第六十四話 夢は逆夢
あなたの悲哀がいかに大きくても、世間の同情を乞おうとしてはならない。
なぜなら、同情の中には軽蔑の念が含まれているからだ。
――プラトン
その日の夕刻、ホテルに宿泊する事になった真里愛斗達一行は一様に暗い顔をしていた。
一日二日で成果が出るものではない、という事は判っていたとはいえ、少しくらい期待しなかったか、と言うと嘘になる。しかし、愛斗については以前の週末や月曜日から目立った成長は見られなかったし、假藏學園から参加した相津諭鬼夫と将屋杏樹は愛斗達が扱う白い靄、所謂『光の力』を身に着ける事すら出来なかった。唯一、護衛の都合で同行する事になった戸井宝乃も、學園が大混乱に陥り邪悪な勢力に占拠されている事態に、解決への進展が見られない事には沈んでしまっている。
失意の四人だったが、彼等は今回、竹之内家には立ち寄らない。流石に、この人数を宿泊させるのは難しいという判断で、竹之内灰丸がホテルを用意したのだ。宿泊するのは五人、愛斗と戸井、相津と将屋、以上四人が男女別に二部屋、四人の護衛として竹之内文乃が一部屋、計三部屋を同じ階に用意した。
相津と同部屋になった愛斗は彼に力を発揮するコツ等を尋ねられたが、愛斗自身も完全な自力で身に着けた訳ではないので答えられなかった。
ふと、愛斗は一つの不安要素に思い当たった。
愛斗が『闇の逝徒會』と戦う術を身に着けられたのは、既に会得している憑子が体の中に入っている為だ。そしてそれは同時に、愛斗が『學園の悪魔』に対抗し得る根拠にもなっていた。
だがその根拠の大元は、「華藏月子が『學園の悪魔』と同化して抑え続けてきたその力を愛斗が受け継いでいるから。」という虚構であった。実際には、『學園の悪魔』事態が華藏月子が生み出した大きなペテンである以上、今や愛斗が大きな戦力となる根拠は何処にも無いのだ。
『そうとも言い切れないわよ。』
以上の懸念を愛斗が相津に溢した所、憑子がそう己の見解を述べ始めた。
『一つ言えるのは、君に私を通じてあの女の力が一部受け継がれているのは間違い無い、という事よ。』
愛斗の心臓が強く脈打った。その原因に思い当たった愛斗は慙愧に堪えぬ想いに顔を顰める。
「どうした、真里ちゃん?」
「いや、何でもないですよ。」
何でもない、などとんでもない。愛斗にとって、それは決して知られてはならない葛藤である。
愛斗は憑子の言葉で心が躍ったのだ。具体的に何に、というと、華藏月子の力の一部が自分の中に在るのは間違い無い、という彼女の推察である。
華藏月子の一部が、自分の中に同化している。――それが愛斗にとって、彼女の体液を呑んだ様な感覚となって全身に歓喜を奔らせたのだ。
即ち、愛斗は未だに月子に激しく恋している。そんな事が周囲に明かされれば一大事である。彼は忽ちの内に信用を無くし、恥知らずの誹りを免れられないだろう。もう何も教えて貰えない、助けて貰えないかも知れない。
『真里君、そんなにあの女が好きなの?』
「え⁉」
『隠せる訳が無いでしょう。私は抑も、今君が強く脈打たせた心臓と同化しているのよ?』
再び、愛斗の心臓が脈打った。今度は憑子が自分と同化している、という事実が彼を囃し立てた。
愛斗は華藏月子と憑子、この双子の姉妹の間で揺れる恋心に激しく苛まれている。半年近く傍に居て、理不尽な仕打ちの数々を受けながらも憧れと尊敬を棄てられなかった憑子に対しても、その原点となった、虐めからの救済によって愛斗を強く優しく導く姿を示した華藏月子に対しても。
「ま、あんまり悩んだってしょうがねえ。こういう時は、さっさと寝ちまおうぜ。」
「あ、ええ。そうですね……。」
竹之内翁曰く、明日の朝も早い。もう残るは土日だけなのだから当然である。迂怩々々と徒に悩み夜更かししている場合ではない。
『彼の言う通りね。今日の所はもう寝なさい。』
「じゃ、消灯しますか……。」
「ああ。お休み、真里ちゃん。」
「お休みなさい。」
愛斗達の貴重な一日が終わり、期限迄の蝋燭が一つ掻き消えた。
そしてその夜、彼はまた甘く切ない夢を見る事になる。
☾☾☾
始まりは闇の中、愛斗は唯彼女の声を聞いていた。
『止めなさい、好い加減にしたらどうなの?』
華藏月子の声が愛斗の意識の奥深くに響いている。
『これ以上真里君を惑わして、苦しめないで‼』
『それは此方の台詞よ。私の真里君をずっと酷い目に遭わせてきたのは貴女じゃない。貴女がこんな事を始めなければ、真里君は私と幸せになれる筈だったのよ。私が彼と過ごす筈だった半年を返して欲しいわね。』
何やら二人の女が口論している。しかし奇妙な事に、その二人の声は全く同じだった。即ち、これらは憑子と華藏月子の物だ。
『貴女の為だと思っていた……! よくも私達を騙してくれたわね‼』
『自分だって、散々真里君を騙した癖に。私の振りをして真里君を虐めるのは楽しかったかしら? 反吐が出るわね。祠の力まで使って、よくも私の身体を奪ってくれたわよね。御蔭で、対抗する為にこんなに大掛かりな事をしなければならなかったじゃない。』
『何を言っているの? 元はと言えば貴女が下らない嘘を吐き始めたからでしょう⁉』
夢の世界へ向かう途上、自分の形すらも良く解らない愛斗は、闇の中で聞こえる二人の華藏月子の口論に困惑していた。それは彼に、何やら目出度い、酷く都合の良い思い違いをさせてしまう。
『貴女なんかに、真里君は渡さないわ‼』
『渡さないも何も、貴女の物なんて元々何も無いじゃない。彼の事も、当然元から私の物よ。』
嗚呼、何という幸福だろう。――愛斗は不謹慎にも心が満たされていた。
今二人の華藏月子が、狂おしい程に恋焦がれている二人の女性が、事も有ろうに自分の事を獲り合って言い争いを繰り広げているのだ。
『大体、貴女は彼に何を与えてあげられるというの? 死に損ないの分際で。今の私には無限の力が有る。私なら、彼の事をこの世の誰よりも幸福に出来るわ。貴女は彼の為に此処迄したの?』
『ぐっ……‼』
『違うわよねえ? 貴女は唯、ずっと我が儘を聞いて貰っただけ。そんなだから、挙句の果てに彼に嫌われるのよ。』
『何よ! 貴女が好かれているって言うの⁉』
『この世に私の事を嫌いな人間など存在しないわ。』
口論の声が遠ざかっていく。愛斗にとって、それは酷く名残惜しかった。
未だ嘗て、これ程に心地良い夢が有っただろうか。屹度、これは単なる都合の良い妄想である。
言葉の内容が分からなくなった。そしてそれと反比例するように、愛斗は辺りの景色が段々見える様になってきた。水分と懐かしい光景がそこには拡がっていた。
(これは……。)
愛斗は初々しい華藏生の群が集うホールに放り込まれた。
(嗚呼、又このパターンか……。)
愛斗は察した。屹度また、過去の記憶を夢に見るのだ。内容も予測が出来る。
(入学式、か……。懐かしいな……。)
それは愛斗にとって、最も美しい記憶の一つである。華藏學園中等部入學式。そこで愛斗は、初めて彼女の事を認識したのである。
☾☾☾
それは四年前の事であった。
難関だった華藏學園の中学入試をどうにか合格した愛斗は、晴れてこの場に顔を並べることが出来た。
しかしながら、式典は退屈だった。又悪い事に、この時愛斗は未だバスでの通学に慣れていなかった。それまでの生活からは起床時間が一気に変わっていた。
(眠い……。)
愛斗は耐え切れずに重い目蓋を擦った。教師陣からの厳しい視線が愛斗に突き刺さる。だがこの時の愛斗は、そんな事など気にせず我が道を行く性格をしていた。尤も、それは今でも一部受け継がれており、こうと決めたら曲げない頑固さに表れているのだが。
『続きまして、中等部生徒會長の祝辞です。』
壇上に、一学年上の女子生徒が上がっていく。愛斗は愈々退屈が限界を超えた。
「ふあぁぁ……。」
口を覆う間も無く、大きな欠伸が抗い様も無く飛び出してしまった。しかし、これは流石に拙かった。流石の愛斗も、場の空気が凍り付いたのを感じざるを得なかった。
(あ、ヤバいかも……。)
愛斗は肝を冷やした。中学校に進級した許り、それも通常とは違う名門校である。環境が変わり、粗相に対して周囲がどう対応するのか判らない。愛斗は周囲に目配せし、戦々恐々としていた。
しかし、そんな空気は一瞬で過ぎ去った。壇上に登った当時の中等部生徒會長・華藏月子のスピーチが始まったのだ。彼女はその圧倒的な存在感によって、忽ちの内にその場の空気を完全に掌握、支配してしまった。彼女の前では、愛斗の不真面目な態度から来る粗相など完全に人々の中から掻き消えてしまっていた。
思わぬ形で救われた愛斗の眼はすっかり冴えていた。華藏月子の持つ、眩すぎる光が愛斗の脳裡に強く、強く焼き付いて離れない。彼女の美貌も、聡明さも、声色も既に全てが中学生の域を超えて燦爛と輝きを放っており、誰もを虜にする妖しげな魅力に満ち満ちていた。
(今日から僕は……この人と同じ学校に通うんだ……。)
この時、愛斗の中で何かが変わった。彼は小学生から中学生になった。自意識を引き上げたのは、間違い無く当事の華藏月子だった。
☾☾
そこから先、愛斗の學園生活は決して順風満帆なものではなかった。程無くして彼への陰湿な虐めが始まったのだ。希望に満ち溢れていた筈の新たな学び舎での日々は、一転して地獄へと転がり落ちた。
愛斗の中学時代の教科書は、勉強する上で重要な部分が小さな落書きによって所々塗り潰されている。教科書を丸ごと隠すだとか、捨てるだとか、直ぐにその毀損に気が付くやり方でないのが厭らしい。
愛斗が紛失した物は、主に取り返しが利かないものであった。例えばノートは一時的に見失って戻って来た時にはページが破られていたし、弁当の中には大量の蟲が入れられていた。彼が今も食堂で昼食を採るのはそう言う理由からである。
他にも枚挙に暇が無い嫌がらせを受けていた彼は、当然勉強に全く集中出来ず、見る見る内に成績を落としていった。又、空腹から午後の授業に漫ろな態度で臨まざるを得ないも多かった。そうなると、教師陣からの印象も悪くなり、益々庇って貰えなくなる。
その日も、愛斗は居残りで補修を受けていた。変える間際に聞こえた級友たちの嘲笑が胸の棘となって痛みをシャツの染みの様に拡げていた。
しかも補修の課題を進めようとすると、教科書の落書きに依る塗り潰しに行き当たるのだ。この落書きで塗り潰すやり方が曲者で、愛斗への信用が無い教師には愛斗がふざけた自業自得としか見ていなかった。
もう日も沈んだ頃、愛斗は途暮々々とバス停へ向かって歩いていた。と、そんな時に聞き覚えのある声が後ろから話し掛けて来たのだ。
「あら、こんな時間に他の生徒に会うなんて……。」
「華藏先輩⁉」
中等部生徒會長の華藏月子は既に有名人で、愛斗も噂は度々聞いていた。高嶺の花である彼女と鉢合わせた偶然に、愛斗は少しだけ気が晴れた。
「貴方、入学式で大欠伸していた子でしょう?」
「あ、はい……。」
しかも彼女は愛斗を覚えていた。月明かりに照らされた彼女の微笑みが艶やかな宝石の様に澄んだ光を纏って見えた。この一時が愛斗にとって束の間に地獄を忘れるオアシスとなるとその一瞬で確信に至る。
「登壇した時紹介が有ったと思うけれど一応名乗っておくわね。私は中等部二年の華藏月子。中等部の生徒會長よ。よろしく。」
「一年の真里愛斗です……。」
「どうしたの? 何だか暗い顔をしているけれど。困っている事が有るなら相談に乗るわよ。生徒會長だし。」
突如差し伸べられた慈悲に、愛斗は思わず泣きそうになった。この時は本当に、月子が天使に見えた。しかも彼女は、ただ話を聞いてくれただけではなく具体的に実態を調べて動いてくれたのだ。愛斗への虐めは陰湿で主犯が誰か判らず、厄介な面倒事であるにも拘らず、だ。
華藏月子の介入によって、主犯だった伊藤藤之進と則山正行は退学処分となり、それ以外に関わった生徒達、見逃した教師達にも余さず処分が下された。愛斗は一旦中等部の別のクラスに移され、高等部進級時には中高一貫コースから高校入試コースのクラスへと移り、彼への虐めに関わった者達からは完全に離れる事になった。
愛斗は夢を見て、思い出し、そして悲しくなった。
見ず知らずの自分に親身になってくれた、この時の優しい華藏月子は幻だったのだろうか。彼女に憧れ、近付く為に努力してきた中高の學園生活は、無意味なものだったのだろうか。
翌朝、目が覚めた時、愛斗の目尻には涙が滲んでいた。懐かしく、温かい思い出の夢だったが、丸で本当の思い出すらも夢の様に消えてしまった様な気がして……。
それとも、あれは逆夢だったのだろうか。




