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殺戮學園逝徒會畸譚  作者: 坐久靈二
第四章 殺戮學園と一つの大事業

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第七十八話 摩訶鉢特摩

Gib deine Hand, du schön und zart Gebild! (手を取りなさい、見目麗しき乙女よ。)

Bin Freund und komme nicht zu strafen. (私は味方であり、其方を脅かす者ではない。)

Sei gutes Muts! Ich bin nicht wild, (恐れないで、私は獣ではない。)

sollst sanft in meinen Armen schlafen! (腕の中、其方に安らかなる眠りを与える者也。)


――フランツ・ペーター・シューベルト、歌曲『死と乙女』 (詩:マティアス・クラウディウス)より。

 全ての望みは絶たれた。

 真里(まり)愛斗(まなと)を腕の中に囲い込んでいるのは、(かつ)て誰よりも恋い焦がれ、そして今でも思いを棄て切れない美少女。現在誰よりも想い憧れ、そして手放しに憎み切れない少女と同じ姿形をした、その仇。いとも容易(たやす)く人の命を奪い、尊厳を踏み(にじ)り、痛み苦しみ悲しみ絶望に愉悦を覚える悪魔と形容する他の無い女。(よわい)十七の稀代の悪女。


 華藏(はなくら)學園(がくえん)を殺戮の學園(がくえん)に変え、超常の力に()り全てを弄び支配しようとする邪悪の化身・華藏(はなくら)月子(つきこ)がうっとりする程に麗しく柔和で、ぞっとする程に(おぞ)ましく冷酷な微笑(ほほえ)みを浮かべて見下ろしていた。


「どうして……こんな事を……。」


 最早抗う術の無い愛斗(まなと)は、小動物の様に怯えながら今更になって彼女へ問い掛ける。


貴女(あなた)は……華藏(はなくら)月子(つきこ)先輩ですよね? あの時……中等部へ入學(にゅうがく)して早々、(いじ)めで毎日苦しめられていた(ぼく)に手を差し伸べてくれた、あの華藏(はなくら)月子(つきこ)先輩なんですよね⁉」

「ええ、(わたし)が正真正銘の華藏(はなくら)月子(つきこ)よ、(おお)欠伸(あくび)の少年、真里(まり)愛斗(まなと)君。」


 月子(つきこ)()可笑(おか)しそうに口角を上げて白い歯を覗かせた。その微笑(ほほえ)みは菩薩(ぼさつ)や天女の(ごと)き崇高さを持ちながら鬼畜や悪魔の如き狂気を(はら)んでいる。抱擁(ほうよう)()嗜虐(しぎゃく)的、耽美(たんび)()つ露悪的なその有様は愛斗(まなと)の心を一層深い悲しみと苦しみに染めていく。


(ぼく)は、貴女(あなた)に救われました。貴女(あなた)が居たから、(ぼく)は生きる事が出来ました! そんな貴女(あなた)が、弱く悩み苦しんでいた(ぼく)に手を差し伸べてくれた貴女(あなた)が、どうしてこんな事を……‼」


 困惑、怒り、悲しみ、そんな複雑な思いの丈をぶつけた愛斗(まなと)が仰ぐ月子(つきこ)の目が見開かれた。彼女は愛斗(まなと)から手を離し、後退(あとずさ)ると片手で頭を、もう片腕で脇を抑えて、何かに苦しむかの様に身を屈める。


華藏(はなくら)……先輩……?」

「ううぅっ……‼」


 月子(つきこ)(うめ)く様な声を漏らす。何か様子がおかしい。心配になった愛斗(まなと)が歩み寄ろうとした、その時だった。


「うくくっ……アハハハハハハハ‼ (きみ)って本当、最高だわ‼ その反応が欲しかったのよねえっ! あはははは‼」

「え……?」


 弾けた様に腹を抱えて大爆笑する月子(つきこ)に、愛斗(まなと)は顔を蒼くして凍り付いた。


「でも真里(まり)君、この期に及んで()だあんな思い出を手放しに信じているなんて、少々御莫迦(ばか)が過ぎるんじゃないかしら。」

「どういう……事ですか……?」


 恐る恐る尋ねる愛斗(まなと)だったが、何となく予感はしていた。それは半ば、答え合わせに近かった。


「あれね、(そもそ)(きみ)(いじ)めていた伊藤(いとう)君と則山(のりやま)君、彼等を裏から動かしていたのはこの(わたし)よ。」

「え……?」


 月子(つきこ)は背筋を伸ばし、底意地の悪い笑みを浮かべて愛斗(まなと)に迫る。


「まあ、色々と間に挟んで、(わたし)が彼等に働きかけていたと直接は分からない様にしていたけれどね。ああ、(ちな)みに双子の妹だけは流石に普通では騙し様が無いから、そういう時の為に(でっ)ち上げたのが所謂『學園(がくえん)の悪魔』と呼ばれる(わたし)の分身よ。あの()も見事に、(わたし)の中に巣食う別の邪悪な存在の仕業だと思い込んでくれたわ。ま、何にせよ色々苦労はしたわよ。」


 余程ネタ晴らしをしたくて仕方が無かったのだろう、月子(つきこ)は嬉々として早口に(まく)し立てる。


「本当に、あの時(きみ)転裏(コロリ)(わたし)(ほだ)されてくれて、愉快だったわ。大きく丸い綺麗な瞳を涙で潤ませて、とても可愛い反応だったわよ。」

「な、何で……?」


 震える愛斗(まなと)の口から疑問が零れ出す。


「何で態々(わざわざ)(ぼく)に……そんな事を……?」


 意味が解らなかった。先程尋ねた疑問とは異質な困惑である。優しい筈だ、と思っていた月子(つきこ)が何故この様な邪悪な所業を行うのか、ではない。その前提は今の曝露によって脆く崩れ去った。そうではなく、純粋に何故彼女が自分に対して態々(わざわざ)嫌がらせの様に酷い目に遭わせたのか、唯々理解が出来なかった。


(きみ)を振り向かせなければならない、そう思ったからよ。」

「は……?」

「初めてだったわ。あんなに莫迦(ばか)にされたのは……。」

「どういう……事ですか……?」

四方(よも)や忘れてはいないでしょう、あの時、救いを求める(きみ)(わたし)が覚えていると告げた理由を。」


 胸に心臓の鼓動を感じ、愛斗(まなと)は強烈な怖気(おぞけ)に震えていた。まさかそんな事で、幾ら何でも有り得ないと、俄かには信じられなかった。


「まさか、入學(にゅうがく)式の……?」

「この(わたし)が壇上で誰もの注目を集め、誰もが外面と内心で惜しみの無い賛辞を送り続けるべき時に、(きみ)は有ろう事か憚りもせずに眠気を訴えた。だから(きみ)の事をよく覚えていたのよ。許す訳にはいかなかったからね。」


 月子(つきこ)の笑みに邪悪な陰影が差した。


如何(いか)にして(きみ)の心を奪い、そして引き裂き、更にその上で身も心も(わたし)の物にするか、考えに考えたわ。だから()ず、(きみ)の事を独りぼっちにした。(いわ)れの無い(いじ)めに苦しむ(きみ)に救いの手を差し伸べた唯一の者となり、(わたし)に心酔させた。でもそれだけじゃ、この(わたし)虚仮(こけ)にした罰には全然足りないわ。そこで一旦、妹に學園(がくえん)生活の青春を預けたの。『學園(がくえん)の悪魔』を(はら)うという名分を打ち上げてね。そうすれば(きみ)の恋情は一旦妹に向くと思った。そして(きみ)から、新しく得た掛け替えの無い友人も、苟且(かりそめ)の充実した學園(がくえん)生活も、生徒會(せいとかい)役員としての誇りも、最愛のあの()も、そしてこの(わたし)への初恋さえも何もかも奪い去った!」


 後退(あとずさ)愛斗(まなと)へ勢い良く迫り、月子(つきこ)は二本の指で愛斗(まなと)の顎を軽く引き上げる。愛斗(まなと)はそんな彼女の凶器に満ちた愉悦の笑みを怯えながら仰がされている。


「それじゃあ貴女(あなた)は……(ぼく)入學(にゅうがく)式の時に、壇上に貴女(あなた)が上がってスピーチを始める時に、只欠伸(あくび)をしたという、たったそれだけの事で……?」

「この瞬間を待っていたのよ。全ては(きみ)を滅茶苦茶に蹂躙(じゅうりん)して、絶望に染め上げて、そしてこの(わたし)だけの物にする為。その為には在りと(あら)ゆる面で決して抗えない絶対的な力の差を付ける必要が有った。それも叶った。単なる貧弱な坊やに過ぎない(きみ)では、語られぬ究極の(かみ)の力を得た(わたし)に逆らい様が無いでしょう?」


 腰を抜かし、力無崩れ落ちようとする愛斗(まなと)月子(つきこ)は彼の身体を片腕で抱き支え、涙目で顔を背けようとする後頭部をもう一方の手で掴んだ。無理矢理視線を彼女の(かお)に戻された愛斗(まなと)が見たのは、吐き気を催す程に歪んだ、それでいて満開の薔薇の様に美しい満面の笑みだった。それは一気に近付き、強引に互いの唇を重ね合わせて来た。


「っ……‼」


 長い舌が口内に侵入し、舌に絡み付いてくる。水飴(みずあめ)の様に甘く、雲の様に柔らかく、氷河の様に冷たく、蛞蝓(なめくじ)の様に不快で、真綿(まわた)(にしき)で首を絞めるが(ごと)く苦しい接吻(せっぷん)が延々と続く。脳への血液から酸素を奪われ、代わりに黒い(すす)の様な絶望で意識を(とざ)される様に何も考えられなくなっていく。

 滑らかな舌触りに味覚を蹂(にじ)されている。口内から鼻腔へと立ち上る芳香が嗅覚を、唇を舐る唇が触覚を、夫々(それぞれ)官能に染めていく。抱き寄せられ、密着する体が制服越しに(たお)やかで(なま)めかしい女肉の感触で包まれる。乳房が、腰部が、秘部が夢に迄見た桃源郷の酒池肉林を意識の奥底へと激しく渦を巻いて流し込んでくる。


 目眩(めくるめ)く倒錯が時を凍て付かせる。

 紛れも無い想い人の唇によって迫られて結び、紛れも無い想い人の仇によって奪われて果たした、初めての接吻(せっぷん)。それは欲界の最高層、他化自在天(たけじざいてん)へ昇る様な絶頂であると同時に、八寒地獄の最下層、摩訶鉢特摩(まかはどま)()ちる様な沈殿であった。


「ぷはっ……!」


 唇が離れ、物惜し気な舌から互いを結ぶ糸が引いている。生温かい吐息が重なり、真冬の様に白く濁る。

 愛斗(まなと)は虚ろな眼で月子(つきこ)の邪悪な笑顔を見上げ、視界を(とろ)けさせていた。否、(にじ)ませていたのだが、そう錯覚させる強い自責の念が腹の底から体の表面へ血流と共に鬱勃(うつぼつ)していた。

 月子(つきこ)の両手が愛斗(まなと)の両頬に触れる。


「もう、止め……。」


 涙ながらの拒絶を無視して、再びの接吻(せっぷん)(おぞ)ましい陶酔、苦痛に満ちた官能に満たされる、気の遠くなる程長い時間が、愛斗(まなと)の心を何度も引き裂き、紅蓮の花を咲かせる。


「ぷはっ、はぁーっ、はぁーっ……!」


 月子(つきこ)の唇と掌が離れた瞬間、愛斗(まなと)は耐え切れずにその場に屁垂(へた)り込んだ。両手を床に着き、(うつむ)いて涙を(こぼ)す事しか出来ない。


 (けが)された! (けが)された‼――それは(たと)えるならば胃の中に無理矢理(くそ)を詰め込まれ、体中の細胞を入れ替えられるような、そんな耐え難い凌辱だった。


「さて、次は(きみ)を完全に(わたし)の物にしないとね。」


 月子(つきこ)は舌舐め擦りをして事も無げに告げる。


「手始めに、(きみ)(まと)わり付く他の悪い(むし)共を駆除してしまいましょうか。」

「や、()めてください‼」


 身の毛の弥立(よだ)怖気(おぞけ)を覚え、愛斗(まなと)は堪らず絶叫と共に懇願した。期しくも彼は(こうべ)を垂れており、後は額を擦り付けるだけで土下座を完成させることが出来てしまった。


「どうかもうこれ以上酷い事しないでください‼ 後生ですから許してください‼ 貴女(あなた)に働いた無礼は、失礼は心の底から謝りますから‼ これからは貴女(あなた)の言う事に何でも従いますから‼ だからどうか、どうかもうこんな事は()めてください‼」


 愛斗(まなと)脳裡(のうり)に白い(もや)の彼女が浮かぶ。憑子(つきこ)のイメージが色付いていき、月子(つきこ)の像に流転していく。厳しくも強い意志に満ちた、それでいて何処(どこ)か優し気な、凛とした表情は、邪悪な愉悦と冷酷な狂気に満ちた表情に変形していく。


 殺された、想い人を。想い人への記憶さえも()き消された。愛斗(まなと)はもうこれ以上歩む事は愚か、立ち上がる事すら出来はしない。


「駄目よ。それでは駄目。」


 月子(つきこ)愛斗(まなと)の頭上で声を弾ませる。


「酷い事を()めろって、(わたし)の愉しみを奪おうというの? (きみ)が願うべきは、そうじゃない。もっと考えれば分かる筈よ。」

「ううううううっ! ふぐうううううっっ‼」


 恐怖と、悲しみと、惨めさに涙が止まらない。何を言わされるのか、()ぐに理解出来てしまった。それは余りにも深い、闇よりも暗い漆黒の絶望だった。


(ぼく)だけを見てください‼ 他の人は嫌です‼ (ぼく)だけに酷い事をしてください‼」

「そう言う(きみ)(わたし)だけを見るのよね?」

「そうします‼ そうしますから‼」


 狂ったように叫び続けたせいか、愛斗(まなと)の呼吸は乱れに乱れていた。そんな彼を前に、月子(つきこ)は先程迄の嗜虐的(サディスティック)な興奮が嘘の様に押し黙る。

 永遠の様な沈黙の時間が流れる。愛斗(まなと)は唯々、頭上の彼女が何を考えているか、只管(ひたすら)に恐ろしかった。


「では、こうしましょうか……。」


 月子(つきこ)は両腕を勢いよく拡げた。愛斗(まなと)の両脇、その後、聖護院(しょうごいん)嘉久(よしひさ)の死体を挟んで二つの紫の闇が塊となって(あらわ)れた。


「もう、彼等は必要無い……。」


 愛斗(まなと)が恐る恐る振り向くと、紫の(もや)が晴れて假藏(かりぐら)學園(がくえん)の不良、(くろがね)自由(みゆ)爆岡(はぜおか)義裕(よしひろ)が姿を(あらわ)す。


「うぅ……。」

「ぐっ……。」


 今目を覚ました二人の(もと)へ、月子(つきこ)はゆっくりと優雅に歩み寄る。その姿を見て、二人の表情は恐怖に引き()った。


「な、待て! 何を‼」

「在庫処分よ。」


 月子(つきこ)はそう言うと、無情に爆岡(はぜおか)の頭を踏み付けにした。


「ぐええええっ‼ 止めろ‼ 止めてくれ‼ た、助けて‼ うげ‼」


 訴えも虚しく、爆岡(はぜおか)の頭部は熟れて落ちた果実の様に潰れ、紫の血を撒き散らした。


「ひ、ひいいいいいっ‼」


 (くろがね)自由(みゆ)は焼け(ただ)れた顔を歪めてその場から必死に逃げようとする。しかし彼も、月子(つきこ)が腕を振るうと同時に叩かれた蚊の様に全身を紫の染みに変えられてしまった。

 唯々冷酷に、何の感慨も無く、彼女は二人の配下を殺処分してしまったのだ。


()て、余計な(ごみ)は廃棄した事だし、そろそろ(きみ)の誠意を見せて貰いましょうか。」

「せ、誠意……?」


 まだ何かあるのか、と愛斗(まなと)は恐ろしくて仕方が無かった。そんな彼に告げられたのは、途方も無い要求だった。


(きみ)には新たに『闇の眷属』となって貰うわ。即ち、(わたし)の下位互換の奴隷として永遠に隷属して貰う。そして(わたし)を満足させ続けるの。従順に、甲斐甲斐しく、誠心誠意、(わたし)に尽し続けてくれれば、その間は(きみ)だけを見ていてあげる。他の人には一切手を出さない。そう約束してあげるわ。」

「ほ、本当に……?」


 それは正しく悪魔の囁きだったが、散々心を弄られ続けた愛斗(まなと)は彼女の提案を慈悲と錯覚してしまいそうになっていた。


「考えても見なさい、こんなに美味しい話は無いわよ? (きみ)はこの(わたし)寵愛(ちょうあい)を独占し続ける事が出来るの。キスなんて目じゃない、もっと凄い事だって沢山してあげるわ。更に、そんな幸せだけでなく、永遠の命すら手に入るのよ。頑張って踊ってくれた御褒美としては、破格だと思わないかしら?」


 破滅の宣告と共に、月子(つきこ)の手が愛斗(まなと)へ差し伸べられる。この手を取れば愛斗(まなと)憑子(つきこ)を、西邑(にしむら)龍太郎(りょうたろう)を、自分を信じ、命運を託してくれた人々を、そして自分自身の想いをも裏切る事になる。だが、最早彼には選択肢が無かった。


「それと、()い加減ちゃんと呼んで貰いましょうか。(わたし)の事を、『會長(かいちょう)』と。皆の前でね。」

「え? 皆の前?」

「言い忘れていたけれど、今日の構内放送は全てこの生徒會(せいとかい)室から発信していたのよ。七十キロも離れた華藏(はなくら)假藏(かりぐら)の空間を繋げるのに比べれば、音声を転送する位容易(たやす)い事。つまり、此処での会話は最初から學園(がくえん)中に筒抜けだったのよ。」


 辛うじて守っていた最後の一線も容赦無く崩そうとしてくる。しかも、屈服は既に周知されている。愛斗(まなと)は袋小路に追い込まれ、差し出された縄に首を掛ける他の道を全て断たれてしまっていた。


「あの()も憐れよねえ。今迄ずっと、(わたし)に最後は盗られる為に、(きみ)を護り続けてきたのだから。本当に、笑える位に一途で健気な()だったわよねえ。極め付けは、自分は真里(まり)君に嫌われても構わないと思っていた所ね。本来、自分は身を引くべき人間なのだから、心に傷を残さない様に嫌われてしまおうとしていた。」


 愛斗(まなと)瞠目(どうもく)した。今迄、愛斗(まなと)は自分に辛く当たる憑子(つきこ)に複雑な感情を抱いて苦しんでいた。しかしそれすらも、彼女の思い遣りだったとしたら……。再び、愛斗(まなと)は喪失の大きさを思い知らされる。


「それ程の純情で生かされた命、無駄にする事はないわ。それに、あの()は元々全てが終わった後で(きみ)(わたし)に返してくれるつもりだったのだから、結局は元鞘で何も問題無いし、ずっと彼女に我慢してきた(きみ)には御褒美を受け取る権利が有る。そうでしょう?」


 もう、憑子(つきこ)の顔は思い出せなかった。そんな彼女が、矢張(やは)り自分を想い続けてきたのだという(しら)せは、愛斗(まなと)の心を甘く切なく、苦く哀しく絞め付けた。

 望まぬ裏切りに(はし)るしかない彼を、闇から救い出す手を差し伸べる者は誰も居ない。(かつ)て救ってくれた女は目の前で、彼に絶望を下賜(かし)しようとしている。


華藏(はなくら)……先輩……。」

「ん?」

華藏(はなくら)……(かい)……。」


 最後の屈服の言葉を口にしようとした、その時だった。

 月子(つきこ)が突如顔を顰め、頭を抑えて愛斗(まなと)から逃げる様に後退(あとずさ)った。


莫迦(ばか)な……! これは、何……?」


 何やら月子(つきこ)は困惑している。愛斗(まなと)にも、何が何やら解らない。


『そこまでよ。』


 懐かしい声が聞こえた。先程迄愛斗(まなと)の心を(なじ)っていた声と同じだが、決定的に違う声。愛斗(まなと)の目から涙が再び(こぼ)れる。


憑子(つきこ)……會長(かいちょう)……‼」


 月子(つきこ)は頭を抑えて苦しみ始めた。地獄の底に光が差した様だった。

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