第六十六話 學園再開
世の中の関節は外れてしまった。嗚呼何という呪われた因果か。それを直す為に生まれついたとは。
――ウィリアム・シェークスピア『ハムレット』より。
日曜日にはどうにか将屋杏樹も白い光の靄を出すという最低限の所までは辿り着いたが、結局の所、假藏學園の二人は使い物にならない段階でタイムリミットを迎えてしまった。
本来は真里愛斗、戸井宝乃も共に、このまま地元から避難していた方が良い、それは明らかだ。しかし、日常生活に於いて何ら大きな変化がない以上、それをしてしまうと単なる家出、誘拐になってしまう。
竹之内父娘を含めた六人は仕方無しに高速列車に乗り、二泊三日の旅から夫々の我が家へと帰る。日曜日の夕刻に憂鬱になるという社会人の気持ちが愛斗にも解る様な気がした。
「不安ですね……。」
愛斗は思わず窓に映る華藏月子の横顔、憑子へ向けて溢した。
明日、月曜日には否が応にも事態が動く。敵が態々學園再開を宣言したという事は、その準備を整えて一気に攻勢に出て来るという事だ。現状、覚醒した華藏月子に対抗する手段が焼け石に水の追加訓練に留まってしまった以上、両陣営の差は向こうが有利と謂うのも憚られる程に開いている。期限が明日なのは、戦い迄というより処刑迄、と言った方が実体に近いかも知れない。
『心配しても何も始まらないわ。君は唯、無心で時を待ち、時が来れば為すべき事を為せば良い。それで、全ては終わるから……。』
憑子の声は何時に無く何処か寂し気な愁いを孕んでいた。車窓から差し込む夕日が横顔を透過し、状況も相俟って本当に彼女の在り様が黄昏染みている様に思えた。
『學園が不穏なのは明日迄の事。明後日には平穏な元通りの生活が戻って来るわ。君は必ずそこへ戻ることが出来る。』
「どうしてそう言い切れるんですか?」
『言い切ることが肝要なのよ、何事もね。』
愛斗は揺ぎ無い憑子の表情を見て、少し意地悪を言ってみたくなった。
元の生活に戻ると言っても、そこには親友・西邑龍太郎が居ないではないか。|貴女《あなた》が利用して、結局助けられなかった彼が。
それに、忘れがちだが彼女にとっても大切な者達が既に奪われている。愛斗にとって印象が頗る悪いだけで、副會長の基浪計や会計の砂社日和も憑子にとっては良き友人だっただろう。
それに、言えば愛斗自身も惨めで悲しい思いをするだけである。徒に自分の傷を抉り、拡げてまで憑子に嫌味を言うような愚を、死んだ西邑自身も望まないに違い無い。
『今日は早く寝なさいね。悶々とする悩みが在るなら発散出来るように手伝ってあげても良いわ。明日、寝不足で調子が悪いとなったら最悪よ。』
「解っていますよ。貴女の手を煩わせる様な事なんて有りません。」
『それはそれで、少し寂しい気もするわね。』
憑子は何時になく優しげな、穏やかな表情を浮かべていた。それは一種の名残惜しさの様に思えた。明日、全てが終わるとすれば、この二人の奇妙な関係もまた明後日には消えて無くなるのだ。
では、その後はどうなるのだろうか。彼女の考えている通り、華藏月子の肉体を取り戻して華藏月子として生きていくのだろうか。その後の愛斗との関係は、屹度以前と同じではないだろう。學園は、生徒會は……。この一連の事件で喪われたものは、何も西邑に限りはしないのだ。
列車は愛斗達を西へと帰して走る。丸で日没と日の出の先に待つ決定的な時、喪われた者達を置き去りにする未来へと、彼等を運んで連れて行くように……。
☾☾☾
家に帰って来てから愛斗は、無性に家族と話したくなった。他愛の無い会話でも、兎に角沢山、父親や母親の顔を見て、声を聞いて、意思を疎通させておきたかった。
一頻り、相手から「明日は早いからもう寝なさい。」等と、在り来たりな事を言われて会話を打ち切られる迄存分に話し込んだ後、ゆっくりと風呂に入った。この風呂、湯船の心地も逆上せる位に堪能し、ふら付きながら自室へと向かったので、家族に余計な心配を掛けた。
扉越しに就寝の挨拶を交わし、部屋の前から家族の気配がなくなるのを確かめると、愛斗は声も無く泣いた。
明日、間違い無く自分は決死の、絶望的な戦いに挑む。その運命が判っていると、どうしても汎ゆる周囲の環境に対して別れが惜しくなってしまう。
『真里君……。』
愛斗は乙女の様に枕を涙で濡らし、そして泣き疲れて眠りに落ちた。
意識が微睡みに沈む中で、憑子が自分に何かを囁いた気がした。
☾☾☾
愛斗の意識が闇の中を曖昧に揺蕩っている。以前味わった事のある感覚なので、彼は直ぐにこれが夢なのだと理解出来た。
(今度は何を見せられるんだ……?)
既に愛斗は身構えていた。こういう始まり方をする夢には苦い過去と甘い過去の両極端な二つの「大事な過去」が展開すると決まっている。出来れば一昨日の甘く切ない思い出、綺麗な夢であったなら良いのにと、淡い希望を抱いていた。
そんな事を考えていると、愛斗の視界に小さく白い人影が浮かび上がった。それはずいぶん遠くにいる様だが、意識が少しずつ近付いて行き、次第にその全容が認識出来るようになっていく。
(あれは……。)
段々と判ってきた。あれは後ろ姿だ。白い光を纏った、長い髪の女性の一糸纏わぬ後ろ姿。愛斗には見覚えが有った。
(華藏先輩……白っぽい姿という事は、憑子會長の方か……?)
そう思うと愛斗は何処かほっとした。憑子と月子、夢に出て来るならば憑子の方が良い。何だかんだで、愛斗は彼女の事を少なくとも味方だとは思っているのだ。
そんな彼女は愛斗の方へ背を向けたまま体を捩って、最低限の視線を向ける程度に振り向いた。それは丸で、体の正面に何かを隠しているかの様だった。心無しか、目付きも厳しい気がする。
(何だ、この変な感じは……?)
愛斗は急に不安になってきた。この期に及んで、一体憑子はこれ以上何を隠そうというのか。
「あの、憑子會長?」
思わず問い掛けたが、声が出た事に愛斗自身驚いた。こういう夢で、自分の方から干渉出来た例は今迄に無い。
憑子の視線は更に険しくなり、明確な拒絶の意思を示していた。
愛斗の意識が彼女の周囲を回り始めるが、彼女もまた体を回して常に愛斗へ背中を向ける。
「一体、何を隠しているのですか?」
『君が見てはならないものよ。少しくらいは察して欲しいわね。』
今度は対話が成立した。明らかに今までの夢とは違う。
『そんなに私の裸が見たいの?』
「いや、そういう訳じゃ……。」
『じゃあ何なのよ。』
眉を顰める憑子の表情は更に険しさを増す。
裸が見たいのか。――愛斗は唯本当に憑子の隠し事が気になっただけで、そういう厭らしい意図は無かった。しかし、言われてみればそう取られても仕方が無い仕草だった事に凄まじい恥辱を覚えた。
いや、見たくないかと言えば嘘になるし、興味は有る。そういう感情を禁じ得ない事が、慙愧に堪えない、というべきか。
そう感じた理由はもう一つある。それは、ちらりと見えた憑子の足下だった。
(血……?)
彼女の内股から紅い雫が零れている。愛斗はそれが性的な何かかと肝を冷やしたが、どうも血の出所はもっと上、腹か胸の辺りらしい。
「あ……。」
『何?』
愛斗が何かに気付いた、と察したせいか、憑子の表情に不快感が色濃くなっていく。
愛斗は居た堪れなくなり、憑子に背を向けて走り出した。
確かに、これは見てはならないものだ。――そう納得し、執拗に探ろうとした自分に強い嫌悪と後悔を覚える一つの異状が彼女の体には有った。
(あれが何なのかは判らない……けど、軽い気持ちで触れちゃいけない気がする……。僕には特に……。)
愛斗は一瞬、憑子の肩口に割れた硝子の破片の様な物が突き刺さっているのを認めた。恐らく、血もそこから出ていたのだろう。
闇の中、愛斗は走った。兎に角、逃げ出さなければならない予感が有った。背中越しに突き刺さる憑子の視線は酷く冷たかった。――夢の中なので、目に見ずとも想像の儘に認識する事が出来てしまった。
何かに足を取られて躓き、転んだ事を切掛に世界に光が弾け、眩しさと共に愛斗の意識は現実へと引き戻される。
丁度、運命の月曜日の朝が愛斗に容赦の無い日差しを浴びせていた。
「……おはよう。」
目を開いた愛斗は、皮肉めいて独り呟いた。
☾☾☾
段々と、夜明けが早くなってきていた。
夜明けの直射日光と共に目を覚ました愛斗は、まだ登校までかなり時間が有るにも拘らず、眼が冴えて二度寝を決め込む所ではなかった。
『中々関心ね。』
白い靄で華藏月子の姿を模り、相変わらず嫌味をぶつけてくる憑子に特段変わった様子は見られない。愛斗はそれが少し奇妙に思えた。
本来、愛斗が勝手に見た夢の内容など憑子には関係無い筈である。しかし、以前憑子が言っていた事には、彼女は今愛斗と脳を共有しているらしい。夢という現象が脳によって生ずるならば、この場合に限っては他人といえども愛斗の夢が憑子と無関係とは言い切れないのではないか。
又、今日は二人の運命を決める審判の日となる可能性が高い。ならば、憑子が普段と変わらぬ様子で居るのはそういう意味でも奇妙ではある。が、これについては、愛斗としては寧ろ憑子らしくすらあった。彼女の強靭な精神が揺るがない事は、既に重々思い知っている。
「おはようございます、憑子會長。」
『ん、おはよう。昨日はよく眠れた?』
「どうでしょうか。寝覚めは悪くないですね。」
愛斗の返答に、憑子の眉が僅かに動いた。愛斗が持たせた言葉の含みに気付いたのだろうか。矢張り、夢の中で出会った憑子は、脳を共有する本人の意識だったのだろうか。
愛斗は制服に着替えながら、憑子の肩口へ、そして足元へと視線を遣った。しかし今は特に傷付いている様子も、流れる血も確認出来ない。尤も、起きている時に判るのならばとうに愛斗も気付いている筈だが。
「會長はどうですか? 調子の程は。」
『私は抑も、本来はこの時間に起きていたから調子に影響は無いわ。今は真里君と脳を共有している都合上、君に合わせて寝坊助さんになってしまっているけれどね。』
宣言通り、特に問題は無さそうだ。このやり取りも今日限りだと思うと、一抹の寂しさを覚えてしまう。尤も、彼女が華藏月子の肉体を取り戻すことが出来れば、明日以降は再び生徒會長として愛斗に小言を言うのかも知れない。それはそれで気が重い。
と、此処で愛斗に一つ気掛かりが生じた。
「會長。今、普段はこの時間に起きていたと仰いましたね。」
『ええ、そうよ。』
「それは貴女の御姉さん、華藏月子先輩も同じですか?」
『……そうね。』
窓から差し込む日差しが和んだ。太陽に雲でも掛かったと見るのが妥当だが、愛斗と憑子は緊迫した面持ちで互いを見詰め合っていた。既に、二人はこれから起こる不穏を予感していたのだろう。
部屋が更に暗くなる。これはもう、影ではなく闇だ。この現象には二人とも覚えが有った。
「これは丸で……!」
『ええ、似ているわね。華藏學園と假藏學園が融合したあの時と……!』
丁度三週間前、二つの學園に空前絶後の異変が起きる前触れにも辺り一面を紫の闇が覆い尽くした。今、その時と同じ現象の予兆が表れている。
二人の予感した通り、再び紫の闇が、今度は愛斗の部屋を覆い尽くした。
『早くも仕掛けてきたという訳ね、華藏月子‼』
憑子が威嚇する様に張り上げた声に応えるが如く、同じ声の高笑いが闇の中で響き渡る。
『仕掛けるだなんて人聞きの悪い。これは招待よ。新たな學園の、新たな御祭りの催し。この私と、新たな世界構造の御誕生日パーティを、華藏・假藏全學園の生徒で盛大に御祝いしましょうよ。』
『ふん、貴女の誕生日に新しいも旧いも無いわ、残念ながらね。この世に生を受けた日は誰もが一つ。双子の妹、この私と同じ日よ、御姉様!』
『そうかも知れないわね。でも、命日は然う然う同じにならないものでしょう?』
同じ声の言葉の応酬が響く中、愛斗は周囲に警戒を張り巡らせる。あの時も、愛斗の教室は突然、不良達が殺気立つ假藏の教室と接続され、級友達は危機に陥った。今度は一体何が起こるのか、判ったものではない。
『さあ、休校はお終い! 學園再開の時よ‼』
部屋を包んでいた紫の闇を掻き消す様に、青白い光が目を焼く程に眩く迸る。それは紫よりも遥かに暴力的な青だった。愛斗達は固く瞼を閉じた上で更に腕を使って目を覆い、光が収まる迄祈る様に遣り過ごす他に無かった。
「うぅ……。」
『真里君、もう目を開けても大丈夫よ。』
憑子に促され、状況を確かめるべく視界を開いた愛斗は、學園の華藏鬼三郎像の前に立っていた。彼だけでなく、大勢の生徒が制服やら寝間着やらで困惑して辺りを見渡していた。
『成程、登校の手間を省いてくれたのね。それとも、逃げられる前に拉致してきたのか……。』
思わぬ形で、愛斗は久々の學園生活を始める事になったのか。勿論、その様な事が有ろう筈が無い。これは地獄への招待である。
學園内放送のベルが鳴り、愛斗を含め生徒達は何を告げられるのかと戦々恐々としながら天の声に耳を傾ける。直ぐ様、愛斗と憑子の予想通りに華藏月子の鈴を転がす様な声が學園中に響き渡った。




