第七話 呉越同舟
人類が今現在の姿をしているのは偶然である。
それは単に生命体誕生以来の地球環境の度重なる変化が現在の我々へと進化を促進したに過ぎない。
故に、若し地球環境が、動もすれば宇宙の何億光年の彼方で起きた自然現象の極々僅かな影響が少しでも違ったとしたら、現在の地球では全く異なった生命体が繁栄を謳歌していても何らおかしくはない。
我々は無数の可能性の枝の、そのたった一本に過ぎないのだ。
では若し二つの異なる進化の枝が交わり、偶然の遭遇が発生すれば何が起こるだろう。
人類と、全く別の環境で進化した生命体が出会った時、それは果たして幸福な結果となるであろうか。
生きてきた環境が違えば育まれた価値観も全く違う。
我々人類の間ですらそうなのだ。
互いが互いにとって唾棄すべき存在である事も充分考えられる。
そう思い巡らせた時、私は嘗て人類に起きた出来事に対し、戦慄を禁じ得ないのである。
――考古学者・タージ=ハイド
交通の便が悪い山中という立地の私立華藏學園に通う生徒は、大きく分けて二種類の通学方法を取っている。
一つは、幾つかの駅と學園を繋ぐ送迎バスを利用して電車経由で自宅から登下校する方法だ。バスは各停留所に直通で一つの経路に複数箇所で乗降するという事は無い。乗車時間は最長で四十分強であり、急行列車を利用すれば他府県からでも一時間前後での登下校可能である。
生徒會役員唯一の生き残り、真里愛斗もバスを利用して學園へ通っている一人である。その為、彼は毎朝六時に起床し、主にパンを中心に炊事の要らない簡単な朝食を済ませて七時には家を出る。これは両親の通勤よりも少し早い。
「行って来ます。」
「行ってらっしゃい。真面目に授業受けなさいよ?」
「ぐ……。」
自宅の玄関を出た愛斗は早くも母親にその日の出鼻を挫かれた。唯、普段と違うのは頭の中にさも愉快気な憎たらしい笑い声が聞こえて来る事だ。
『どうやらもう親御さんには君の熟睡ぶりが伝わっている様ね。』
「ええ、ええ。御蔭様で。」
『あらこれは心外ね。私、別に君に夜更かししろと命じた覚えは無いけれど。』
「滅相も御座いませんよ。」
最寄り駅迄の道を行く愛斗の口からは相変わらず、一昨日までからは考えられない程彼女に対する皮肉が滔々と流れ出る。華藏月子の姿が見えない処では主として親友の西邑龍太郎相手にこの程度の陰口は叩いていたが、その振る舞いをほぼ包み隠さず彼女、曰く月子ならぬ憑子に見せている。
『随分とまあ生意気な物ね。折角だから御一緒しましょうか?』
憑子は然う愛斗に告げると、顔を蒼くする彼の返答を待たずに彼の傍らへ白い靄を集め、生前の華藏月子の姿を制服姿で顕した。
『それで、昨日は殆ど眠れなかった様だけれど、困るのよね。脳は共有しているのだから、余り疲労を蓄積させられると此方の思考まで鈍ってしまうわ。』
「すみません……。」
愛斗は月子の姿の持つ圧に呑まれて途端に軽口が出なくなった。さらりと明かされた憑子と彼の関係もスルーしてしまう程だ。
本来の精神力なら、先ず聞き逃さずに事実を確認するだろう。そして、彼女が否定しなかった場合「これからは脳味噌の働きが悪い人の気持ちが解る様になるだろう。」「今までと同じ様な態度でも中身がポンコツなら却って滑稽なだけだから気を付けた方が良い。」等という風に繋げるのだ。
だが、そんな反論が出ないのは、今まで愛斗が月子の口から出る言葉に散々押し負けて来た心的外傷と学習性無力感に因る。
朝の光が透けて生前以上に白く輝いて見える華藏月子の姿は文字通り触れられない神秘性を帯びていて、到底自分如きが傍らを歩いて良い女性だとは思えない。艶めかしい肉感が欠落しているが故に、その長い黒髪も、目鼻立ち整った顔も、細く長い手足も、長身に堂々と主張する隆線を包み隠しスカートを靡かせる制服も、何も彼もが美し過ぎる。
嗚呼、自分はこの人に、根本的に負けているんだ。――愛斗はそう結論付けざるを得なかった。
彼にとって不幸なのは、そんな相手とこれから二十四時間常に共に居なければならない事だ。
元々、華藏月子の幻想に憧れて生徒會に入った真里愛斗は軈て彼女の本性と自らの無能という現実に直面し、望みを絶たれた。それでも彼女の事を嫌いになる事だけは決して出来なかったが、縁は彼女が卒業する迄で終わりにしたいと心から願っていた。
でなければ、悲しみと恐怖と無力感で屹度狂って終う。
『それにしても、真里君……。』
そんな愛斗の心を知ってか知らずか、彼女はさも可笑し気にこう言って揶揄う。
『君って隣で歩いていても私と全然釣り合わないわね。顔はまあまあだけれど背は低いし、何だか陰気で弱々しいし。』
憑子の心無い言葉に少なからず傷付きながら、初めての男女の登校は駅へと差し掛かった。
☾☾☾
愛斗が普段利用する送迎バスは最長の経路を通る物だ。登下校のラッシュ時には十五分置きに二・三台連なって、ほぼ満席になるが、それ以外の時間帯にも一時間に一台の間隔で學園と停留所を往復している。
いつもどおり、愛斗は七時四十分のバスに乗車した。華藏學園は交通の便も鑑み、一限の始業が八時四十分なので、二十分前には學園に到着して十五分前には自分の席に着ける。一限が体育だったとしても着替えて運動場か体育館に集合するには充分だ。
華藏學園の一日の授業時刻は、次の通りである。
一限目:八時四十分~九時二十五分
(休憩五分)
朝HR:九時三十分~九時四十五分
(休憩五分)
二限目:九時五十分~十時三十五分
(休憩十分)
三限目:十時四十五分~十一時三十分
(休憩十五分)
四限目:十一時四十五分~十二時三十分
(休憩六十分)
五限目:十三時三十分~十四時十五分
(休憩十分)
六限目:十四時二十五分~十五時十分
(休憩五分)
夕HR:十五時十五分~十五時三十分
(休憩五分)
七限目:十五時三十五分~十六時二十分 (課程終了)
課外活動:十六時三十分~十八時三十分 (原則最長時限)
食堂・購買部:十時三十分~十四時三十分 (昼)・十六時~十九時三十分 (夕)
始発バス:七時五十分學園着 (交通事情に因り遅れ有り)
最終バス:二十一時學園発
尚、水曜日の七限は学級會に充てられる。
そういう訳で、乗り物酔いし易い愛斗は前の窓側の座席を確保する為に人一倍早く停留所に並ぶようにしている。
『私は毎日自家用車通いだったから、バスの景色は新鮮ね。』
流石に姿を引っ込めている憑子だが、愛斗の眼には窓に映る自分の姿に彼女が重なって見えている。しかし、特に奇異の目で見られていない事から彼女が見えているのは愛斗だけらしい。
『あ、一寸! 何疎々しているのよ‼ 脳を共有しているんだから君が眠ってしまったら私も景色が見られないじゃない‼ 起きなさい‼』
愛斗の脳内で抗議の声を響かせる憑子だったが、愛斗の睡魔は抗うには余りにも強過ぎたらしく、二人揃ってバスに揺られながら心地良く微睡みに沈んでいった。
☾☾☾
愛斗を初め、私立華藏學園は多くの生徒の通学を送迎バスが担っている。しかし、それでも通学が困難な生徒の為にもう一つの手段は用意されている。
生前の華藏月子が少しだけ言及した様に、華藏學園には寮が存在するのだ。それは現在では合宿所が生徒會活動以外で殆ど使われない理由となっている。
愛斗達、バス通学生は學園に到着すると停留所からタイル詰めの道を踏み締めて各々の校舎に向かうが、その途中に設置されている創立者・華藏鬼三郎の全身像前を通り過ぎる迄に寮生達もこの列に合流する。
つまり、バスの中で一眠りを終えて學園に着いた愛斗と憑子が高等部二年生の校舎へ向かう途中で見たそれは、異常事態の到来を予感させるには充分だった。
「會長、一応訊きますけど、三年生校舎の奥に寮なんてありませんよね?」
『ええ、無いわ。それに、あれは華藏學園の生徒寮ではない。年季が入って屋根の青色が燻んでいるもの。つまり、二重に在り得ない光景ね。』
愛斗が指差した先には微かに生徒寮の屋根、そのタイルの青色が覗いている。しかし、愛斗も承知の様に本来華藏學園の生徒寮は校舎よりも遥か手前に位置している。そして、憑子が指摘する様に華藏學園の生徒寮の屋根としては色合いがおかしい。
『あれは假藏學園の生徒寮よ。』
「え? 假藏學園に寮なんて在るんですか?」
『当然じゃない。でなければ、此処と七十キロも離れた彼の學園に転校させるなんて措置は実行出来ないでしょう。』
憑子の言葉を聞き、愛斗は背筋に季節外れの寒気が奔るのを感じた。
今から半月前、新学期が始まった許りの時期に生前の華藏月子の口から「假藏送り」と云う生徒の間で予々噂されていた追放措置について実在するという旨の発言を聞かされていた。そして、中等部時代に彼を虐めていた同級生の主犯格がその措置によって假藏學園行きになったとも、彼女は仄めかしていた。
『言っておくけれど、假藏送りは通常退学処分になる生徒に対する或る種の恩情と、同系列校への転校斡旋という意味の措置よ。その証拠に、転寮に関わる費用は全て學園側が持っている。』
「で、でも假藏學園って此処とは似ても似つかない不良校だって……。」
『向こうの生徒の質なんて知った事ではないわ。類は友を呼ぶというじゃない?』
「じ、自分達の家族で転校先を決めたりなんてのは……?」
『我が校で退学に値する問題を起こした生徒を受け入れる学校に真面な選択肢が有ると思う?』
「でも中学校は義務教育課程……。」
『そんな事より、早く教室に行った方が良いわよ。今のところ殆ど誰もあれを気にしていないのだしね。実際、三年生以外は気付きもしないでしょう。』
憑子に強引に話を打ち切られ、愛斗は釈然としない思いを抱えながらも自らの、二年生の校舎に向かった。
そういえば、未だ愛斗以外の生徒會役員が死んだ件は明るみになっていないのだろうか。
休み明けの初日なのだから何事も無いかの如く一日が始まるのは不思議ではないが、それにしてもこの空気の変わらなさは、憑子が言う様に彼等の死体が動かされ発見されていないのだろうか。
(だとしたら、何故……? 抑も、どうして生徒會の皆は殺されたんだ? 誰が……? 聖護院先生? そういえば、彼にも連絡が付かないと海山先生が言っていた。でも、一人で誰にも発見されず、七人分の死体を処分できるのか? 幾ら立ち入り禁止とは言っても、行方不明の生徒が出たら誰が入ってくるか分からないのに。第一、他は兎も角月子會長の死体は見せ付ける様に態々裸にされて吊るされていたじゃないか。いや、そう思えばどうして會長だけがあんな扱いに? 嗚呼、謎が多過ぎるよ……。)
校舎の入口に立ち止まった愛斗は、不穏な風が逆巻くのを見上げた。聞こえた訳ではないが、彼の憑子と共有していると云う脳裏に彼女の言葉が不意に再び過った。
華藏學園には想像を絶する「闇」が在る。
どうせ明日には、學園中にその「闇」が襲い掛かる。
君は生徒達をその「闇」の毒牙から守りなさい。
(守るったって、その「闇」が何なのか見当も付かないし、何をすれば良いかも判らないし、第一僕なんかに何が出来るって言うんだ……。)
愛斗には、いつも通りに靴を履き替えて教室へ向かう事しか出来なかった。せめて殺人の疑いが自分に掛かっていない事を幸いと思いながら。
☾☾
教室に入り、一限の授業を受け、ホームルームを終え、二限の授業中の事だった。
愛斗は親友の西邑龍太郎に隣の席から小突かれて目を覚ました。
「悪い。」
「休めなかったらしいな。」
西邑は華藏月子という人物に対する愛斗の評を知っているので、愛斗が生徒會の合宿で疲れているのだと考えているのだろうと、愛斗にはそう見える。まさか生徒會役員の死に直面し精神的にかなり参っているとは夢にも思っていない様子だ。
いや、西邑だけではない。ホームルームの時もそうだったが、教室は異常な程平穏そのものだ。
死体が発見されていないにせよ、學園の生徒、それも有名人である生徒會役員が七人も消息を絶っているのだから、相応に不穏な空気が漂う筈だ。
しかしまるで、何事も起きていないかの如く日常が流れている。
(僕以外の役員は全員三年生か中等部だから、二年の教室までは影響していないのか……?)
愛斗は違和感を抑えられず、隣の西邑に話し掛けた。
「何だ、授業中だぞ?」
「いや、生徒會の事、何か聞いてないかなって。」
西邑は煩わしそうにしているが、これは流石に愛斗も自分が悪いと承知の上だ。しかし、帰ってきた答えは思わぬ内容だった。
「生徒會? 君に何の関係が有る?」
「は? いや、僕もその一員だけど?」
「何を言っているんだ君は? 愈々頭がおかしくなったのか? 何に気を詰めているのかは知らんが、偶には忘れて気分転換した方が良いと思うぞ?」
まるで西邑は愛斗が事実と異なる妄想を語り、気が狂ったとでも思ったかの様な口振りだ。
『どうやら君が生徒會役員であるという事実が生徒達から抜け落ちている様ね。いや、それだけじゃない。多分、私達の事も存在そのものが無かったことになっている……。ま、この位は想定していたけれどね……。』
憑子は状況を分析し、愛斗の脳に見解を聞かせた。
『尤も、學園の闇の影響がこの程度で終わる筈は無いと思うけれど……。』
憑子の言葉とは裏腹に、授業風景は平穏そのものだ。西邑に起こされなければ、愛斗は普段通りに教師から注意を受けただろう。
だが、徐々に雲行きは妖しくなってきていた。それは雰囲気の話ではなく、文字通り教室の外、窓から見える空が曇り始めたという意味だ。しかし、どうやら普通の曇り空ではなく、異常な黒さで空を染め始めている。
「おい、何か変じゃないか?」
「これじゃまるで夜……。」
生徒が景色の変化に戸惑い、ざわつき始めた。他の生徒は横目に外を見る程度だが、愛斗だけは空の色に釘付けに為っている。
「紫の闇……?」
愛斗の口から空の色に対する違和感が零れたと同時に、まるで墨汁で目を潰されたかの如く教室が闇に落ちた。
「な、何だ⁉」
「誰か電気点けろ‼」
突然視界を奪われた生徒達が困惑から音を立てて動き出した。
しかし、それにしても愛斗は妙に人の気配を多く感じていた。
「何じゃいきなり⁉ 誰だ電気消したボケは‼」
「てめえ足踏んでんじゃねえよ! 打ち殺されてえのか⁉」
凡そ華藏學園の生徒に似つかわしくない、粗暴な言葉も又飛び交っている。
『成程、これは確かに〝學園の闇〟。こう来るとは流石に想像出来なかったわね。』
憑子だけは既に状況を把握しているらしい。
そして電気が点けられると、愛斗を含む彼女以外の誰もが驚愕する光景がそこにはあった。
「あの……何方様で?」
「ああん⁉」
愛斗のクラスメートの一人が見慣れない誰かに尋ねていた。彼だけではない、そこには一クラス分程の知らない少年少女が顕れていた。服装は華藏學園の制服に似ているが、染髪やピアス、刺青など、どう見ても誰一人として校則に沿っていない風紀の乱れた格好、容貌をしている。
『假藏學園の生徒達……。そしてこの教室の様子、見なさい、真里君。』
「明らかに……二つ分ある……! ていうか、別々の教室が繋がった感じだ……!」
そう、教室の広さは凡そ二倍となっており、そして窓があった場所には別の、落書きだらけで机が碌に整頓されていない汚らしい教室が愛斗達の教室と反対向きに引っ付いていた。
『どうやら今朝見た寮はこの兆候だった様ね。そして今、華藏學園と假藏學園、二つの學園は一つに融合してしまった……。』
想像を絶する事態と、柄の悪そうな假藏生達の立ち姿に、愛斗は思わず腰を抜かしてしまった。
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