第七十話 冷血なりせば
いつの日か過去を振り返ったとき、苦心にすごした年月こそが最も美しいことに気づかされるだろう。
――ジークムント・フロイト
假藏學園校庭。迫り来る敵の強大さに、真里愛斗は全身を焼く様なプレッシャーを感じていた。『弥勒狭野』の頭を張る假藏學園最強の不良・爆岡義裕の、仁観嵐十郎すら打ち負かす圧倒的な暴力が愛斗に向けられようとしていた。
「小僧、俺に喧嘩を売るとは、良い度胸してるじゃねえか……。」
爆岡は黒紫の靄を纏い、拳を鳴らしている。その立ち姿に愛斗は悪い確信を得ていた。
(こいつは鐵を従えている男だ。あいつと同じか、それ以上に残虐非道な性格に違いない。でなければ、仁観先輩の公開処刑なんかを嬉々として追認する筈が無い。それに、将屋さんの話が事実なら、こいつは何の罪も無い人や、自分の父親迄も手に掛けている。)
握り締める爆岡の拳、その指の一本一本に、愛斗は滴る血の匂いを嗅ぎ取っていた。一歩一歩、相手が近付いて来るに従い、それは執拗に鼻腔を擽る様になってくる。
(何時仕掛けてくる? あの巨体、間合いは広いだろう。)
愛斗には一つの考えが有った。
相手は仁観を手酷く打ちのめす程の大敵である。普通に戦っては敵わない可能性が高い。
(なら、その莫迦力を逆に利用する! 相手の攻撃に合わせてカウンターを決めるんだ‼)
愛斗は全神経を集中し、爆岡が攻撃に出てくるタイミングを見計らう。今迄手練れの戦士を相手に組手を繰り返してきた愛斗にとって、単なる喧嘩自慢の不良を相手にそれは決して不可能ではない筈だ。――そう思っていた。
「何か狙っているな? カウンターか?」
爆岡は見透かした様に口角を上げた。愛斗にとって悪い事に爆岡もまた歴戦の猛者であり、一週間足らずの予行演習を繰り返した程度の経験から来る浅薄な思考など御見通しなのだ。
だが、それと判っていて爆岡は全く行動を変えない。愛斗から見て、爆岡はこのまま真直ぐ迫って来て莫迦正直に拳を繰り出そうとしているとしか思えなかった。
(何を考えているんだ?)
敵に狙いを看破された愛斗だったが、行動は変わらない。というより、それしか狙い様が無いのだ。
(ただ、見破られた以上初撃で合わせるのは厳しいかも知れない。戦いの中でどうにか隙を見付けるしかないのか?)
そうこう考えを巡らせている内に、爆岡の射程圏内に愛斗の身体が捉えられた。
瞬間、愛斗の思考は止まる。余計な事に気を回している場合ではない。そういった意識の切り替えの早さを、愛斗は訓練の中で身に着けていた。
愛斗の身体が自然に動いた。
「ほう?」
次の瞬間、愛斗の眼の前で爆岡の拳が空を切っていた。即ち、愛斗はカウンターを合わせる所ではなかった。もっと言えば、愛斗は爆岡の拳に反応出来ていない。
(今のは⁉)
愛斗は戦慄した。決して反射的に回避した訳ではないと彼には解っていたのだ。
「會長っ……!」
『何をやっているの? 私が無理矢理体を動かさなければ、今君は殺られていたのよ?』
そう、愛斗の体が勝手に動いたのは、憑子が無理矢理勝手に動かしただけの事だった。それは一つの重大な事実を示していた。
愛斗は爆岡が攻撃に出て来るタイミングを完璧に予測していた。間合いに入った瞬間、全ての意識をカウンターに集中していた。にも拘らず、全く反応出来なかったのである。それはつまり、爆岡の拳が常識外れに速いという事だ。
(拙い、拙いぞ‼)
瞬時に愛斗は絶望した。あの仁観を倒すだけあって、爆岡の力は想像を遥かに凌駕していたのだ。それに、これだけ判り切っていた攻撃に反応出来なかったという事は、愛斗は爆岡の繰り出す一切の暴力が見えず、全く成す術が無いという事だ。爆岡は愛斗を殴りたい様に殴り、蹴りたい様に蹴り、殺したい様に殺せるのだ。
爆岡は冷酷に拳を振り被る。格闘家や戦闘のプロの動きとは違い、予備動作は見え見えである。だが、そこから本動作に転じた瞬間に拳は意識の速度を超える。愛斗はただ殴られるしかないのだ。
愛斗の脳裡に死の予感が閃いた。今際に走馬灯を見たとて、爆岡の拳の速度はそれを超えて愛斗を撲殺するだろう。
『仕方無いわね……。』
再び、爆岡の拳は宙を切った。今度も回避させたのは憑子だった。このままでは拙いと考えたのか、彼女は愛斗の身体を退避させ、再び爆岡から大きく間合いを取らせた。
「はぁ、はぁ……!」
『どうやら思っていた以上の難敵の様ね。此処は二人で協力するしかないわ。攻撃は私が見切るから、君は体が動いた瞬間に攻撃へと転じなさい。それでカウンターのタイミングは合う筈よ。』
「解りました。済みませんがお願いします!」
愛斗は自分の身の安全を完全に憑子へと預けた。不安が無いとは言えずとも、意を決して今度は此方から爆岡に向かって行く。
「威勢が良いなァ。そういう奴を具捨々々にして、滅茶苦茶にしてやるのが堪らねえ快感なんだ。」
爆岡もまた迎え撃たんと愛斗との距離を詰める。彼から繰り出される汎ゆる攻撃に、愛斗は一切の回避行動を取らない。唯、憑子に全てを委ねて相手の隙、カウンターのタイミングだけを狙う。
それは、相手の事を完全に信用していなければ成り立たない作戦だった。しかも、一方で愛斗は憑子の事を許した訳ではない。矢張り、西邑龍太郎を利用した事を忘れていない。
それは丸で、反抗期の息子が親に悪態を吐く様な信頼だった。無論、その反発心は例に比べて遥かに妥当なものではあるが、思春期特有の感情と相手が決して自分を見棄てない、自分を守る為に最大限努力するという確信に満ちているという点でよく似ていた。
「中々やるじゃねえか。じゃ、一つギアを上げていくか。」
そんな中、爆岡の攻撃速度が上がった。間一髪、拳が愛斗の頬を掠める。
「ぐっ‼」
痛みと同時に、一撃でも貰うと終わりだという確信が脳裡に炸裂する。だが、愛斗は怯むどころか寧ろ果敢に反撃の拳を繰り出した。
「おっと‼」
(躱された⁉ このタイミングでカウンターにならないのか‼ もっと速く打たなきゃ駄目って事か‼)
爆岡義裕という男は攻守共に隙が無い、というよりも別次元の強者だった。愛斗はその後も何度か反撃を試みるが、拳は空を切る許りで爆岡の体に掠りもしない。
一方で、憑子の方も爆岡が速度を上げて最初の一撃こそ掠めたものの、その後は悉くを完璧に躱していた。どうやら初めは速度の変化に驚いて対応し損じただけだったらしい。
「何やってんだよ、爆岡君⁉」
予想外の硬直状態に焦れているのか、屋上から鐵自由が呼び掛けた。
「そんな雑魚餓鬼に手間取るなんて、らしくねえよ! 早く、いつもの殺戮ショーを見せてくれよ‼」
自分も散々愛斗には煮え湯を飲まされた事を棚に上げ、思う様に処刑を進められない爆岡を避難する鐵。彼は焦りからか、重大な事に気が付いていなかった。彼は一つ、大きな失策を犯していたのだ。
「糞、まさか爆岡君の喧嘩に苛々させられるとは……!」
「おー、そうだな。愛斗君にゃ流石に厳しいかと思ったんだが、意外と善戦するじゃねえか。」
「ふざけるなよ、仁観! 俺はとっととてめえを処刑してえんだよ……!」
鐵はギョッとして右に振り向いた。彼は気付かぬうちに何時の間にか隣に陣取っていた仁観と話をしていたのだ。
「ゲッ‼ 仁観ィ⁉」
「よ、暇だから一飛びして遊びに来たぜ。ま、俺の処刑はお前にゃ無理だから諦めろって。」
仁観は驚異的な身体能力に任せ、地上から屋上まで一気に跳び上がって来たのだという。
「う、うわわわわわァーッッ‼」
鐵は慌ててトレンチナイフを装着した裏拳を仁観に振るった。だが案の定あっさりと躱され、逆にバランスを崩した鐵の方が屋上から脚を踏み外した。
「あああああーッ⁉」
「おい、鐵⁉」
鐵はそのまま、自身の指示で撒かれた硫酸溜まりの真上に飛び込む形となった。
「うごおおおおっっ‼」
闇の眷属となった影響で絶命こそ免れた鐵だったが、落下の衝撃と硫酸の薬害で深刻なダメージを負ってのた打ち回っている。『弥勒狭野』のナンバー2は実にあっけなく戦線から退場し、この場で残る強敵は爆岡義裕唯一人となった。
「情けねえ野郎だ。ま、所詮あいつは俺が居なきゃ何も出来ん小賢しい雑魚に過ぎんからな。」
しかし、その一人の強敵が難攻不落だった。一見、状況は互いに硬直しており、爆岡は爆岡で愛斗と憑子のコンビネーションに対して攻めあぐねている様に見える。だが、彼の表情には尚も余裕が色濃かった。
『思ったより骨が折れるわね。攻撃を躱し続けるのも楽じゃないわ。少しでも気を抜けば当たってしまうだろうし、一発でも貰ったら致命傷になる。』
憑子同様、攻めの愛斗も又、敵の厄介さを肌身で感じていた。先ず、上手くカウンターを合わせなければ如何に二倍の膂力に光の力迄も上乗せしているとはいえ、この怪物にとっては全く痛くも痒くもないらしい。
『真里君、余り不用意に手を出さない! 打った攻撃は可及的速やかに引っ込めなさい! 捕まれたらもうそれで終わりよ‼』
「ええ、解ってます!」
言われる迄も無い。抑も、下手を犯せば爆岡の鉄拳の餌食になるのは愛斗の身体なのだから、危機感は寧ろ憑子よりも上である。
愛斗は胸の辺りに強烈な締め付けを覚えていた。直感的に、これは自分と憑子、二人分の緊張と不安が一気に込み上げて来ているのだと感じていた。
では、その不安とは何なのか。その答えは直ぐに、最悪の形で腑に落ちる。
「中々やるな、小僧。では更に一つ、ギアを上げるとしよう。」
「え⁉」
『何ですって⁉』
爆岡は冷酷な笑みを浮かべて拳を振り被った。腕の振りが反転した瞬間、今迄よりも更に速い致命の攻撃が愛斗に襲い掛かるのだ。
(あ、これ終わった……!)
拳が繰り出される前に、愛斗は絶体絶命を察した。この一撃が来た瞬間、憑子は反応出来ずに顔面で真面に受け、愛斗は死ぬのだ。
全てを嘲笑うかの様に、爆岡は白い歯を剥き出しにした。
「ご苦労だったな。不毛に張り合おうとする姿は中々滑稽で愉快だったぜ。」
何の事は無い、この男はこの場の汎ゆる者達を嘲っていたのだ。愛斗や憑子は勿論の事、味方の筈の鐵すらも。この爆岡義裕という男は、行為だけでなく心理的にも異常な残虐性を衒らかす。
その気になれば、何時でもこんなチビの小僧如き一瞬で捻り殺せる。――その証明が、絶大なる死の確信が愛斗へと津波の様にぶつけられた。
愛斗は過去の記憶を走馬灯の様に呼び起こしていた。それは一説によると危機的な状況を打破する術を経験から導き出す為に脳がフル稼働しているという話だが、一つはっきりしている事は、爆岡の攻撃が繰り出されたら終わりであるという絶望だ。つまり、走馬灯はあくまで爆岡が拳を振り被り終わる迄である。
そして悲しい事に、愛斗は中学以降の成功体験に余りにも乏しかった。それよりも早い時期は、裕福な家庭で送ってきた微温湯の幼少期である。そんな彼に、走馬灯は無意味だった。
確実な死の前に、せめて美しい思い出を。――そう思い始めた刹那だった。
「うおおおおっ‼」
「あああああっ‼」
二人の男女の上げた気勢が聞こえた。先程まで爆岡に囚われていた相津諭鬼夫と将屋杏樹が加勢し、白い光を纏った拳で憎き敵を打ったのである。
「小賢しい……!」
爆岡は二人の攻撃を物ともせずに愛斗への必殺の拳を振るわんとする。二人の攻撃は、はっきり言って極僅かな誤差しか生まず、憑子の反応が間に合う様な物ではない。
しかし、此処に三人目が加われば、話は大いに変わってくる。
「うらあああッ‼」
「仁観っ⁉」
爆岡の顔面に、屋上から勢いをつけた仁観の飛び蹴りが炸裂した。当に愛斗に向けた拳を振るうタイミングに合わさったカウンターだった。
「ぐおおおおっ!」
これには流石の爆岡もよろめき、愛斗への攻撃を中断せざるを得なかった。
仁観は愛斗を庇う様に彼の前に着地し、相津と将屋に目線を送って何やら意思を確かめ合う。そして、愛斗へ背中越しに言い聞かせる。
「悪かったな、三人共喧嘩に復帰するのに時間が掛かっちまった。俺に至っちゃ鐵の処理もあったしな。」
愛斗は思わず腰を抜かしてしまった。本当に、死ぬかと思った。
『真里君、立てないなんて言わないわよね? 折角の加勢よ。無理だと言うなら私が無理矢理立たせるわ。』
相変わらず気持ちの切り替えが早く、そして容赦の無い憑子の物言いだが、愛斗の気持ちも同じだった。
「やりますよ、勿論。」
『そう来なくっちゃ。』
愛斗は両物を拳で叩き、態と勢いを着けて立ち上がった。一瞬ふら付いたが、どうにか足腰は回復した。
そんな彼と仁観を中心に、相津と将屋が両脇に立って四人で爆岡と向き合う。
「蟲螻蛄共が……‼」
爆岡の表情に初めて強い怒りが滲んだ。背筋の凍り付く様な、人間離れした恐怖が彼の巨体から無作為に振り撒かれている。だが、相対する愛斗達は誰一人として怯まない。
「蜜蜂は単機じゃ胡蜂にゃ勝てねえからな。悪ぃが四対一、いや五対一で行かせて貰うぜ。」
痛々しい姿の仁観だが、その表情は只管に不敵だった。その気高き出で立ちは、憑子の立ち姿を思わせた。
彼だけではなく、相津も将屋も満身創痍である。だが、そんな彼らが闘志を奮い立たせて加勢してくれた事が愛斗にとってこの上無く頼もしかった。
『皆、この男をこのままにしてはいけないわ! 必ず、この場で斃してしまうのよ!』
憑子の言葉に、愛斗を初め誰も異存は無かった。愛斗と憑子、相津と将屋にとっては第二ラウンド、仁観にとっては第三ラウンドが始まろうとしていた。
ここまで御読み頂き誠に有難うございます。
本作も残す所後十話となりました。
最終話更新は12/31を予定しております。
何卒、最後までお付き合いくださいますよう、宜しく御願いいたします。




