第七十三話 唯一の希望
『青血の神子』――餌共はあの個体をそう呼んだ。
華藏學園、保健室。保険医の杉原志子は草臥れ切った様子で椅子に深く腰掛けた。
彼女とて、突然意に反して華藏學園に転移させられた内の一人だ。この莫迦げた騒動に、生徒以外は殺害対象となっていない事は彼女にとって一先ず幸いだった。だがその代わり、事態を受け容れきれない儘に地獄の様な仕事量が彼女に圧し掛かったのは言う迄も無い。
「申し訳御座いません、杉原先生。我々が至らない許りに、多くの怪我人の応急手当てを請け負って頂いて……。」
竹之内文乃が杉原に深々と頭を下げた。『裏理事会』のメンバーである彼女は華藏學園の卒業生であり、在校中は剣道部員として何度か傷を負って世話になっている。
「いや、私が忙しくて済んでいるだけマシというものだろう。華藏會長の突然の乱心に対し、君達は能く対応していると思うよ。『裏理事会』だったかな?」
職責上、學園で起こる事故騒動に対応しなければならない彼女は、學園の裏で蠢く「何か」に対処する『裏理事会』なる組織の存在について、断片的に理事長から聞かされていた。
「とは言え、このままでは廊下が埋まってしまいますな……。」
文乃の父、竹之内灰丸は手を腰に当てて溜息を吐いた。この騒動で出た怪我人が保健室のベッドに収まる筈が無く、廊下に寝かされるという対応を余儀なくされていた。線路の枕木の様に寝かされた怪我人達が呻き声を上げる様は、宛ら戦場の傷痍兵を彷彿とさせる地獄絵図の様相を呈していた。
「文乃、念の為もう一度見回りに行っておくれ。私は此処で彼等を待たねばならん。」
「承知しました。」
文乃は怪我をした生徒達を踏まない様に注意しながら廊下を駆けて行った。こうしている間にも、又假藏生が華藏生を襲わないとも限らない。今、生徒達を護れるのは彼等『裏理事会』だけなのだ。しかも、父親の竹之内翁には事態解決の為の大切な役目が有る。
「扨て、彼等は大丈夫でしょうか……。」
待ち人達の安否を憂いる独り言に応える様に、彼のスマートフォンが鳴動した。
「申し申し?」
『竹之内先生、聖護院です。』
「おお! 其方は無事解決したかね?」
『はい、どうにか。頑張ったのは私ではなく、生徒達の方ですが……。』
聖護院嘉久から入った吉報に、竹之内の口角が僅かに上がった。假藏學園で処刑されそうになっている仁観嵐十郎の救出を終えたら連絡する様にと、竹之内から聖護院に託けてあったのだ。
「その生徒達の様子はどうかね?」
『流石に仁観君には休養が必要の様です。暫く休ませてから、假藏の協力者達に保健室へ連れて来て貰いましょう。他の二人、真里君と戸井さんはまだ動けると思います。しかし、戸井さんに関しても其方で預かって頂くのが得策かと。』
「うむ。その為には、真里君も含めて全員で保健室を訪れて欲しい。そこで、君達に大事な話が有るのだ。この一件に私が見出した、唯一の希望についての話が……。」
竹之内の言葉に、電話越しの聖護院は驚いた様子だった。
「兎に角、御越しください。」
『解りました。』
週末、彼の地へ戻った竹之内の目的は真里愛斗に追い込み稽古を付ける許りではなかった。彼は研究室に戻り、古文書に纏わる資料から華藏月子が手に入れた『青血の至高神』に対抗する術を見出そうとしたのだ。
「まあ、そのものに対してはどうしようも無い、という結論しか在りませんでした。『青血の至高神』は別名『絶対強者』と呼ばれる存在。今の我々の力で抗う術は無い。しかし……。」
竹之内翁の双眸に鋭い光が宿る。それは絶望的にも思える闇の中、彼が見出した幽かな光が射し込むかの様だった。
彼は戦う者の到着を今か今かと待ち侘びていた。
☾☾☾
真里愛斗・憑子と戸井宝乃は聖護院と共に假藏學園から戻り、祠の山道から合宿所周辺へと抜けた。
「竹之内先生が保健室で待っているんですね?」
「ああ。真里君、私と君に話が有るそうだ。」
彼等の現在地から保健室迄はそう遠くない。そこで戸井を預け、華藏月子との最後の戦いへは愛斗と憑子、聖護院のみで向かうという案に、愛斗だけでなく戸井も異論は無かった。
「ま、流石にあれだけ足を引っ張っちゃ、一番大変な舞台には上がれないよね。私は大人しく『裏理事会』に護衛されつつ待ってるよ。」
納得した戸井を預け、竹之内翁に話を聞くべく愛斗達は倒れている假藏生の脇を抜けて保健室へ向かおうとする。操り人形にされていた假藏生達は残らず聖護院が伸してしまったらしい。假藏學園での最後の活躍といい、『裏理事会』の最高戦力だけあって聖護院が心強く思えた。
しかし、そんな中一人の假藏生が突如起き上がった。見覚えの有る、大柄な不良だった。
「愛斗くぅぅぅん‼」
「うわあ⁉」
愛斗は驚きの余り声を上げた。
「ゲッ‼ ゾンビ不良‼」
「まさか復活するとは‼」
戸井と聖護院も警戒の体勢を取る。しかし、彼が声を上げた理由は別の所に有った。結論から言うとこの男、紫風呂来羽は正気に戻っていたのだ。
「どういう事だ愛斗君‼ 何故屑野郎の聖護院と連るんでやがるんだああああ‼」
「あ、これ逆に面倒臭い奴だ……。」
紫風呂来羽は両學園の融合から間も無く愛斗と揉め、何故か愛斗に惚れてしまった厄介な不良である。二年生でありながら頂点を獲る候補に挙げられたが、それ故に勢力を持っていた事に目を付けられ、基浪計と砂社日和に操られてしまった。以降、昏睡状態に陥っていた筈である。
この状況、彼が一度聖護院に会っている事から生じた誤解である。愛斗は覚醒剤事件で犯人だった国語教師・海山富士雄を問い詰める際、我が身を護る為と証人の確保の為に紫風呂に同行して貰った。その時、当時聖護院の体を乗っ取っていた『學園の悪魔』の所業を聞き、義憤を覚えていたのだ。
「どうしましょう……。」
『面倒だからもう一度眠って貰いなさい。』
「いや、ぶっちゃけ僕もそうしたいのは山々なんですが、流石に拙いでしょ……。」
『良いじゃない、どうせ悦ぶんだから。彼からしても本望でしょう。』
相変わらず假藏生には冷淡な憑子の態度だったが、気持ちの上では愛斗も大差無かった。愛斗は紫風呂の事がはっきりと苦手である。好意を向けられるのは大した問題ではないが、紫風呂の場合はその形、性癖が酷く歪んでいるのである。
「まあ、直ぐには説明出来ないし、取り敢えず保健室まで一緒に来て貰ったら?」
戸井の提案で、一先ず紫風呂の扱いは保健室に辿り着く迄保留となった。道中、彼はずっと紫風呂に対して番犬の様に唸り声を上げて威嚇し、愛斗に制止されていた。
☾☾☾
保健室に辿り着いた愛斗達を杉原と竹之内翁が出迎えた。文乃は未だ戻って来ていない。
一人、紫風呂だけは假藏學園の生徒であり、制服は似ているものの人相から立場は充分察せられるので、保健室や廊下で横になっている華藏生達は震え上がっていた。
「何か、やっぱり俺は場違いな感じだな……。」
自分に起きた事、今両學園に起こっている事を簡単に説明された紫風呂は、周囲の反応の訳を理解した様で肩身が狭そうである。
「で、問題はそのイカレた華藏の生徒會長をどうしようかって事だろ?」
紫風呂は拳と掌を打ち合わせ、闘志を見せていた。色々と気に入らない事が多かろうが、それは事情を知らぬが故の蛮勇だった。
「その通りなのですが、君では無理です。」
「何だと、爺?」
竹之内翁に凄んだ紫風呂だったが、視線に気圧されたのか直ぐに引き下がった。一方で竹之内翁はこの機会を幸いにと愛斗達に呼び出しを掛けた主題を話し始めた。
「誤解しないで頂きたいのは、紫風呂君、私は何も君を低く見てそう言っているのではない、という事です。恐らくは誰がやっても、正攻法では今の華藏月子に勝つ手段は存在しません。」
「正攻法では、という事は、邪道で出し抜く方法は在るという事ですね?」
聖護院が即座に竹之内翁の言う大意を察した。竹之内翁もそれを否定せず、話を続ける。
「彼女が手に入れた青い血、あれは先日話しました通り、『青血の至高神』と呼ばれる神代に於ける幻の神格が遺したものとされています。それがどの様な存在だったかというと、事跡を一つ挙げれば我々が今迄問題にし、一連の事件の元凶となった祠、其処に祀られている邪悪な神格を打ち負かした事が象徴的でしょう。つまり、我々が悪戦苦闘してきた相手というのは、『青血の至高神』にとっては取るに足らぬ格下の、その更に残滓に過ぎない。我々とは余りにも存在の次元が違い過ぎる。」
だからこそ、華藏月子にとって祠の力は目晦ましに過ぎなかった。『學園の悪魔』を自らの心から分離させ、偽りの目的を与えて『青い血』を得る迄の時間稼ぎに利用したのだ。今の彼女にとって、祠の力とはその程度のものに過ぎない。当然、それに対抗する為に身に着けた愛斗達の力も。
「しかし、本来ならばそれ程迄に強大な存在の力を人の身で得る事など不可能なのです。第一、彼女は自らの血を全部入れ替えるという荒業を行っている。これは尋常ではない施術です。」
「確かに、どう考えても普通は死にますね。」
「というか、一度死んだのですよ。己の血を抜く、否、分離する為に。」
『分離……!』
憑子が最も早く察した。
『つまり、華藏月子が現在行使する力は祠由来の物ではないけれど、それを手に入れた手段は祠を利用したものだと、そういう事ね?』
「はい。そしてその構造にこそ、我々に付け入ることが出来る唯一の隙が在るのです。『青血の至高神』の力を打倒する事は不可能。しかし、それを摂理に反して己と一体にした『祠の力』ならば、打倒することが出来る!」
竹之内翁はこの唯一の希望を力強く愛斗達に訴えた。しかし、愛斗も聖護院も、祠の力を知らない戸井や紫風呂も首を傾げている。
「随分都合の良い話に聞こえますね。」
愛斗とて、都合の良い希望に縋りたい気持ちは有る。しかし、それで上手く行くのならば抑も華藏月子は『裏理事会』にとって何が脅威だというのだろう。勿論、そんな事は竹之内翁自身百も承知である。
「当然、これは僅かな希望に過ぎません。真面に考えれば、存在位階の差が大き過ぎて『光の力』は華藏月子の中で『青い血』を繋ぎ止めている『祠の力』まで浸透しないでしょう、通常は。」
『通常?』
「そこでもう一つ、華藏月子と我々の間に横たわる特別な関係が重要になってくるのですよ。」
「そうか……。」
憑子に続き、愛斗も竹之内翁が言わんとしている事を理解し始めた。元々、それはほんの僅かな可能性として語られていた事だった。
「つまり、当初僕が『學園の悪魔』に対抗し得る切り札と目されていたのと同じく、僕と華藏先輩の繋がりが効いてくるという訳ですね?」
「いいえ、少し違いますね。」
竹之内翁は言葉とは裏腹に愛斗を指差した。
「華藏月子が身に着けた祠の力の残滓は確かに君の中に未だ在るでしょう。しかし、それだけでは何の意味も無い。今回は『光の力』そのものが通用しないのです。普通のやり方ではね。」
「では、どのようなやり方で?」
「私の考えが正しければ、華藏月子は『青い血』を『彼女の体』と一体化する為に『祠の力』を利用している。『彼女の体』というのが今回最大の鍵です。良いですか、よく聴いてください。」
説明を聴いた者達は一様に瞠目した。それは確かに、華藏月子にとって宿命的な落とし穴だったに違いない。
『大きな賭けになるわね……。』
憑子が唯一の希望を噛み締める様に呟いた。
その時、丸で竹之内翁の説明が済むのを待っていたかの様にスピーカーから校内放送のスイッチが入る音がした。
『高等部二年四組、真里愛斗君。高等部二年四組、真里愛斗君。至急、生徒會室迄来なさい。繰り返します。高等部二年四組、真里愛斗君。高等部二年四組、真里愛斗君。至急、生徒會室迄来なさい。』
華藏憑子の声で直々に愛斗へ呼び出しが掛けられたのだ。
「……御指名の様ですな。」
「ですね。生徒會室ですか……。」
愛斗は月子が最後の舞台に選んだ場所に思いを馳せる。確かに、決着を付ける上でこれ以上に相応しい場所は無いだろう。
「では、行って来ます!」
「私も行こう。この件で、多くの人間に様々な形で借りがある。」
愛斗と聖護院が保健室の入口に向けて踵を返した。
「じゃ、俺は假藏の連中を止めに行くぜ。これも、愛斗君の為だ。」
紫風呂が愛斗に向けてウインクした。動機や振る舞いはどうあれ、この申し出は素直に有り難い。
「私は此処で戸井さんや杉原先生と待機し、娘の文乃が帰ってきたら入れ替わり紫風呂君に合流しましょう。さあ、最後の踏ん張り所ですよ!」
愛斗と憑子は聖護院と共に華藏月子が待つ最後の戦いの場、華藏學園生徒會室へと向かった。




