第七十六話 新月と満月(中)
Vade retro satana. (悪魔よ、去れ。)
真里愛斗は戦いの進め方について、一つの作戦を立てた。相変わらず、彼と憑子には向かって来る華藏月子の動きが読めない。
(なら、一層の事読むのを止めよう。)
愛斗、そして憑子も考えは同じだった。
「會長、爆岡の時の様に、タイミングはお任せしても良いですか?」
『ええ、あの女が気配を消した瞬間に私が合わせるわ。君は勘で次の動きを当てなさい。大丈夫、何度外しても一度決まれば私達の勝ちよ。』
攻撃に備える愛斗に対し、月子は面白くなさそうに渋い表情を浮かべている。何か、納得が行かないという様相だ。
確かに、愛斗は月子から仕掛けて来ないならば帰る、という行動を見せた事で、彼女に隙を生じるリスクを取って攻撃に出させる事に成功している。だが、それだけだ。依然として力の差は歴然であり、愛斗が月子に触れるのは困難な筈だ。
これ以上何も手が無い、とは考え難いだろう。
「次は何を企んでいるのかしらねえ……。」
月子は頬に手を当て、愛斗の眼をじっと見詰めている。
「逆に私が何を考えているか、教えてあげましょうか。今から君達をどうやって甚振ってやろうか、ただそれだけ。私としては君なんてその気になれば何時でも壊せるんだもの。」
月子の口角が僅かに上がり、生来の嗜虐性を覗かせる。醸し出される妖しげな雰囲気に愛斗は戦慄を禁じ得なかった。しかし、一方で憑子は冷静である。
『思った通りね。真里君、あの女は君の事を一思いに殺しはしないわ。肉体的にも精神的にも長く虐げる事を選び、苦痛と絶望を愉しもうとする。』
「それ、確かにチャンスは続きそうですが、余り嬉しくないですね。」
『君が嬉しいか嬉しくないかは関係無いのよ。君の役目は私の代わりに手駒として為すべき事を為す、それが全てなんだから。』
相変わらず、最後まで憑子の言い草は傲慢で、愛斗の都合等考えもしていない。だが、それでも華藏月子に比べれば可愛いものである。目的の為に愛斗が傷付く事も厭わない憑子と、目的も無く愛斗を傷付ける事も辞さない月子。愛斗の心情がどちらに依るべきかは、出来れば何方にも依りたくない、というのは前提として、比較すれば明らかに前者である。
「何処までも、呆れる程に御目出度い事ね。」
そんな二人を月子は嘲笑する。
「一思いに殺さないからチャンスは在る、ですって? まさか本気でそう思っているの?」
月子の姿が忽然と消えた。瞬間、憑子の反応が愛斗の肉体に伝わり、彼の手が伸びる。愛斗が選んだのは背後、先程帰る素振りを見せる為に手を伸ばした部屋の扉の方である。
「何度も同じ攻め手で行くと思った? 熟々、都合良く考えるのね。」
しかし、愛斗の勘は外れてしまった。彼の手は虚しく扉を叩き、バランスを崩して更にもう一度無意味に叩いた。
そしてバランスを崩したのは、ただ迎撃が失敗して腕が空を切ったからではない。
「うぐっ‼」
愛斗は踵の上、アキレス腱と膝の下、膝蓋腱に強い痛みを感じ、その場に倒れ伏した。両脚から夥しい血が流れ、その感触が嫌でも状況を確信させる。
「取り敢えず、代表的な脚の腱を両方とも切らせて貰ったわ。これで君はもう、私と戦うどころか立つ事も儘ならない筈よ。」
考えてみれば当たり前の話だ。甚振る、という目的の為に先ずすべきは、生きながらにして反撃の手段を絶つ事。況して、月子は絶望を与えて楽しむ嗜虐的な愉悦を求めているのだから、こう来るのは自明の事だ。
冷たい笑みを浮かべ、月子は倒れ伏す愛斗を見下ろし、俎板の鯉をどう調理するか、そんな残酷な思案を巡らせていた。
『真里……君……。』
憑子が力無く愛斗に呼び掛ける。その何気無い様子に、月子は引っ掛かりを覚えたのか首を傾げる。
「待って。どうして貴女がそんなに苦しそうに、息絶え絶えで彼の事を呼ぶの?」
その瞬間、愛斗の手が再び月子の足下に伸びて来た。月子は軽やかなステップでこれを躱すと、そのまま愛斗の背を踏み付けにして扉の方へ移動した。
「ぐはぁッ‼」
「苦しそうねえ。今のは何方の悲鳴かしら?」
月子は何かを察した様に、愛斗と憑子を揶揄う。そんな彼女に対し、愛斗は再び足を狙って手を伸ばした。案の定、月子に触れる事は叶わず、彼の手は再び扉を叩いただけだった。手の甲で一度、勢い余って上に撥ねた手が落ちる際に掌でもう一度、計二回。
「やっぱり、随分回復が早いわ。いいえ、最初から真里君は傷付いていない様ね。」
愛斗から距離を取った月子が全てを確信して嘲っていた。
「真里君は知っているの、憑子? 貴女が彼の負う筈だった傷を悉く肩代わりしているという事を。」
月子の言葉に愛斗は瞠目した。今迄、戦いその他で受けた傷の治りが妙に速いと思ってはいた。又、昨夜見た夢の意味から、何となくそんな予感はしていた。だが又しても月子に看破され、言語化された事でそれは明々白々な事実となって愛斗の心に焼き付いてしまった。
「憑子會長、やっぱりそうだったんですね?」
『意地の悪い女ね。言われなければ、真里君は今迄通りに……我が身を顧みずに……立ち向かえたでしょうに……。』
憑子の言葉は粗々答え合わせだった。愛斗は強い羞恥の感情に激しく襲われていた。
体を張って守る。――女が男に対して可能な仕打ちの中で、最も効果的に屈辱を与える方法が在るとすれば、これだろう。男がそれに甘んじる事を自分に許す事が出来るとすれば、幼少期に親を筆頭に上の肉親にされた場合のみが例外として挙げられるくらいだ。
況してや、今の愛斗の状況は、自分が惚れている女の一人にそれをされ、更にもう一人にそれを見抜かれて嘲笑われるという二重の恥辱であった。
「最初から……そうだったんですね? あの時、紫風呂との争いで体育倉庫の窓硝子に飛び込んだ時から……。」
『まあ、そうね……。でも……気にする事は……無いわ。本来は……私がすべき事の……為に、君を無理矢理……利用させて貰っている……身だもの。元々……君が傷付く必要なんて……無かったのだから、君も……遠慮なく私という盾を……アドバンテージとして利用……しなさい。』
憑子の苦しそうな様子に、愛斗はとてもではないが彼女を気遣わずに戦う事など出来なくなっていた。蟠りが在っても惚れた女、憧れの人であり到底冷酷に使い棄てる訳には行かない。
憑子自身、そんな愛斗の想いは理解している。だからこそ、これまで隠し通してきたのだ。そしてそれは月子も同じであった。
「無理に決まっているじゃない。真里君は優しい子だもの。私に対してだって、殴ったり叩いたりはせずに唯優しく触れようとしているだけ。そんな男の子が、好きな女の子が自分の為に傷付く事を厭わない筈が無いわ。」
月子は然も愉快、といった調子で憑子を責める。
「疼くわねえ。嗜虐心がとっても……。」
愛斗は激しい怖気に襲われ、扉へと手を伸ばした。凄まじい嫌な予感から、今度は本当に逃げようと考えた。今直ぐにこの場から、月子から離れなければ。でなければ、又……。
「あら、逃げるの? そう来られると、食い止めざるを得ないじゃない、そうでしょう?」
素早く扉の前に回り込んだ月子の足が愛斗の頭を踏み付けた。愛斗は丸で自動車の様な巨大な鉄の塊を頭の上に置かれた様な、そんな暴虐的な力強さを彼女の足から感じていた。
それは決して比喩ではなく、当にそれ程の凄まじい強靭さで愛斗の頭は踏み躙られているのだ。そしてつまり、愛斗が月子の苛烈な仕打ちに耐えられるのには耐え難い理由が在る。
『あぐうううううっっ‼』
「あはは、辛そうねえ、憑子。ほら、態々私の方から触れてあげてるんだから、早く作戦とやらを実行したらどうなの?」
挑発する月子だが、当然そんな事は不可能だと承知の上である。
愛斗が本来負うべき損傷と苦痛は全て憑子が肩代わりしている。今迄そんな兆候を微塵も見せなかった憑子だが、月子の力が余りにも強過ぎるせいか耐え切れずに悲痛な絶叫を上げている。
「そんなに辛いなら、代わってあげるのを止めたら良いのに。」
「會長、止めてください! 僕が受けますから‼」
『真里君っ! 駄目! 真里君‼』
「そっか、無理な相談よねえ。だって実体が無い貴女ならまだしも、真里君の頭が真面に私の力を受けたら割られた西瓜みたいに潰れちゃうものね。どんなに辛く、苦しくても、貴女が耐えるしかないのよねえ。」
痛絶な悲鳴を上げる憑子、悦楽の嬌笑を上げる月子。二人の同じ声が悪夢の不協和音を奏で、部屋中に谺させている。
「言っておくけれどね、真里君。いくら憑子に実体が無いとはいえこの儘ずっと許容量オーバーのダメージを肩代わりし続けるられると思ったら大間違いよ。彼女の命そのものは君の心臓と一体化した肉腫にあるのだからね。過剰な精神的負荷が掛かり続けると、その心臓の本体が耐え切れずに死んでしまうわ。」
月子の脚に更なる力が入る。
『ああああああっ‼』
「ほらほら、頑張って耐えて、少しでも生き永らえないと。貴女が死んだら、その瞬間に真里君の方に本来の損傷が行くわよ。真里君の可愛い御顔が跡形も無く踏み潰されちゃうわよ。」
『真里君っ! 真里君っっ‼』
愛斗の頭から白い靄が噴き出した。何とか状況を打破しようと、憑子は苦痛の中で作戦を果たそうとしている。だがそんな苦し紛れの抵抗を嘲笑うかの様に、月子は足を一旦愛斗の頭から離し、今度は何度も背中を踏み付けにする。
『がっ‼ ぐはぁッ‼』
「残念でした。ずっと足を乗せ続けてあげる、そんな義理が有る訳ないじゃない。さあ、何発耐えられるかしらねえ、憑子?」
愛斗に全く苦痛が無い、という訳ではない。踏み躙られる感触、踏み付けられる感触は確かにある。だがそんなものは、月子が肩代わりしているそれに比べれば微々たるものなのだろう。
(このままじゃ……! 早く何とかしないと會長が……‼)
愛斗は必死に扉へと手を伸ばした。空を掻く手が二度、扉を叩く。
「あら、この期に及んで逃げようというの?」
月子は愛斗の手を踏み付けた。
『うぐっ‼』
「まあ、自分の為に襤褸々々に傷付いていく愛しの憑子を護りたい気持ちは分かるのだけれどね。無駄な努力よ。だって、その気になれば簡単に殺せるもの。」
憑子は愛斗の手に月子の足が乗っている間に再び白い靄を差し向け、肉体を一体にしようとする。月子はそれを態々待った上で足を離すと、愛斗の胴に蹴りを入れて彼の身体を転がした。
「うう……。會長、大丈夫ですか?」
『余計な……心配はしなくて……良いのよ。勘違いして欲しくない……のだけれど、私は唯君に死なれると……私も一蓮托生で……困るから仕方無くこうして……いるだけなのよ。』
漸く責め苦から解放された憑子は声を掠れさせて強がる。その様子は姿が見えずとも充分に痛々しかった。
愛斗はどうにか起き上がると、よろめきながら窓の方へと陣取り体勢を立て直そうとする。
『これは元々……私の戦い……。紅く染まった狂気の月が……爛々と輝く邪悪な夜が……明ける様に……。新しい、朔の日が學園に……訪れる様に……。それが私の……為すべき事……! 一世一代の……大事業……‼』
「會長、解りましたから。大丈夫、後もう少しの辛抱です。」
憑子を慰める愛斗の言葉に月子は首を傾げた。
「後もう少し……?」
月子はその意味を量りかねていた。それはつまり、愛斗の考えが彼女の想像の外に有る、という事に他ならない。
『という事は、成果は出たのね?』
「ええ、何とか。だから後は……。」
「後は、何かしら?」
不意に月子が愛斗の眼の前に現れた。散々痛めつけられた憑子は最早姉の速度に反応する所ではなかった。
「何を企んでいるのかは知らないけれど、充分愉しんだからそろそろ一思いに殺してあげようかしらね。」
月子は手の指を揃えて腕を振り上げた。その白く細い指で愛斗の身体を貫こうとしているのだと、二人には直ぐに分かった。
月子が本気で殺しに来た、つまり万事休す。――そう思われた、その時だった。
「真里君‼」
窓が割れると同時に、一人の男が生徒會室に飛び込んで来た。
「聖護院先生⁉」
「メッセージは受け取った! 援けに来たぞ‼」
突然現れた聖護院嘉久に、月子は一瞬気を取られる。充分な隙だった。愛斗は最後の力を振り絞り、月子に抱き着いた。
「は?」
「會長‼ 今です‼」
愛斗はその刹那を逃さなかった。というより、ずっとこの時を狙っていた。
何度も何度も扉を叩いたのは、直ぐ外に辿り着くであろう聖護院に対する作戦のメッセージだった。扉を叩く回数で乱入の方法を指示する。二回叩いた場合はタイミングを見計らって窓から乱入する様にと打ち合わせてあった。メッセージを繰り返したのは、聖護院が扉の前に辿り着いて確実に伝わるのを待つ為。窓際に位置取ったのは、手を踏まれている時に漸く聖護院から返事が在ったため、作戦実行に備えていた。
「だから何だというの? 再び憑子と私が一つになる? 『青い血』を分離する? 私がそれを素直に許すとでも?」
月子は愛斗の頭を鷲掴みにした。このまま握り潰してしまうつもりだ。だが、突如愛斗の身体は白く激しく光り、憑子の眼を眩ませる。
「ぐっ‼ 憑子‼」
『許されまいが、何が何でもやるだけよ‼ 終わりよ、月子‼ 二つの學園に、古文書の迷信に、華藏家に巣食う悪魔! 齎した全ての厄災と共に去りなさい‼』
凄まじい光が生徒會室に迸り、學園中を白く包み込んだ。




