第九話 羊の皮を被った狼
誰も鏡無しに自分の眼の色を見る事は出来ない。
深い宵闇の様な暝い虹彩の持ち主が、正しく闇を観ているとは限らない。
星や貴石の様に輝く虹彩の持ち主が、悍ましく歪んだ世界を観ていないとも限らない。
――或る古代の人物を評した言葉より
昼休みの時間になった。
華藏學園にとっては假藏學園との融合という超常現象に見舞われた異様な状況で、どうにか授業を進めつつ迎えた貴重な休息の時間だった。無事迎えられるのは、偏に真里愛斗の提案とそれに沿って動いた生徒達、教師達の尽力の賜物である。
愛斗は親友の西邑龍太郎と食堂に訪れていた。華藏學園では立地の都合から朝の早いバス利用者や同居人の無い寮生が多く、弁当を用意するよりも食堂や購買で昼食を済ませる選択をする者がその分多い。
「一時はどうなる事かと思ったよ……。」
ラーメンを乗せた盆をテーブルに置いて席に着いた愛斗は溜息を吐いた。普段から精神的に疲れている事が多い彼だが、この日はいつもの比ではなかった。
「しかし、君にあんな根性が有ったとは驚いたよ。冷々もしたがね。」
西邑は向かいの席に坐り、眼鏡を外してラーメンの隣に置いた。湯気でよく曇るらしい。
「ま、お前が助けてくれなかったら危なかったと、確かにそう思うよ。ゾッとするね。」
「私は大した事はしていないさ。一寸コネを使わせて貰っただけだよ。」
「コネ?」
そういえば、不良達は西邑が連絡しようとした相手を見て血相を変えていた。文学部長で、新進気鋭の作家で、それ故に特待生待遇を受けている西邑だが、それと関係が有るのだろうか。
「ま、華藏には有名人同士の交友が結構有ってね。これが又厄介な所まで伸びているんだよ。今回は役に立ったがね。」
「へえ~……。」
愛斗はこれ以上詮索しない事にした。元々、幾ら親友とはいえ引くべき線は弁える様に心掛けている。
「しかし……假藏と繋がったのは奇妙ではあるが面白い体験だな。不謹慎だがそういう思いは否めない。」
「お前はそういう奴だよ西邑……。」
「真里、君にとって愉快な話もあるぞ。前に君が言っていただろう? 中等部時代、君を虐めていた莫迦共は今假藏に居ると。假藏送りの実在は恐ろしい話だが、自分を虐めていた人間の落魄れ振りを見るのは楽しみではないかね?」
愛斗はその事実を西邑から言われて初めて思い出した。そして、同時に嫌な予感を覚えた。
『真里君? 君、お友達に随分余計な話をしたのね?』
「す、済みません……。」
脳内に響く憑子の声に叱責を受けた愛斗は思わず不自然に丁寧な言葉で謝ってしまった。当然、西邑は怪訝そうな顔付きで首を傾げる。愛斗は慌てて弁解する。
「あ、いや……。ごめん、余り興味無いかな、って……。」
「そうか?」
「ああ。何て言うか、別にもう関係無いじゃん。きっちり話が付いて、終わった事なんだし。あいつ等が仮に今悲惨な状況に為っているのを見せられても、逆に良い気分はしないと思う。それで喜ぶ趣味は別に無いしさ。」
そう答えた愛斗の顔を、西邑は態々眼鏡を掛け直してじっと見つめ、そして小さく笑った。
「ふ、それは君が度を越したお人好しだからさ。」
「そうかな? 別に普通じゃないか?」
「いや、人間の本音と云うのはね、もっとこう意地汚くてねじくれている物だよ。エゴイズム、パラノイア、ルサンチマン、シャーデンフロイド……そういった醜い感情を多く抱えているのが普通の人間だ。君は純粋過ぎるのだよ。」
西邑からの過剰な持ち上げに、愛斗はばつが悪く感じた。彼にだって西邑が云う「醜い感情」に思い当たる節は有る。不意に、彼は昨日の出来事をフラッシュバックしてしまった。未だ彼は、あの惨劇を起こしたのが本当は自分で、憑子など妄想ではないか、という可能性を捨て切れていない。
「どうした? 食べないのか?」
愛斗の箸が止まったのを見て、西邑は心配そうに声を掛けて来た。勿論、一気に食欲が失せた理由等話せる訳が無い。
「なあ、西邑……。」
愛斗は徐に切り出した。少し西邑に訊いてみたい事が出来たのだ。
「お前は逆にさ、変な事に興味が有ったりしないか? 例えば、この學園の怪しい話とか……。」
「怪しい話?」
「學園の『闇』って言うのかな……? 何か、そういうオカルトチックな話。お前、結構色々詳しかったりするじゃん。」
再び、西邑は愛斗の顔を覗き込んで来た。愛斗の顔が余程深刻で、捨て置けないと感じているのだろうか。
「そんな事を調べてどうする?」
「今の状況、明らかに超常現象じゃないか。だったら、そういう學園側の昔から有る曰くとか、そういうのが関係しているんじゃないかな、って思ってさ。」
「まさか君、この問題を解決しようと言うのか? 何故君にそこまでしなければならない謂れが在る?」
何故、と問われて愛斗は少し答えに窮した。憑子に言われるが儘、彼女の意思で動かされているのかといえば、決してそれだけではない。そこには朝、不良達に囲まれた状況で彼を突き動かした自意識、責任感が確実に存在していた。
唯、それを言って良いのかは憚られる。西邑、それから教師の黒沢春好の態度からも、今愛斗がそれを自負している正統性は周囲の人間の記憶から抜け落ちているのだろう。
『真里君、どうするの?』
意識の中で憑子が彼の意思を問う。彼女は昨夜言っていた。自分達は今、「生徒會」ならぬ「逝徒會」なのだと。
だがそこには、生前の彼女達から連なる意思が確かにある筈だ。――愛斗はそう思い直し、意を決した。
「僕は、生徒會役員なんだ。誰にどう思われようと、理由はそれだけで良い。」
「君は変な男だな……。落選した生徒會に余程未練が有ると見える。」
西邑はそう言うと、手帳を取り出して何やらメモを取り始めた。
「一応訊くけど、今度は何を書いているんだ?」
「愚問だな。目の前の友人が自分を生徒會役員だと思っている狂人だったなんて、こんな面白いネタは然う然う無いだろう?」
「……嗚呼、そういう奴だよお前は……。」
呆れる愛斗だったが、それを面白可笑しく思っているのか西邑は笑顔を見せる。
「まあ、友人の狂気に付き合ってみるのも一興だ。協力させて貰うよ。」
「引っ掛かる言い方だが、その申し出は素直に嬉しいな。有難う。」
こうして先ずは一人、愛斗と憑子の「逝徒會」に協力者が誕生した。
『上出来じゃない、真里君にしては……。』
何から始めて良いか分からなかった「學園の闇」の解明は、一先ずは最初の一歩を踏み出す事に為った。
☾☾
昼休みが終わりに差し掛かる。結局愛斗は碌にラーメンを口にすることが出来ないまま、食堂を後に教室へ戻ろうとしていた。
「食欲が無いのは心配だな。今からでも保健室に行った方が良いのではないか?」
「良いよ。理由は判っているし、保健室でどうこう出来る話じゃないから。」
愛斗の返答に納得が行かないのか、西邑は鋭い視線を向けて来る。
「自分の体調を自己判断するのは危険だぞ、真里。今迄もそうだが、君は一人で背負い込み無意味に張り詰める癖が有る様だ。」
愛斗にとって少々心外な見解だった。というのも、その様な破目に陥るのは常に生徒會役員として華藏月子の口から出る数々の叱責を受けまいと足搔いた結果だったからだ。
しかし、事が起きる前ならいざ知らず、親友が生徒會役員である事を忘れ去った今の西邑はその様な事情等与り知らない様で、距離を詰めて来る。それ許りか、壁際に追い込んで逃げ道を塞ぐ様に手を突いてきた。
「私はね、真里、酔狂ならいざ知らず、自傷に付き合うつもりは無いのだよ。」
「あ、うん……。解ったよ。だからこの手、退けてくれない?」
「保健室に行くぞ。君をベッド迄連れて行く。」
そんな様子を見て、周囲の華藏生達が秘々と囁いていた。愛斗は妙に居た堪れない気分になりながら、渋々西邑と共に保健室へと向かった。
『西邑龍太郎……。陰気な文学少年だと思っていたけれど、大人しい様で中々エキセントリックな性格みたいね……。』
二人の遣り取りを受け、憑子は一人感想を漏らしていた。
☾☾
愛斗は保健室で一時限程度休憩する事を許され、ベッドで横になっていた。彼は横目で、保険医が居なくなるタイミングを見計らう。
(良し、今なら……!)
そして、隙を見て彼は窓から保健室を抜け出した。
『君も中々大胆な事をするのね。』
「誰かさんの権力はもう學園には及ばないですからね。好きにさせて貰いますよ。」
憑子の言葉に皮肉で返しながら、愛斗は校舎脇の道を抜けて体育倉庫前を横切った。食欲は余り無いが小腹は空いていたので、残った軽食を買おうと青空の下小走りで購買部へ向かっていた。
しかし、そこで見た事のある顔が彼の方を向いて声を上げた。
「あ、あいつ‼ 紫風呂君、こいつだよ‼ 真里とか云う生意気な餓鬼は‼」
「ああん?」
愛斗を指差していたのは彼のクラスと繋がった教室に居た不良男子達だった。どうやら教室以外のルートで假藏側から華藏側に抜ける方法が在るらしい。
愛斗は想定外の遭遇に驚いて立ち止まる。
「西邑……! あいつが保健室に連れて来なければ……‼」
『何方かと言うと君が勝手に抜け出したからでしょう。』
「ぐ、確かに……。」
愛斗を取分け委縮させているのは彼等の後ろで腕を組んで佇む大男だった。
(先刻は居なかった不良だな。)
假藏學園で頂点を狙える上級不良の一人、紫風呂来羽が指の関節を鳴らし乍ら取り巻きを掻き分けて愛斗の前に踏み出して来た。
「本当に丸切り餓鬼じゃねえか。お前等、こんなのに舐められて恥ずかしくねえのかよ? 天下の假藏の名が泣くぜ?」
愛斗は周囲の様子を窺う。授業中なので、体育倉庫周りに彼等以外の人影は無いかと思えば、其処彼処に假藏の不良男子女子が屯していた。
『何が天下の假藏の名よ。私の學園を我が物顔で蹂躙してくれるとは、良い度胸じゃない。真里君、ガツンと噛ましてやりなさい!』
「會長……。他人事だと思って……。」
憑子の身勝手な無茶振りには呆れ果てた愛斗だったが、此方に戦う気が無くてもこの紫風呂と云う大男は見逃してくれるつもりは無い様に思える。同時に、愛斗は不良達に対して不快感は同じくしていた。
「どういう訳か假藏と繋がっちまったからには、華藏の坊ちゃん嬢ちゃんもそれなりの態度を覚えた方が良い。だから先ずてめえは見せしめにする。」
紫風呂の剛腕が唸り、拳を愛斗の顔面に向けて飛ばした。しかしこのまま戦う意思など微塵も無い愛斗は一目散に後方へ逃げ出した為、紫風呂の拳は空を切った。
「待てコラァ‼」
追い掛けて来る紫風呂達不良男子だったが、華藏學園の地理に疎い彼等は愛斗が何処へ向かっているのか知らない。愛斗は唯逃げた訳ではなく、或る場所を目指していた。
『真里君、お目当ては体育倉庫ね?』
「ええ。能く判りましたね。」
『違っていても、そう助言するつもりだっただけよ。でも、今あそこは鍵が掛かっているわ。』
「あ、そうか‼ ……って、じゃあなんで會長はそんな助言を?」
走る愛斗の横に白い靄が月子の顔を模る。その彼女は不敵な笑みを浮かべていた。
『問題無いわ。真里君、窓に飛び込みなさい。硝子を割る事は所有者たる私が許すわ。』
「いや、僕の体が……。」
『君の体には今、私の身体能力が上乗せされているから、窓程度の高さなら問題無く跳び越えられる筈よ。』
身勝手な余り会話が噛み合っていなかった。憑子は愛斗の身体が傷付く事など一顧だにしていない。
しかし目論見が外れて選択の余地が無い愛斗は、結局彼女に言われるが儘にする他無かった。
「うわああああっっ‼」
悲鳴と共に覚悟を決め、なるべく傷つく面積を減らし急所を守るべく体を丸めて愛斗は跳んだ。自分でも驚くほど高く飛べた為か、硝子を割った痛みは然程感じなかった。
「あの野郎‼」
不良達に愛斗の真似は出来ない。腕自慢の不良とはいえ一般人の跳躍力では高さがある上、割れて残った窓硝子が鋭利な刃を光らせており、割る前より危険な状態と成っている。
「フン、扉の方を打ち破れば済む話だ。」
紫風呂は蹴りの一発で体育倉庫の扉を破壊した。
「金属バットでも装備する気か? そんな物、俺には通じ……っ⁉」
闇の中、愛斗と眼が合った紫風呂は唖然としていた。|何故《なぜ》なら愛斗はその場に居る誰にも想定の出来ない行動に出ていたからだ。
『駄目よ真里君‼ 幾ら何でもそれは‼』
憑子ですら慌てて止めている。愛斗は確かに鈍器となる棒状の武器を手にしていた。しかし、それは金属バットの比ではないリーチで紫風呂の鼻先を掠めた。
紫風呂の鼻から血が垂れる。無論、喧嘩慣れしている彼にとってその程度の傷など日常茶飯事であり、通常なら寧ろ逆上させるだけだ。問題は、彼にそんな傷を負わせた愛斗の武器である。
「頭目掛けてフルスイング……! 十キロあるバーベルのバーだぞ……⁉」
二十八ミリ径二百センチ尺のシャフト、重りの無いバーベルのバーを、愛斗は扉を破られた瞬間に躊躇いも無く紫風呂の頭の位置目掛けて全力で振り抜いたのだ。幸いな事に間合いの目算を誤ったので大事には至らなかった物の、一歩間違えれば大惨事は必至だった。
「い、イカレてやがるこいつ‼」
紫風呂は単なる巨漢であるだけでなく、假藏の頂点を取る為に筋力トレーニングに勤しんでいた。その為、愛斗が自分に振るってきた武器が如何に危険な物であるか良く知っていたのだ。
こいつは殺れる側の人間だ‼――紫風呂は冷や汗を掻きながら目の前の相手を無害な羊と見紛ったのだと悟った。
「紫風呂君……?」
鼻を抑え、戦意を失った様子の紫風呂に後から取り巻きの不良が不審に思って声を掛ける。そんな彼等を制し、紫風呂は静かに語り始めた。
「良い。こいつの事はもう良い。ハッキリと解った。華藏は全員が全員生白い坊ちゃん嬢ちゃんじゃねえ。仁観やこいつみてえな、人を殺せる牙を持った狼も確実に居やがるんだ……!」
「ええ……! 自分であそこまで言っといて退いちまうのかよ、紫風呂君?」
捏ねる取り巻きは状況を、相手の危険性を解っていない。それは紫風呂との不良としての才能の差だった。そんな彼を、紫風呂は一喝する。
「五月蠅えよ! じゃあてめえがあの分っ太いパイプで頭勝ち割られてみるか?」
「い、いや……。」
「兎に角、こいつと仁観、それから、何て言ったか? 西邑……だっけ? そいつらの事は放っておくぞ。」
紫風呂達はそう言うと、すごすご愛斗の前から引き下がって行った。
「ふぅ~……。ああ、怖かった……。」
『私は今、寧ろ初めて君の事を怖いと思ったわ。』
何はともあれ、愛斗はこの日二回目の不良絡みの危機をどうにかやり過ごした。
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