第五十八話 貴神の血
こう申せばお前も分るだろう、悪徳こそわれわれ人間に固有のもの、つねに自然の第一法則なのであって、それに比べればどんな立派な美徳だって利己主義的なものでしかなく、分析してみれば実は美徳そのものが悪徳なのだということが。
――マルキ・ド・サド『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』より
夜の理事長室、三人の人物が落ち着かない様子で夫々の時を過ごしていた。
執務机に着いて両の手指を弄んでいるのは華藏學園理事長・大心原毎夜。彼女の身に何かあれば、華藏家は華藏學園のコントロールを失う事になり、それは即ち祠の力と悪魔の暴走を誰にも止められなくなるという事を意味する。それ故、彼女の守りもまた非常に重要であり、この最終的な局面にあって、裏理事会は護衛に二人を駆り出していた。
一人はリーダー格で、最も祠について多くの知見を持つ竹之内灰丸、もう一人は負傷により一線を離脱している鹿目理恵である。
「何やら……胸騒ぎが止まりませんな……。」
竹之内は竹之内で、長机に向かい一冊の古文書を拡げていた。それは真里愛斗らに見せた物よりも薄く、内容も乏しそうである。
「嵐様達、大丈夫でしょうか……。」
鹿目理恵は体の彼方此方に包帯を巻かれている痛々しい姿で視線を右往左往させ、仁観嵐十郎の身を案じている。
二人とも本来の護衛対象から離れており、彼等は今敵地に居る筈だ。今の所理事長室に敵襲は無いが、手透きの時間が却って不安を膨張させている。
「御二人とも、今回の作戦は望み薄だとお考えですか?」
「んー、そう言う訳ではないのですが……。」
大心原の問いに、竹之内は頭を掻いて何とも歯切れの悪い答えを返す。
「まあ、『新月の御嬢様』はこの機に敵を討ち果たしてしまうおつもりの様ですが、目的は飽くまで西邑君を帰還させる事ですからな。となれば、特に深追いする必要は無く、危なくなれば撤退すれば済む事です。」
そう、その点は竹之内の見解通りである。その要点さえ理解していれば、愛斗達にとって重要なのは退路を維持する事であり、その役割は娘の竹之内文乃が十分果たしてくれるだろう。
最悪は、逃げれば良い。――竹之内も鹿目も、そして大心原もそれを決して楽天的な展望とは思っていなかった。
だが、どうにも嫌な予感がする。
竹之内は、愛斗に見せた物と比べ普段触れる事が少ない別冊を読み耽っている。それは彼なりの不安の表れなのだろう。
「竹之内先生、その別冊の話は余りされませんが、一体何が書かれているんですか?」
ふと、包帯の隙間から薄い古文書が目に入った鹿目が竹之内に問い掛けた。
「ふむ、此方は皆さんが知るよりも更に荒唐無稽な内容の物です。」
竹之内は中身を隠す様に古文書を閉じた。
「概ね、こういう事です。祠の中に安置されている蜘蛛型の造形物、嘗てそれは一つの巨大な蜘蛛の怪物、禍津神だった、と。それが、初代神武天皇の東征神話に於いて服わぬ者達として立ち塞がった勢力を『土蜘蛛』と呼ぶ由来なのだと。」
「それじゃあ、あの祠はその禍津神を祀る物だと?」
「その通りです。しかし、その巨大な蜘蛛を砕いた神も又坐し、それは日本神話に於ける神々の二系統、即ち天照大神から天皇家へ繋がる天から下った天津神、若しくは地上に顕れ信仰を集めていた国津神の何れとも異なる、全く別個の畏るべき神である、と……。」
「そんなの、本当に居るんですか?」
「伝承にも全く存在しません。故に、荒唐無稽なのです。祖父の夢想癖にも困ったものです……。」
深い深い溜息が竹之内の口から洩れた。この男、今この様な事に関わっているのは全て祖父の斧丸が余計な文書を遺した為である。いや、全てが嘘八百であれば良かった。一部が事実で、現に大きな厄災を齎しているからこそ、彼は祖父のあらゆる荒唐無稽な与太話を切り捨てられないでいるのだ。
「それはどの様な神なのです?」
「平たく言えば、天地開闢その始まりに顕れし神である天御中主神、高皇產靈神、神皇產靈神にも匹敵する、強大な力を持った存在であると。これら三柱を造化の神々と呼ぶのですが、書物によってはこれら造化三神とは別に津速產靈神という神が記されていることもある。又、それと同じ様に、この世界の根源に匹敵する神が他にも坐し、それが祠の祭神である巨大蜘蛛の禍津神を打ち破ったのだと……。」
口では莫迦莫迦しいと言わん許りの竹之内であるが、手にはその莫迦莫迦しい記述を含む古文書が強く握られている。
「逆に言えば、祠の力はそれだけの存在に対抗し得た恐るべき物だという事ですね。」
「という事になってしまいます。そんな訳で、華藏家はこの強大な神についても研究を続けてきました。私を中心としてね。そんな中、ある信じ難い疑惑が分かったのです。」
「信じ難い疑惑?」
突如、風が窓を激しく叩いた。それはまるで、夜の空が何かを畏れているかの様だった。
「血液です。その神の物とされる或る特徴的な血液が、華藏學園の敷地内に建てられた或る場所に悠久の時を越えて眠っている疑惑が生じたのです。古びたその建物の埃に塗れた畳を裏返すと、そこから地下への入口が延びているのを御存じですか?」
古びた建物。――そのキーワードに、大心原の眉が僅かに動いた。
「第一合宿所……ですか? 確かあれも中々取り壊せなかった物ですが……。」
「この件は私と聖護院先生、そして華藏家の直系しか知り得ない事です。今まで野良り冥りと解体を待たせ、密かに調査してきました。そしてその結果……。」
大心原と鹿目は固唾を飲んで竹之内の言葉を待った。
「その結果……?」
「そんな物の形跡は全く無い、という事がはっきりしました。」
「何ですか、その肩透かしは……。」
思わず、大心原も鹿目もずるりと体勢を崩した。だが、確かに第一合宿所は近く解体の予定が在る様な事を憑子が言っていた。既に用済みだった、という事だろう。
竹之内は再び溜息を吐き、古文書の表紙を撫でた。
「その神、青き血の神也。唯一無二にして絶対なる強者、空前絶後の大破壊を齎す者也。『青血の至高神』か……。」
三人にとって、それはどうでも良い与太話に過ぎなかった。
愛斗達が戦いの中で何者に対峙しているか、三人は今知る由も無い。それは唯、夜が世界を沈める漆黒の闇だけが知っていた……。
☾☾☾
一つ屋根の下、五人の男が夫々に殺気立つ中で、一人の女が自らの裸体を誇示する様に佇んでいた。蠱惑的な微笑みを湛える彼女は、完璧な均整と調和の取れた肢体を一歩、又一歩と男達の許へと歩み寄せる。その様子には少しの恐怖感も違和感も伴っていない。
いつの間にか、首の後ろから溢れていた青い液体の流れが止まっていた。宛ら血が凝固する様に、黝い筋が彼女の優美な肉体に記されている。
「おはようございます。」
鐵自由は己の為人に見合わず、そんな彼女の背中に一礼した。その所作には混じり気の無い完全な忠誠が見て取れる。――これも鐵らしくない。
「おはよう、鐵君。それと真里君、仁観君、西邑君。聖護院先生も、おはようございます。」
華藏月子の唇と舌が動き、喉の奥、肺から吐き出された何気ない挨拶の言葉が、当にその肉声で紡がれた。今迄、あの生徒會合宿、惨劇の夜の後も、何度も憑子の、『學園の悪魔』の意思を伝え聞いたその声は、この瞬間に真の主を得ていた。譬えるならそれは、普段音源でしか聴いたことない歌手の生の歌声の様な、同じ様で全く別物の、真に迫る生きた聲だった。
「會長……。」
『真里君、悪いけれど一寸話し掛けないでくれる? 今、最悪の気分なのよ……。』
憑子の言い分が無体なのは今に始まった事ではないが、愛斗はこの時、彼女の気持ちが良く理解出来てしまっていた。
華藏月子の声は危うい。奇妙な妖しい安らぎが暴力的なまでに全身を包み込んでくる。
それは余りにも混じり気の無い、透明その物の聲だった。そこには丸で異物感が無い。
一切の他者が彼女の中に感じられない、紛れも無い本人その物、といった様相を今の華藏月子は全身に纏っている。
愛斗はこの感覚を知っていた。
一度だけ、あの惨劇の夜に華藏月子から感じたあの何処までも陶酔させる気持ち、心地良さ。それは彼女が聖護院嘉久を殴り倒した後、人が変わったあの瞬間とそっくりの雰囲気だった。
「貴女は……まさか……。」
信じられない、という思いで愛斗は呟いた。
否、何も一言も言われていないのだから、信じるも信じないも無い筈なのだが、一つの受け容れ難い事実に愛斗は到達させられていた。
「まさかも何も、私は私以外の何者でもないわよ、真里君? この体はずっと私だけのもの……。」
彼女は愛おしそうに自らの身体を両手で撫でる。美の化身とも言える体の、何とも官能に溢れた所作だった。
「何処から話そうかしらね……。先ず、妹に労いの言葉を掛けようかしら?」
その言葉に白い靄の憑子は眉を顰めた。それは屈辱混じりの不快感に塗れた表情だった。
今、相手は憑子を「妹」と呼んだ。その意味する所はもう語る迄も無いだろう。
「今迄、私が作り出した苟且の仇敵を相手に無駄な殺意と努力を向けてくれて、本当に御苦労様、とでも言えばもう解るでしょう。」
華藏月子の右手が胸元に宛がわれる。
「皆さんが打ち斃そうと必死になっていた『學園の悪魔』とは元々私の心を一部分離した存在。全てはこの私、華藏月子の掌の上だったという事よ。」
『御姉様、貴女が……!』
「そう、私。全部、私……。」
月子は然も愉快といった様子でこの場の全員に嘲笑を向けた。
「大体、皆莫迦みたいに祠、祠、と狂奔していたけれど、所詮は華藏學園が再発見するまで誰にも見向きもされなかった小物じゃない。この私がそんなもので満足する筈が無いでしょう。必ず、表に出て来られなかった理由が在る筈。それを突き止め、その力こそを得る事が私の目的だった。祠も、悪魔とやらも、『闇の逝徒會』も、全ては私の準備が整う迄の時間稼ぎよ。ま、私の分身は本気で自分が黒幕だと思っていた様だけれどね。」
無防備に、何の警戒も無く歩み寄って来る月子の存在感に誰もが気圧されていた。そこに居るのは紛れも無い、純然にして正真正銘の華藏月子である。しかし、一つだけ異常が有った。
「長く取り壊されなかった第一合宿所、その地下には究極の血が安置されていた……。祠に対抗する研究の為に學園が保管していたのだけれど、私は華藏家の当主であり、その秘密を知っていたのよ。だから私は、自らの血をこの青い血に入れ替える為に、一計を案じたの。『學園の悪魔』という存在を捏ち上げ、祠の力の脅威を喧伝し、然もそれによる世界転覆の計画が蠢いていると思わせ、全ての警戒を其方に向けた。その裏で、私は悠々と血液の交換を行っていた、という訳よ。『學園の悪魔』には孰れ自分がこの体を手に入れるのだと思い込ませ、計画が万が一にも漏れぬように言い含めておいた……。」
ふ、と月子の姿が消えた。彼女は一瞬にして仁観嵐十郎の目前まで移動していた。
驚いた仁観は、咄嗟に両腕を顔の前に出して防御の構えを取ったが、憑子はその両手を片手で掴んだ。
「ぐあッ⁉」
「今、大願は成就した。最早誰も、私に逆らう事など出来はしない。全ては私の意の儘に。誰もが私を畏れ、敬い、愛し、求め、そして永遠の絶望に平伏す事になる。この様に……。」
仁観は、あの仁観が膝を屈している。両手を片手で、涼しげな表情を一切崩さずに捻じ伏せられている。
「この……!」
仁観の両手が白く光った。闇と戦う為、溢れん許りの才覚で身に着けた光の力を以て月子の圧に対抗しようとする。だが、それは何の効果も無かった。事も無げに、白い光もまた捻じ伏せられる様に仁観の腕の中へ押し戻されていった。
仁観は遂に跪いた。それは当に、絶対的な存在に対して許しを請う様に追い縋っているかの様な姿だった。
「ふふふ。光だ闇だと、莫迦莫迦しい。私が求めたのはそんな領域の力ではない。唯、絶対的な強さ。森羅万象、汎ゆる理をただただ捻じ伏せる、神聖不可侵の不変性。」
そう言うと、月子は無造作に腕を振るい、仁観の身体を放り投げた。彼は丸で犯し棄てられた女生徒の様に鐵の足下に転がされた。
「好きになさい、鐵君。此処まで能く尽くしてくれた御褒美よ。」
鐵の瞳に歓喜の焔が点った。彼が仁観に与えられた屈辱は枚挙に暇が無く、今当にそれを気兼ねなく晴らすことが出来るのだ。
そんな風に、配下に対して施しをする悪の大器を見せ付ける月子に、愛斗は堪らず叫んだ。
「嘘だ‼ 貴女が……貴女があの華藏月子先輩な訳が無い‼ 今迄の悪魔が分身、そこまでは解る! でも……でも貴女は、華藏月子先輩じゃない‼ あの時僕を救ってくれた、華藏先輩の訳が無いんだ‼」
愛斗は悲痛に叫ぶしかなかった。
それを聞き、月子は鈴を転がすような声で、それでいてぞっとするような悍ましい高笑いを上げた。丸でこの世の嘲りの全てが合唱している様な高笑いだった。
「堪らないわねえ、真里君! 涙で潤んだ君の瞳は丸で宝石の様! 一層取り出して部屋に飾っておきたいくらいだわ‼」
愛斗は不思議な感覚に包まれた。
自らの純情を踏み躙る、途轍もない侮辱を受けた事は間違い無い。だがそれが、恐ろしく甘美に思えた。求められているのなら、一層自ら眼球を穿り出してしまえば良いだろうか。そうすれば、これ以上受け容れ難い現実を観ずに済む。
『駄目よ、真里君‼ 気を確り持ちなさい‼』
憑子の制止も虚しく、愛斗は震える両手を顔の前に持って来ていた。華藏月子の聲には、他人を支配する甘美な絶望の響きが有るのだ。
最早誰もが、狂気に駆られて進んで月子の為に奉仕しようとするだろう。
物理的に月子から引き剥がされない限りは。――そう真先に決断したのは必然、この男だった。
「真里君、私なんかの為に、本当に済まなかった。」
西邑龍太郎は小さく呟いた。瞬間、愛斗は紫の靄に包まれる。
「な⁉ これは⁉」
「祠の力……。華藏月子は侮っているが、使い様に依っては誰かを守る事も出来る……。」
靄に包まれているのは愛斗だけではない。鐵の足下で踏み付けられている仁観、そして震えている聖護院もまた愛斗と同じ様に紫の靄を纏っていた。
「君に出会えて、本当に良かった。今度こそ本当に、さらばだ。」
「に、西邑⁉」
流石の愛斗も察した。西邑は又も勝手な事をして、愛斗達だけでもこの場から逃がそうとしている。
愛斗達は抗議の声を上げる間も無く、その場から姿を消した。配管だらけの『闇の靈殿』には華藏月子とその配下の鐵自由、そして裏切り者の西邑龍太郎だけが残される事になった。




