第六十二話 再び東へ
生きるとは呼吸することではない。行動することだ。
――ジャン・ジャック・ルソー
その報せが真里家に回って来たのは木曜日の夕刻だった。
真里愛斗がそれを知ったのは更に遅く、西邑龍太郎の遺作『賢者の海』を一日掛けて読み終えた夜になってからだった。
「来週月曜日……。」
母親に回ってきた連絡網を伝えられ、愛斗は胸に津波の様な不安が押し寄せるのを感じた。
學園が休校になっている原因の問題が解決する所か悪化している状況で、授業の再開など在り得ない。これはつまり、學園が敵の手に墜ちたとしか考えられないのだ。
『その敵は學園を再開しようとしている。恐らくは拒否不能でしょうね。相手は週明けを私達の死刑執行日に選んだという事よ。差し詰め、最後の週末に家族と過ごす御情けくらいはくれようという事かしら? 本当に腹立たしい女ね……。』
憑子の声には普段以上の呪詛が滲んでいた。考えてもみれば、彼女もまた長年共に生きてきた双子の姉に手酷く裏切られたのだ。
愛斗は考える。憑子は一見、昨日の友を今日の敵として冷徹に切り替え、あっさりと掌を返して罵倒している様だ。だが、愛斗は憑子を我儘で自分本位だとは思っても、無感情だとは決して思えない。
この二日間、彼女も彼女で血を分けた姉の本性に苦しんできたのではないか。愛斗とは異なり、それを噫にも出さずに一人で吞み込み、然も切り替えた平静を装っているだけではないのか。
「制服のクリーニングは終わってるけど、どうする? 少し早いけど、気温も上がって来てるし夏服に切り替える?」
「ん、ああ……。それは月曜日に考えるよ。」
事情を知らず、學園の再開に安心して気が早くなっている母親に適当な答えを返しながら、愛斗は無性に恥ずかしさを感じていた。勿論、愛斗に対しては裏切りと喪失が二重に襲い掛かって来た事も踏まえ、単純に同じ苦しみに対する反応の違いと言う事は出来まい。しかしそれでも、常に凛とした姿勢を保とうとするその在り方は愛斗が華藏學園の生徒會長に惹かれたその一端を形成していた。
考えてみれば、愛斗は華藏月子に対しては唯一度助けられ、又聞きの為人に憧れたに過ぎない。それは彼を逝徒會役員立候補に駆り立て、当選してからは彼女の厳しさに面食らう事になるが、それでも愛斗は生徒會長に認められたい、傍に居たいと慕い続けた。その相手は華藏月子ではなく、憑子の方だったではないか。
嗚呼、矢張り駄目だ、僕は……僕は自分を、親友を道具として使い潰され、しかしそれでもこの人に対する思いを棄て切れないんだ……。――それは心に一陣の風が吹き抜ける様な、それを遮る壁が取り払われ、一面の野が広がっている様な、そんな爽やかな無力感を伴った諦観だった。
愛斗は憑子を許していない、決して許せない。だが同時に、それでも昔と変わらず自分以外の人間が彼女を悪し様に言えば気分が損なわれるだろう。
憑子に対してはその人間の強さに敬意を、そして自分に対してはそんな彼女の下で華藏學園逝徒會役員として今尚必要とされている誇りが、地平線まで続く野火となって愛斗を焦がすだろう。
愛斗は母親に、学用品を整理整頓すると言って部屋へ戻った。今一度、部屋で憑子と向き合いたかった。整理したかったのは自身の思いである。
☾☾
部屋へ戻った愛斗は西邑の遺作の裏表紙、その粗筋の文章をそっと撫でた。物語が辿り着いた、己を焦がし続けた恋慕への清涼なる諦観を自分に重ねずにはいられなかった。より正確には、その読後感が余りにも爽やかだったからこそ、自分の中に生じた想いにそういう感想を抱けたのだろう。謂わば、愛斗は西邑の文学によって己が如何ともし難い慕情を救済されたのだ。
「會長、貴女は凄い人だ……。」
『どうしたの、真里君? 突然そんな判り切った事を態々言うだなんて。』
「貴女らしい返しですね。」
憑子の端的な自惚れは、愛斗にとって一層清々しかった。
「先刻も言いましたけど、僕は屹度貴女を許せないと思います。ですが、それでも貴女の事は変わらず尊敬し続ける、そうせざるを得ないでしょう。結局、僕は貴女の願いを叶えられる様、精一杯努力し続けるんです。」
『それは良い心掛けだわ。ま、心配しなくとも君の仕事はもうじき終わるでしょう。それまでは馬車馬の如く、身を粉にして働きなさい。』
「はいはい。敵いませんね、貴女には。」
憑子は何処迄も上から目線である。関係が一度拗れても、それは一切変わらないらしい。愛斗も今更それを気にする事は無かった。
ただ、彼の気掛かりは別に在った。彼女の為に働く必要が有るのは後少しだけ、それは事実だろう。勝つにせよ敗けるにせよ、事態は最終局面に近付いている。とするならば、終焉の時も又遠くない。
が、その後は? 若し仮に、この苦境を乗り越えて勝利したとして、憑子は何処へ行ってしまうのだろうか。彼女はそれについて、何か宛てを持っているのだろうか。
『真里君、今は余計な事を考えず、目の前の問題に専念しなさい。私達には今、展望が無い。運命の行き着く先は暗雲に飲まれようとしているのよ。學園だけでなく、人類そのものがね。』
憑子は愛斗の危惧を見透かすかの様に釘を刺してきた。成程、確かに先行きが不透明所か漆黒に覆われている今の状況で考える事ではないかも知れない。
『心配しなくても、私の望み通りにいけば君にとって悪い結果にはならないわよ。』
「どういう事ですか?」
『私は別に、君の体に永住するつもりなんて無い。君の体は、奪うつもりなんて無い。いいえ、元は何も奪うつもりは無かった。ここまで言えば解るわね?』
「あ……。」
愛斗は憑子の仄めかす意図を明確に察した。今、彼女は長年連れ合ってきた姉に対し、明確な敵意、というより害意を向けている。最早遠慮する必要などない、と言われればそれまでだが、その変節は矢張り愛斗と比して思い切っていた。
「ま、僕にとっては元鞘……なのかもしれませんね。」
『そういう事よ。だから、私に献上すべき物を捧げるべく最大限の努力をなさい。』
「じゃ、先ずは反撃の態勢を整えないと……。」
『何時に無く物分かりが良いわね。』
愛斗はスマートフォンに手を伸ばした。連絡を取るべき相手が居る。連続して無礼を重ねてしまった為、敷居が高いが、再び恥を忍ぶしかない。
その敷居の高さを越えるべく、憑子は愛斗に二・三の助言を下した。少し考えれば、彼女にもその責任の一端はあるという自覚が見て取れる。
「申し申し、竹之内先生、今お話しできますか?」
『……御連絡、御待ち申し上げておりましたよ。良くぞ再び御立になる決意をなさいましたね。』
「はい。お掛けしました御心配と御迷惑、それから御無礼をどうか御許しください。」
憑子の指示に従い、愛斗は竹之内灰丸にこれまでの不明を詫びた。本来ならば、高校生の愛斗自身が搾り出した言葉で謝罪する方が受け容れられやすいだろう。だが、アドバイスの相手が最も反目した憑子であるなら、それ自体が和解と反省の証になる。
『貴方の御気持ちはよく解りました。これ程の境遇の中で尚、清濁を併せ呑む腹を括られた貴方は、もう揺らぐ事は無いでしょう。しかし、状況は決して簡単ではありません。先ず、貴方に御伝えしなければならない事が御座います。』
「また良からぬ動きがあったのですね?」
『はい。華藏學園理事長・大心原毎夜氏と裏理事会の一員で假藏寮を護っていた千葉陵牙君が敵に殺害され、華藏學園は敵の手に墜ちました。』
愛斗は薄々理解していた。この二日間、愛斗達には体や心が傷付き動けない理由が在ったが、敵は今や万全の状態である。何も事態が動かない方がおかしい。それに、二つの『逝徒會』の争いが何も進展していないのに休校が明ける筈が無い。學園の陥落は当然予想出来る事態だった。
『真里君、我々はもう一度、貴方に戦いに備えた訓練を積んで頂きたいと思っている。月曜日から學園が始められてしまうと聞きました。ならばこの週末は、再び訓練漬けになって頂く必要がある。』
「はい。僕もそのつもりで御電話しました。」
『宜しい。しかし、この状況では当然、華藏學園の校庭は使用出来ません。』
「解っています。恐らく、先生が次に御提案なさる事も……。」
愛斗は既に、週末に向かうべき景色に想いを馳せていた。
『はい。再び東へ、學園三巨頭の祠へと共に来て頂かなければなりません。つきましては、親御様の御許可を……。』
「どうにかします。最悪は、勝手に行きますよ。電車賃さえ用意して頂ければ……。」
『……真里君、君は意外ととんでもない人間ですね……。』
呆れた様子が電話口の声からありありと想像出来る竹之内の反応だったが、どうやら彼も愛斗の本当の為人を掴んできたらしい。
真里愛斗は一見、真面目で素直、そして大人しい少年であるが、実態は寧ろその真逆である。唯、恐ろしい程に雰囲気の擬態が上手いのだ。
『羊の皮を被った狼ね……。』
憑子が誰よりも能く知っている。実際、愛斗はやる時はやる男である。殺る時は殺る、と云った方が良いかも知れない。憑子は今でも、紫風呂来羽の頭に向かって十キロあるバーベルのバーをフルスイングした愛斗の凶行を能く覚えている。
「勿論、先ずは話しますよ。一応、理由付けは考えてありますしね。」
『流石に二週連続は厳しいかと思いますが、矢張り無断は良くありませんからね。確りと頼みますよ。』
「はい。」
『ああ、そうだ。一つ私に良い考えが有ります。以前、私が貴方に……。』
竹之内の提案を聞いた愛斗は眉を軽く押し上げ、そして痛感した。
「竹之内先生。」
『何でしょう?』
「僕はまだまだですね。いざとなったら無理を通す事しか考えず、その前に汎ゆる手を尽くすという発想が欠けている。これからの最終決戦、手段は選んでいられないのに、選択肢を広く持てていない。先が思いやられます。」
『心配は要りません。人間にはそういう、崖っ縁の本能の様な物が有りますから。それに、訓練の中で格上の私や娘の相手をすれば、自然とそういう思考法が身に着いている筈ですよ。』
「だと良いのですが……。」
愛斗は電話を終えると、鞄の中からある物を探し始めた。それは、説得に必要なキーアイテムだ。
☾☾
直ぐ様、愛斗は両親に切り出したが、反応は芳しくなかった。
「二週連続で旅行? 休校中だからって流石に羽目を外し過ぎでしょう。来週から授業が始まるのよ?」
「だと思って、僕も最初は断ろうと思ったんだけど……。」
そう言うと、愛斗は一枚の紙を母親に差し出した。
「何、これ?」
「実は先週の勉強会で知り合いになって……。大学の先生なんだけど、来週、公演があるから来て座談会の席を囲まないかって……。」
それは初めて出会った時に竹之内から貰った名刺だった。そこには彼の、一見すると権威性を持っていそうな研究と肩書がはっきりと書かれている。
「え、大丈夫なの、その先生? 何か怪しい勧誘とかしてない?」
「學園理事長と親しい人らしいから、多分大丈夫だと思う。折角の機会だし……。それに、お金も向こうが出してくれるって言うから。」
「うーん……。」
母親は竹之内を今一つ信用し切れていない様だ。大学関係では怪しい団体が関与しているイベントもあり、手放しに信じられないという風潮がある。彼女の反応は宜なるものだった。
「お前の他には誰が参加するんだ?」
父親が愛斗に訊いてきた。
「ああ、先週と同じだよ。西邑と戸井。」
愛斗は内心名前を使って亡き親友に申し訳ないと思ったが、どうにか説得したいので極自然な感じで彼等の名を答えた。
「なら、大丈夫じゃないか? 愛斗だけならともかく、あの二人も一緒なら危なくならない内に話を打ち切るくらいの事はするだろうし。」
今一つ信用されていないような言い方が気になった愛斗だが、父親が味方に付いたのは大きかった。
「駅まで送ってくれれば、先生もそこで挨拶したいと言ってたよ。」
「そう……。解ったわ。但し、余り信用し切って深入りしちゃ駄目よ?」
「うん、解った。」
斯くして、何とか両親の了解に漕ぎ着けた愛斗は、明日金曜日に再び遥か東へと旅立つ。実際には、全く別のメンバーと合流する事になるが、両親は彼等と会う事は無い。元々、西邑龍太郎も戸井宝乃も愛斗と最寄り駅を別にしているから不自然ではないだろう。
『先ずは一つ、ハードルをクリアしたわね。でも、これからは比較にならない程高い壁を超えなければならないわ。』
憑子の危惧もまた事実。しかし、愛斗が着実に第一歩を踏み出したのもまた事実である。




