第八話 壊れた青春
Tornami avanti s'alcun dolce mai (我が前に戻って来い、幾許かの甘美よ。)
Ebbe 'l cor tristo; e poi dall'altra parte (この悲しき心に在るならば、だが一方では、)
Veggio al mio navigar turbati i venti (見えるのだ、我が船路に風が吹き荒ぶのが。)
Veggio fortuna in porto'e stanco omai (見えるのだ、港の中も荒れ、船乗りは、)
Il mio nocchier'e rotte àrbore e sarte' (疲れ果て、そして壊れたのだ、帆柱も艫綱も。)
E i lumi bei'che mirar soglio'spenti. (そしてあの美しい光、私が見詰め続けたものも又、消え去ってしまったのだ。)
――フランチェスコ・ペトラルカの詩『La vita fugge e non s'arresta un'ora(人生は逃げて往き、一時も留まる事は無い)』より
名門私立校・華藏學園と底辺不良校・假藏學園、共通のルーツを持つ二つの學園の教室が今、互いの窓側の壁で反対向きに繋がってしまっていた。
真里愛斗は驚愕から腰を抜かして椅子から転げ落ち、隣の席では彼の親友の西邑龍太郎も普段の冷静沈着、何事にも無関心な鋭い目を教科書から周囲の状況に移し瞠っていた。
「な、何だ君達はァーッ⁉ 授業中だぞ‼ 一体どうやってこんな事を⁉」
華藏學園の数学教師・黒沢春好が突然現れた假藏の不良生徒達に驚愕と恐怖を含んだ怒鳴り声をぶつけた。假藏生たちはそんな彼を鼻で笑う。
「どうやって? そんな事、こっちが訊きてーよ。」
「いきなりこっちに来たのはお前等の方だろ?」
確かに、如何に假藏生が無軌道な連中とはいってもこんな超常現象を起こせる訳が無い。
「しかしよ、どうやら俺達の教室が華藏の教室と合体しちまったらしい。」
「『授業中だぞ』なんて言葉、凄え久々に聞いたよ。」
「ていうか『授業』なんて中坊までしか受けんもんだろ?」
華藏側とは対照的に、假藏側は肝が据わっているのか落ち着いている。というより、深く考えずに状況をありのまま受け容れ、楽しんですらいる様子だ。
假藏生にとって華藏學園の制服が自分達の物と似ている事は良く知られている事だが、華藏生にとっては違う。假藏生は元華藏生と縁が在るが、逆は無いからだ。
しかし唯一人、假藏學園の事も知る華藏生が存在する。否、「存在した」と言うべきか。
「憑子會長。」
『何、真里君?』
「さっき、華藏と假藏が一つになったって……。」
『ええ、そうよ。彼等が着ているのは、まあ随分改造してくれた様だけれど、假藏學園の制服。恐らく、空間レベルで捻じ曲げられて二つの學園は融合したのよ。』
そう、これら二つの學園を所有している華藏家の人間、その令嬢である生前の華藏月子、現在真里愛斗と共に在る憑子だけは、繋がった相手側高校が假藏學園だと承知していた。
一方、愛斗の周囲は地獄絵図と化していた。
「へぇー、高校の授業ってこんな教科書使ってるんだー。」
「お前中身解んの?」
「いや、全然。俺、数学とかマイナス出て来てからさっぱりだし。」
「お前、頭良いじゃん。俺なんか分数でアウトだったよ。」
一方的に教科書を取り上げる假藏生に、愛斗のクラスメートは声すら上げられなかった。又、別の所では女子生徒が迷惑行為を受けている。
「君、可愛いね。今から俺達と何処か遊びに行かない? イカすクラブで最高の気分になれるよ?」
「や、止めてください‼」
「嫌よ止めては好きの内ってか? あ、もしかして君の寂しい気持ちが俺達に通じて、こんな事になったのかな? なんつって。」
假藏の男子生徒からナンパされる華藏の女子生徒も居れば、假藏の女子生徒から嫌がらせを受ける華藏の女子生徒も居る。
「お前生意気だよ‼ お高く留まって如何にも大人しいですって顔して、ちゃっかり色気好いててんの、バレないとでも思ってんの?」
「髪も肌も爪も、、手入れしてなきゃ絶対こんな綺麗になんねーって! 男は騙せても私らは騙せねーよ!」
假藏男子に強引に連れ出されそうになっている華藏女子も、假藏女子に髪を引っ張られている華藏女子も、又彼等に怯えて何も出来ずに居る華藏男子も、この様な目に遭わされる謂れ等何一つ無い。
彼等の平和な學園生活が脅かされている。――それを目の当たりにした愛斗は屁垂り込んだままでは居られなかった。
(確りしろ……! 僕は、誰が何と言おうと生徒會役員なんだぞ……‼)
愛斗は脚に力を入れ、震える心と体に鞭打って立ち上がった。そして周囲の状況を一通り見渡して考える。
(色々な所で滅茶苦茶やられている。これはもう、一件々々止めている場合じゃない。)
華藏生にしてみれば、訳も分からず突然野蛮な不良達に日常を脅かされた格好になる。そして、生徒達の學園生活を守り、より良い物へと改善する為に活動するのが生徒會役員の務め。――愛斗はそんな決意と共に深く息を吸い込んだ。
「いい加減にしてくれ‼」
雑話付く声に紛れぬよう、精一杯の大声を張り上げて愛斗は假藏生達の蛮行を止めようとした。幸か不幸か、この生意気で小柄な少年に不良達の視線が集まり、一連の嫌がらせは一時的に止まった。
「何だこの砂利餓鬼? ここ、中学校だったのか?」
「確か華藏も中坊から通ってるんだっけ?」
「ああ、だったら中坊脅かしてダサかったかもな。」
「ごめんよー。」
假藏男子たちは愛斗の容貌を揶揄っているのか、それとも本気で彼を中学生と思ったのか、へらへらと笑って態とらしく謝り始めた。一方、假藏女子はそんな男子たちの態度に呆れている。
「阿保臭……。こんな色気好いた中学生が居るかよ。」
「アンタら、こんなしょうもない餓鬼みたいな男に生言われて黙ってるつもり?」
「そのしょうもない男が口出ししてくるまで大人しくしてた華藏の男子もダセーけどさ。」
明らかに下に見られている愛斗だったが、彼にとってそれは基より承知の上だった。何より、華藏生からも虐めを受けていた彼は、假藏生に舐められない訳など無いと思っていた。ただ、それでも何もしない訳には行かなかったのだ。
「突然こんな事が起きて、混乱するのは無理も無いと思う。でも、相手の迷惑を掛けない様には出来ないのか?」
愛斗はそう言うと、授業を止められた数学教師・黒沢に願い出る。
「黒沢先生、準備室に机が余っていますよね? それを持って来て、一先ず二つの教室の間に即席の壁を作りましょう。」
愛斗の提案に、假藏生達は顔を顰める。そして、口元だけで作り笑いを浮かべて彼の許に寄って来た。
「おうおう坊や、俺達を除け者にしようってか? そりゃ無いんじゃないかな?」
「そう露骨に邪険にされちゃ、俺達も傷付いちゃうよ。」
彼の許に集まって来て眼を付ける不良達は皆愛斗にとって見上げるほど背が高い。しかし、彼は毅然として言い返す。
「先生も、今は授業中だって言っただろ? だったらこんな事が起きても、滞りなく授業出来る様に考えるのが当然だ。君達に僕達の學園生活を邪魔する権利は無い。勿論、僕達も君達の學園生活に干渉しない。だから、お互いに棲み分けるべきだ。そして、何が起きてこうなったのか、その原因を突き止めて元に戻す。」
愛斗は絡んで来る不良達に自分の主張だけを伝え、後は捨て置く様に再び黒沢の方へ目を向けた。
「先生、授業を続ける為にもどうか許可を。」
「あ、嗚呼……。真里君、君学級委員だっけ?」
どうやら教師の黒沢も愛斗が生徒會役員である事を忘れている様だ。しかし取り敢えず責任者たる彼の了承は得たので、愛斗はクラスメート達に指示を出す。
「じゃあ皆、さっき言った通り準備室から机を持って来てくれ。バリケードを作ろう。」
「解った。」
真っ先に愛斗の指示を受け容れて動いたのは親友の西邑だった。そして彼の後に一人、二人と男子生徒達が続いて行く。
一方、假藏生達にとっては面白くない展開である。
「一寸々々、何勝手に決めてんだよ!」
不良の一人が愛斗の胸倉を掴み、爪先立ちにさせた。遂に暴力が自校の生徒に牙を剥いたとあって、教師の黒沢は慌てて止めに入る。
「き、君! 止めないか‼」
「うっせえんだよ教員のオッサンが‼」
黒沢が不良に殴り飛ばされた。或る意味当然の帰結だが、真っ先に假藏生の暴力を被ったのは華藏教師だった。
「く、黒沢先生‼」
華藏の生徒達から悲鳴が上がる。そして混乱する状況を笠に愛斗は不良から更に脅しを掛けられた。
「謝るんなら今の内だぜ? てめえもあの教員みたくなりたくないならな‼」
掴み上げられた胸倉を更に力を込めて締められた愛斗は息も出来なくなり、謝る所ではない。
しかし、次に暴力の標的となったのは愛斗ではなかった。
「おいてめえ! 何処に連絡するつもりだ⁉」
スマートフォンで何処かに連絡を取ろうとしていた現場を不良に抑えられたのは愛斗の親友、西邑だった。
華藏學園では校則で携帯電話等の使用を課程時間中、昼休みを除いて禁じられているが、持ち込みは許可されている。そしてそれは、緊急事態の連絡を想定した規則である為、已むを得ない事情が有る場合は適用外となる。
西邑がスマートフォンを取り出した現状は完全に異常事態であり、校則に悖るものではなかった。
(西邑、警察に電話しようとしたのか? 僕を助ける為に……。)
尤も、七十キロも離れた二つの學園が空間の捻転により繋がっているというこの異常な状況である。警察の介入が果たして可能なのか、それすらも定かではない。しかしその行為は、不良達の怒りの矛先を西邑に集めるには充分過ぎる物だった。
「ママにでも助けてって電話しようとしたのか?」
そう完全に西邑を見下しつつ、彼のスマートフォン端末を取り上げた不良だったが、その画面をのぞき込んだ瞬間一気に彼の顔は青褪めた。
「かっ……こっ、こいつ……戯け……っ‼」
動揺する不良を、西邑の鋭い目が眼鏡の奥から無言で睨み上げ、威圧していた。見た目、単なる痩躯で根暗な文学少年に強面の不良生徒が気圧されている、それは異様な光景だった。
「おい、どうしたんだよ?」
愛斗の胸倉を掴んでいた仲間に問い質され、不良男子は西邑の携帯の画面を彼に見せた。すると仲間も又、愛斗から手を放し見る見る青褪めて行く。
よく解らないけど、これはチャンスじゃないか?――愛斗はこの機を逃すまいと、不良から西邑の携帯を引っ手繰った。
「いつまで他人の携帯覗いてるんだよ?」
先程まであれだけ暴力に恃んでいた不良達が、強気な愛斗の態度に、反発を覚えているのは明らかにも拘らず、何やら躊躇っている。
「……解ったよ。好きにしろよ……。」
愛斗に突っ掛かって来ていた不良は打って変わって大人しく引き下がった。
「有難う、西邑。」
「恐縮だな。寧ろ私達は君に謝らなければならないだろう。クラスのピンチに、君と黒沢先生だけが体を張った。」
西邑は愛斗から電話を受け取ると、画面を切ってポケットに仕舞った。
「私が何処に連絡しようとしたか、気にならないのか?」
「先刻も言ったけど、他人のスマホ覗く趣味は無いよ。仮令親友のでもね。」
「親しき中にも礼儀在り、か。君らしいな。さて、では彼等の気が変わらない内にさっさとバリケードを作ってしまおう。」
「ああ、頼む。僕は他のクラスの様子も見て来るよ。」
そう、この異常事態が起きたのが愛斗のクラスだけとは限らない。寧ろ、全クラスで同じ事が起こった、くらいの考えで居た方が良い。――愛斗はそう思い、自分のクラスの対応を伝えようと考えていた。
しかし、そこで彼に待ったが掛かった。
「待てよ、真里。」
「学級委員でもないお前にばっかりリスクを負わせるのは気が引ける。」
「俺達も動くよ。特に、運動部で体を鍛えている俺達の方が不良相手にも多少のやり様は有るだろう?」
クラスの男子達が、愛斗の代わりに連絡を引き受けてくれると名乗り出た。
「真里、お前はバリケード作りの指示を出してくれ。」
どうやら、この場は何とか上手く収まりそうだ。
☾☾
昼休み、凡そ全クラスでバリケードが組み上げられた中、とある教室で二人の女子に傅かれながら一人の巨漢が青筋を立てていた。
「つまり、その真里と西邑って餓鬼を調子付かせた結果が、今って訳か……。」
假藏學園の二年生、紫風呂来羽。爆岡義裕不在の假藏學園に於いて、二年生ながら頂点争いの有力候補に挙げられる男である。そんな彼の力に怯えてか、周囲の男子達は完全に委縮してしまっている。
「尾咲と相津は『祠ン処』から戻って来ねえってな……。どいつもこいつも……天下の假藏學園の名が廃るぜ全くよぉ……。」
紫風呂は徐に立ち上がった。
「まあ西邑って奴は兎も角、その真里チャンってのはきっちりシメとかなきゃな……!」
巨漢の眼光がその場に居る誰よりも高い位置で妖しく光り、未だ見ぬか弱き少年に狙いを定めていた。
お読み頂き誠にありがとうございます。
宜しければいいね、ブックマーク、評価、感想等お待ちしております。
また、誤字脱字等も見つかりましたらお気軽に報告いただけると大変助かります。