第五十五話 誠の友へ
罪に塗れたのは私、醜きものとは私、唯それだけの事だった。
――西邑龍太郎著『美醜の終焉』より。
真里愛斗が御節介焼きだという事は、他ならぬ西邑龍太郎が一番能く知っている。だから、彼は既に目的地へ向かい遠くへ移動し始めていた。事此処に至り、親友は何が何でも自分の決死行を止めるだろうという事は解っていた。手を拱いている訳が無かったのである。
西邑は今、高速鉄道の車窓から流れ行く景色を眺めていた。彼にとって、生まれて初めての大移動である。
(まさか學園に行く訳にも行かないからな……。面倒だし金も掛かるが、奴等が言っていた東の祠を使う外あるまい……。)
電車で遠出する。――その行動に出た時点で、彼を止め得るのは華藏家の使用人達しか居ない。愛斗と西邑が訣別する少し前から彼等を探し始めていた使用人達なら、或いは駅で張り込んで彼を見付けられたかも知れない。だが、愛斗に手間を惜しむ事無く協力する知己の者達、そして『闇の逝徒會』と戦う使命感を抱く『裏理事会』と比較した時、使用人達は今一つ目的意識が低くなってしまう。
愛斗が西邑をどうしても止めたかったのと同様に、西邑も又愛斗をどうしても出し抜きたかったのだ。今回、運命の女神が微笑んだのは西邑の方だった。
(それにしても、読み書きをする事が無いとこれ程に暇なのだな……。)
今、西邑の心は完全に本から離れている。これも、極々久しい事だった。しかし、ふとこの状況で唯一つ、彼の食指を動かすものが有る。
西邑は懐にそっと手を添えた。胸に、他人ならざる血液を全身に張り巡らせる心臓に、手帳が当たっている。
親友・真里愛斗と交わる中で、つらつらと心に浮かんだ思いを書き連ね続けたこの手帳が、彼を冷血にさせなかった。血は紫なれど、そこには生前、人間だった証が記されているのだから。
西邑は懐から手帳を取り出し、最初の頁を開いた。もうそこに新たな文が加えられる事は無い。筆は既に折っている。今やもう、それは必要無かった。
自らの記した興味の記録、感情の記録を読みながら、西邑は気恥ずかしさと懐かしさに苦笑した。愛斗との何気ない会話の中で揺れ動いた心が、親友への友情を超えた異様な執着とその想い人に対する一方的な嫉妬を、或る時は鮮やかな色彩で、また或る時は濁った呪詛で認められた手帳。
これは私が西邑龍太郎だった頃、君の事を激しく、切なく、心の底から想い続けた証なのだ……。――指で、書き殴られた文字を撫でながら西邑は両目を潤ませた。
(何だ、これは……? まるで生きた人間の様な……。)
本来、今の西邑にそんな感情に紐づいた生理的反応が起こるとは考え難かった。だがこの時、彼はふと親友の言葉を思い出す。
『お前が西邑龍太郎でなくて何者なんだ‼ 僕の親友でなくて何なんだ‼』
嗚呼、矢張り君はそう言ってくれるのだな。そんな君だから、私はどうしても君を護りたかったのだ。私が紛れも無く西邑龍太郎だと言うのなら、今の私が何を思い、何を為そうとしているか、解ってくれるだろう?
西邑は手帳の頁を捲る。電車が目的地の最寄り駅に着くまでの間、彼は自身の脳内に保管された、貴金属か宝石の様な輝きを放つ思い出に浸り込んでいく。
☾☾☾
真里、君は私を親友だと言ってくれた。実際、それに違わず私と接してくれた。
その事について、私は君に最大限の感謝と共に、恨み辛みを抱いている二律背反の心持だった。
屹度、君は思いも寄らぬだろう、想像だに出来ぬだろう。それで良いのかも知れないし、矢張り悔しいかも知れない。
私は君を友達以上に感じていた。同時に、友達以上に成れないとも……。
こんな私に積極的に接し、理解しようとし、親友になってくれた君の事を、傷付けたくはなかった。
憧れの人に近付くべく、學園の為に、懸命に己が身を削る君は宛ら天使のように輝いていた。そんな君と過ごせた日々は、私にとって丸で桃源郷だった。
君には、他者にそう思わせる魔性が有るのだ。ただ、君はそれに全く無自覚で他人を誑し込み続けている。
度が過ぎて美しい者は唯其だけで罪深い等と云う風説は理解が出来ない。悪意の無い美しさに惑わされる者は、唯々己の中の醜い本性を浮き彫りにされてしまっただけだ。罪とは常に、醜さの中だけに存在する。
但し、見目麗しく心悍ましき者も又確かに存在する。私は然う云う者をこそ真に恐れる。
そう、君は悪くない。ただ私が、私の心根が薄気味悪いだけなのだ。
だが、仕方が無いと許してはくれないだろうか。それ程迄に、君との出会いは私の世界を変えたのだ。それは私が小説で賞を取った時以上の扉を開いたのだ。
嘗て私は、自らの作品に世界への憎しみを込めた。だが、今の私には最早叶わぬだろう。
何故ならば君のお陰で世界の美しさに気付いてしまったからだ。宛ら花壇に咲き乱れる様々な花の如く、四季に移ろい行く景色の如く、色取り取りの優美な日々に微睡む幸福を知ってしまったからだ。
何より救われたのは、そんな美しい君と比較した時の自らの醜さを嫌悪せずに済んだ事だ。それは大部分君の懐の深さに拠るものなのだろうが、君が人並みの煩悩に苛まれていた事も無関係ではないだろう。
それがまた、腹立たしくもあった。君の心が結局は華藏月子の物だという事、そしてその華藏月子がどうやら噂されるような聖人君子ではなく、寧ろ程遠い性悪らしかった事。どうして君は私よりもあんな女に心を奪われているのかと、嫉妬に狂いそうだった。
けれども仕方の無い事だ。受け容れるしかないのだ。何故ならば、君の無垢な真珠の様な心は、生き方は彼女への思いによって形作られたのだとも解ったからだ。君の恋を、憧れを否定するのは、君自身の美点を否定するに等しい事だった。口惜しいが仕方あるまい。
だから私はこうして、その行き場の無い思いが脳裡に瞬く度にそれを手帳に書き込む事にした。この手帳は君への複雑な慕情と執着を綴った、世界で一番悍ましい紙の束だ。
それを美しく再構築し、君への思いの内最も純粋なものを生成抽出したものが、今の私の文学作品なのだ。
だから、君との関係が断たれてしまった以上は最早私にペンは必要無い。もうこれ以上、私が書き記すべき事は何も無いのだ。
事を済ます前に、手帳は燃やしてしまおう。こんな物は人に、誰よりも君に見せるべきではない。出来れば君には私との思い出を奇麗なまま取っておいて欲しいから。
しかし、私は最後の最後で最悪のしくじりをしでかしてしまった。斯くなる上は、君に対してけじめを付けなくてはならない。
私は今、全ての発端となったあの悪魔を私諸共滅ぼしに行く。君は君と共に幸せになるべき人物と末永く美しく輝いていて欲しい。
君は私にとって、最期まで『誠の友』であった。
君にとって、私はどうだ?
☾☾☾
真里愛斗は考える。
親友・西邑龍太郎は自分を裏切らない。一見するとマイペースな人間だが、実は情に熱く義理堅い一面が有ると、愛斗は西邑を理解していた。そんな彼が、已むを得ず愛斗を騙す形になってしまったとしたら、図らずも愛斗の敵に利用されていたとしたら、取る行動は一つだろう。
「あいつの事だ……。僕が自分を止めようともしないだなんて、そうは考えない。かと言って、意外と感傷的な奴だから、最後に所縁の在る場所に立ち寄ると思う……。」
愛斗にとって誤算だったのは、西邑の最大の感傷が彼の手帳の中に在った事だ。親友の一番肝心な所を、愛斗は理解していなかった。
『切り替えた方が良いわね。もう西邑君の討ち入り自体を未然に防ぐのは不可能だったと思うべきよ。』
愛斗達が推測する西邑の行動は、『闇の逝徒會』との二重スパイという立場を利用した敵地への奇襲である。しかし、それはどう考えても無謀だった。だからその前に西邑を見付け出し、どんな手段を用いても彼を止めたかった。
「會長、僕の采配は間違いだったんでしょうか?」
『そうね。でもそれが解った時、素直に認めて手を打つ方が遥かに重要なのよ。』
憑子の言う通りだろう。目的は飽くまで西邑を止める事であって、自分の正しさに固執する意味は全く無い。
「解りました、方針を変えます。敵の隠れ処を見付け出し、西邑よりも先回りしてあいつを捕まえる!」
愛斗の方針転換を受け、憑子は両眼を鋭く光らせて小さく口角を上げた。
『では、竹之内先生に問い合わせてみなさい。裏理事会は敵の隠れ処をずっと探っていて、調査していた人間を喪っている。ならば完全に把握出来ていなくとも、ある程度の情報や目星は持っている筈よ。』
課題は、手遅れになる前に敵の根城を見付け出さなくてはならない、という事だった。だが幸いな事に、これは既に解決している。二日前に『裏理事会』の一人で西邑の護衛担当だった旭冥櫻が闇の眷属の一人・砂社日和に発信機を取り付け、場所の特定に成功しているのだ。
愛斗の電話で、竹之内はその旨を正直に伝えてきた。
『しかし、安全を考えると拙速ではないかと思いますね。西邑君が敵の本拠地に乗り込むところを待ち伏せするとなると、親玉である悪魔本人と戦闘になる可能性も有る。そうなった場合、現状の君では厳しいでしょう。』
そう、『裏理事会』としても隠れ処を見付けたとて直ぐに動けなかったのだ。
「しかし、西邑を止めない訳には行きません。」
『確かに、手掛かりも乏しい現状で他に当ても無いでしょうな……。解りました、我々が掴んでいる情報をお伝えしましょう。』
「恐縮です。」
『矢張りというか、旭冥先生が闇の眷属に取り付けた発信機は假藏學園の位置から反応が消えています。つまり考えられるのは、彼等は隠れ処への移動に祠を用いている可能性が高い、という事です。』
「では、此方も華藏學園の祠を使えば……。」
『それは……難しいでしょうな。我々もその可能性を考え、華藏の祠を調査いたしました。しかし、今のところ假藏學園以外へ移動する方法が見付かっていないのです。』
希望が見えたと思った矢先、一気に暗雲が立ち込めた。しかし、憑子は尚も何やら確信めいた強い眼をしている。
『それなら恐らく、闇の眷属のみが隠れ処に移動出来る様になっているのでしょうね。なら、問題無いじゃない。』
「どういうことですか、會長?」
『先ず、これだけ探して見付からない西邑君が祠を使って移動しようとしているなら、彼は華藏學園と假藏學園のどちらも使わないつもりだという事。とすれば、古文書の情報に拠ると残る祠は二つ。』
『……つまり御嬢様は、彼が我々と同じ様に東へ向かったと?』
『そう。ならば此方にはまだ十分時間が有る、彼が目的地に辿り着くまでどう急いでも二・三時間は掛かる。その間に此方は祠の解析を済ませてしまえば良い、というのが一点。』
憑子は用意されていたかの様に自身の見解を述べていく。
『そしてもう一つ。解析の為には闇の力の残滓が必要になるだろう、という事。これはつい先日、彼等に操られた被害者が多く假藏學園の寮に残されているでしょう。』
『紫風呂来羽君の不良グループ、でしたかな? 確か裏理事会からは千葉君が護衛に当たっていますな。成程、眷属ほど強い闇は残されていないでしょうが、最も強力に操られていた中心人物を特定出来れば、解析には充分でしょうな。』
『それならば間違い無く、仁観君に心当たりが有る筈だわ。彼には才能があるから、解析に協力して貰うのも良いかも知れないわね。』
愛斗は少し身震いする思いがした。まるで何か、都合良く敵の本拠地へと導かれている様な、そんな感覚だった。
しかし、西邑をどうしても止めなければならないと言い出したのは自分である。それ以前に、西邑に疑いを掛けて今の事態を招いたのも自分である。
『成程、無理ではなさそうですな……。しかし、一つ気に掛かる事があります。西邑君が敵の本拠地に単身乗り込もうとしているとして、果たして勝算は有るのでしょうか?』
『一人では無理ね。悪魔に勝てるとしたら、この世に三人しかいない。一人は私、もう一人は真里君、そして……。』
「あ、まさか……!」
愛斗は憑子が何時の間にか明確に笑みを浮かべていた事に気が付いた。
「聖護院先生……。」
『そう、悪魔は今彼の体に憑いている。それは私が最も頼りになる味方、悪魔を斃し得る最大の戦力と見越した男よ。西邑君が考えているのは、聖護院先生の完全解放でしょう。裏理事会のメンバーが命懸けで悪魔の力を弱体化させた今なら、そして私たち以上に祠が持つ分離の力を使い熟せる闇の眷属が寝返ったのなら、聖護院先生の完全解放は充分可能でしょうね!』
「憑子會長……貴女はまさか……‼」
愛斗は今、はっきりと戦慄を覚えた。愛斗がぐずぐずと当ても無く西邑の行き先を探していたのを止めず、時間が経ってから助言したのは、西邑に手の届かない所まで行かせる時間を稼ぐ為。憑子の狙いは、最初から違っていた。
『竹之内先生、仰いました通り、私達が悪魔と遭遇してしまう可能性は無視出来ません。ですから若しもの時を考え、華藏學園の祠に戦力を結集させておいてください。最悪の時は、西邑君が聖護院先生を解放させたのと同時に総力で敵を叩き、一気に斃してしまいましょう。』
事態は風雲急を告げている。流れが一気に、全ての決着へ向けて動いている様な、そんな予感がした。
そして愛斗は、そんな絵を描いていたと思しき憑子が今、心底恐ろしく思えた。同時に、強い不信感が全身を覆い尽くす心持がした。
何はともあれ、二人が互いに友を思う気持ちが、今一つの点へと結び付こうとしている。




