第六十九話 錆びた釘
君が咲かせる真の花は、さぞ美しいのだろう。是非、傍らで見てみたかった。
――西邑龍太郎・著『美醜の彼岸』より。
華藏學園、銅像前の広場の状況は、一転して假藏の不良達が悲鳴を上げながら逃げ惑っていた。華藏生達は一人の老紳士に誘導され、バス停に集められていた。
「高校生の不良なんて、所詮は世間に甘えた子供ですからね。本気になった大人の無法に敵う筈が無いんですよ。」
老翁・竹之内灰丸の視線の先では武装した不良達が暴走する自動車に追い回されていた。運転しているのは彼の娘・竹之内文乃であるが、このアイデア自体は父のものである。飄々としつつも、目的の為には手段を択ばず思いも寄らない手で攻める老獪さが竹之内灰丸には備わっている。
「しかし、此方側の戦力は私達の他に聖護院先生だけですか……。真里君に何とか頑張って貰う外ありませんな。然もなくば……。」
竹之内は大きく溜息を吐いた。黒紫と白の靄が渦巻く空が學園に影を落とし、彼等の行く末を暗示している。
「此処へ来てしまった以上、敗ければ命は無いでしょう。そして、月子御嬢様が古文書の別冊に在る『青血の至高神』の力を得たとすると、先ず勝ち目は有りません。果て扨て、一体如何したものでしょうかね……。」
彼は、誰よりも敵である月子が手に入れた力の脅威を正確に認識していた。
「いや、此処へ来なくても同じでしょうな。彼女に、華藏學園に関わってしまった時点で我々の命に狙いが定まるのは時間の問題。生き残りたければ、絶対的な絶望に対して思いも寄らぬ起死回生の一打を決めるしかない。それを真里君か、『新月の御嬢様』が思い付いてくれるのか、将又、別の誰かが……。分の悪い賭けですが、必死に活路を探すしかありません。」
竹之内が見詰める先で、假藏の不良達が武器を捨てて退散していく。一先ず、直近の危機から華藏生を護る事は叶った様だ。自動車はバス乗り場にゆっくりと旋回して来る。
「文乃。」
運転席の窓を開けた娘に、父は次の指示を出す。
「私はこれから、華藏の教室を見て回ります。其方でも假藏生に襲われていないとも限りませんからね。その間、お前はこの場の生徒達を護ってやってください。」
「了解しました。御父様、どうか御気を付けて。」
「御互い様ですよ、文乃。」
竹之内翁は華藏學園の校舎へと歩を進めた。
☾☾
立ち入り禁止の山道は、入口から最奥の祠までそう長くない。よって、真里愛斗も戸井宝乃も憑子も直ぐに假藏學園へ乗り込めるものだと思っていた。
だが、突然愛斗の足は止まってしまった。戸井も、二人の眼の前に立ち塞がった者の姿を見て息を呑んだ。
「あぁ……。」
愛斗は青褪めて後退る。敵はたった一人、しかし、最も避けたかった相手だ。
「西邑……‼」
西邑龍太郎が本当に敵として立ちはだかる。――それは考えたくなかった事態だが、基浪計や砂社日和が操り人形として出て来た時点で当然想定すべきだったろう。
黒紫の靄を纏った西邑の死体は無言でゆっくりと近寄って来る。最早、その中には微塵も愛斗の親友だった彼の意思は感じられず、唯その暴を愛斗に向けようとしていた。
『真里君、戦いなさい! まさか、西邑君に自分だった物が大事な友達を手に掛ける事を望むとでも?』
憑子に言われる迄もない、そんな事は愛斗も百も承知である。ただ、自分の中に芽生えた恐ろしい感情に足が竦んでしまっていた。
愛斗は御人好しである。嘗て自分を虐めていた嘗ての級友二人や、辛く当たっていた生徒會の先輩二人に対しても、その死を悼み尊厳を思い遣る心の持ち主である。
自分にとって好ましくない人物に対してすら、そうなのだ。そんな彼が、若し自分の大事な人物に同じ不幸が降り掛かった時、その痛みが耐え難いものになるのは判り切った事だった。
西邑と過ごした何気ない日常、そんな中で見えた、西邑の表向き自分本位な性格と裏に潜んでいた優しさと義理堅さ、そして確かだった友情が愛斗の記憶の中で激しく渦を巻く。
胸を刺したのは鋭利で大きな刃物ではなく、無数の錆び付いた釘だった。傷口は悲しみから怒りと憎しみに変質していき、焼けるような痛みを心に訴え続ける。
そうこうしている内に、西邑が間合いに入って殴り掛かって来た。拳の速度自体は基浪の方が遥かに上だったが、体が強張っていた愛斗は躱し切れずに頬を掠めてしまった。
「もう、何やってるの⁉」
終いには戸井に腕を引かれ、距離を取って逃れる始末だ。
愛斗は、三週間前にもこの山道、祠の前で西邑に殴られた事を思い出した。だが今回はあの時とは違う。親友を思う心から咄嗟に出した不器用な拳ではなく、単に相手を害する為の雑な暴力だった。
「西邑……‼」
愛斗の両目から涙が溢れ出した。しかし、同時に確りと真直ぐ西邑を見据えてもいた。
(西邑、済まん。お前をこんな目に遭わせてしまった。お前を巻き込んだのは僕だ、僕のせいでお前は死んで、その上こんな尊厳を踏み躙られる様な……。)
涙を拭うと、愛斗は西邑に向かって駆け出した。
「だから、僕はお前を解放しなければならない!」
今度は愛斗の方から西邑の間合いに入った。再び西邑の操られた雑な拳が愛斗に襲い掛かるが、冷静になればその様な物は愛斗に通じない。難無く攻撃を掻い潜り、鳩尾に掌底を叩き込む。
「おおおおおおっっ‼」
何発も、何発も。間断なく怒涛の連撃をぶつけるのは、一刻も早く親友の姿と敵対している事態を終わらせたかったからだ。もうこれ以上、一発たりとも親友の体に自分への暴力を振るわせたくなかったからだ。
『真里君……。』
連続して迸る白い光は、愛斗が激しく力を消耗している事を意味する。普段ならそれを無駄だと窘めるであろう憑子だったが、今回に限っては何も言わなかった。西邑を利用した身で、それを言うのは憚られたのだろう。
「これで終わりだ、西邑ァッッ‼」
全てを吹っ切り様な叫びと共に、愛斗は渾身の一撃を西邑に叩き込んだ。激しい白い光が辺りを包み込む。
光が収まった時、西邑を覆っていた紫の靄は綺麗さっぱり消え去っていた。愛斗は肩で息をしながら、倒れ伏す親友の屍を見下ろしていた。
『終わったわね。』
「ええ。御心配をお掛けしました。行きましょう。」
愛斗は一つ深呼吸すると、祠へ向けて歩を進めた。彼の後に、戸井が西邑に一瞬目を遣りつつ続いた。
☾☾☾
假藏學園、高等部三年の校舎の屋上で、仁観嵐十郎がフェンスに括り付けられていた。いつものばっちりと決めた女装は髪が散り、服は其処彼処が破れ、化粧も具捨々々に乱れた無残な姿を晒している。
そんな彼に、屋上で刃を突き付けているのは『弥勒狭野』のナンバー2、假藏學園生徒會長・鐵自由だ。
「どいつもこいつも……みっともねえ奴等許りよくこれだけ集まるよなァ、假藏って所はよ……。」
仁観は不良達が集まる校庭を見下ろし、弱々しい声で吐き棄てる様に呟いた。下で仁観に好奇の視線を向けている者達は必ずしも『弥勒狭野』の下端許りではないが、一様に彼と張り合うには程遠い有象無象である。
「それだけてめえは男にモテるって事だよ。クク、良かったじゃねえか仁観ィ。」
「だから俺は男に興味はねえし、自分を女だとも思っちゃいねえよ。何度言っても通じねえのは頭悪いからか?」
鐵は額に青筋を浮かべ、仁観の頬にトレンチナイフを突き立てた。刃が肉を抉る様に捻られ、苦痛に歪む顔から血が口紅と混ざり合い顎を伝って滴り落ちる。
「格好の割に可愛げがねえのは変わらねえなァ! 爆岡君に無様な完全敗北を喫したんだから、一層の事、俺達の色にして貰える様に媚びを売った方が愉快なんだがなァ!」
「何だそりゃ、頭ン中ピンクのハートマークで一杯にして鼻の下伸ばしながら喧嘩してんのか? 莫迦な上に変態かよ。熟々、救えねえ奴等だなおい。」
仁観は血の塊を足下に吐き棄てた。彼の眼は今も死んでおらず、決して屈服してはいない。しかし、ならば自信を磔にする拘束を解く事も、この場に居る鐵を伸す事も、彼にとって容易い筈である。
「仁観よう、口先だけで強がってねえで、この場で第二ラウンドをおっ始めても全然構わねえんだぜ? ま、その時は爆岡君が下のあいつらをどうするか、分かったもんじゃねえけどな!」
そう、校庭で彼等を見上げているのは何も仁観と敵対する者達だけではない。爆岡義裕の太い腕、節榑立った両手に髪を掴まれて坐らされているのは、假藏學園の中でも『弥勒狭野』に敵対的な二人の男女、相津諭鬼夫と将屋杏樹だった。
「情けねえ野郎だな。爆岡にやられて襤褸々々の俺がそんなに怖えのか? だったらこんなつまんねえ見せしめなんか止めといた方が賢いんじゃねえの? 俺があいつらを見棄てる選択をした瞬間にてめえの命はねえんだぜ?」
「それが出来る様な男なら最初から俺達と張り合っちゃいねえよ、てめえは。少しでも関わりの有る奴を放っておけねえから、元華藏の餓鬼共の為に俺達『弥勒狭野』に喧嘩を売ったのがてめえだ。」
「……驚いたな、珍しく頭が回るじゃねえか。」
「尤も、ギャラリーも充分集まった事だし、そろそろ晒し物から処刑に移るとするがな。」
鐵はトレンチナイフで仁観をフェンスに括り付けていた有刺鉄線を切った。
「良いのか? 自由にしちまって。」
「言ったろ? てめえは俺に手を出せやしねえよ。それに、縛った儘じゃ落とせねえからな。」
風が不安定な足場に立つ仁観に容赦なく吹き付ける。破れたスカートが煽られて派手な下着が見え隠れしているが、仁観は特に羞恥心を見せずに冷めた眼で遥か下の校庭を見下ろしている。
「屋上から落ちたくらいじゃ死なねえよ、俺は。」
「ああ、そんな事くらい解ってるぜ。だから手下共を集めたんだよ。おい、お前等‼」
鐵の呼び掛けで、丁度仁観の真下に待ち構えていた数名の不良達がポリタンクの蓋を開け、足下に無色透明の液体を撒き始めた。
「仁観、アレが何だか解るか?」
「さあ? 悪趣味な連中のすることは理解したくもねえからな。」
「バッテリー液さ。それも、一旦理科室でビーカーに移して、丸二日掛けて水分を飛ばしてある。これがどういう意味か解るな、御賢い仁観君よぅ?」
仁観は初めて顔を蒼くした。バッテリー液、即ち三十パーセント前後に希釈された硫酸は揮発しない為、解放状態で放置すると水分だけが蒸発してどんどん濃度が上がる。鐵の企みとは、この危険な硫酸溜まりの真上に仁観を突き墜とす事なのだ。
「さあ! その綺麗な顔も愈々見納めだなァ‼ まあ安心しろよ、精々が、体中焼け爛れて悶え苦しむだけだ! 後遺症が残る前に、爆岡君が確り止めを刺してくれるってよ‼」
鐵はフェンスを激しく揺らして攀じ登り、仁観と同じ外側へ降り立った。そして仁観の肩を掴むと、脅す様に大袈裟な動きで彼の体を揺さ振る。
「思えば俺はずっとこの瞬間を待っていた! 仁観、てめえに地獄の苦しみを味わわせ、この俺に逆らった事を後悔させて、ぶっ殺す時をなァ‼ 結局、莫迦だったのは華藏で大人しく唯の変態音楽家をやらず、假藏に余計な手出しをしたてめえの方だった訳だ‼」
鐵の腕が勢い良く伸ばされ、仁観は足場を踏み外した。世界が崩れ落ちる様に、彼の身体は宙空へと投げ出されて破滅へ向かっていく。
が、仁観は硫酸溜まりの上には落ちなかった。何者かが空中でキャッチし、液面を跳び越えて着地したのだ。
「な、何ィ?」
「ほう……。」
鐵は想定外の事態に片目を強張らせて不快感を示したが、爆岡は冷静に相津と将屋を突き飛ばして一歩前へ出た。彼だけは、この場に乱入した少年の事を何も知らない。
「小僧、てめえ何者だ?」
「華藏學園生徒會書記・真里愛斗だ。」
愛斗は仁観を優しく乾いた床へ寝かせ、向かって来る爆岡と向き合った。
「愛斗君、駄目だ! そいつだけは……!」
仁観が愛斗のズボンの裾を掴んで止めようとする。愛斗も自分に向かって来る男の恐ろしさは肌で強く感じていた。
「あいつは……何者なんだ?」
「『弥勒狭野』の頭張ってる爆岡義裕だ、愛斗君。あいつは俺以上に強え。とてもじゃねえが愛斗君の勝てる相手じゃねえんだよ。」
あの仁観が「自分よりも強い」と断言する相手。――それだけで愛斗は事の重大性を理解した。その爆岡が紫の靄を、闇の力を纏っている。これは只ならぬ脅威であり、何としても止めなくては直ぐに華藏學園に迄邪悪な累が及ぶ。
「だからと言って、退く訳には行きませんよ。」
『当然ね。それに、この男に勝てなければあの女は言うに及ばず。』
憑子も愛斗に逃げる事を許さない。仁観が傷付いた表情を曇らせる中、勝機の薄い戦いの前座が勃発しようとしていた。




