第七十四話 再会の血と薔薇
天上影は変らねど
栄枯は移る世のすがた
写さんとてか今もなお
ああ荒城の夜半の月
――『荒城の月』 (詩:土井晩翠、曲:滝廉太郎)
真里愛斗・憑子と聖護院嘉久は華藏學園生徒會室へと急いでいた。
「嫌に静かですね、會長、先生。」
『自分から呼び出したからには、相当の自信が有るのでしょう。』
「究極の力を手に入れたのだから、妨害しなくても自分が対応すれば事足りると……。」
「それなら、最初からそうすると思いますけど……。」
足早に廊下を行く二人の前には、假藏の不良も操り人形も現れていない、今の所は。憑子の言う様に、華藏月子には彼等を迎え撃つ絶対的な自信が有るという事か、それとも単に手駒がもう無いのか。
『そうでもなかったみたいね……。』
目的の部屋まで蟻の眉間とした愛斗達の眼の前に、四人の人影が現れた。假藏學園の不良ではない。操られているのは、愛斗の見知った者達である。
「中等部生徒會……!」
「あいつらまで……。」
華藏學園は中高一貫の私立学校であり、中等部には中等部で生徒會が存在する。彼等も又三週間前の合宿に参加しており、惨劇の夜に命を落としたのであるが、此処へ来て愛斗達の前に最後の刺客として現れたのだ。
「御機嫌よう、真里君、聖護院先生……。」
その内の一人、紅一点の女子生徒が口を開いた。その禍々しい雰囲気に、三人とも覚えが有った。
「まさかお前は、學園の悪魔‼」
「御名答、真里君。私はこの時を待ち侘びていたわ。我が分身、華藏月子に蘇らされ、使い勝手の良い肉体を与えられ、貴方達に復讐をする機会をね。」
女子生徒の身体が纏っていた紫の闇が一気に膨れ上がった。
「私に殺されるか、華藏月子に殺されるか、二つ何れにせよ貴方達の行き先は一つよ。運命を変える事は出来ないわ!」
三人の中学生男子が愛斗と聖護院に躙々と詰め寄って来る。『學園の悪魔』は手を突き出し、高らかに命令を下す。
「行きなさい、可愛い後輩達! 最後の先輩を仲間に入れてあげるのよ‼」
三人の男子生徒が一斉に飛び掛かって来た。しかし此方には頼もしい味方がいる。聖護院が腕を一振りすると、三人を白い光が包み込み、一瞬にして糸の切れた人形に変えて彼の背後に横たわらせてしまった。
「真里君、此処は私に任せ給え。君は華藏月子の許へ。」
「承知しました。『學園の悪魔』の相手は任せます。」
愛斗は女子生徒の脇を走り去ろうとする。勿論、『學園の悪魔』も只で通す筈が無い。だが、愛斗へ伸ばそうとした彼女の手は聖護院に掴まれていた。
「中学生の女子を相手に随分と乱暴じゃないですか、聖護院先生。今時体罰なんて流行らないんですよ?」
「不本意な悪事を強要される生徒が居れば相談に乗り、邪悪から解放し救出すべく全力を尽くすのは教師として当然だろう。」
二人は硬直状態。流石の聖護院といえど、『學園の悪魔』を相手に難無く勝つという訳には行かなかった。
しかし、この隙に愛斗は華藏月子を除いては最大の難敵ともいえる相手を遣り過ごし、憑子と共に生徒會室へ向かうことが出来た。
「無駄な事を……。先程も言いましたがね、私か華藏月子の何方かに殺される、それだけの違いに過ぎないんですよ。」
「ふ、果たしてそれは私達の事かな? 運命と言うなら、お前の方こそ私との因縁という運命から逃れられなかった様に思えるが。恐らく、お前の分身は私と真里君を分離する為にお前を利用したに過ぎないのだろう。」
「知った風な口を……‼」
事の始まりに生じた因縁が火花を散らしていた。
☾☾☾
愛斗は一人、生徒會室の扉の前に立つ。この先に月子が居ると思うと、緊張の余り体が強張る。
『真里君、落ち着きなさい。勝算は有るんだから。』
「解ってますよ、會長。」
一つ息を整え、愛斗は軽く三回、扉をノックした。奥から「どうぞ。」と鈴を転がすような声が入室を促す。その声に導かれる儘に、愛斗は扉を開いた。
「失礼します。」
足を踏み入れた生徒會室が普段と様子が違うのは、時間帯に因るものだろうか。奥で一人、彼女が待つ光景は決して珍しいものではない。しかし午前の日差しは、二人の生徒會役員、會長の華藏月子と書記の真里愛斗の間に開いた空間に、煌めく白を差し込ませていた。
奥の席に、華藏月子は宛ら一輪の薔薇の様に凛とした姿で坐っていた。愛斗にはそれが丸で何十年もの時を経た劇的な再会の様に思えた。
「おはよう、真里君。」
華藏月子は愛斗に対して、正しく模範的な生徒會長が後輩に告げる調子で朝の挨拶を投げ掛けた。それはこの一連の騒動を起こし、多くの犠牲者を出した邪悪な黒幕に似つかわしくない、実に爽やかで自然な調子の挨拶だった。丸で全ては嘘で、目の前にいる相手が偽り無く手放しに尊敬すべき生徒會長の儘であると、そう錯覚する程に。
「おはようございます、華藏先輩。」
愛斗は挨拶を返したが、決して百パーセント呑まれている訳ではなかった。心臓に憑子の存在を感じている限り、目の前にいる相手が恐るべき敵だと否が応にも思い知らされる。
ただ、丁寧に、敬意を持って接する、というのが愛斗にとって華藏月子を相手にする自然体の仕草だった。逆に言えば、この態度は華藏月子に対する許容、服従を全く意味していない。
「此処まで能く来たわね。流石は私の見込んだ後輩だわ。」
「嬉しい御言葉ですが、残念ながら僕の記憶では何時貴女に見込んで頂いたのか、全く見当が付きませんね。」
愛斗は嘗て華藏月子に救われ、彼女に憧れて生徒會役員に立候補した。しかし、愛斗が入った生徒會の會長はあくまで憑子である。そういう意味で、愛斗は彼女を華藏先輩、憑子の事を會長と意識的に呼ぶようにした。
そんな彼の思惑を知ってか知らずか、月子は小さく笑った。
「少し、お話ししましょうか……。」
「望む処ですよ、先輩。」
月子はゆっくりと窓の方へ歩き始めた。朝日を浴びるその立ち姿は惚れ惚れする程に美しい。余りにも芸術的で、神秘的で、彼女の一挙手一投足に愛斗は思わず気後れしそうになる。
彼女は窓の外、華藏學園の敷地をじっと見渡していた。
「我が所有物ながら、素晴らしい學園だと思わない?」
「ええ、僕もそう思います。」
何を言い出すのか、と思った愛斗だったが、敢えて素直にそう答えた。
「緑豊かな自然の中、温故知新の理念によって充実させた施設で勉強することが出来る華藏學園の生徒達は、間違いなく幸せ者だと思うわ。」
「そうですね。」
「表面上は、だけれどね……。」
月子は皮肉めいた笑みを溢した。
彼女の言わんとする意味は、既に愛斗も憑子も知っている。この學園には、隠された深い深い闇が在る。
「その、取り繕われた表面上の化けの皮を剥がすと、どんなに悍ましい真意が潜んでいるか、屹度生徒達にも先生方にも想像だに出来ないでしょうね。君もそうだったでしょう、真里君?」
何処か涼やかですらあった空気が一気に淀んだ。
「巨万の富と名声を恣にした豪商が、次代の人材を育む理想的な學園を天下国家の為に遺した。――そう見せ掛けられたこの學園はその実、邪悪な神秘を奉り狂信的な欲望を叶えるべく創立された闇の研究施設であり、一見温故知新を謳う理念はそれに向けた洗脳教育の意図を裏に忍ばせている……。この學園の生徒達の青春は、そんな虚構の上に築き上げられた歪な無残絵。」
裏側を知れば知る程、汚らわしいとは思わないか。――その問い掛けに対し、愛斗は答えに窮した。月子は更に続ける。
「しかも、その身勝手な目的は現在の學園に至る過程で一つの孤児を産み落とした。本来は同じ學園の名を冠していた筈なのに、片や恵まれた環境を整備された名門校、片や半ば見棄てられ、塵捨て場扱いすらされた不良校。余りにも不均衡で、不平等で、不公平で、不義理な格差だと思わないかしら。思わないでしょうね。だって、この一件で二つの學園が融合しなければ、御互いの事を気にも留めなかったでしょうし。」
窓の方から此方に振り向いた月子の顔を見て、愛斗は心の底から戦慄した。
言葉とは裏腹に、彼女の胸の内に有るのは學園の実態、現実の姿に対する怒りや嘆き、悲しみ、失望等ではなかった。そんな物は彼女の表情からは欠片も見出せなかった。
愛斗が見たものは、華藏月子という稀代の悪女の、この世のものとは思えぬ程に美しくも残酷な薄笑みだった。
その凍て付く様な恍惚の中に垣間見えるのは、愉悦。
罪を糾弾するという、己を上位者に置く物の暗い優越感。
或る人間、若しくはその集団に対して、清純と汚濁へと篩い分ける、存在価値の裁定権。
己の指名一つで他者の尊厳を奈落へと突き落とす、魂の生殺与奪権。
「華藏先輩……貴女は一体何を……。」
「私はこの學園を在るべき姿に戻しただけ。二つに分かれた學園を一つに戻し、苟且の学び舎を洗脳の場に、愚かな生徒を憐れな実験台に戻した。そして都合の良い世界を求めるという學園創立の真の目的も、私の手で叶えることが出来る。私以外の全ての存在を敗北者に貶める事でね。」
愛斗の中に二つの感情が芽生えていた。一つは、恐怖である。華藏月子という人物が何を考えているのか理解出来ない。唯、恐ろしい相手だという事だけは解る。その結果導き出される所業が許されざる禁忌であり、その裏付けとなる思想が認めがたい背徳であるという事は確かだ。
即ち、もう一つの感情とは……。
「貴女に……貴女に何の権限が有ってこんな事を……。」
「この學園は私の所有物よ。」
「それでも、この學園で過ごす人々は、青春は、生活は、人生は、貴女の玩具じゃない‼」
心に芽生えた怒りの感情の儘に、しかしはっきりとした意思を持って、愛斗は月子に否定の言葉をぶつけた。
「確かに、學園の本来の目的が僕達の思っていたものとは全然違うのはショックでしたよ。この學園は創立から歪で、狂ったものだったのかも知れない。」
「そうよ。だから君がどんな綺麗事を言おうが、そんな物には何の価値も無いの。」
愛斗が見せた言葉の隙を月子は冷徹に突き抉る。
「何でもそうだけれども、塵を幾ら取り繕っても塵なのよ。最初から間違っている物は何処迄も間違っている。この學園は最初に悍ましい迷信、狂信、妄信によって生み出され、それ故に輩出される卒業生は本質的に偽の思想と偽の教育によって歪められた偽物でしかない。更に、それを生み出す為に犠牲になった姉妹校の事など露知らぬ、無意識的な階級構造の加害者でもある。悪の構造の上に構築されたものには、何一つとして真実は無い。これを終わらせる為には、一度全てを粉微塵に破壊し尽くさなければならないの。汎ゆる犠牲を厭わずね。」
「それは違いますよ、華藏先輩。」
愛斗は強い意志を瞳に宿し、月子の暴論に反駁する。
「學園の主役は、學園という場所じゃない。そこで過ごす人々だ。人の数だけ価値が在り、意味が在り、真実が在る。學園訓の『伝統と革新の二つを一つに。』『先人の偉業を誇り、猶且つ出藍の誉たるべし。』『来た道を忘れる勿れ、行く道を恐れる勿れ。』というのも本当の意図は歪な狂気の願望でも、そこから何を感じるか、夫々の解釈にこそ本質が在る。この學園で何を学び、何を感じ、何を得るか、それが無価値だと断ずることは誰にも出来ない。」
愛斗の反論に、憑子は尚も嘲笑を浮かべる。
「學園の価値は人夫々ですって? じゃあそれが必ずしも光り輝く宝石とは限らないじゃない。何より、君がそれを忘れるの?」
「忘れてないですよ。闇黒に満ちていた僕の學園生活を光り輝かせてくれたのは貴女じゃないですか。」
憑子の表情から薄笑みが消えた。その変化は不気味だったが、愛斗は敢えて一歩前に踏み出した。
「だから僕は、貴女に教わった通りにするんです。より良い學園生活の為に身を粉にして働くんです。誰かの學園生活を闇が覆うなら、光にて祓う事を諦めないんです。それが生徒會役員としての僕の務めです。」
『真里君……。』
黙って聴いていた憑子は感心した様に嘆息した。
「華藏月子先輩、僕はより良い學園生活の為に問題点を洗い出し、克服します。今この學園を絶望のどん底に落としている厄災を退ける為に、元の平穏な學園生活を取り戻す為に、貴女を……在るべき姿に還します!」
愛斗は言い切った。それは嘗て憧れ、恋焦がれた大先輩への訣別だった。
「成程……。では、結末を導きましょうか。私の手に入れた華藏・假藏學園の辿るべき道は何方か。私と君が出した答え、その二つを一つの真実に! 私の生み出したこの殺戮學園で‼」
真里愛斗と華藏月子、二人の道ははっきりと分かたれ交わらない。今、二つの學園の未来を賭けた最後の戦いが始まろうとしていた。




