第六十三話 弥勒狭野
今思えば奇妙な話であった。古文書に在る巨人の名を、どうして彼等が知っていたのか。
それとも、神道と仏教、二つのモチーフを合成させたが故に生じた偶然だったのか。
――旧人類史学者・タージ=ハイドの回顧録より。
華藏學園は理事長室、執務机の席に着き、我が物顔で不敵な笑みを浮かべている女子生徒が居た。それだけではなく、未だ休校中の金曜日だというのに、傍には何人かの男子生徒と女子生徒が侍らされている。
無表情の男子生徒が涼しげな顔をした執務机の少女へ、丸で召使いの様に紅茶をカップで差し出した。
「ん、ありがとう。」
早くもこの部屋の主といった風格を見せ始めた華藏月子が、優雅に紅茶を口へと運ぶ。春に終わりが近付き、夏に近付こうという季節の、よく晴れた午前としては異様な寒々しさが理事長室を支配していた。何人か人が居るというのに丸で生き物の気配がせず、ただ冷めきっている。
「鐵君は上手くやっているかしら。ま、私は何方でも構わないけれどね……。」
この空間に居るのは月子も含めて皆華藏學園の制服に身を包んだ者許りで、配下としている假藏學園生徒會長の鐵自由の姿が無い。彼は彼で、己の目的の為に別の事をしているらしい。
「演劇でも映画でも、筋書きは波乱に満ちていた方が面白いわ。封切りとなる月曜日までに確りと準備しておきましょう。折角興味と熱意をもって観劇に集まって貰うのだからね……。」
月子は自らが切った期限に慌てふためく敵対者達の姿を想像して愉しむ様に笑みを浮かべる。一方で彼女は、対比するのが残酷な程に何とも優雅に寛いでいた。
☾☾☾
二度目の旅路、真里愛斗に同行したのは意外なメンバーだった。
「御二人とも、一体どういう事なんですか?」
電車に乗ったのは憑子を除くと合計で六人、性別でいうと男女が三人ずつ、所属でいうと華藏學園の生徒が二人、裏理事会が二人、そして、假藏學園からも二人が同行している。
「私は反対しました。はっきり言って、今からどう足搔いた所で全くの素人が月曜までに戦える力を身に着けるのは不可能です。真里殿以外の御三方は皆、この件から身を引くべきだと思います。」
竹之内文乃が苦言を呈する様に、愛斗と裏理事会の二人以外は戦力として当てに出来る者達ではない。唯一人、護衛役の文乃から離れる訳には行かない以上は対象として同行する必要が有る戸井宝乃だけは例外と渋々認めるに足る、という事らしく、假藏學園の二人に関しては完全な御荷物と見ている様である。
「何か訳が有るんですか、相津さん、将屋さん?」
相津諭鬼夫、将屋杏樹は先日失敗した西邑龍太郎奪還にも華藏學園の祠まで同行しており、既にこの一件に無関係ではない。更に、相津に関しては兄の実鬼也が裏理事会の一員として既に『闇の逝徒會』を相手に戦死しており、その因縁もあるだろう。だが、将屋杏樹については依然謎に包まれていた。
「俺は兄貴を奴等に殺されてる。此処で引き下がる訳にはいかねえんだよ。勝てるか勝てねえかじゃねえ。舐められた儘で終わって堪るか。」
「私に言わせると感情論ですね。それで都合良く生き残れるほど現実は甘くないと思います。正直、私には犬死にの未来しか見えない。」
相津の言い分に理が無いではないが、文乃の方が圧倒的に正論だろう。無論、相津はそれを解った上でこの結論を出しているので、説得は受け容れまい。
そんな彼にとっても、将屋の参戦動機は謎の儘になっている。
「将屋、そろそろ話してくれねえか? 何でお前は連中に訳知り顔で関わろうとする?」
将屋は一つ小さく溜息を吐くと、窓から外を見て答える。
「アンタと同じ様なもんだよ、相津。そもそも假藏に入った所から、私はあいつらを狙っていたんだ。」
「あいつら?」
「『弥勒狭野』のトップ二人、爆岡義裕と鐵自由だよ。」
将屋の告白に相津も愛斗も特に驚きは無かった。薄々、彼女が本心から『弥勒狭野』に与している訳ではない事は感じ取っていたし、そもそもこの集まりに参加している時点で腹の内は此方側だと確定的に示されている。
「ふーむ、『弥勒狭野』ですか……。中々興味深い名前ですねえ……。」
意外な事に、竹之内灰丸が横から口を挟んできた。
「名前の語源はそれぞれ仏教の弥勒菩薩と神道の狭野尊だと思われます。しかし、実はこの二つの組み合わせには他にも類似する先例が在るのですよ。例の古文書、その中に……。」
「ええ⁉」
驚いたのは愛斗と戸井、つまり古文書の存在を知る二人だった。相津は知らなかったが故に何を言っているのか分からず、娘の文乃は既に知っているから驚いていない。そして、普通に考えれば将屋も驚かない理由は前者だと思われるだろう。
「そう、実は有るのさ。奴等と古文書には一つの隠された繋がりが……。」
だがどうやら、将屋も古文書の事をある程度知っているらしい。それは相津にとって意外ではなかった。彼女はどうやら、最初から闇の力について何か知っているという事を仄めかしていたからだ。
「そしてそれこそが、私とあいつらの因縁。一遍に話すのは無理だから、一つずつ順序立てて説明したい。少々長くなるが、構わないかい?」
「まあ、まだ到着まで時間はたっぷり有りますからね……。」
「納得が行くかは別として、最低限説明して貰いたい気持ちはありますね。貴女達の身を預かり、安全を保障しなければならない立場として。」
竹之内父娘は将屋の自分語りに特に待ったを掛けない。これまで謎に包まれていて、且つややこしくて整理が必要な将屋杏樹の背景が今明かされようとしていた。
「話は先ず、私の物好きな父親から始まる。一応、親父も大学教授なんかやってるんだよ。」
「ああ、君はあの将屋君の娘さんだったのですね。私も、御父上の事は多少存じておりますよ。珍しく、私の研究に興味を御持ちだった。ま、専門が異なる故でしょうがね。」
竹之内翁から、彼女の父親・将屋文殊を知っているという事、それから、恐らく将屋教授の方も古文書や旧人類の事を知っているという、二つの情報が明かされた。将屋は小さく頷く。
「そう、親父は竹之内先生、アンタの研究に野次馬根性で興味を示していた。はっきり言って、陰謀論に嵌っていくんじゃないかと冷や冷やしたね。当時中学生ながら、そういう情報にはそれなりにアンテナを張っていたからね。」
「まあ、普通の反応はそんなものですな。私自身も自分の研究についてそう思います。」
愛斗と戸井は竹之内翁の自虐に苦笑いを浮かべた。
古文書や祠、旧人類について本気で研究しながら、それを荒唐無稽な事だと思っている。――それがタージ=ハイド、竹之内灰丸という人物の複雑な所だ。
「結論から言うと、親父には節度が有った。そこまでアンタの研究にのめり込んではいかなかった。だが、それでもあの古文書の魔力からは逃れられなかったのさ。あれには、というより祠やその闇の力『穢詛禁呪』に纏わる彼是には関わる人間を厄災に引き込む何か名状し難き恐ろしい力が有る……。」
「何があったのですか?」
「力を求める、良からぬ者と出会ってしまったのさ。高校生になったある日、私は親父と一緒に喫茶店で休憩をしていた。親父は例の古文書に関するアンタの著書を読みながら注文を待っていた。ゆったりとした時が流れていた。私は少し退屈を感じていたけれど、親父はゆったりと時間を潰す事こそが究極の贅沢なんだとか言って寛いでいたっけ。そんな時だった、あの男が話し掛けてきたのは。」
将屋の表情が険しくなった。仁観の奥には憎悪と憤怒の焔が燃えていた。
「參甲組傘下指定暴力団、爆岡組組長・爆岡勇雄。『弥勒狭野』で頭張ってる爆岡義裕の父親だ。」
「暴力団⁉」
将屋の口から飛び出した物騒な言葉に、愛斗達だけでなく周りの乗客も少し雑話ついていた。
「そう言えば、爆岡の奴はヤクザの息子だったか。それがお前と『弥勒狭野』の最初の接点か? 随分とまあ、遠い所から攻めてきたな。」
爆岡と共に假藏學園の頂点を狙い得る実力者として名高い相津は彼の素性を少し知っているらしい。一方で、それ自体今迄話題に出なかったというのが、假藏學園の治安の悪さを仄めかしていた。
「このご時世、ヤクザなんてのは二つに一つだ。衰退していくか、更なる外道に堕ちるか。爆岡組が選んだのは後者だった。奴等は力を求めてどんな事にでも手を伸ばしていた。それは、息子が通う假藏學園の祠に纏わる妖しげな話の様な神秘方面も例外ではなかった。だが、爆岡には学が無く、古文書に関する竹之内先生の研究を読み解くことは出来なかったんだな。だから、偶然見かけた親父に声を掛けて来たんだ。同好の士を装ってな。」
竹之内は渋い顔を浮かべている。自分の研究が悪しき者の私欲を駆り立てた話など気持ちの良いものではないだろう。
「尤も、それだけなら私には関係の無い話だった。実際、爆岡組長は必要な情報を聞き出すだけだった。ま、後の事も見越した関係を築こうとしていた気配は在ったけどね。だが、問題は爆岡の息子だったんだ。あいつは人間の心が無い野獣だ。」
将屋の表情が更に歪む。
「爆岡組長は息子を通じて組の為に祠の力を得るつもりだった。だが、その息子たるあいつは祠の秘密を独占する為に、自分の父親と私の親父を事故に見せ掛けて殺した!」
『自分の都合で他者の命を奪う事に恐ろしい程躊躇が無い人って居るものなのよね……。』
「誰の事ですか、憑子會長?」
愛斗はムッとしたが、普通に考えれば彼の事ではなく姉の事だろう。
「私が假藏學園に転入したのは、爆岡に近付いて親父の復讐をする為だった。だが、奴は喧嘩に関して化物の如く強い。その上、祠の力に関しても利用している危惧が有った。」
「成程な。それで俺を通じて華藏の『裏理事会』と繋がりを欲しがってたのか。」
相津は座席に深く坐り込んだ。
電車は東へ向けて走っていく。
置き去りにされた地元では、更に良からぬ動きが悪意を犇めき合わせている。
☾☾☾
假藏學園寮には腐臭を放つ男女の屍が裸で打ち捨てられていた。『裏理事会』の男性会員・千葉陵牙は俯せで膝を突き、尻を突き出している。華藏學園の理事長・大心原毎夜は仰向けで大股を開いている。
「相変わらず恐ろしい男だぜ……。」
そんな二つの在られも無い死体を見下ろす男が又二人、内一人の假藏學園生徒會長にして不良グループ『弥勒狭野』のナンバー2・鐵自由は身震いしていた。屈強な巨体を見せ付ける様に裸で傍に立つ男こそ、彼等の死体を辱めた張本人である。
「鐵よ、あっちを出したらこっちも出そうになるのは何でだろうな?」
吸っていたタバコを投げ捨てた男は死体に近付き、自身の一物を摘まんだ。
「ギャハハ‼ おいおい、マジかよ! 容赦ねえな‼」
陰惨に注がれる滝の様な液体は酷い悪臭を放ち、死臭と混ざり合って地獄の様に酸鼻な情景を醸し出していた。
この男こそは『弥勒狭野』の頭目にして假藏學園最強の不良と呼ばれる鬼畜、爆岡義裕である。
「鐵。」
「何だ、爆岡君?」
「てめえは俺が長年欲しかった物をよく持って来てくれたな。てめえを下に付けといて心底良かったと思える。俺はずっと、この力が欲しかったんだ!」
爆岡が拳を握り締めると、彼の巨体から黒紫の靄が噴き出してきた。彼もまた、生きながらにして闇の力に魂を売った様だ。しかし、爆岡は不服そうに顔を顰める。
「少し……気分が悪いな。」
「臭えからじゃねえか? 爆岡君が無茶するから。」
「そうじゃねえよ、こんなのは日常茶飯事だ。それより、体の中に変な物が入っている違和感が有るんだよ。力が溢れるのは感じるが、これは良くねえな。」
「ああ、それか。直ぐ慣れると思うが、一日休んだ方が良いかもな。どうせパーティは週明けからなんだからド派手な準備は俺達に任せて楽しみに待っていてくれよ。」
爆岡もまた、月曜日に合わせてこの狂騒に参加するつもりらしい。彼は狂気に歪んだ笑みを浮かべ、瞳の奥に何者かを映していた。
「鐵よ、俺は誰の下に着く気もねえ。親父だろうが、華藏の御嬢様だろうがな。面白くなりそうな限りは利用してやるが、用が済んだらあの御高く留まった生意気な尼も一晩中犯してやろうぜ。」
「流石爆岡君! そう来なくっちゃな‼」
鐵は爆岡という味方を得たからか、月子に対する叛意を否定しなかった。勿論、爆岡に対しても変わらないだろう。『闇の逝徒會』側は此処へ来て夫々の思惑で分裂し始めていた。
「それともう一つ、俺は月曜まで大人しくしているつもりは無い。」
「何?」
「パーティにはイベント、出し物が付き物だろ?」
爆岡の意図を量りかね、鐵は首を傾げる。爆岡はそれを見て可笑しそうに口角を上げる。
「ま、てめえの助言に従って今日一日は休むがな。流石の俺も、あいつを相手にするなら全力で叩きのめしたいからよぅ……。」
二人の口が三日月型に歪み、白い歯が向き合わされた。鐵も流石に察したらしい。そしてそれは、彼にとって悲願であった。
「そりゃあ最高だな、爆岡君。」
「だろ?」
物語は最終局面に近付き、役者も揃ってきているが、その前に不穏な動きが途切れる事は無いらしい。




