第五十六話 生、死、瞬間
船は新造の乗り心サヨイヨエ、君とわれとは図に乗つた乗つて来た。しつとん、しつとん、しつとんとん。
――近松門左衛門『女殺油地獄』より。
期しくも、『闇の逝徒會』は今、攻めるには絶好の状態だった。
二人の眷属、砂社日和と鐵自由は先の『裏理事会』に対する敗戦とそれに伴う失態の仕置により、大きく力が減じており、現在恢復を図っている。
そして親玉の『學園の悪魔』の方も、此方は此方で取り憑いている聖護院嘉久から肉体の主導権を奪うのに手間取っており、真面に動けない。
こういう時を見越して、悪魔は砂社に対して西邑龍太郎と接触しておくように指示していた。今、悪魔が動かせるのは西邑だけなのである。
だが、彼は真里愛斗への友情を超えた生前の思いから『光の逝徒會』の陣営に与している二重スパイである。闇の眷属でありながらそういう立場を取る彼は想定外であり、『闇の逝徒會』は完全に手詰まりとなっていた。
『砂社さん、西邑君には何と言ってあるの?』
闇の中、苦悶の表情を浮かべる聖護院の体から噴き出た紫の靄が女性の姿を模り、下弦の月にも似た口を歪ませて草臥れている砂社に問い掛ける。
「近く連絡する、その時から本格的にスパイとして活動して貰う、とだけ……。」
『つまり、現状未だ彼は動く理由が無いという事ね……。私としてはスパイ活動と言わず今直ぐにでも働いて貰いたいのだけれど……。』
砂社の隣では、鐵が怪訝そうな表情を浮かべている。自らに力を与えた主の口調が普段と違う、それが不可解な様子だった。一方、砂社の方は特に気にする様子は無い。彼女の方は織り込み済みなのだろうか。
「それが、どうも西邑君の方から此方に接触したい様で……。」
『何?』
砂社は紫の靄にスマートフォンの画面を見せた。そこには確かに、西邑からのメッセージが入っていた。
靄は暫く考え込むように黙った。薄い紐状で聖護院の体と繋がったまま、暗い部屋を徘徊している。聖護院は今や虚ろな目で俯いたまま一言も発しない。
靄は棺の上まで移動し、硝子の向こう、一糸纏わぬ肢体を晒し眠った様に死んでいる華藏月子の躯を見下ろした。
『彼が自ら積極的に動く気になったのなら心強いわね……。』
意味深な悪魔の言葉に、砂社のただでさえ青白い顔色が更に土塊の様な色に変わっていく。赤ではなく紫色の血液が循環する死体が、生きた人間と同じように血の気が引くと、この様な顔色になるのだろう。それは、砂社が若しかすると更なる失態を演じたかも知れず、また仕置きを食らう事を恐れたからに他ならない。
『それで、どう返したの?』
砂社の体が吃驚と跳ねた。悪魔の質問は、丸で彼女の恐怖を見抜いているかの様だった。こうなってはもう隠し通せない。目上の人間の質問に答えない、というのは到底許されない不徳だからだ。
「私も……心強いと思いまして……此処へ来て合流する様に、と……。」
『それはおかしな話ね。如何に貴女の失態で此処へは祠を利用して入室する事は筒抜けになっても、解析が済まなければ自力では来られない筈。入り方を知っている私や貴女たち眷属ならいざ知らず、ね。つまりその指示を出す為には、方法を彼に伝えなくてはならない。私は許可した覚えが無いのだけれど?』
紫の靄が再び聖護院の体の近くに移動し、砂社へ圧を掛ける様に彼女に頭の部分を近づけた。彼女の顔は完全に恐怖に染まっている。
だが、その恐れは一先ず実現しなかった。
『まあ、結果が良ければ問題ないわね。取り敢えず、彼が来るのを待ちましょうか。』
砂社はほっと胸を撫で下ろした。悪魔が与える苦痛は想像を絶する。一度味わえば、誰もが二度と御免だと思うだろう。強靱な精神力を持つ聖護院は何度も耐えたが、それでも今や抗う気力を完全に失っている様子だ。
『今はまだ、この男は肉体の主導権という最後の一線だけ辛うじて守っている。絶命させればそれも終わりだけれど、思いの外骨が折れる。あの裏理事会の男も、中々厄介な置土産を遺してくれたものだわ……。』
恨めしげな言葉を漏らす靄は、当に悪魔の様な表情を模っていた。それは丁度、あの始まりの惨劇の夜に愛斗へ取り憑いた白い靄が見せていたのとよく似ていた。
☾☾☾
日が落ち掛けている。
愛斗達は華藏學園の立入禁止区域、祠の前へ集まっていた。決して広い山道ではないこの場所に集まる人数としては嘗て無い規模だろう。
愛斗と親交がある華藏生として戸井宝乃と仁観嵐十郎、假藏生として相津輸鬼夫と将屋杏樹、紫風呂来羽は昏睡状態のまま体を運ばれてきて脇に寝かされている、そして裏理事会から竹之内文乃、旭冥櫻が参加している。先の『闇の逝徒會』襲撃で傷を負った鹿目理恵、夫々理事長の大心原毎夜、假藏寮で昏睡している生徒の護衛の任に就いている竹之内灰丸と千葉陸牙はこの場に居ない。
「竹之内先生無しで大丈夫なんですか?」
愛斗は祠の観音開きに手を掛ける文乃に失礼を承知で問い掛けた。解析というからには、最も知識が深そうな竹之内翁が行うものだと許り思っていたからだ。だが、文乃は脇目も振らずに唯何かを呟いている。
「心配は無用ですわ、真里君。」
代わりに愛斗の質問に答えるのは、同行している裏理事会メンバーの旭冥櫻だった。
「初めまして、私、旭冥櫻と申します。得意分野は物書きと戦闘。今回は西邑先生の身柄を抑えておけなかった責任を取る意味で、御同行させて頂きますわ。」
「は、はあ。宜しく御願いします。」
「そして、『裏理事会』のメンバーにはそれぞれ得意分野がある。祠の力の解析に於いて、最も優れた能力を持つのは彼女、竹之内文乃さんなのです。」
「え、そうなのですか?」
愛斗が驚いた理由は二つある。先述の通り、彼はその道で最も秀でているのは文乃の祖父・灰丸だと思っていた。そしてもう一つ、文乃の戦闘技術は愛斗自身身を以て体験している。もしあれで戦闘が得意分野ではないとしたら、それに秀でているという旭冥は一体どれ程のものなのだろう。
「お父さんの竹之内先生は?」
「あの人の得意分野は後進の指導です。それ故に、真里君の担当に選ばれた、という訳ですわ。」
成程、と愛斗は納得した。確かに昨日迄の三日間、実質的に土日の二日間で、それまで喧嘩に縁の無かった愛斗は闇と戦う力を飛躍的に付けた様に思える。それが竹之内の指導の賜物ならば、能力評は正しく、的確な人選だったのだろう。
だがそれでも、それを得意分野だとされる文乃ですら今回、敵の本拠地へと祠の道を繋ぐ方法の解析は難儀している様だった。祠の中に安置された、御馴染の不気味な蜘蛛型のオブジェに恭しく手を翳し、何やら反応を確かめている。
「行けそうですか?」
堪らず、愛斗は文乃に声を掛けた。これまでの様子から只ならぬ集中を以て事に挑んでいるというのは重々承知のつもりだが、それでもあまり悠長に待っていられず、つい性急に結果を催促してしまう。
そんな愛斗の心中を知ってか知らずか、文乃は小さく息を吐いてその場を離れた。
「粗々終わりました。後は闇の力を一定量注ぎ込めば、敵地への道は開けるでしょう。」
「では、愈々ですか?」
痺れを切らし掛けていた愛斗の逸る問いに、文乃は首を振った。
「とんでもない。その『一定量』というのが曲者なのです。我々がそれを注ぐ術は、彼の体に染み付いた僅かな残滓に過ぎない。」
彼、こと紫風呂来羽は未だ眠っていて起きる気配が無い。愛斗にとって彼は鬱陶しくて近寄り難い人物であるが、巻き込まれて利用された挙句この様な境遇に陥った事には同情を禁じ得なかった。
そんな紫風呂の体に文乃が触れ、又も何事かを小さく呟いている。旭冥の目付きが変わり、周囲の人間を文乃から遠ざける。
「扨て、皆さん。ここから先は少々危険が伴います。というのも、今から彼女は彼の体に残留する僅かな闇の力を取り込み、自らの中で増幅させる作業を行います。どの程度必要になるかは分かりかねますが、恐らくは闇の眷属と大差の無い水準となるでしょう。となると、彼女には力に呑まれ、暴走する危険がある。それを抑えるのが私の役目という訳です。」
文乃の手が紫風呂から離れた。小さな紫の靄が彼女の胸に宿っている。青白い顔をした文乃は、微睡みに溺れそうな様子で愛斗に向けて告げる。
「折角集まって貰いましたが、どうやら祠を通れるのは一人ずつです。それ以上は屹度私が保たない。ですから、この危険は先ず真里愛斗さんに犯して貰う事になります。その他の方は、暫く待って貰います。それも、力の無い人をむざむざ死なせる訳には行きませんから、真里さんの他には三名だけです。我々の仲間である浅倉桜歌殿、力を持つ仁観嵐十郎さん……。」
憑子は総力を結集して適地を叩きたいと言っていた。だが、たった三人ではその目論見に適う程の戦力が集められたとは思えない。それも一気にではなく、順々に送り込まなくてはならないとあっては、各個撃破の危険も高い。
『上等じゃない。』
しかし、憑子は崩れなかった。愛斗の表情も覚悟を決めている。彼にとって西邑の安否はそれほど大きなものだったし、憑子の狙いもそこにあった。
『お誂え向きに、私達は今、同じ祠の前に居る。あの夜の続きと洒落込もうじゃない。そして、全てに決着を付ける‼』
文乃の胸に宿った靄が大きく膨らんでいく。道が通じ、乗り込む時は確実に近づいている様だ。
そろそろ流石に日が落ちる。
☾☾☾
珍しく、その部屋の明かりは点けられ、天井や壁、床を這い廻る配管がその禍々しい姿を明瞭に曝していた。青い液体の流れる音が何故か禍々しく辺りを包み込んでいる。
そんな環境下で、二人の男女に人型の靄、そに相対する様に一人の男が向き合っていた。
『よく来たわね。歓迎するわ、最初の眷属さん。』
華藏月子の声が天井から響いてくる。その鈴を転がす様な声色が癇に障ったのか、西邑龍太郎は眉を顰めた。
「最初の眷属、か……。成程、西邑龍太郎があの夜の犠牲になったのは確かに生徒會の面々より前だから、間違いではなさそうだ。」
西邑の表情には明らかな嫌悪感がありありと浮かんでいた。考えてもみれば当然の事で、目の前に居るのは自分を殺した存在である。そんな相手に唯唯諾諾と従っている砂社や、亡き基浪計の方が遥かにおかしいのだ。尤も、鐵は鐵で元々無関係な假藏の人間が華藏の悪魔の為に進んで大量虐殺に手を染めているのだから、それはそれでおかしな話なのだが。
「一つ、これだけは言っておこう。貴女は何でもかんでも自分の思い通りになると考えている様だが、とんだ勘違いだ。寧ろ、世の中にはどうしても儘ならぬ思いが在り、それこそが何よりも美しく愛おしいのだ。私は貴女ではなく、その優美なる感情の機微にこそ決して抗えない。」
貶鑼々々と笑っていた砂社と鐵が真顔になり、異様な部屋に緊迫した空気が流れる。それを見越した上で、西邑は紫の靄に向かって言い放つ。
「私は貴女に従う気など欠片も無い。此処へは貴女の命を頂戴しに参った。それが、裏切ってはならぬ人を裏切ってしまった私の、生前の西邑龍太郎とその親友・真里愛斗への懺悔なのだ!」
西邑の身体が残像を残して消え、鐵の体を突き飛ばして壁に激突させた。
『それが貴方の答えという事ね! しかし、眷属の身で私に勝てるとでも思う?』
悪魔には眷属に問答無用で苦痛を与える力が有る。それを発動されれば、西邑は忽ちの内に動けなくなるだろう。だから、西邑は一気に決着を付ける必要があった。
故に、西邑は最初からどう動くか決めていた。一切の迷い無く、彼は靄の下で坐り込んでいる聖護院の方へと向かって行った。
悪魔は反応が間に合わない。この場で対応出来たとしたら、喧嘩慣れしている鐵だけだった。それが解っていたから、西邑は真っ先に鐵を潰した。
そして、瞬く間に聖護院の体に手を触れる西邑。その身体が瀕死の状態だった事も、悪魔の対応を不可能にさせていた。靄が聖護院の体から引き剥がされるのに、五秒と掛からなかっただろう。
『ぐうぅッッ‼』
聖護院から離れた紫の靄は人型を失い、天井を回り廻り続ける。西邑は聖護院の前に立ち塞がる様に立ち、再び彼の身体が奪われるのを防ごうとしていた。仮に戻っても、この距離なら又すぐに引き剥がせる。
「西邑……君……?」
悪魔が体から離れた事が影響してか、聖護院の意識が戻った。
『……これではもう先生の身体は使えないわね……。』
靄の、辛うじて眼に見える二つの紋様が二人の眷属の間を交互に動いた。そして、それは砂社日和に狙いを定めてあっという間に彼女の体へと入り込んだ。
「アアアアアアッッ⁉」
『残念だけれど、貴女は此処で終わりね。今まで御苦労様。』
砂社は一瞬、気を失った様に揺れると、闇を纏って邪悪な笑みを西邑に向けた。それは、既に砂社の意思が宿った表情ではない。事も無げに自身の腹心だった少女を斬り捨て、依り代の代替品として扱う様は当に悪魔である。
果たして、西邑は一転してピンチに陥った。悪魔が真面に動く肉体を取り戻せば、彼に苦痛を与えるのは自由自在だ。
しかし、西邑は心強い味方を得ている。
「西邑君……。君には悪い事をしてしまった。私も、この体に鞭打って最後まで戦うぞ。」
聖護院嘉久、華藏學園の数学教師にして、『裏理事会』最強の戦士である。満身創痍とはいえ、憑子に悪魔を斃せると見込まれた男の存在は脅威だろう。
そして、もう一人。
『西邑‼』
辺りに懐かしい、西邑にとって在り得ない、聞きたくもあり聞きたくもない声が響いた。少年とも少女ともつかぬ甲高い声は、彼が命を張ると決めた友の声だ。
「お前、勝手な事許りするなよ‼」
真里愛斗が天井に出来た黒紫の穴から勢い良く降りて来た。
『集まるじゃない……。明かりを点けるのは良くないわね。御莫迦な羽蟲が何も考えずに突っ込んで来る……。』
砂社の声からは華藏月子の声がする。その様から、愛斗も彼女が今悪魔に乗っ取られていると理解した。つまり、戦うべき相手を。
『行きなさい、真里君! 此処で全ての決着を付けるのよ‼』
全ての役者が揃った。
今、この瞬間に全ての運命が集束しようとしている。




