第六十話 或る友情の悲劇的な終焉
真の友情は、前と後、どちらから見ても同じもの。前から見れば薔薇、後ろから見れば棘などというものではない。
――ヨハン・ミヒャエル・フリードリヒ・リュッケルト
次の日、水曜日。真里愛斗は何一つ手が付かず、寝て起きてを繰り返し一日を浪費した。
前日は夜遅くに激しい戦闘で消耗し、更に命辛々逃げ出す破目にもなった。それだけではなく、余りにも精神的にハードな事ばかりが続いた一日だったので、体も心も深刻な程に休息を必要としていたのだ。
憑子はそんな愛斗に、いつもの小言を溢したりしなかった。丸で存在しないかの様に唯只管沈黙を貫いていた。
一気に爆発した愛斗の不満は尤もで、この気不味さの責は殆ど全面的に憑子に在る。殆ど、というのは、状況が一々仲違いしている場合ではないという一点に於いて愛斗に全く非が無いと迄は流石に言えない為である。
華藏月子は遂にその目的を達し、本性を表した。彼女が次に何か恐ろしい事をしでかす事は明らかで、本来ならば『光の逝徒會』にも『裏理事会』にも一刻の猶予すら無い筈である。その為、この一日を無為に過ごすのは非常に手痛い遅れなのだ。
だが、今の愛斗には兎に角休息が必要だった。出歩く事すら儘ならぬコンディションで戦っても必敗だからだ。戦うのは目的を達する為で、その為には負ける訳にはいかない。
だから、愛斗が胸の内を吐露したのは逆に正解だったかも知れない。誰の眼にも耳にも、彼が限界を迎えていると明らかになったからだ。
この日の無駄な浪費を咎める声は誰からも挙がらなかったが、愛斗にとってそれだけは唯一有り難かった。しかし、一つだけ避けられない干渉が在る。
「愛斗、ご飯よ。夕飯くらい食べなさい。」
この日、愛斗は陽が落ちるまで何も口にしなかった。家族も只ならぬ気配を感じ、そっとしておいてくれはしたが、流石に全く食事を採らないではいさせてくれないらしい。
「わかった。今行くよ。」
この時、愛斗は一日で初めて声を出したかもしれない。憑子や『裏理事会』等、自分を戦いに駆り立てる者達ならばいざ知らず、家族が自分の身を案じる事にまで悪態を吐きはしない。
愛斗は素直にリビングへ赴き、この日の食事を採ることにした。
☾☾
真里家は、私立の名門である華藏學園に息子を通わせるだけあって、それなりに裕福である以外は至って平凡な家庭である。愛斗本人も含め、誰一人として特別な才能に恵まれた傑物も、社会に適合しない厄介者も居ない。
そんな家族の団欒は、ずっと訳の解らぬ非日常に身を置いて来た愛斗にとって貴重な、何処までも混じり気の無い日常の純粋抽出だった。丸で鍾乳洞の雫が僅かに差し込む陽光を弾く様に、闇の中で見付けられる小さな潤いとなっていた。
父も母も、疲弊し切った様子の愛斗に何があったのか皆迄訊く事は無かった。心配して「大丈夫か?」と声を掛けはしたが、それに対する愛斗の反応が触れてくれるなと言わん許りだったので、今はそっとしておこうと考えたのだろう。
「それにしても、もう休校も一週間を過ぎたか……。」
唯、意図せず愛斗にとって触れられたくない話題が出ないでもない。愛斗が黙っている以上、これは仕方の無い事だ。家族は飽くまで、取り留めの無い日常について話しているつもりなのだ。
「害獣駆除、上手く行っていないのかしら……?」
「余り長く続くと学業に影響も出かねん。學園側として、どうにか授業の出来る代替案を出して欲しい所ではあるな……。」
両親の会話が愛斗の胸を刺した。まさかその休校が、愛斗の活躍によっては終わるものだったとは夢にも思っていまい。
流石に、愛斗も不機嫌や不満を露わにする訳にも行かなかった。唯でさえ、昨日の爆発で結束すべき味方の空気を悪くしてしまったのだ。そこに全く負い目を感じていない愛斗ではない。況してや、何の咎も無い家族を責める様な筋違いは起こせる筈も無かろう。
「ああ、そう言えば愛斗。西邑君なんだけど……。」
何か只ならぬ空気を読み取ったのか、話題を変えた母親だったが、悪いのは運なのか間なのか、又しても愛斗の傷を抉る話題を選んでしまった。
だが本来、それらは取り留めの無い話題の筈なのだ。愛斗は寧ろ、両親の会話よりもそんな日常を地雷に変えられた境遇を、華藏月子を強く恨まずにはいられなかった。
しかし、母親が西邑の名を出したのは意外な意図だった。
「彼の新刊、確か明日発売だったわよね?」
「え? そうなの?」
愛斗は驚いてつい尋ねてしまった。
「何、アンタ友達なのに知らないの?」
「あいつとは作家活動とは余り関係なく付き合ってたし……。」
ふと、愛斗は今迄自分が親友の著書について何も知らない事を思い知らされた。然程興味も無かったし、それで友人関係に問題があるとも思っていなかった。実際、触れない事で却って良好な関係が維持されていたのかも知れないしそれは必ずしも間違いではないだろう。
だが、この時愛斗はどうしても自分が薄情だったのではないか、と思い始めていた。親友だと言いながら、自分は西邑龍太郎という男が生前情熱を捧げた創作活動について何も知らない。本当にそれで良いのだろうか、という思いが、喪って初めて沸々と沸き上がってきていた。
「お母さん、一つお願いがあるんだけど……。」
愛斗は衝動的に、しかし強い意志を持って切り出した。
「明日あいつの小説を買いたいから、一寸お小遣いを前借させて欲しいんだ。」
この所、愛斗は何かと出費を重ねていて小遣いを殆ど使い果たしていた。一応、西邑にカラオケは半ば強制的に奢って貰い、その釣りは有るのだが、それでも本を一冊買うにはやや心許無かった。
「それは……。」
「良いんじゃないか?」
母親は渋ったが、父親が助け舟を出してくれた。
「読書の為なんだし、飽くまで前借なら。」
「でも、お小遣いを渡す目的ってお金の使い方を身に着けさせる為だから……。それに、別に来月まで待ったとしても本が売り場から無くなりはしないでしょう、そんな短い期間なら。」
確かに、息子が浪費しても金を無心すれば良いと間違った学習をしては困るという母親の言い分は尤もだ。しかし、愛斗は退けない。悪いとは思いつつも、少し嘘を吐くことにした。
「実はさ……。昨日西邑と遊びに行ったんだ。」
「あら、そうなの?」
「うん。休校を利用して、悪い事だったと思う。実際、あんなことすべきじゃなかった。西邑と些細な事で喧嘩しちゃってさ……。仲直りの為に、あいつの小説を読んで感想でも言おうかと思って。あいつ、いつも読者の感想が直接聞けたら良いのに、って言ってたから……。」
これは、愛斗が咄嗟に思い付いた尤もらしい法螺話である。実際の西邑は、一般読者の感想など歯牙にも掛けていなかった。
唯自分が書きたい物を、考え得る最も優れた趣向を凝らして創る。――それが西邑龍太郎という作家のスタイルだった。
現代では、一般的な作家が考えている事がSNS上に愚痴等で流れて来るので、それを元に「凡その作家の悩みらしきもの」を組み上げる事はそう難しくなかった。
「なるほど、それで今直ぐ欲しいのね。まあ、お父さんの言う通り読書なら後々の財産になるだろうし、今回だけよ?」
「ありがとう。」
こうして、愛斗は翌日本屋へ走ることにした。それは現実からの逃避に他ならなかったが、今は未だこの苟且の平穏に甘えていたかった。
何より、親友が遺した文章を通じて、もう一度彼に出会い直したかった
尚、この日は結局憑子と一言も口を聞かなかった。
☾☾☾
更に翌日、木曜日。
愛斗は本屋で新刊として発売した許りだった西邑龍太郎の遺作、『賢者の海』を購入した。
「シリーズものじゃなくて良かった……。」
西邑の代表作は『美醜シリーズ』と呼ばれる全四巻からなる長編小説だが、前作に手完結を迎えている。今回の作品はその後の初刊行作品という事で文壇からも注目を集めていた。
未だ、西邑龍太郎が早逝した事は世間に伝わっていない。愛斗達ですら、死体を確認した訳ではないので、未確認の情報なのだから当然だろう。
帰宅して、愛斗は取り憑かれたように小説を読み耽った。普段余り本を読まない愛斗にとって幸いな事に、西邑の流麗な文体が思いの外読み易かった。
内容は、一人の男に強く惹かれた男が想い人の色恋沙汰に愛憎を募らせるも、様々な葛藤の末に想い人の恋を導いた末に自ら命を絶つというものだった。悲劇ではあるが何処か爽やかな読後感があり、夜遅くまで書けて読み終えた愛斗は暫く放心した。
西邑龍太郎が何を思ってこの様な作品を著したのかは分からない。だが、どうにも愛斗にはこの主人公が西邑本人であるような気がしてならなかった。だとすると、想い人の正体とは……。
「そうだ……。」
愛斗はふと思い立ち、二人の人物に電話を掛けた。愛斗同様西邑を能く知る戸井宝乃と仁観嵐十郎だ。聞けば二人も西邑の遺作を購入して読了したらしい。
仁観曰く、今回の作品は西邑にしては珍しい作風だという。報われない想いを鮮やかに描き出す点は『美醜シリーズ』を踏襲しているが、シリーズは毎回主人公が美しい相手に対して醜悪な憎悪を拗らせて破滅的な結末を迎えている。その様は地獄絵図が浮かんでくるようなもので、今回の爽やかな死のエンディングとはかなり異なるものだったという。
西邑の中に何か心境の変化があったのだろうか。執筆の時期を鑑みて、これが生前の西邑本人が書いたものに間違いは無い。若しそうなら、あの惨劇の夜に至る迄に遺した思いに従った死後の西邑が一貫して愛斗を護ろうとした事に繋がる様な変化なのだろうか。
愛斗はこの作品が誰かの幸福を切に願う祈り様に思えた。勿論、愛斗が読む事を想定はしていなかっただろう。西邑の作品はいつも自己満足である。だがその自己満足は、愛斗の幸福な未来を最後に希ったのか。
「憑子會長……。」
『何?』
この時、漸く愛斗は二日振りに憑子に話し掛けた。彼の中で一つの決意が生まれた。
「僕はどうすべきだと思いますか?」
『それは……訊かれても、私には私の希望しか話せないわよ?』
「結構ですよ、貴女がそういう人だって熟々思い知りましたから。出来ればその貴女の希望を、少しオブラートに包んで、僕にも納得出来るように装飾して言ってくれればいいんです。」
愛斗の中で、憑子に対する蟠りが消えた訳ではなかった。しかし、何時までも現実から逃げている事も出来ない。
『君は西邑龍太郎に救われた。それは彼が君に救われた恩返しだったのでしょう。しかし、あの女が居る限りは彼の献身は何れ無駄になるわ。ここまで言えば、解るわね?』
「ま、そんなところでしょうね。でも、それで良いです。」
愛斗は窓の外に浮かぶ月を見上げた。真珠色に輝くそれは、世界の総てを嘲笑うかの様に見下ろしていた。そう見えたのは、愛斗が月に彼女を重ねたからだろう。
「兎に角、決着を付けますよ。」
『そう……。それならそれで良いわ。元々、私と君の関係はそれだけで繋がっているのだから。』
こうして、愛斗は二つの夜を超えて何とか立ち直った。
西邑を喪い、彼との友情は終焉を迎えてしまった。否、西邑にとってそれは、最初から友情を超えたものだったのかも知れない。
愛斗は、殺された者の弔い合戦が必要だと考えていた。彼の心とは無関係に、その機会は近く向こうから襲って来るだろう。
事態は最終局面に向けて動き始めている。




