第五十九話 漆黒は唯深く
その神、青き血の神也。唯一無二にして絶対なる強者、空前絶後の大破壊を齎す者也。
――竹之内斧丸の偽造古文書より。
華藏學園は立入禁止の山道、最奥の祠前で次に敵地へ赴かんとしていたのは、『裏理事会』の朝倉桜歌こと旭冥櫻、竹之内文乃という二人の女性である。結果的に言えば、彼女達は祠を通じて悪魔の棲み処『闇の靈殿』へ行かなかった。
突如として、送り込んだ筈の真里愛斗、仁観嵐十郎が、囚われていた聖護院嘉久と共に姿を顕した。建前上の最低目標だった西邑龍太郎の身柄を確保していない所を見るに、それは明らかに失敗、敗走だった。
「何があったのですか⁉」
文乃は闇の力の増幅を中断し、満身創痍の聖護院に問い掛けた。
想定外の異変に因って大きく傷付いたのは彼ではなく仁観なのだが、『裏理事会』ならば誰もが聖護院に状況を問い合わせる。それだけ信頼が厚い分、彼が味方に返り咲いて尚敗けたらしき事は衝撃的だった。
「説明している時間は無い。奴が直ぐにでも追ってくるかも知れない。」
「駄目だった、という事ですか?」
「そうだ。我々は敗けた。成す術も無く。逃げる事すら儘ならなかった。君達が助け出す筈だった生徒の御蔭で辛うじて命拾いした有様だ。」
今、はっきりと聖護院の口から敗北と逃亡の結果が明言された。そして、恐らくは未だ逃げ切れていない、という事も。
「解りました。一旦此処から離れ、理事長達と合流しましょう。華藏學園に留まるのは危ない。」
聖護院は文乃の、仁観は旭冥の肩を借りて祠を離れようとする。唯一無傷の男手である相津諭鬼夫は相変わらず意識の無い紫風呂来羽を再び運ばなければならず、手が空いていない。
だが、実は一見比較的無事に済んでいる愛斗が一番深刻だった。確かに傷は少ないが、茫然自失として微動だにしない有様だった。
『真里君……?』
憑子は驚いて声を掛ける。
気を失った訳ではない、体には何ら異常は無い。しかし、その精神状態は誰よりも襤褸々々だった。
「愛斗君、もたもたしてらんねえぞ‼」
仁観が発破を掛けるも、柳に風の状態で愛斗の心は微動だにしない。彼は今、一切合切受け容れる事を拒んでしまっている。
余りの様子に、仁観は痺れを切らした。
「もう良い。将屋、戸井ちゃん、愛斗君を運んでやってくれ。」
「あ、ああ……。」
「分かりました。」
小柄な戸井宝乃や假藏學園の女生徒である将屋杏樹の手まで借りて、彼等は漸くこの場を離れる事が出来た。
愛斗が動けなかったのも無理は無い。彼は今、決定的に親友を喪ったのだ。それも、誰よりも敬愛と慕情を寄せていた女性の手酷過ぎる裏切りによって。
☾☾☾
今、その場所はこの世で最も邪悪な場所となっていた。元々そうだった、と言われればそれもそうなのだが、これまでとは比較にならぬ邪悪が目覚めたのだ。
「ぐあああアアアアッッ‼」
西邑龍太郎は『闇の靈殿』の床に這い蹲って悲鳴を上げていた。その背には何度も、何度も美しい羚羊の様な脚が叩き付けられている。その度に、彼は紫色の血反吐を撒き散らしていた。
「この遊びも飽きてきたわねえ……。次は何をしましょうか……ねえ?」
華藏月子は艶やかな微笑みを湛えつつ、西邑を激しく虐待していた。
「随分……しつこい性格なんだな……。華藏先輩……。」
「しつこい? 貴方は何か勘違いしている様ね。」
月子は微笑みを崩さず、西邑の髪を掴んで無理矢理立たせた。
「若しかして、私が彼等を取り逃がした事、気にしていると思っている? 全然、何の問題も無いわ。どうせ後で彼等とも遊ぶ事に変わりは無いもの。楽しみが後に回っただけの事だから、気長に今を愉しめば良いじゃない。」
西邑は憑子の微笑みに嘗て無い嫌悪感を覚えた。
この女は彼にとって誰よりも大切な親友の心を踏み躙り、猶も飽き足らず弄ぼうとすらしている。それは彼女の世界観の一端が表れているに過ぎない。
華藏月子にとって、この世界は自分だけの遊び場である。他人は全て、自分だけの玩具であり、壊れるまで遊び尽くす所有権を持っている。
「気長に……か……。」
「そうよ。今の私には永久不変の時があるもの。気長に、気長に……。昨日よりも愉快な今日を過ごし、今日よりも素敵な明日を夢見続ければ良い。世界は屹度ずっと美しいわ。だって、この私がずっと生き続けるんですもの。醜いものは総て棄ててしまいましょう。美しいものは壊れるまで愛で尽くしてあげるの。そして玩具が壊れたら、又新しく拵えれば良い。これからの世界はそうやって回るのよ。」
「成程、如何にも我が儘な御嬢様、といった人格の様だ。」
西邑の脳裡に嫌な想像が限りなく巡る。自分がこれから受ける拷問の絶大な苦痛の事ではない。親友の愛斗もまた、月子に同じ目に遭わされる、という事だ。
この世界は、華藏月子の遊戯場に過ぎない。今、彼女は血を入れ替えて究極の力、不可侵の神性を得た。それはつまり、世界の循環構造をも超越するという事。
彼女は世界を弄び、自在に巡らせて楽しむ。永遠に、永遠に、世界そのものを巨大な玩具にしようとしている。その嗜虐性で世界の総てを捕らえ囲おうととしている。
嗚呼、駄目だ。
どう足搔いても親友は、この女の毒牙から逃れられない。
彼を逃がしたのも、一時の急場凌ぎに過ぎない。
真里愛斗は華藏月子に捕まり、弄ばれ、辱められ、壊される。――西邑にとって、それは漆黒の絶望に他ならなかった。
「あら、好い顔をするじゃない。」
月子は嬉しそうに声を弾ませる。曇る西邑の表情に、丸で御馳走を前にした様に舌舐め擦りをする。矢張り、華藏月子は人の苦痛が、悲哀が、絶望が大好物という稀代の悪女なのだ。その事実が西邑をより深い奈落の底へと沈めていく。深海よりも選り深く、そう深く、淵く、泓く……。
「糞……‼」
自分は最初から、愛斗を助ける事など出来なかった。――その事実が何よりも決定的な敗北として西邑に重く圧し掛かる。
月子はうっとりとした表情で、そんな西邑を具に観察していた。
何故、何故これ程に邪悪な女が、ここまで絶世と迷い無く謂える程に美しいのだ。この女に心底惚れ込んでしまった親友の気持ちが、痛絶極まり無い程に理解出来てしまうのだ。
『度が過ぎて美しい者は唯其だけで罪深いと等と云う風説は理解が出来ない。』
西邑は生前の自分が書いた小説の一節を思い返していた。
『悪意の無い美しさに惑わされる者は、唯々己の中の醜い本性を浮き彫りにされてしまっただけだ。』
『罪とは常に、醜さの中だけに存在する。』
『但し、見目麗しく心悍ましき者も又確かに存在する。』
それらは確かに嘗て華藏月子に、正確には憑子に向けたものだった。彼は親友の愛斗を惑わす彼女が許せなかったのだ。
しかし、正真正銘の華藏月子はそんな西邑の想像を遥かに超えていた。
「私は然う云う者をこそ真に恐れる……。」
西邑の脳髄、思考を華藏月子が埋め尽くしていく。
止めてくれ。丸で彼女に恋をしているかの様に、盲目になろうとしないでくれ。
私が今際に思い浮かべていたいのは……。――西邑は縋る様に念じる。眼を閉じ、必死に友の顔を思い出そうとする。
(駄目なのか……! 最早君の顔すらも思い出せないのか‼ それ程までに、この女に心を奪われてしまったのか‼ 何と言う……恥辱! 無念‼)
今や西邑に可能な月子への最期の抵抗は唯一つ、彼女へ呪詛を念じるのみである。それさえも、西邑の思考が完全に月子で埋め尽くされている事、逃れ様も無く屈服し、支配されている証左に他ならない。
助けてくれ、助けてくれ、誰か助けてくれ‼――死を受け容れる覚悟さえも揺らいでいる。その命乞いは誰に向けた物なのだろうか。事此処に至っては、一人しかいないだろう。最も憎むべき敵に、許しを請う事、その屈辱を余儀無くされている。
「い、嫌だ……‼」
そんな西邑の葛藤を具に見詰める月子の両眼が紅く煌めく。何という、吸い込まれそうな瞳なのだろう。
一層の事、吸い込まれてしまえば良いのだろうか。それで楽になれるのだろうか。動もすれば、それは幸せな最期ではないのか。拒む事など止めてしまえば良いのではないか。
だが、西邑は最後に残った一縷の抵抗を棄てられずにいた。必死に、絶望の闇の中に遺失してしまった小さな小さな光を探し求めていた。
月子の口角が下りた。西邑の観察に愉悦を感じられなくなったのだろうか。
それは西邑にとって一つの救いだった。或る意味、命乞いが通じたのかも知れなかった。
(嗚呼、何とか見付け出せた……。君への思いを……再びこの手に、心に点せた……。)
西邑が絶望の中で見出した小さな光、そこには愛斗の笑顔が光り輝いていた。
それを見付け、友への誠を思い出し、西邑は安らかな笑みを浮かべた。
(願わくは奇跡を……。真里、君の行く末に誠の幸在らんことを……。)
そしてそのまま、彼の身体は無数の赤黒い蜘蛛の子となって崩れ落ちる。
最後の最後、一瞬の隙を突く形で西邑はどうにか月子の齎した絶望に一矢報いることが出来た。
月子は何の感慨も残っていないといった様相で西邑の髪を掴んでいた手にそっと息を吹き掛けた。
☾☾☾
愛斗達は理事長室に退避していた。
理事長の大心原毎夜、『裏理事会』の竹之内灰丸と鹿目理恵は落胆と安堵の入り混じった表情を一様に浮かべている。
「驚くべき事態ですが……最悪は免れた。君達の全員が討ち死にするという最悪は……。」
竹之内は何ともばつが悪そうに口籠りながら辛うじて慰めの言葉を搾り出していた。敵を打ち滅ぼすという最高の結果は勿論の事、西邑を連れ帰るという最低限の目的すら果たせず、剰え更なる危機を呼び込んだのだから、「最悪ではない」と言うのが精一杯だろう。
古文書に残されていた『青血の至高神』の存在を華藏月子が知っており、その力を我が物とした事はショックが大きい。
「莫迦々々しい与太話などではなかった、と……。」
「第一合宿所に保管されていた筈の青い血が見付からなかったのは、既に持ち出された後だったからとは……。これは、一生の不覚でしたな……。」
やっとの思いで逃げて来た愛斗達を責める者はこの場に誰も居なかった。
この事態、強いて言えば竹之内翁が嫌な胸騒ぎを覚えていたくらいで、殆ど想定外だったと言って良い。当初の標的だった『學園の悪魔』は打ち斃せているのだ。唯、敵の邪悪さが余りにも埒外だった。逃げられただけでも奇跡だろう。
尤も、此処とて決して安全ではない。
『最早、學園は放棄するしかないかも知れないわね……。』
「そんな……‼」
悲しげな声を搾り出したのは、誰よりも華藏學園を愛する戸井宝乃だった。
「しかし、それでは祠の力の制御を失ってしまう……。日に何時間かは理事長たる私が留まらなければ、結界が破れてしまうのです。」
『大心原理事長、最早これは祠云々の問題ではないわ。事はもう學園だけで対処出来る次元を超えている。』
「そうは言っても、我々に国家機関への伝手など有りませんよ?」
憑子と大心原の議論にも、愛斗は上の空だった。
『一寸真里君、好い加減に切り変えなさい。然もないと、君だって唯では済まないのよ?』
憑子は苛立ちから声を荒げた。だが、この言葉が触れてはならない傷に触れてしまった。
「解ってますよ……。でも、解ってますけど、貴女にそんな事言われたくもないんですよ。」
『何?』
「前々から思っていました。今更言っても仕様が無いとも。でも、流石に僕の気持ちを蔑ろにし過ぎじゃないですか? 貴女って、何時もそうですよね?」
溜まりに溜まった鬱憤を晴らす様に、愛斗の不満が堰を切った様に溢れて来る。
「貴女はずっと僕の事を道具扱いしてきた……。否、僕だけだったら良かった。でも、貴女は西邑の事も利用してきた訳だ。この分じゃ、他の人間の事だってそうじゃないんですか? もっと言うと、これは貴女に言う事じゃないかも知れないですけど、僕は貴女を華藏月子先輩だと信じていたんですよ。だから、大恩が有ったから、理不尽にも耐えてきた。でも貴女は華藏月子先輩じゃなかったし、その先輩もあんな人だった。貴女達は姉妹で僕の事を騙していたじゃないですか。貴女に関しては今更ですけど、それでも少しは配慮してくれないんですかね? 僕は貴女の召使でも、況してや道具でもないんですよ?」
何時に無く饒舌な愛斗に、誰もが呆気に取られて黙り込んでいた。彼は溜息を吐き、続ける。
「ごめんなさい……。でも、今は少し心を整理する時間が欲しいです。じゃないと、色んな思考がこんがらがって頭が変になりそうだ。」
理事長室の空気は一気に重さを増した。淀んだ何かがその場を包み込んでいる様だった。
一先ず、夜遅い事もあってこの場は解散となった。
急転した事態に、今後の方針が全く見えない。
更に、この土壇場で愛斗は他者と分厚い壁を作ってしまった。今までのどんな靄よりも、闇よりも、この夜を包み込む蟠りの暗雲はどす黒い。




