第五十七話 闇の靈殿
己に与えられた天命を、己の中の神性を信ずる事、大願を為すに必要な心構えである。
――聖護院宮稔久王
西邑龍太郎の戦略、勝利への見通しは、実は有って無い様なものだった。
抑も、祠に宿る闇の力こと『穢詛禁呪』は、与えられる側より与える側の方が絶対的に優位なのだ。『學園の悪魔』は自らの眷属に対し、自在に苦痛を与えるなど肉体を恣にする事が出来る。
西邑は生前の調査で例の紛い物の古文書に辿り着き、そこから絶望的なエピソードを知っていた。曰く、嘗て自分の他に四人の人物へと闇の力を与え、旧文明の歴史を裏から動かそうとした一人の女が居たが、彼女は自らの眷属を意の儘に、一瞬にして、不可抗の因果にて、延命そして絶命せしめたのだと。
即ち、西邑に出来る事は余りにも限られていた。ただ彼は、聖護院嘉久を悪魔の支配から解放しようとしただけだ。その後は、この教師がどうにかしてくれると期待する。若し今勝てなくとも、最悪彼をこの配管だらけの空間から逃がす事が出来れば、必ず真里愛斗達『光の逝徒會』の大きな力となるだろう。
彼にとって誤算だったのは、その愛斗が当にこの場に現れた事だ。彼が御節介を焼く事は分かっていた。だが、それが可能だとは夢にも思っていなかったし、万が一の可能性を摘む為に態々何時間も電車に乗って遠方に迂回までしたのだ。
「君は……君は何処まで私を……!」
想定を超えられた驚愕、思惑を凌駕された挫折、又しても自分の心を理解されなかった怒り、そして情を向けた事の間違い無さを証明された歓喜が西邑の中に代わる代わる去来していた。
この小柄な親友は、いつも身の丈に似合わぬ無茶をする。西邑はそんな愛斗をこそ護りたかった。だが、矢張り友は大人しく護られてなどくれないのだ。
「勝手なんだよ、お前はいつもいつも……!」
愛斗の批難さえも、西邑にとっては何処か心地良く、危険な安堵へと溺れさせようとする。
そう、此処で感傷に浸っている余裕等は無い。敵地であり、そして相手はその親玉であり、最も凶悪な力を持っているのだ。その能力は、先日大惨事を引き起こした鐵自由の比ではないだろう。
「人のプライベートに土足で踏み込むなんて、躾がなってないわね、畸形嚢腫……。」
砂社日和の肉体を乗っ取った『學園の悪魔』は、肉体の声で侵入者達への皮肉を垂れる。
だが、余裕な態度とは裏腹に悪魔もまた追い詰められていた。聖護院から切り離され、苦し紛れに砂社を切り捨てて次の依り代にしたは良いが、弱体化は避けられないだろう。それだけ、聖護院の力は大きかった。
『他人の大事な友人を散々弄んでおいて、よくそんな偉そうな事が言えるわね。まあ、お前の命運も今日此処までよ。十六日、たったそれだけ寿命が延びただけだけれど、それでも長く生き過ぎたと言うに充分な事をしてくれたしね。』
憑子は強気だった。西邑とは対照的に、彼女には充分な勝算が有った。
西邑の活躍で、聖護院という大きな戦力が此方側に戻って来ている。又、時間が経てば更なる戦力が追加で送り込まれて来る。
黒い思惑を言ってしまえば、西邑が自分の立場、秘密の隠蔽を維持し切れないというのは見越していた。その上で憑子は西邑に協力を仰ぎ、表向き二重スパイに成れる立場で愛斗を陰ながら助けるという役を提案したのだ。
西邑の愛斗への友情は信頼に値するし、若くして文学賞を獲れる優秀な頭脳の持ち主だ。若し事が露見すれば、責任として我が身を顧みず最大限の成果を出せるように動くだろう。
全てはこの状況を作り上げる為の、壮大な布石だった。
「舐められたものね……。その思い上がり、正してあげましょう……‼」
砂社の恐ろしげな声と共に、彼女の身体から紫の靄が大量に勢い良く噴き出した。配管が張り巡らされた部屋は一瞬にして闇に包まれる。
危険な状態だ。先日、鐵はこうやって紫の闇で他人の体を包み、意の儘に操った挙句自爆させるという凶行に及んだ。即ち、この部屋全ての人間の生殺与奪権は今、『學園の悪魔』に握られているという事だ。
「これは……‼」
『落ち着きなさい。こうなった場合、どうするか習ったでしょう?』
「は、はい‼」
愛斗は靄の中で目を閉じ、意識を集中していた。少しの間の後、彼の小さな体は白い光に包まれ、紫の靄を一気に弾き飛ばした。
いや、正確には愛斗の体の一部が白い靄となり、紫の靄を押し返して消し飛ばしたのだ。それは憑子が鐵の闇に対してやった事と似ていた。
「それがどうしたの?」
悪魔を宿した砂社の表情は欠片も変わらず、闇が晴れた瞬間には愛斗の眼前に立っていた。靄となって姿を顕した憑子を彷彿とさせる優雅且つ力強い動きで闇を纏った掌底を振るう。
『躱しなさい、真里君‼』
憑子に言われる迄も無く、愛斗は必至に身を捩って敵の連続攻撃を回避し続ける。先程愛斗が闇を祓った様に、靄の力も直接的な攻撃の方がより密度は高く、殺傷力も有る。愛斗は感覚的に、先程の遠隔攻撃の対応から直接攻撃は受けるのも駄目だと察知していた。
「くうぅっ……‼」
目にも留まらぬ悪魔の攻撃に、愛斗は防戦一方になっていた。未だ戦いに到底慣れない、精々が鐵戦くらいしか実戦経験の無い愛斗にとって、この実戦は流石に荷が重かったのだ。
だが、この場には愛斗のピンチを容認しない男が居る。
「真里‼」
西邑が砂社の脇から彼女へ飛び掛かった。彼女はこれに対応出来ず、体当たりでよろめいて体勢を崩す。逆に愛斗はこの隙に立て直すことが出来た。
しかし、それは逆に別の危機を齎していた。
「私の眷属の分際で、出しゃばるんじゃないわよ……!」
西邑は果敢に飛び込んでしまったのだ。相手には自分を何時でも殺せる力が有るというのに。
愛斗としては放って置けない。危険を承知で、今度は愛斗が西邑を助けに入らなければならなかった。
それこそが敵の狙い。砂社は待ってましたと言わん許りに、飛び掛かって来る愛斗に靄を纏った掌底を合わせようとする。
これは躱せない、万事休す。――誰もが、愛斗自身もそう思った、その時だった。
「危ねえぞ、愛斗君‼」
愛斗の身体は細く力強い腕に弾き飛ばされ、間一髪の所で砂社の攻撃から逃れることが出来た。声の主、助けられた相手は明らかだ。
「あら、仁観君じゃない。男女の間に割って入るだなんて、貴方も無粋になったものね……。」
砂社の腕を掴んでいたのは仁観嵐十郎だった。思っていたよりもずっと早く、竹之内文乃が追加戦力を送り込んで来たのだ。戦局は益々愛斗達にとって有利なものとなる。
愛斗、西邑、仁観、聖護院が砂社を四方から取り囲んでいる。男四人が女一人を袋にしている様で酷い絵面だが、邪悪な気を纏っているのは砂社の方だ。
『油断しては駄目よ、真里君。』
「解っていますよ。」
「こうなってしまったからには、皆の無事にこの身を砕くしかあるまいな……。」
「俺は女を殴る趣味なんて無いんだが、女が暴力を振るうんなら止めさせて貰うし、襲われてる方に手を貸すぜ。」
「今の私が何処まで役に立てるか分からんが、全力を尽くそう。」
砂社は口を固く閉じたまま眼球と首を動かし、四人へと交互に視線を移す。表情が険しいという事は、状況の難しさは充分に察しているのだろう。
「難儀ね……ふふふ、どうしてくれようかしら……?」
彼女の口元が緩んだ。どうやら、戦いの進め方の絵は描けたらしい。両目と口がそれぞれ三日月形に歪み、紅い光を妖しく宿す。
「人は嘗て、得体の知れぬ神秘を畏れ、敬い、そして遠ざけた……。時と共に知恵を着けた人類は軈て己が知を過信し、全てを解明し、支配出来ると思い上がり、自分から近付く愚を犯し始めた……。近く、思い出す事でしょう。人智を超えたものを前にすると、他人は唯許しを乞い平伏す他無いと。禁じられた領域へと、不用意に足を踏み入れるべきではないと!」
砂社の髪と衣服の端が逆立つ。その姿は如何にも恐ろし気で、何か良からぬ手を打たんとしているのを誇示していた。
「此処は闇の靈殿! 禁域の最果て、祠の神秘を解き明かした中核‼ 貴方達の想像を絶する恐怖が眠る、悪の祭壇よ! 阿鼻叫喚地獄の火に飛び入った蟲は、果たして如何程長く苦痛と絶望に焼かれるのか! 劫火の中、精々激しく後悔し続けるが良いわ‼」
愛斗達、四人は直感していた。如何に表面上有利とはいえ、敵の力は矢張り絶大であると。決着を付けるならば早期に勝負を懸けるのが望ましいと。
「仁観君、よく聴きなさい。」
聖護院が砂社の背後から、向かいの仁観に語り掛ける。
「今の君が戦う力を身に着けている事は『闇の眷属』からの情報で知っている。しかし、未だ悪魔を斃すには程遠い。一方で私も、今の状態では無理だ。希望は真里君しか居ない。」
「おいおい、俺にどうしろって言うんだ?」
「それは私自らがこれから示す。君を信じ、唯それだけで意図を理解してくれると期待しよう。」
「無茶言うぜ……。」
言葉とは裏腹に、仁観は不敵な笑みを浮かべている。彼はこれまで、一度として最初から不可能とやりもせずに諦めた事は無い。そして、無理難題を幾つも越えて来た果てに現在の成功がある。不可能に近ければ近い程燃える男、それが仁観嵐十郎である。
「行くぞッ‼」
その自身に鼓舞されてか、聖護院は残った力を振り絞る様に砂社へと向かって行った。
「言葉と行動が彼辺此辺ですね、聖護院先生。」
砂社は紫の靄を纏った腕を聖護院に向けて振るい、迎撃しようとする。しかし、彼は急旋回した。最初から目的は砂社への攻撃ではなかったのだ。
「真里君‼」
聖護院は愛斗の腕を強く掴んだ。そして、繋いだ手に白い光を放つ靄を宿し、それを愛斗の方へ移動させていく。
仁観が反対側の腕を掴むまで、一秒の間も無かった。彼は聖護院の目指す相手が愛斗だと察した瞬間に同じ様に動いたのだ。当に喧嘩、実戦に於ける天性の勘が冴え渡っていた。
「聖護院先生、仁観先輩⁉」
「先述の通り唯一の希望は君だ、真里君! 君は『新月の御嬢様』と同化していた身! 同じく同化していた『學園の悪魔』に対して高い適性が有る‼ そんな君の力に、私達の力を上乗せする! 本来二つに分かれていた力を、君と一つに合成するんだ‼」
愛斗は自らの中に力が溢れるのを感じていた。今までに無く自分が何かを為せそうと予感していた。
逆に、砂社側は脅威に感じたのか、慌てた様子で愛斗に襲い掛かって来た。
『真里君、私の分も受け取りなさい。全力を以て、悪魔を叩き潰すのよ‼』
体を白く輝かせ、愛斗は構えた。向かってくる砂社に対し、何かに導かれる様に手を伸ばした。
触れるか触れないかの所で、愛斗の手から白い光が紫の闇と衝突して、爆ぜた。耳を劈く様な炸裂音が鳴り響き、砂社の身体は錐揉み回転しながら弾き飛ばされ、天井に激突して落下した。天井の配管に罅が入り、そこから青い液体が染み出す。
「やった……のか?」
砂社の身体はぴくりとも動かない。聖護院が彼女に近付き、体を触って何かを確かめる。
「砂社さんの中に……闇の力は一切残されていない。即ち、悪魔は祓われた!」
勝利宣言だった。
遂にやった、やり遂げた。悪魔は討伐された。――憑子を含めた五人は全員がそう安堵した。取り分け愛斗には達成感が有った。
だが徐に一人の男が起き上がる。初端に西邑の手で挫かれた鐵自由が、下卑た笑みを浮かべて復帰しようとしていた。
「祓われただと……? てめえら、何にも解っちゃいねえな……!」
意味深に嘲笑う鐵の様子とは裏腹に、砂社の身体は小さな赤黒い蜘蛛の子の塊となって散っていき、消滅した。明らかに、彼女は力を失ったのだ。
だが、辺りは依然として不穏な空気に包まれていた。いや、動もすればその重苦しさは寧ろ増しているかも知れない。
「僕達が何を解っていないんだ、鐵?」
「ククク、直ぐに判る事だが教えてやるよ。お前等、祠の力がどういう物か忘れたのか、今まで散々、二つが一つ、一つが二つになる様を見せられておいて、敵が一つの儘だと信じて疑わなかったのか?」
どういう事だ、と愛斗達が訊く前に、部屋の中心に安置されていた棺の様な箱の上蓋が吹き飛んだ。浴槽から溢れる様に、赤と青の液体がどろりと床へ伝い、混ざって紫に染まっていく。
「今までお前等が相手にしていたのは、御主人様が己を二つに分けた片割れ、その極一部の存在に過ぎない。まさか、世界を征圧しようという御主人様が、あの程度だとでも思ったのか?」
鐵の言葉が愛斗達に一々緊張を齎し、煽り立てる。だがそれは決して大袈裟な物ではない。愛斗達は未だ見ぬ棺の中に、嘗て無い凄まじい冷徹な重圧を感じていた。
赤と青の液体が更に溢れる。海の水面から鯨が姿を現す様に、何かが棺の中から上がって来る。
それは芸術的な女の裸体だった。
棺の中央、何本かの太い配管を背に縫い付けられた一糸纏わぬ少女が立っている。
生気の全く無い、完璧な美少女の肖像がその肢体の隆線を堂々と誇示するかの様に、鮮血に濡れて佇んでいる。
まるで大昔の聖人の様に、何とも見事な肉体の美を見せ付ける様に。
爪先まですらりと伸びた細く長い脚線が、小さく程よい肉付きで確りと存在感を誇示する秘部と臀部が、緩み無く締まる事で体線の凹凸を引き立てる腰部が、既に聖母の様に蕾から花開いた大きな二つの乳房が、くっきりと、綺麗に両胸から肩を支えるべく際立った鎖骨が、脚同様指先まで細く長く拡げられた両腕が、完璧な身体の上に完璧な美貌を支えている細い首が、絶対的な言葉を甘く囁いた桜色の唇が、小さくも確りと筋立った鼻が、長い睫毛を蓄えた切れ長の目が、細く整った眉が、そして長く艶めいた黒髪がまるで理想の少女を模った彫刻の様に闇に微笑んでいた。
彼女は美麗を絵に描いた様な白い脚を優雅に曲げ伸ばし、湯浴みから上がる様に棺の外へと出て来た。
背中に縫われていた配管が引き千切られ、彼女の身体から血の様な液体が噴き出す。
紅い血を纏い、青い血を流す華藏月子の神聖さを帯びた肢体が、完全にこの『闇の靈殿』の空気を支配していた。




