第七十五話 新月と満月(上)
殺す、殺す。今夜終わりにする。あの祠で今宵惨劇が起こるだろう。
その時、私は初めてこの世に生まれる。
華藏學園生徒會室。真里愛斗と憑子は最後にして最大の敵、華藏月子と対峙していた。
「憑子會長。」
『問題無いわ。打合せ通りに行きましょう。』
二人は事前に竹之内灰丸から今の華藏月子に対抗出来る「唯一の希望」について聞かされ、戦い方を入念に検証していた。しかし、それは勝てる見込みはあるものの確実というには程遠い、どうにか戦う為の方策に過ぎない。
知ってか知らずか、月子は不敵な笑みを浮かべてゆっくりと近付いて来る。
「どういう相談をしたのかは……どうでも良いわね。だって、どう足搔いても私には勝てないんだもの。」
涼やかな佇まいで迫る月子から、今迄に感じた事の無い途轍も無い圧が突き刺さる。つい先程対峙した假藏學園最強の不良・爆岡義裕ですら赤子に思える程の圧倒的な脅威、全てを凍て付かせる冷気にも似た怖気が辺りを包み込んでいた。
一歩足を引いて、愛斗は構えを取る。基礎的な戦闘技術を竹之内父娘から即席で教わってきた愛斗だが、恐らくそれを披露するのはこれが最後だろう。
持てる技術、積み重ねてきた総てをぶつけようとする愛斗に、月子は冷ややかな笑みを向けている。
「今迄さぞ頑張って来たのでしょうね。この事態を解決する為に、祠の力、闇の眷属に対抗する為に……。」
来る。――愛斗も、そして憑子もはっきりとそう予感した。
喧嘩慣れしている爆岡と異なり、華藏月子は素人である。自らがこれから攻撃に出るという気配を隠匿する技術など全く身に着けていない。それ故に、愛斗と憑子は完璧に月子の動きを予知し、身構えることが出来た。
だが、気付いた時には月子の姿が眼の前から忽然と消えていた。
「なっ⁉」
『くっ‼』
愛斗の肩に長い黒髪が触れた。月子は一瞬、否刹那、須臾の間の内に背後に回り込んでいたのだ。
「でも、この通り無駄な努力なのよ。君が一生懸命に、短い期間ながら磨いてきたのは飽く迄も『闇の眷属』と戦う為の技術。私が手に入れたのは祠由来の闇の力ではないわ。もっと遥かに強大で、根本的に次元の違う力。」
愛斗が慌てて振り向くと、既に月子の姿は無かった。
「速い……‼」
華藏月子が手に入れた青い血、『青血の至高神』の力は、『闇の眷属』のそれとは全く違う。人間を洗脳したり、分離と結合を自在に操ったりする以前に、単純な力が圧倒的に強いのだ。それは既に竹之内から聞かされていた。
「駄目だ、全然付いて行けない。」
愛斗は月子の気配がする方へ何度も視線を向けるが、一向に彼女を捉えることが出来なかった。
「頑張るわねえ。」
不意に、月子が愛斗の両頬に触れて微笑み掛ける。彼女は完全に遊んでいる。
「この、莫迦にして……!」
「だって真里君、とても可愛いんだもの。」
揶揄う様な月子の言葉が頭に来た愛斗は、彼女の油断を突いて手首を掴もうとする。しかし、案の定彼の手は空を握る事しか出来ない。
「ねえ、本当に勝てると思っているの?」
逆に愛斗の方が月子に背後から抱き締められた。その瞬間、愛斗は強い死の直観に襲われた。
脳が蕩ける様な柔らかな感触、甘い馨り、心地良い声の響き。然し乍ら、上半身に絡み付く細い腕はその気になれば須臾の間の後にでも愛斗の肉体を捻り潰してしまう様な、冷酷な暴力性を隠そうともしていない。
「人間の悲しい性よね。もうどうにもならないという絶望を受け容れられず、希望が提示されればそれがどんな空論でも縋り付いてしまう。けれども、現実というのは残酷な物なのよ。」
はっきりと、月子の腕に力が入るのを感じた愛斗の胸の内に恐怖が膨れ上がる。華藏月子が生まれ付き持つ魔性と、後天的に得た腕力は愛斗を惑わすのに充分だった。気を抜くと屈服の命乞いが喉から出掛かる。
『真里君から離れなさい‼』
怒りの籠った憑子の言葉。愛斗の身体が白く光る。何かを察知したのか、月子は又してもその場から姿を消し、愛斗から発せられた白い光の筋が虚空を貫いた。
『チッ……‼』
「随分苛立っているわね。ま、状況が状況だから当然でしょうけれど。」
月子は再び元の席に着いていた。暢気に頬杖を付き、寛いですらいるが、その眼は鋭い光を宿して愛斗達の狙いを分析していた。
「思った通り、其方の狙いは私から青い血を再び分離する事の様ね。」
考えを見透かされた愛斗は動揺を隠せずに後退った。焦った様子を見た月子は口元を拳で隠し、さも可笑しそうに腐々と嘲った。
「何を驚いているの? まさかこの私が、自分がどの様に『青血の至高神』の力を得て、そこにどんな穴があるか、把握していないとでも思ったの? 本当に自分達の都合の良い様にしか考えていないのね。熟々、御目出度い事だわ。」
月子と対峙し、戦い始めた許りだというのに、早くもその行く末に暗雲が立ち込めていた。圧倒的、絶望的な力の差がある以上、勝ちの目を掴み取るには相手の僅かな隙をついて出し抜く他無いにも拘らず、最初から手の内が筒抜けなのだ。
「私が先程言った空論、現実の残酷さとはこういう事よ。人は策謀を巡らせる時、往々にして相手を自分よりも愚かな者と想定してしまう。一から十まで自分の思い通りに踊ってくれるものだと錯覚してしまうの。要するに、真里君、君達は私の事を見縊っていたという事よ。身の程知らずも甚だしいと思わない?」
何時からそんなに偉くなったのか、と華藏月子の切れ長の目に見据えられて静かに咎められた愛斗は思わず身が竦んでしまう。
『真里君、気を確かに持ちなさい。』
「因みにだけれど、もう一つの狙いも分かっているのよ。今、私に対抗しようとしているのは一見真里君だけれど、本命は貴女でしょう、憑子? 貴女こそが、私の中の青い血の定着を弄ろうとしている張本人、隠し玉という訳よね?」
『っ……‼』
憑子も言葉を詰まらせた。月子は戦略面での狙いだけではなく、戦術面で愛斗を囮にして憑子が月子を斃すという方策を練っていた事まで看破してしまっていた。
それこそは、竹之内翁が語っていた華藏月子を斃し得る唯一の希望だった。
☾☾☾
時は遡り、保健室での竹之内翁の提言。
「私の考えが正しければ、華藏月子は『青い血』を『彼女の体』と一体化する為に『祠の力』を利用している。『彼女の体』というのが今回最大の鍵です。良いですか、よく聴いてください。」
竹之内翁の言葉に愛斗だけでなく参戦する事になるであろう聖護院嘉久、戦線を離脱して保健室で待機する事になった戸井宝乃、事情が未だ今一つ解っていない紫風呂来羽も耳を傾ける。
「祠の力に因る結合と分離は、どのような組み合わせでも一様に力を発揮するという訳ではありません。その気になればどのような変化でも起こす事自体は可能ですが、結合し易い組み合わせ、分離し易い組み合わせというものが存在します。」
『それは初耳ね、聖護院先生。』
「うっ……。」
憑子から矛先を向けられた聖護院は言葉を返せない様子だった。聖護院こそは憑子が祠の力について教わった師であり、即ち彼女が知らないという事は彼の説明不足を意味する。
「まあ仕方ありますまい。当初、『新月の御嬢様』の目的は『學園の悪魔』を華藏月子の肉体から分離するのみだった。それに限って言えば、結合分離の難易度の話は不要で、蛇足だったという事でしょう。」
『それは確かに、そうね。』
「加えて、その法則に由れば『學園の悪魔』が華藏月子の肉体から分離されたとしても、『新月の御嬢様』の支配下にある肉体から彼女も本来の主である華藏月子も分離されないという確信が有ったからな。尤も、それは『學園の悪魔』が華藏月子とは無関係の怨念だと思われていたからだが。」
「つまりどういう事かと申しますと、肉体にとって異物である『學園の悪魔』は分離し易く、逆に華藏月子と『新月の御嬢様』は結合し易いと、こう考えられた、という話になる訳です。これは御二人が元々一卵性双生児であることが大いに関係しているのです。」
『成程……。』
憑子は理屈を概ね理解した様だ。
『一卵性双生児は、その名の通り元々一つの受精卵から二つに分かれたもの。私が畸形嚢腫としてあの女の心臓と一体化していた経緯は、その分離が不完全だったから。大元は一つだった所から二つに分かれた者であり、それ故に祠の持つ〝一つに結合する力〟が馴染み易い、と……。』
「然様で御座います。そしてもう一つ、『青い血』は本来華藏月子の肉体にとって完全な異物です。人対人の輸血と異なり、人外の血を無理矢理定着させている訳ですから。つまり、此方は逆に『二つに分離する力』の方が馴染み易い。今回、これを利用させて貰います。つまり、鍵は貴女の方ですよ、『新月の御嬢様』。」
後に月子が看破した様に、竹之内から憑子を要とした今回の作戦についての話が始まった。
「先ず、華藏月子に祠の力を作用させるのは容易ではありません。今迄の敵がそうだったとは言いませんが、今の彼女は次元が全く違うのです。」
「確かに……あの仁観先輩ですら子供扱いでしたものね。」
愛斗は『闇の靈殿』で月子と対峙した時の事を思い出していた。仁観嵐十郎よりも強い相手、となると爆岡義裕が挙げられるが、彼と違い彼女には仁観が勝つ光景すら思い浮かばなかった。爆岡ですら愛斗には動き出しが見えず、本気になれば憑子にすら捉えられないとなると、月子に対抗するのが如何に至難か考えただけで気が遠くなる。
「下準備が必要です。その為に、困難ですが華藏月子との密着状態を長時間維持する必要が有る。」
「長時間……でもそれって、絶対に無理ですよ。だって組み合いになったら僕の方が確実に力負けしてしまいます。仁観先輩ですら相手にならなかったんですから。」
「そうです。しかし、『新月の御嬢様』に限り、それが可能な理由が在るのですよ。それこそが当に、祠の力の馴染み易さ、結合のし易さなのです。」
竹之内に此処まで話されると、流石の愛斗も察した。
「つまり、憑子會長が……。」
『華藏月子の肉体と再び一体化し、その状態で〝青い血〟との分離を試みる、という訳ね。』
「はい。一卵性双生児であり、尚且つ元々結合していた御二人ならば祠の力は極めて強力に結合方向へ作用する筈です。」
『それを利用し、分離を作用させる迄の時間を稼ぐ、と……。後問題は、どうやってその状態まで持って行くか、ね。』
「それについては、これから皆さんの意見を広く集めましょう。アイデアは多い方が良い。華藏月子の想像も及ばない奇策で『新月の御嬢様』と彼女を触れさせ、元の状態に戻すのです。その為の手数は何通りもあった方が良い。真里君達は勿論、私や聖護院先生の戦闘経験から来るアイデア、紫風呂君の喧嘩殺法から来るアイデア、戸井さんや杉原先生の素人意見、何でも構いません。どうか広く、相手の考えもしない突飛なアイデアを。」
以後、華藏月子の呼び出しが掛かる迄、愛斗達は必死に方策を練り合った。
☾☾☾
時を戻し、生徒會室。月子に戦略を看破された愛斗と憑子は、それでも諦めていなかった。
(確かに、保健室で募ったアイデアの殆どは華藏先輩が僕を囮だと気付かない前提で考えられたものだった。こうなったら捨てるしかない。だけど、それでも使える作戦は未だ有る!)
対する月子は、席に着いた儘動こうとしない。これは愛斗と憑子にとって、非常に厭らしい。
『やる気が無いの?』
憑子が苛立ちから思わず非難を溢したのも致し方無い事だった。月子が動かない以上は愛斗達から仕掛けざるを得ない。月子に触れ、憑子をその身体に送り込む事が出来れば良い愛斗にとって、待ちの姿勢で身構えられるよりも相手の方から仕掛けてくれた方が隙も生じ易く好都合なのだ。
「打つ手が無くなって気の毒だから、この上私から攻めて怖がらせるのは余りにも可哀想だと思ってね。せめて、玉砕する覚悟くらいは決めさせてあげようという仏心よ。別に命が惜しいのなら、此方としては何時間でも待ってあげて構わないのだしね。」
『くっ……‼』
月子は完全に価値を確信して舐め腐っている。しかし、愛斗は此処で一つ発想を変えた。
(待てよ……?)
愛斗にヒントを与えたのは、当に月子の傲り昂った余裕綽々の態度に他ならなかった。今、愛斗は月子が仕掛けて来ないから此方から攻める事を強いられている。主導権は完全に相手に有る。
(だったら……。)
愛斗は踵を返した。
「そういう事でしたら、先輩。僕等はもう一度作戦を練り直してきますよ。取り敢えず、此処は一旦帰りますね。」
「は?」
月子は虚を突かれたように、初めて気の抜けた様な声を漏らした。相手が仕掛けて来ない、此方からも仕掛けたくない、ならば抑も、戦闘自体を止めてしまう。それが愛斗の出した結論だった。
愛斗は生徒會室から去ろうと、扉に向かって手を伸ばした。
「そんな物、通る訳が無いでしょう。目上の人に呼び出されて、勝手に帰れるとでも?」
月子は一瞬にして扉の前に回り込み、愛斗の前に立ち塞がっていた。だがそれは、彼女が自ら待ちの姿勢を崩した事に他ならない。
仕掛けて来る迄待つ相手に対しては此方も只管に相手の根負けを待つことが出来る。しかし、仕掛けて来ないとこの場を去る相手に対しては、待ちを棄てて仕掛けざるを得ない。そういう意味で、この駆け引きは元々呼び出して待ち構えていた月子よりもそれに応じた愛斗と憑子の方が遥かに有利だった。
「今だ‼」
愛斗は扉に手を伸ばしたその手で月子に触れようとする。上手く行けば、この儘憑子を彼女の心臓へ戻す事が出来るかも知れない。
だが、危機を察知した憑子の姿は再び目の前から消え、愛斗の作戦は失敗に終わった。愛斗の掌は空を切り、扉を叩くだけに留まった。
「流石にそう上手くは行きませんか……。」
「ええ、全く舐められたものね。でも、そう来るなら此方から行かざるを得ない。中々生意気にも考えたじゃない。でも私の慈悲を無下にした事、直ぐに後悔する事になるわ。」
愛斗が振り向いた先で、月子は相変わらず不敵な笑みを浮かべていた。しかし、そこには同時に明確な害意が滲み出てもいた。
愛斗と憑子の駆け引きは、此処からが本番である。




