに際し、何かしらのテーマをもってこれに取り組むものなので、大筋で言えば、その予め定めたテーマに関係する話を指す概念である。
今回のテーマについては、つまりはいつも通り「Yちゃんが可愛かったよね」ということになる。……もしかしたら、私の癖に慣れていない読者は「そんな表題付けといて、マジで言ってんのかこいつ」と思うかもしれない。それでも、私が言うことには偽りはない。本当に、今回の執筆の動機は元々それだ。元々は。
それでも、やはり私は素直に本来のテーマに沿った記述をするか、という点において全くその限りではない記述をするので、私の言葉は額面通りに信じられることはないし、額面通りに信じる意味もまたないのである。
とはいえ、それが面白おかしく、または何かしらの興味を持って読めない文であるのならば、それをダラダラと無駄に書き続けることは、半ば悪ですらある。それでも、私は私が私で在り続ける限り――私が私の記述する文章を好み続ける限り、こういった記述が伴い続けるのである。
故に、非常に悲しいことではあるが、私の書く文が好みでないのならば、少なくとも私が「随筆」という名目で出しているものについては、基本的に読まないほうが良いと思う。例外なく、全部大体こんな感じである。
……何の話でしたっけ。三ヶ月ぶりくらいにYちゃんに会った、という話だった気がする。
乳幼児というものは、割と長い時間を寝て過ごすもので、その動向を完全に制御しきることは出来ない。たぶん。私は親ではないので分からんが、とはいえそもそも大人であろうと体調や諸々の条件を制御出来ない以上、乳幼児などは最早語るまでもなくそういうものであろう。
そんな訳で、彼女が起きるのを待った後、前と同じように回転寿司のチェーン店に出向いたのである。一応、伏せておく。どこで何がバレるかがわからん以上、説明に対して重要でないことは、具体的には書かないようにしたいところだ。なら最初からそもそも執筆しなければいいのでは、という意見については耳を塞ぐ。
三ヶ月ぶりの再会ともなると、たぶんYちゃんは不肖私の事など覚えてはいないだろうという感じであった。ただ、実際のところどうなのかは、彼女が言葉による意思疎通が出来るわけではないことから、わかっていない。
少なくとも、母に比して重要度の低い、塵芥の如き存在であるということは間違いあるまい。だが、それでこそ気軽に付き合えるというものである。無責任な人間には、価値が乏しいことは救いですらある。どうでもいい、という扱いを受けるのが心地良い。蔑ろにされたいという意味ではないが。
それでも前と同じく、Yちゃんは機嫌の良い時はひたすらに愛想が良いもので、にこやかに、花が開くように笑うものであった。落ち着いている時の彼女は、順当に可愛らしい天使の如きものであると言えよう。
一方で、マジで何が起点なのかも分からんタイミングで、突如烈火の如くに泣き叫ぶ、その在り方も変わらなかった。男児三日会わざれば、という言葉があるが、それは乳幼児にも適用されるようなものではない。そもそもYちゃんは女児である。
もちろん、烈火の如く泣くことで、彼女の愛らしさが失われるわけではない。それがたとえ耳を劈くが如き大音声であろうと、ガチ耳元で大絶叫でもされん限りは、その元気の良さは単に望ましいことでしかなく、聞いていて何となく悲しくこそなってしまうものの、それもまた乳幼児の愛らしさの一点に過ぎない、というのは間違いがなかった。
そうした原始的な在り方というか、まさに情動に身を任せた慟哭こそが、あるいは本質的な人の感覚、本能に近い欲求や何某を表しているような気がして、人はいつから賢しらに、本音を隠して「上手く」生きるようになるのだろう、と考えてしまう。
寿司を食った後に訪れた公園にて、浅い水場で、濡れる事も厭わずに驀進する様も、汚れる事も厭わずに砂利道を力強く進んでいく様も、でこぼこした斜面を滑り落ちる危険も顧みず、覚束ない足取りでも進めるだけ進もうとする姿勢も。その繰り返しが人を強くし、より良い明日を掴むための、真剣な取り組みであったのかもしれないと。自然に囲まれた地で、そう思ったのである。
欲を言うなら、晴れていて夕焼けが見えていると、より情緒溢れる風景だったかもしれない。なんだか、曇り空って色に精彩を欠きますよね。どちらかというと過ごしやすい天候なわけですが、好きかどうかで言うと結構微妙です。まあ、そんなことも良くて。
きっと、遠からぬ未来に、貴女は言葉を獲得し、さらなる混沌に触れながら、未来を進む力を得るのでしょう。
その過程に待ち受ける苦難も、理不尽も、避け得たかもしれない不和も、果たして無駄なことは何もなく、それがただそこにあったのであれば、それがなくては今もまたなかったのだと。
それはきっと、最適な結末ではあり得なかったのでしょう。それでも、ままならない世を貴女が上手く渡り歩いていけるように、不肖私はただ願いましょう。
しかしまあ、いくら暇な独身男性だからといって、都合が合えば取り敢えず呼び出されるような、単に都合のいい男であっていいのか、と思わなくもない。別に、特に何の問題もないから、都合が合う限りはそのままなんだけども。
答:実のところ、価値や意味なんてものは感じるものであって、行いそのものに根源的な価値が存在するかというと、ぶっちゃけないと思っています。
※記録が正しければ前回が弥生の二十日なので、ざっくり三ヶ月程度前とのこと:ただし記録されていない別日の動向があった可能性もあり、微妙に定かでない