第七十七話 新月と満月(下)
娘に気を許すな。遠からず悪魔は帰って来るぞ。
――華藏星一郎の遺言より。
再び、保健室での作戦会議迄時を遡る。
華藏月子から『青い血』を分離する作戦を練る中で、真里愛斗はふと一つの疑問に気が付いた。
「あの、そういえば気になってるんですけど、憑子會長は華藏先輩の肉体に戻るつもりなんですよね?」
『ええ、出来るならね。だから作戦の中で再びあの女と結合するのは願ったり叶ったりだわ。』
「でもその時、あの女からは『青い血』、血液が分離されてしまっている状態じゃないですか。そうなってしまったら、あの女だけでなく會長も死んでしまうのでは?」
愛斗の言葉に、憑子は沈黙した。考えていなかったのだろうか、彼女には意外と行き当たりばったりな所がある。
そんな彼女と、その態度に不安を覚えた愛斗に助け舟を出したのは竹之内灰丸だった。
「心配には及びませんよ。抑も、『青い血』の分離その物で華藏月子を殺す訳ではありません。」
彼は華藏月子を斃す為に古文書を読み込み、彼女がどういう理屈で『青い血』を自らに定着させたのか、その秘密を解き明かしていた。
「ずっと不思議な事が御座いました。どうして『闇の眷属』達の血は紫色なのか。それは『青い血』と何か関係が有るのか。」
「有った、ということですか?」
竹之内は頷いて話を続ける。
「闇の眷属とは、平たく言えば実験体だったのです。肉体を『青い血』に馴染ませる為に、まず常人の血と『青い血』を混合して人体実験を行った。その為に、最初は死人で実験をした。それが西邑君や生徒會役員です。次に、生きた人間の血に混ぜた。」
「鐵がそうですね。爆岡も同じ様なことをされましたが。」
「最後の男はまあおまけでしょう。兎に角、重要なのは『青い血』に入れ替える工程は混ぜる手法の延長に在るという事です。」
闇の眷属の紫の血と『青い血』の関係から、竹之内は更に考察を深めていく。
「思うに、華藏月子が独自で『青い血』の入れ替え方法を一から開発したとは考え難い。そう思って、私は古文書にヒントを求めました。その結果、第一合宿場の地下で何が行われていたか、その研究の一端を知ることが出来たのです。その基礎的な部分はすでに私の祖父が見付け出していました。」
「どういう方法ですか?」
「第一合宿場の地下に安置されていた『青い血』の成分には一つの性質がある。それは人間の血液と混ざった時、血液の一部を侵食して同化するのです。イメージとしては、丁度白い生地に青い絵の具を混ぜた水を染み込ませたと考えれば宜しいでしょう。布が絵の具で青く染まる様に、『青い血』の成分は人間の血液を『青い血』化してしまうのです。勿論、成分が少なければ色は淡く、多ければ濃くなる。」
『成程、その布が染まり切っていない、元の人間の血が残っている状態が紫の血、完全に染まり切った状態が青い血という事ね。』
憑子の理解が正しければ、華藏月子の中に流れているのは人間の血を青い血の成分に染めたものに過ぎないという事になる。
『ならば青い血の分離とは即ち、厳密には青い血の成分の分離。元の生地、人間の血は体に留まり続ける、と。』
「そういう事です。彼女の血は完全に『青い血』と化し、『青血の至高神』の力を我が物としている。しかし、『青い血』として完全であるが故に人間である彼女の体には本来馴染まない。それを祠の力に依って無理矢理結び付けているから、これを分離する。その時、飽く迄もベースとなっている人間の血自体は本人の物ですから、成分だけが分離される、という訳です。」
『つまり、あの女も唯〝青い血〟を分離しただけで死ぬわけではない、と。その後、続いて本人を肉体から分離し、私が体を奪って初めて彼女は死ぬ。』
漸く話が見えてきた。そういう事なら、華藏月子を斃すことは即ち憑子が再び愛斗と侍った出で受肉する事を意味する。姉を殺し、初めて彼女はこの世に人間としての生を受けるのだ。
「成程、貴女は無事に戻って来られるという訳ですね。」
愛斗は懸念が晴れて素直に安心した。親友の西邑龍太郎を利用し、苦しめた事は今も許す事が出来ない儘だが、それでも彼女の死を願うには余りにも恋焦がれ過ぎた。彼女が戻って来るのは、願ってもいない事だ。
『尤も、それから先は一連の事件を起こした華藏月子として生きていかなければならない。私は全ての責任を取らなければならない。』
「まあ、彼女が犯した全ての罪を背負う事は無いでしょうし、貴女も彼女も十八歳未満ですから扱いとしては少年法になるでしょう。対象となるのは屋敷で使用人に行った過酷な仕打ち、判明している華藏學園での悪行、そして、今日行った狂気の祭典、そんな所でしょうか。まあ、逆送されて刑事罰は在るかもしれませんが、命までは取られんでしょう。」
『社会的制裁の話ではないわ。道理の問題よ。』
「勿論、そうでしょうとも。しかしそれは間違いなく過酷な道でしょうな。」
険しい表情で嘆息する竹之内だったが、憑子の声色は何処か晴れやかだった。
『良いの。私だって決して無謬、潔白ではないのだから。償わなければならない相手が居る。少なくとも、學園に混乱を齎した件は私も共犯だしね。許して貰えるとも思っていない。命を取られないというなら逆に好都合。それだけ長く、贖罪の道を歩めるのだから。』
「會長……。」
憑子が抱える思い、その中に確かに含まれる西邑への罪悪感を受け取った愛斗は、何処か救われる思いがした。愛斗は屹度、憑子を許す事など出来ない。しかし、憎む事も出来ない。許したいという思いに生涯悩まされるだろう。
だが同じだけ、彼女も間違い無く苦しむのだ。二人の生きる道は屹度これを最後にもう交わらないが、生きている限り何処かで同じ喪失、同じ消失に苦しみ、同じ空の下、違う景色を見ながらでそれを分かち合うのだ、相手の顔も見えぬ儘に。
『真里君、全てが終わったら、最後に話をしましょう。君には言っておかなければならない事が山程有る。』
「ええ、屹度そうしましょう。」
最後の戦いを前に、愛斗と憑子はそう誓い合った。
そして、大きな困難を超えて二人は華藏月子から『青い血』を分離させる作戦を実行に移す所まで漕ぎ着けたのだ。
後は、血液から『青い血』の成分を、肉体から華藏月子の命を分離するだけである。
☾☾☾
生徒會室の戦いの末、學園が白い光に包まれた瞬間迄時を戻す。眩い光に視力を失った愛斗は、それ以外の感覚が強烈に研ぎ澄まされていた。
頭を掴む華藏月子の握力が緩むのを最初に感じた。憑子と月子が『青い血』の分離を巡って一つの肉体の中で鬩ぎ合い、愛斗に構っている場合ではなくなったのだろう。
次に、縋り付いている体から暴虐的な強靭さが失われて行くのを感じた。密着した相手が得体の知れない化物から極普通の少女に戻っていく様な気がした。『青い血』の分離が進んでいるのか。
軈て愛斗は、目蓋の裏で光が収まっていくのを感じ始めた。薄目を開けると、華藏月子の制服の生地が少しずつ見えてきている。
同時に、愛斗は別の何かが自分を包み込んでいくのを感じていた。嫋やかな安らぎが肌に触れている。密の様に甘い芳香が鼻から吸い込まれ、全身の血を巡る。二倍の膂力を失って弱っている彼にとって、それは夢見心地だった。
「真里君……。」
華藏憑子の鈴を転がす様な声が優しく呼び掛ける。何処か聞き慣れたその響きが、愛斗を更なる安心感で抱き返す。
頭に置かれた手は何時の間にか、我が子を撫でる母親の様な触れ方に変わっていた。もう一方の腕が愛斗の腰へと回り、二人は互いを抱き寄せ合う。
「會長……。」
愛斗の口から万感の思いが漏れた。全てが終わったのだと確信出来る、全てを忘れてひたり込んでいたい、桃源郷の様な心地だった。
「真里君、本当に能く頑張ったわね。偉いわ。」
「會長……! 僕は、僕はずっと……! 貴女にそう言って貰いたかった……!」
やっと、やっと自分の仕事を手放しに誉めて貰えた。愛斗にはそれが堪らなく嬉しかった。どれだけ、その言葉を求め、狂おしい程に焦がれ続けただろう。
「ええ、私もよ、真里君。」
彼女の手が愛斗の頭から離れた。そして肩から後ろに回り、軽く、優しく背中を叩く。
「會長……。」
「ええ、そう……。」
背中の手が愛斗から離れた。
「私も、ずっと君にそう呼んで貰いたかったわ。『會長』と……。」
「え?」
彼女の言葉を理解する前に、強い血の悪臭が愛斗の嗅覚を塗り潰した。同時に生温かい滑りのある液体を浴びる。
「あ……え……?」
後ろを振り向いた愛斗に視界に飛び込んで来たのは、首を刎ねられ血飛沫を上げて倒れる聖護院嘉久の姿だった。同時に、自分の抱き締めている相手が再び得体の知れない化物になっていくような感覚に襲われ、戦慄が背筋を走り抜ける。
「う、嘘……!」
「君は本当に、能く無駄に頑張ったわ。勝てもしない戦いを、叶いもしない願いを追い掛けてね。」
理解が追い付かない、否、脳が拒んでいた。しかし、状況は火を見るより明らかだった。
「そんな、どうして?」
「何を不思議がっているの? 私は君と憑子が『青い血』を分離させようとしていると見抜いていたのよ? 対応策だって考えてあるに決まっているじゃない。」
憑子の敗北、月子の生存。それが否定し様の無い事実として叩き付けられて、困惑が絶望に変わっていく。今自分が抱き締めている相手は人間離れした悪意と猛獣など比較にならない暴力を秘めた邪悪の化身で、自分は今や人並み外れた力を失ったただの小柄で華奢でか弱い少年に過ぎないのだ。
「どういう事か教えてあげるとね、『青い血』を分離される前に私の方が逆に『光の力』で『祠の力』を捻じ伏せたの。元々憑子は私の体を使って全ての力を身に着けていて、その一端は私の中にも蓄積されていた。それを『青い血』の力によって圧倒的に増幅していたのだから、いくら憑子でも全く勝ち目は無かったという事よ。」
愛斗の体中に氷点下に放り出された様な震えが悲鳴を上げ始める。心臓が、何かを激しく嘆く様に早鐘を打つ。
「勝ち目は……無かった……。」
「そうよ、言ったでしょう。これが都合の良い、希望的観測の後に突き付けられる現実というものよ。」
恐ろしい予感にどんどん呼吸が浅く、早くなる。
「會長は……憑子會長は……?」
「勿論、殺したわよ。私の中で存在が祓々になって、死んだわ。」
愛斗の心象風景が一瞬にして暗転した。全てを喪い、希望が消失すると、目の前が真っ暗になるというのはこういう事かと、否が応にも解らされる。
「やっと二人切りになれたわね、真里君。」
憑子が死んだ。別れの言葉を交わす事も、看取る事も出来ず、只その事実だけを殺した張本人から何の感慨も無く告げられた。
愛斗の中で記憶が咲き誇り、そして萎れていく。春爛漫の景色が崩れ落ちていく中で、愛斗は思考と感情の濁流に呑み込まれていた。
憑子會長、僕の憧れの人。立てば芍薬坐れば牡丹、歩く姿は百合の花という言葉が似合う、綺麗で、優秀で、格好の良い女。でも恐ろしい程厳しくて、傲慢で、自己中心的で、自分の為に平然と他人を利用する非情さをも持っている女。僕にも辛く当たって、パワハラ上等で、奴隷の様に扱き使って、その癖割と自分の至らなさには甘くて、序でに假藏生に対しては露骨に差別意識の塊で、本性を知ったら嫌な女だとも思う様になった。
あの女は西邑の事も冷徹に利用して、犠牲にした。抑も、僕にずっと嘘を吐いて、自分を華藏月子だと思わせていた。
でも本当は、誰よりも學園の事を思っていて、ずっと罪の意識を抱えていて、そして、そして何よりもずっと、ずっと僕の事を護る為に苦しみをその身に受け続けた。
そんな憑子會長が、死んだ。僕は彼女の為に、何も出来ない儘……。――愛斗の中で何かが決壊した。
「うわああああああっっ‼ あああああああああああああっっ‼」
肺の奥底、胃の奥底、腸の奥底、体の芯から全てを吐き出すかの様な、嘆きの絶叫だった。
月子の手が再び愛斗の頭を掴み、彼の顔を無理矢理上に向ける。愛斗の視界に飛び込んで来たのは、思い出の中の美しい想い人と全く同じ見目形をした悪魔の微笑みだった。
「そんなに怖がらなくても大丈夫よ、真里君。私はあの女とは違って、ちゃんと優しくしてあげるわ。」
その天女の様に柔和な微笑みが心底恐ろしく、愛斗の悲鳴は蛇口を締めたように止まった。残るは唯々漆黒の絶望のみ。
「さあ、この汚らわしい學園を二人だけの愛の園に造り替えましょう。夢の様に甘くて辛く苦しい永遠を紡ぎましょうね、真・里・君……?」
全ては終わった。全てを奪った悪女は、夜空に煌々と浮かぶ月の美しさを讃えるが如く愛を囁き、即ちそれに拠って地獄の様に甘く蕩ける、それでいて何処迄も冷たい絶望を愛斗に告げた。




