第六十一話 華藏學園陥落
Vade retro alter ego. (もう一人の私よ、去れ。)
華藏學園は現在、華藏家の経営する企業によって管理運営されており、その責任者に任命されているのが理事長の大心原毎夜である。彼女は華藏家の執事長・大心原文夜の妻であり、華藏家への忠誠心は比較的高い方である。だからこそ、華藏學園を捨てて逃げるという選択に抵抗が有った。
主に祠に纏わる、華藏學園と假藏學園の敷地に於ける超常的な秘密は華藏家、その関連法人だけが握っているものであり、その手を離れてしまうと、この世を破滅させ得るその脅威が全くの野放しになってしまう。それ故、裏理事会と密に連絡出来る大心原が、休校中も頻繁に赴き状況確認する事は重要だったのだ。
しかし、『學園の悪魔』以上に危険な存在として覚醒した、他ならぬ華藏家当主の座に着く華藏月子は、最早學園に魔の手を伸ばすのを躊躇う理由が無い。今や、両學園の放棄も已む無しという状況になっている。
彼女は裏理事会と相談し、この状況で學園をコントロール下に置き続ける方法を考えた。
「しかし、華藏學園の敷地外から祠の様子を窺うのは困難ですよね……。」
時を少し遡って、水曜日。
大心原は理事長室で竹之内灰丸に今後の拠点について意見を訊いていた。
本来、竹之内は真里愛斗の護衛と訓練を行う必要があるが、肝心の愛斗が音信不通となってしまっている。立て続けではあるが、今は彼の心に休養が必要だと竹之内も解っていたので、ほんの少し様子を見る事にしていた。
代わりに、一時的に大心原に付いている、という現状だ。
「大変申し上げ難いが、今や學園の放棄は不可避かと。深淵を覗く時、深淵もまた此方を観ている。祠を、敵を観察し易いという事は、逆に彼方からも見付かり易くなる。である以上、今迄とは違い祠を監視する以上は最早貴女の安全を保障出来ない。勿論、どうしてもと仰るなら護衛を付ける事も吝かではありません。しかし、我々の人員も劫々に厳しい……。」
裏理事会は此処まで、相津実鬼也、尾藤伯明が戦死し、残った人員の中でも鹿目理恵が負傷、戻って来た聖護院嘉久も依然として痛め付けられた傷が快復しておらず、万全とはとても言えない。
「その人員ですが、今後はどの様に配備するのです?」
「鹿目女史に代わり、旭冥先生に仁観嵐十郎君を護衛して貰います。不幸な事に、丁度彼女の手が空いてしまいましたから。後は現状維持です。」
「成程……。」
大心原は窓の外へと眼を遣った。相変わらず、そこには假藏學園と融合した異常な華藏學園の姿が在る。
「つまり、假藏寮で昏睡状態が続いている假藏生達の護衛は、相変わらず千葉君が担っている、という訳ですね?」
「はい、然様で御座います。……何をお考えですか?」
大心原と竹之内は鋭い視線を交わし合った。互いの思惑を互いに察したらしい。
「私も假藏寮に入る、というのは如何でしょう?」
「華藏學園の理事長ともあろう人が何を仰います?」
「假藏學園はその華藏學園の姉妹校です。ならば、実質は私が守るべき生徒達の寝所も同然。それに丁度あの場所は今、華藏學園と融合した影響で、祠に最も近い位置に在る。つまり、見方を変えればあの場所の假藏生達は本来華藏學園の問題に巻き込まれたばかりではなく最も危険な場所から動けないという事。その責任は取らなければならないでしょう。」
「それは……私も同感です。だからこそ、千葉君に寮全体を守らせているのです。」
「そこに私も加えて頂きたい、という事です。」
竹之内は眉間に皺を寄せて考え込んだ。大心原の眼を見詰め、その仁観に覚悟が満ちている事、それが揺ぎ無い事を確かめた。
「駄目だ、と言っても假藏寮に入るのでしょうな、貴女は。真里君といい『新月の御嬢様』といい、亡くなられた西邑君といい、この一件に関わる人達はみな頑固で言う事を聞かない。いやはや、本当に弱りましたなぁ……。」
頭を掻く竹之内の眼は固く閉ざされ、その目元には苦悶が浮かび上がっていた。大心原の望み通りにしたとて、假藏寮が襲われたが最期、彼女は確実に死ぬ。今や二つの學園に纏わる場所は悉くが危険地帯であり、近付けばそれは死との距離を縮める事を意味する。
かと言って、恐らくは大心原を説得する事も不可能である。彼女の胸には假藏生達を危険に曝し続けなければならない罪悪感も秘められており、それもまた彼等と心中する様な選択を後押ししている様に思える。
竹之内は、華藏學園理事長・大心原毎夜を守る術が無い事を悟ったのだ。
「二・三、お願いを聴いてくださいますか、理事長?」
目を開けた竹之内は、彼女の命運にせめて僅かな希望を繋ごうとする。
「先ず、貴女の身を守る為にも向こうでは千葉君の指示に必ず従ってください。それから、向こうへ行く前にいざという時迅速に避難する準備を確実に整えてください。假藏生を死守するのは飽くまで裏理事会の仕事です。本来、そこに貴女が加わる事自体が我々にとって容認し難い事なのです。」
「それは重々承知しているつもりですが……。いや、解りました。假藏寮入りは明日とし、今日の所は経路から手段まで入念に準備しておきましょう。」
「私からもそうお願いするつもりでした。序でですからもう一つ、仮に今日、貴女が帰宅されたのちに華藏學園が陥落した場合、必ず即時連絡いたします。その時は無理に華藏や假藏に入らず、學園の一件からは完全に身を引いてください。」
「つまり、その時は祠の制御を諦めろ、と……。」
「致し方無いでしょう。」
「それも……そうかも知れませんね。今や、我々の命運は、生殺与奪の権は完全に彼方が握っている状態なのかも知れません。ですが、諦める訳には……。」
「無論、何も解決を完全に諦める訳ではありませんよ。ただ、事此処に至っては最悪の事態を何重にも想定し、状況によって防衛線を何度でも弾き直す必要がある。徒に完全な状態の意地に拘泥する事は最早不可能でしょう。」
「成程……。」
竹之内の説得が解らぬ程、大心原も子供ではない。彼の立場は重々承知の上である。
「必ず、そう致します。」
「恐縮です。」
こうして、大心原は翌日の木曜日から假藏寮に入ることを決めた。これが彼女にとって、裏理事会との最後の接触となる。
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同日、華藏家に強盗が侵入し、使用人は皆殺しの憂き目に遭った。不思議な事に金品は一切手を付けられておらず、当主である令嬢の下着と制服だけが盗まれるという奇妙な事件だった。
その令嬢・華藏月子が此処二週間半ほど行方不明になっているという事実が、捜査に当たった警察に強い事件性を嗅ぎ取らせた。
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翌日、木曜日。愛斗が西邑龍太郎の遺作を買いに行く数時間前。
假藏學園の寮の門で、華藏學園理事長の大心原毎夜は裏理事会の千葉陸牙に迎えられていた。
本来は存在しないが、丁度華藏學園の敷地と融合している関係で門の前に小さなスペースがあり、そこに自家用車を駐車している。これは、竹之内から忠告された避難の準備、その一環である。
「ようこそお越しくださいました。」
「この様な状況で気を使わせて済みませんね……。」
「いいえ、事情は承知しております……。」
大心原と千葉、二人は既に一つの覚悟を決めていた。
千葉は護衛任務に当たり、唯一人二つの學園の敷地内に居を構えなければならない。その時点で、若しもの時は決死の兵となり文字通り假藏生達を死守する事を強いられる。
大心原には逃げる選択肢も有ったが、華藏學園の維持管理という責任から彼女自身がそれを望まず、此方もまた決死の将となる道を選んだ。
「千葉君、貴方が無事で良かった……。」
「逃げる口実を逸したのに、ですか?」
大心原の微笑みに対し、千葉は冗談ぽく笑い返した。前日の内に假藏寮が襲撃された場合、彼女は寮入りを中止する様に進言されていたので、千葉が先に死んでいれば彼女は助かった事になるのは一つの事実である。
だから、今から起こる事は考え得る最悪のタイミングだったと言って良い。
『素晴らしい心意気だわ、大心原理事長。』
『しかし、我が學園の寮に部外者が入り込むのは感心せんな。』
何処からともなく、男女の声が響いて来た。大心原と千葉に絶望的な緊張が走る。
黒紫の叢雲が大心原の背後に集まっていき、満に集合して弾けた。そこには夫々華藏學園と假藏學園の制服を着た男女が立っていた。
「華藏學園生徒會長・華藏月子……‼ 假藏學園生徒會長・鐵自由……‼」
裏理事会が敵対する強大な敵、『闇の逝徒會』の二人が決死の男女を嘲笑する。華藏月子と鐵自由は覚醒翌日の昨日には襲撃して来ず、大心原の寮入りは間に合ってしまったが、逆に彼女が出迎えられている最中という何とも意地の悪い瞬間に彼等に最期の時を告げに顕れたのである。
華藏學園理事長・大心原毎夜、及び裏理事会・千葉陸牙、死亡。
そしてその瞬間、二つの學園は完全に『闇の逝徒會』の手に落ちてしまった。
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華藏月子は鼻歌交じりに華藏學園の誰も居ない道を歩いていた。そしてバス停近くにやって来た彼女は、そこに建つ華藏鬼三郎の像を見上げる。
「曾々御爺様、我が學園の研究は今、完全に成就しますわ。」
月子の眼には邪悪な光が宿っている。彼女は今、不遜にも先祖の心、その内にある真の願望を見透かしていると考えて憚らない。
「祠の力は私が完璧に抑え、更にはそれを超える究極の存在もこの手に得た。ならば、態々世界が次の循環を迎える迄待つ必要が何処に在るでしょうか?」
静かな、絶大な狂気を湛える美少女の微笑み。心無しか、銅像が月子を畏れている様にも見える。
今、華藏月子は青い血を得ている。それがどういう経緯で第一合宿所の地下に眠っていたのかは、學園の研究でも明らかになっていない。
「ふふふ、この体になって総てが脳裡に吸引され、理解の花が狂い咲くのを感じたわ。この青い血の意味、辿って来た運命も、何もかもが今私の中で解き明かされている……。この感覚こそ、私の求めていたものだと心の底から思える。この世界の総ては、構造は、この私を快樂で満たし、永遠の未来を絶え間なく萬福たらしめる為に存在している! 全は一、一は全‼ 三千世界の総てが遍く私であり、私以外の一切は不要にして滅却すべし‼ その先に、私の私に拠る私の為の、眞の世界を再構築する‼」
月子が勢い良く両腕を拡げると、彼女の絶妙な肉が僅かに揺れ、同時に華藏鬼三郎の像は粉々に砕け散った。それはまるで、『華藏學園』というこの地の名の意味する所が入れ替わるのを象徴する様であった。
「華藏學園は私、華藏生達も私。畸形嚢腫という忌まわしき枷から解き放ってくれたこの學園の神秘に敬意と感謝を表し、手始めに支配を始めましょう。」
そう言い残し、華藏月子は来た道を引き返した。
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華藏學園理事長室。
「其方の様は済んだの、鐵君?」
「ああ。これで假藏の頂点は俺の物だぜ。」
月子と鐵は執務机と挟んで向かい合っている。席に着いているのは月子、鐵は報告する部下の様に立っている。矢張り、二人の間には明確な上下関係が有る様だ。
「主を喪った理事長室……。假藏學園じゃこんな洒落た部屋は見られねえからな。我が物顔で占拠するのは胸が空く想いだぜ。」
「何を言っているの? 抑もこの華藏學園は我が華藏家の物であり、その華藏家の当主はこの私なのよ。つまり、元々この學園も、理事長室も、全ては私の物なの。私こそが真の主よ、元からね。」
「ククク、流石は御主人様だ。」
鐵は軽薄に笑った。二つの學園が休校となり、人が居ない隙を突かれる形で、両學園は生徒會長に簒奪された形となる。こうなると、直ぐに事態を伝えられる裏理事会は休校措置が悪手だったのではないかと思えてきてしまうだろう。
そんな遠くの相手を嘲笑うかの様に、月子は次の一手を提唱する。
「来週明けで休校措置を解除しましょうか。華藏學園の生徒や家族には私が、假藏學園の方は貴方が連絡しておきなさい。」
「面倒臭えが、まあ良いだろう。學園の頂点が誰なのか、全校生徒に伝えてやらなきゃなんねえからな。何なら、来週と言わず明日からでも良いぜ?」
「生徒や家族も今日の明日で行き成り生活を元に戻すと言っても混乱してしまうわ。それに、手に入れるべきものは手に入れたのだしのんびり行きましょう。昨日は私の服を回収し、今日は學園を手中に収める。そんなくらいのペースで良いのよ、支配者の行動は。」
既に勝ったも同然、残りは消化試合と許りに、月子は余裕の笑みを浮かべている。愛斗達としてはこの慢心を突きたい所だが、それでも依然として絶望的な力の差がある。
「悪魔よ、去りなさい。もう一人の私よ、消えなさい。私の心臓から……。」
しかし、明確な期限が切られた事で動き易くはなるだろう。
残り三日、愛斗達はそこに一縷の望みを賭けるしかないのだ。




