第七十八話 摩訶鉢特摩
Gib deine Hand, du schön und zart Gebild! (手を取りなさい、見目麗しき乙女よ。)
Bin Freund und komme nicht zu strafen. (私は味方であり、其方を脅かす者ではない。)
Sei gutes Muts! Ich bin nicht wild, (恐れないで、私は獣ではない。)
sollst sanft in meinen Armen schlafen! (腕の中、其方に安らかなる眠りを与える者也。)
――フランツ・ペーター・シューベルト、歌曲『死と乙女』 (詩:マティアス・クラウディウス)より。
全ての望みは絶たれた。
真里愛斗を腕の中に囲い込んでいるのは、嘗て誰よりも恋い焦がれ、そして今でも思いを棄て切れない美少女。現在誰よりも想い憧れ、そして手放しに憎み切れない少女と同じ姿形をした、その仇。いとも容易く人の命を奪い、尊厳を踏み躙り、痛み苦しみ悲しみ絶望に愉悦を覚える悪魔と形容する他の無い女。齢十七の稀代の悪女。
華藏學園を殺戮の學園に変え、超常の力に依り全てを弄び支配しようとする邪悪の化身・華藏月子がうっとりする程に麗しく柔和で、ぞっとする程に悍ましく冷酷な微笑みを浮かべて見下ろしていた。
「どうして……こんな事を……。」
最早抗う術の無い愛斗は、小動物の様に怯えながら今更になって彼女へ問い掛ける。
「貴女は……華藏月子先輩ですよね? あの時……中等部へ入學して早々、虐めで毎日苦しめられていた僕に手を差し伸べてくれた、あの華藏月子先輩なんですよね⁉」
「ええ、私が正真正銘の華藏月子よ、大欠伸の少年、真里愛斗君。」
月子は然も可笑しそうに口角を上げて白い歯を覗かせた。その微笑みは菩薩や天女の如き崇高さを持ちながら鬼畜や悪魔の如き狂気を孕んでいる。抱擁的且つ嗜虐的、耽美的且つ露悪的なその有様は愛斗の心を一層深い悲しみと苦しみに染めていく。
「僕は、貴女に救われました。貴女が居たから、僕は生きる事が出来ました! そんな貴女が、弱く悩み苦しんでいた僕に手を差し伸べてくれた貴女が、どうしてこんな事を……‼」
困惑、怒り、悲しみ、そんな複雑な思いの丈をぶつけた愛斗が仰ぐ月子の目が見開かれた。彼女は愛斗から手を離し、後退ると片手で頭を、もう片腕で脇を抑えて、何かに苦しむかの様に身を屈める。
「華藏……先輩……?」
「ううぅっ……‼」
月子は呻く様な声を漏らす。何か様子がおかしい。心配になった愛斗が歩み寄ろうとした、その時だった。
「うくくっ……アハハハハハハハ‼ 君って本当、最高だわ‼ その反応が欲しかったのよねえっ! あはははは‼」
「え……?」
弾けた様に腹を抱えて大爆笑する月子に、愛斗は顔を蒼くして凍り付いた。
「でも真里君、この期に及んで未だあんな思い出を手放しに信じているなんて、少々御莫迦が過ぎるんじゃないかしら。」
「どういう……事ですか……?」
恐る恐る尋ねる愛斗だったが、何となく予感はしていた。それは半ば、答え合わせに近かった。
「あれね、抑も君を虐めていた伊藤君と則山君、彼等を裏から動かしていたのはこの私よ。」
「え……?」
月子は背筋を伸ばし、底意地の悪い笑みを浮かべて愛斗に迫る。
「まあ、色々と間に挟んで、私が彼等に働きかけていたと直接は分からない様にしていたけれどね。ああ、因みに双子の妹だけは流石に普通では騙し様が無いから、そういう時の為に捏ち上げたのが所謂『學園の悪魔』と呼ばれる私の分身よ。あの娘も見事に、私の中に巣食う別の邪悪な存在の仕業だと思い込んでくれたわ。ま、何にせよ色々苦労はしたわよ。」
余程ネタ晴らしをしたくて仕方が無かったのだろう、月子は嬉々として早口に捲し立てる。
「本当に、あの時君が転裏と私に絆されてくれて、愉快だったわ。大きく丸い綺麗な瞳を涙で潤ませて、とても可愛い反応だったわよ。」
「な、何で……?」
震える愛斗の口から疑問が零れ出す。
「何で態々僕に……そんな事を……?」
意味が解らなかった。先程尋ねた疑問とは異質な困惑である。優しい筈だ、と思っていた月子が何故この様な邪悪な所業を行うのか、ではない。その前提は今の曝露によって脆く崩れ去った。そうではなく、純粋に何故彼女が自分に対して態々嫌がらせの様に酷い目に遭わせたのか、唯々理解が出来なかった。
「君を振り向かせなければならない、そう思ったからよ。」
「は……?」
「初めてだったわ。あんなに莫迦にされたのは……。」
「どういう……事ですか……?」
「四方や忘れてはいないでしょう、あの時、救いを求める君を私が覚えていると告げた理由を。」
胸に心臓の鼓動を感じ、愛斗は強烈な怖気に震えていた。まさかそんな事で、幾ら何でも有り得ないと、俄かには信じられなかった。
「まさか、入學式の……?」
「この私が壇上で誰もの注目を集め、誰もが外面と内心で惜しみの無い賛辞を送り続けるべき時に、君は有ろう事か憚りもせずに眠気を訴えた。だから君の事をよく覚えていたのよ。許す訳にはいかなかったからね。」
月子の笑みに邪悪な陰影が差した。
「如何にして君の心を奪い、そして引き裂き、更にその上で身も心も私の物にするか、考えに考えたわ。だから先ず、君の事を独りぼっちにした。謂れの無い虐めに苦しむ君に救いの手を差し伸べた唯一の者となり、私に心酔させた。でもそれだけじゃ、この私を虚仮にした罰には全然足りないわ。そこで一旦、妹に學園生活の青春を預けたの。『學園の悪魔』を祓うという名分を打ち上げてね。そうすれば君の恋情は一旦妹に向くと思った。そして君から、新しく得た掛け替えの無い友人も、苟且の充実した學園生活も、生徒會役員としての誇りも、最愛のあの娘も、そしてこの私への初恋さえも何もかも奪い去った!」
後退る愛斗へ勢い良く迫り、月子は二本の指で愛斗の顎を軽く引き上げる。愛斗はそんな彼女の凶器に満ちた愉悦の笑みを怯えながら仰がされている。
「それじゃあ貴女は……僕が入學式の時に、壇上に貴女が上がってスピーチを始める時に、只欠伸をしたという、たったそれだけの事で……?」
「この瞬間を待っていたのよ。全ては君を滅茶苦茶に蹂躙して、絶望に染め上げて、そしてこの私だけの物にする為。その為には在りと汎ゆる面で決して抗えない絶対的な力の差を付ける必要が有った。それも叶った。単なる貧弱な坊やに過ぎない君では、語られぬ究極の神の力を得た私に逆らい様が無いでしょう?」
腰を抜かし、力無崩れ落ちようとする愛斗。月子は彼の身体を片腕で抱き支え、涙目で顔を背けようとする後頭部をもう一方の手で掴んだ。無理矢理視線を彼女の貌に戻された愛斗が見たのは、吐き気を催す程に歪んだ、それでいて満開の薔薇の様に美しい満面の笑みだった。それは一気に近付き、強引に互いの唇を重ね合わせて来た。
「っ……‼」
長い舌が口内に侵入し、舌に絡み付いてくる。水飴の様に甘く、雲の様に柔らかく、氷河の様に冷たく、蛞蝓の様に不快で、真綿の錦で首を絞めるが如く苦しい接吻が延々と続く。脳への血液から酸素を奪われ、代わりに黒い煤の様な絶望で意識を鎖される様に何も考えられなくなっていく。
滑らかな舌触りに味覚を蹂躙されている。口内から鼻腔へと立ち上る芳香が嗅覚を、唇を舐る唇が触覚を、夫々官能に染めていく。抱き寄せられ、密着する体が制服越しに嫋やかで艶めかしい女肉の感触で包まれる。乳房が、腰部が、秘部が夢に迄見た桃源郷の酒池肉林を意識の奥底へと激しく渦を巻いて流し込んでくる。
目眩く倒錯が時を凍て付かせる。
紛れも無い想い人の唇によって迫られて結び、紛れも無い想い人の仇によって奪われて果たした、初めての接吻。それは欲界の最高層、他化自在天へ昇る様な絶頂であると同時に、八寒地獄の最下層、摩訶鉢特摩へ堕ちる様な沈殿であった。
「ぷはっ……!」
唇が離れ、物惜し気な舌から互いを結ぶ糸が引いている。生温かい吐息が重なり、真冬の様に白く濁る。
愛斗は虚ろな眼で月子の邪悪な笑顔を見上げ、視界を蕩けさせていた。否、滲ませていたのだが、そう錯覚させる強い自責の念が腹の底から体の表面へ血流と共に鬱勃していた。
月子の両手が愛斗の両頬に触れる。
「もう、止め……。」
涙ながらの拒絶を無視して、再びの接吻。悍ましい陶酔、苦痛に満ちた官能に満たされる、気の遠くなる程長い時間が、愛斗の心を何度も引き裂き、紅蓮の花を咲かせる。
「ぷはっ、はぁーっ、はぁーっ……!」
月子の唇と掌が離れた瞬間、愛斗は耐え切れずにその場に屁垂り込んだ。両手を床に着き、俯いて涙を溢す事しか出来ない。
穢された! 穢された‼――それは譬えるならば胃の中に無理矢理糞を詰め込まれ、体中の細胞を入れ替えられるような、そんな耐え難い凌辱だった。
「さて、次は君を完全に私の物にしないとね。」
月子は舌舐め擦りをして事も無げに告げる。
「手始めに、君に纏わり付く他の悪い蟲共を駆除してしまいましょうか。」
「や、止めてください‼」
身の毛の弥立つ怖気を覚え、愛斗は堪らず絶叫と共に懇願した。期しくも彼は頭を垂れており、後は額を擦り付けるだけで土下座を完成させることが出来てしまった。
「どうかもうこれ以上酷い事しないでください‼ 後生ですから許してください‼ 貴女に働いた無礼は、失礼は心の底から謝りますから‼ これからは貴女の言う事に何でも従いますから‼ だからどうか、どうかもうこんな事は止めてください‼」
愛斗の脳裡に白い靄の彼女が浮かぶ。憑子のイメージが色付いていき、月子の像に流転していく。厳しくも強い意志に満ちた、それでいて何処か優し気な、凛とした表情は、邪悪な愉悦と冷酷な狂気に満ちた表情に変形していく。
殺された、想い人を。想い人への記憶さえも掻き消された。愛斗はもうこれ以上歩む事は愚か、立ち上がる事すら出来はしない。
「駄目よ。それでは駄目。」
月子は愛斗の頭上で声を弾ませる。
「酷い事を止めろって、私の愉しみを奪おうというの? 君が願うべきは、そうじゃない。もっと考えれば分かる筈よ。」
「ううううううっ! ふぐうううううっっ‼」
恐怖と、悲しみと、惨めさに涙が止まらない。何を言わされるのか、直ぐに理解出来てしまった。それは余りにも深い、闇よりも暗い漆黒の絶望だった。
「僕だけを見てください‼ 他の人は嫌です‼ 僕だけに酷い事をしてください‼」
「そう言う君は私だけを見るのよね?」
「そうします‼ そうしますから‼」
狂ったように叫び続けたせいか、愛斗の呼吸は乱れに乱れていた。そんな彼を前に、月子は先程迄の嗜虐的な興奮が嘘の様に押し黙る。
永遠の様な沈黙の時間が流れる。愛斗は唯々、頭上の彼女が何を考えているか、只管に恐ろしかった。
「では、こうしましょうか……。」
月子は両腕を勢いよく拡げた。愛斗の両脇、その後、聖護院嘉久の死体を挟んで二つの紫の闇が塊となって顕れた。
「もう、彼等は必要無い……。」
愛斗が恐る恐る振り向くと、紫の靄が晴れて假藏學園の不良、鐵自由と爆岡義裕が姿を顕す。
「うぅ……。」
「ぐっ……。」
今目を覚ました二人の許へ、月子はゆっくりと優雅に歩み寄る。その姿を見て、二人の表情は恐怖に引き攣った。
「な、待て! 何を‼」
「在庫処分よ。」
月子はそう言うと、無情に爆岡の頭を踏み付けにした。
「ぐええええっ‼ 止めろ‼ 止めてくれ‼ た、助けて‼ うげ‼」
訴えも虚しく、爆岡の頭部は熟れて落ちた果実の様に潰れ、紫の血を撒き散らした。
「ひ、ひいいいいいっ‼」
鐵自由は焼け爛れた顔を歪めてその場から必死に逃げようとする。しかし彼も、月子が腕を振るうと同時に叩かれた蚊の様に全身を紫の染みに変えられてしまった。
唯々冷酷に、何の感慨も無く、彼女は二人の配下を殺処分してしまったのだ。
「扨て、余計な塵は廃棄した事だし、そろそろ君の誠意を見せて貰いましょうか。」
「せ、誠意……?」
まだ何かあるのか、と愛斗は恐ろしくて仕方が無かった。そんな彼に告げられたのは、途方も無い要求だった。
「君には新たに『闇の眷属』となって貰うわ。即ち、私の下位互換の奴隷として永遠に隷属して貰う。そして私を満足させ続けるの。従順に、甲斐甲斐しく、誠心誠意、私に尽し続けてくれれば、その間は君だけを見ていてあげる。他の人には一切手を出さない。そう約束してあげるわ。」
「ほ、本当に……?」
それは正しく悪魔の囁きだったが、散々心を弄られ続けた愛斗は彼女の提案を慈悲と錯覚してしまいそうになっていた。
「考えても見なさい、こんなに美味しい話は無いわよ? 君はこの私の寵愛を独占し続ける事が出来るの。キスなんて目じゃない、もっと凄い事だって沢山してあげるわ。更に、そんな幸せだけでなく、永遠の命すら手に入るのよ。頑張って踊ってくれた御褒美としては、破格だと思わないかしら?」
破滅の宣告と共に、月子の手が愛斗へ差し伸べられる。この手を取れば愛斗は憑子を、西邑龍太郎を、自分を信じ、命運を託してくれた人々を、そして自分自身の想いをも裏切る事になる。だが、最早彼には選択肢が無かった。
「それと、好い加減ちゃんと呼んで貰いましょうか。私の事を、『會長』と。皆の前でね。」
「え? 皆の前?」
「言い忘れていたけれど、今日の構内放送は全てこの生徒會室から発信していたのよ。七十キロも離れた華藏と假藏の空間を繋げるのに比べれば、音声を転送する位容易い事。つまり、此処での会話は最初から學園中に筒抜けだったのよ。」
辛うじて守っていた最後の一線も容赦無く崩そうとしてくる。しかも、屈服は既に周知されている。愛斗は袋小路に追い込まれ、差し出された縄に首を掛ける他の道を全て断たれてしまっていた。
「あの娘も憐れよねえ。今迄ずっと、私に最後は盗られる為に、君を護り続けてきたのだから。本当に、笑える位に一途で健気な娘だったわよねえ。極め付けは、自分は真里君に嫌われても構わないと思っていた所ね。本来、自分は身を引くべき人間なのだから、心に傷を残さない様に嫌われてしまおうとしていた。」
愛斗は瞠目した。今迄、愛斗は自分に辛く当たる憑子に複雑な感情を抱いて苦しんでいた。しかしそれすらも、彼女の思い遣りだったとしたら……。再び、愛斗は喪失の大きさを思い知らされる。
「それ程の純情で生かされた命、無駄にする事はないわ。それに、あの娘は元々全てが終わった後で君を私に返してくれるつもりだったのだから、結局は元鞘で何も問題無いし、ずっと彼女に我慢してきた君には御褒美を受け取る権利が有る。そうでしょう?」
もう、憑子の顔は思い出せなかった。そんな彼女が、矢張り自分を想い続けてきたのだという報せは、愛斗の心を甘く切なく、苦く哀しく絞め付けた。
望まぬ裏切りに奔るしかない彼を、闇から救い出す手を差し伸べる者は誰も居ない。嘗て救ってくれた女は目の前で、彼に絶望を下賜しようとしている。
「華藏……先輩……。」
「ん?」
「華藏……會……。」
最後の屈服の言葉を口にしようとした、その時だった。
月子が突如顔を顰め、頭を抑えて愛斗から逃げる様に後退った。
「莫迦な……! これは、何……?」
何やら月子は困惑している。愛斗にも、何が何やら解らない。
『そこまでよ。』
懐かしい声が聞こえた。先程迄愛斗の心を詰っていた声と同じだが、決定的に違う声。愛斗の目から涙が再び零れる。
「憑子……會長……‼」
月子は頭を抑えて苦しみ始めた。地獄の底に光が差した様だった。




