第七十九話 憑物落とし
私の事は「憑子會長」と御呼びなさい。
――憑子
その時、絶望していたのは真里愛斗だけではない。
校内放送で流れてきた音声を聞かされ、保健室で戸井宝乃を始めとする彼の知己達もまた顔を顰めていた。
「何なの、あの女……。こんな仕打ち、完全に悪魔じゃない……。」
戸井は愛斗がどんな思いで生徒會役員を続けていたか知っている。噂好きの彼女にとって、色恋沙汰の話題は大好物だからだ。そんな彼女だからこそ、愛斗が受けている仕打ちを音に聞き、華藏月子に怒りと嫌悪感を覚えていた。
「駄目……ですか。しかし、我々は真里君に救われたかも知れません……。」
竹之内灰丸は深い溜息を吐いた。大人として、『裏理事会』の長として、事態を愛斗と憑子に押し付けておいて、解決が叶わなかったたらといって彼等を責めるような真似は出来ない、という分別は持ち合わせている。
「何もかも、華藏月子が一枚上手だった。」
戻ってきた彼の娘、竹之内文乃も沈痛な表情で俯く事しか出来ない。
しかし、そんな重い空気が一変する。
「え? 今の……。」
「華藏月子の声、しかし、文脈がおかしい。」
「つまり、『新月の御嬢様』?」
憑子が生きているそして、最後の抵抗を試みている。――その事実が、僅かな希望を蘇らせた。
保健室で待つ者達、學園内に取り残された者達は、引き続き成り行きを見守る。
☾☾☾
生徒會室、愛斗の眼の前で月子は頭を抑えて苦しみ悶えている。
「莫迦な……! 貴女は完全に掻き消した筈よ……! こんな事は有り得ない……‼」
『確かに、私は敗北したわ。私自身、死ぬかと思った。いいえ、殆ど殺されたも同然ね。貴女の中に残っているのは、ほんの僅かな残滓に過ぎないもの。』
月子にとって想定外の事が起きた事は確からしい。
『貴女が私を迎撃した〝光の力〟は圧倒的だった。私が持ち込んだ力は全く歯が立たず、完全に消滅した。しかし、一つの偶然が私を辛うじて生に支噛み付かせたの。本当に崖っ縁に追い込まれていたから、抵抗出来る程の意思を回復させる為に今の今迄掛かってしまったけれどね。』
「偶然……ですって?」
『ええ、私と貴女は元々肉体を共有していた者同士。従って、元鞘に戻った時に貴女の体に流れていた〝青い血〟は私にもまた分け与えられ、そして馴染んだ。遺伝子が同じ双子だったことも影響しているのでしょうね。』
「ふ、巫山戯るな‼」
月子は力みながら少しずつ、丸で何かに抵抗する様に背筋を伸ばしていく。
「この体は私の物よ‼ 他の誰でもない、私だけの体なの‼ それを貴女が……‼」
愛斗は月子の顔を見て戦慄した。そこには底知れぬ冷酷な美しさなど最早微塵も無く、唯々怒りと憎しみに歪んだ悪鬼のそれが在った。
「何時もずっと……‼ 生まれた時からそうだった! 他の人間誰もが持っている、自分だけの物が私にだけ無かった! 貴女さえ居なければ私は完璧な人間として生きていけた! 剰え、私が手に入れた物迄全部横取りしようとするの? そんなの、絶対許さない‼ 『光の力』で殺し損ねたのなら、心筋の物理力と免疫力で跡形も無く磨り潰してやる‼」
『そうね……。その点は私も申し訳なく思っていたわ。だから、貴女を信じていた頃は事が終われば全て貴女に返すつもりだった。けれども、貴女の本性を知った今、此方としてももう譲れない。〝青い血〟が汎ゆる力を増幅させ、意識の支配力を内臓や免疫機能の作用に迄及ぼさせるというのなら、それは私も同じ事。悪いけれど、死んで貰うわよ、月子‼』
どうやら、体の中で憑子と月子が鬩ぎ合っている。これで憑子が勝てば、愛斗達の大逆転勝利である。しかし、事はそう上手く行かないらしい。月子の表情の歪みは次第に怒りと苦悶から勝ち誇った笑みに変わっていく。
「ふふ、ふふふふふ! 所詮貴女は私の体に取り憑いた小さな嚢腫、その更に残骸に過ぎない……‼ 同じ『青血の至高神』の力を得たとて、生命力では私の方が遥かに上の様ね‼」
『ぐ……く……‼』
「さっさと死ねえっ……‼」
月子は抑え付ける力を強める様に体を屈め、一気に憑子を追い込もうとしている様だった。折角希望が繋がったのに、この儘ではまた悪魔が微笑む結果に終わってしまう。
愛斗には何も出来ない。唯一つを除いては。
「が、頑張れ……‼」
「あ?」
『真里君……‼』
「憑子會長、頑張れ‼」
彼の応援に応える様に、押し返す様に、月子の身体は再び反る。
「この……死に損ないが……‼ 無駄な抵抗は……止めなさい……‼ 真里君も……後で覚えていなさい……‼」
と、その時だった。月子の顔が不自然に痙攣し、明らかにその容貌を変えていく。
「な、何⁉ 何なのこれ⁉」
月子の顔、耳の下辺りから小さな別の顔が浮かび上がった。否、その一つだけではない。後頭部から、肩から、胸から、体中から細胞が暴走して増殖したかの様に大量の顔が浮かび上がり、彼女の制服を肉で突き破る。
「ガアアアアアッ⁉ 何よこれええええッッ⁉」
月子本人の顔が唯一つ、初めて恐怖に歪んでいた。これこそは、憑子の最後の抵抗。彼女以外の無数の顔が声を重ねて喋る。
『月子、多分私は無意識の内に、自分の細胞分裂を抑えていたのよ。だから心臓という命に直結する臓器に取り憑きながら、ずっと貴女は何不自由なく生活出来た。今〝青い血〟の力を得て、そして命を追い込まれて、それを抑えられなくなった。その結果、私の体そのものが不死の存在、即ち、癌細胞となった。しかも、〝青い血〟によって極めて強力な力を備えた、常識外れの増殖力と免疫機能でもどうにもならない生命力を併せ持った癌細胞よ。』
「ば、莫迦‼ そんなことをしたら貴女も死ぬわよ⁉ 今直ぐ止めなさい‼」
『それは無理だわ。貴女に死の淵まで追い込まれた私に最早そんな力は無いもの。癌細胞の本能の儘に、限界を超えて増殖するだけ。それに、元々私は命を惜しんでいない。』
月子の身体が、あの奇跡的な芸術の様に美しかった肉体が、見る影も無い醜悪な肉の塊、無数の顔を備えた何かへと変貌していく。
「い、嫌‼ この私が……‼ こんな……こんな死に方……‼ ああああああああアアアアッッ‼」
遂には月子本人の顔が他の顔に埋め尽くされ、緩やかに増殖を止めていく。次第にその肉塊は動かなくなり、融ける様に形を崩し始めた。
華藏月子は死んだ。しかし、当初の見込みと異なり、肉体諸共完全に死んだ。即ち、それは今度こそ憑子迄もが死んだことを意味する。
愛斗は再び項垂れ、床に手を突いて大粒の涙を溢した。
「會長……‼」
憑子は我が身を犠牲にして月子を殺した。最期まで、己の身体を張って愛斗を初めとする學園の生徒達を護ったのだ。
「御免なさい……憑子會長……! 僕のせいで貴女を死なせる結果になってしまった……‼ あの時僕が欠伸なんかしなければ、こんな酷い事にはならなかったかも知れないのに……! それなのに貴女は、全部自分で責任を取って……! 御免なさい‼」
月子の本性があの様な邪悪であった以上、愛斗が入學式で不興を買おうが買うまいが、孰れ憑子を殺そうとした事に変わりはあるまい。少し考えればそれが妥当な結論である。しかし、愛斗の胸は後悔で一杯だった。巨大な喪失の悲しみが彼からその程度の判断力をも奪い、結果として無限に深い奈落の底へと自責の念で苛んでいた。
しかし、そんな彼に語り掛ける声が聞こえた。
『謝るのは私の方よ、真里君。』
愛斗は驚いて声のする方を見上げた。信じられない事に、そこには華藏月子の姿を模った白い靄、この三週間で見慣れた憑子の姿が在った。
「會長……? どうして……?」
『それ程おかしな事ではないわ。東の祠で、私達は曾々御爺様達〝學園三巨頭〟に会ったでしょう。祠の力の影響で、死んだ人間の霊魂が姿を顕すのは、在り得ない話ではない。』
死んだ人間。――その言葉が愛斗に静かに現実を思い知らせる。奇跡的に再び会えたが、同時に正真正銘、これが最後なのだ。
『真里君、本当に御免なさい。私の勝手で、君を酷く傷つけてしまった。大切なものを奪ってしまった。元々、万が一に私が死ぬ事になっても、君がその事に苦しまなくて済む様にもしたかった。でも君は優しいから、結局無駄な事だった様ね。無力な私を許して欲しい……とも言えないわね。許されない事をしたのも事実だもの。』
憑子は優しくも悲し気な眼をして愛斗を見下ろしていた。その姿、出で立ちは愛斗にとって大いなる救いだった。邪悪に塗り潰された想い人の像が、元の美しい姿になって戻って来たのだ。憑子が彼の初恋を修復してくれたのだ。
『君は本当に能く働いてくれたわね。それなのに、何時も厳い言い方をしてしまって御免なさい。僅かに残っていた意識の中で、あの女を私だと思って溢した君の想いを聞いたわ。確かに、私は君の事を碌に褒めてあげなかった。君が私の為に頑張ってくれるのが嬉しくて、それでもっともっとと欲張ってしまって、君の好意に甘えてしまっていたの。君に嫌われるつもりではあったけれど、君を苦しめる事になるという当たり前の事も忘れてね。君はどんな無茶振りにも応えてくれる有能な部下で、私はその有難みを忘れた無能な上司だった。』
「會長……。」
らしくもない殊勝な言葉が、最後を実感させる。
『そんな君を見込んで、何も出来ない私から最後の頼みが有るの。是非、聞いて欲しいと思っているのだけれど。』
「何でしょう?」
『ずばり、學園の異常事態についてよ。』
そう、首謀者の華藏月子が死んだとはいえ、祠の力に因って一つに繋がってしまった華藏學園と假藏學園は依然その儘である。
『月子と再び一つになって判ったわ。どうやら二つの學園が融合した異常事態は、彼女の意思に因って維持されていた様なの。だから彼女が死んだ今、解析すれば二つの學園を分離するのは容易い筈よ。数日前にあの女の本拠地に乗り込んだ時の様に、竹之内先生の娘さんに御願いして元の状態に戻して貰いなさい。』
「はい。勿論、そうします。最初に頼まれた仕事ですから、必ず果たします。」
今更断る筈も無い、愛斗も憑子と同じ気持ちだった。寧ろ、最後にその道筋を見出した彼女は矢張り尊敬すべき人間だったと改めて思い出した。
『真里君、今迄私の我が儘に付き合ってくれてありがとう。最後にもう一つ、勝手な事をさせてね。』
憑子の顔が愛斗に近付いて来た。思い出の中、夢の中にあるが儘の、美しい華藏月子の表情で。
今や、彼女が触れる感覚を愛斗が確かめる事は出来ない。だが、その瞬間に二人の唇が重なったのだと、愛斗には疑い様も無く解った。唯愛おしく、切ない時が流れる。また一つ、穢された愛斗の心は浄化されていく。
少しずつ憑子が薄れていく。別れの時を察したのか、彼女は愛斗から唇を離した。愛斗が見上げる先には優しく、何処か寂し気な彼女の微笑みがあった。
『さようなら。今迄本当にありがとう。元気でね、真里君。』
「さようなら、憑子會長……。」
薄れていく。彼女は愛斗にとって學園の青春そのものだった。確かに報われず、辛く苦しい時を長く過ごした。愛していた始まりは全て嘘であり、隠されていた真実は余りにも悍ましいものだった。だが、彼女は最後にその全てを奇麗な思い出に変え、美しい幻となって愛斗に別れを告げる。
『ずっと好きだったわ、真里君……。』
「ええ、僕も……。」
華藏月子の姿が、憑子が愛斗の前から消えてしまった。憑物少女との奇妙な共同生活は今この時終わりを告げた。
次回、最終話の更新は明日12月31日です。
よろしくお願いします。




