第五十四話 春が終わり散る花(下)
山から遠ざかればますますその本当の姿を見ることができる。友人にしてもこれと同じである。
――ハンス・クリスチャン・アンデルセン
少し時を戻し、火曜日午前、真里愛斗と西邑龍太郎が書店巡りをしている頃。
裏理事会メンバーの内、愛斗の護衛担当であるタージ・ハイドこと竹之内灰丸と西邑の護衛担当である旭冥櫻こと朝倉桜花が華藏學園の理事長室に呼び出されていた。
「彼に対して充分な警戒を怠った事、切にお詫び申し上げますわ。」
旭冥は珍しく殊勝な態度で謝罪の言葉を口にした。裏理事会は日曜日の時点で西邑龍太郎内通の可能性を全員で共有し、担当の彼女は特に監視を厳命されていた。つまり、今その西邑が『學園の悪魔』に対抗する為の最重要人物である愛斗と共に連絡が着かなくなっている事態は、彼女の大失態なのだ。
「いや、それを言うなら私も同じだよ。まんまと真里君に出し抜かれてしまった。今思えば西邑君と今日会うアポを取ったとしたら買い出しを指示したあの時だろう。彼が親友を問い詰めようとする事は充分予測出来た筈なのに、不用意にもその隙を与えてしまったのだ。ある意味、相手の能力が未知数であった旭冥先生以上に私の失態は重大だと言えよう。」
竹之内は深く溜息を吐いた。
「今、夫と連絡して華藏家の使用人一同を動員し、二人の行方を探させています。事此処に至った以上は真里君の無事を祈る他ありません。」
理事長の大心原毎夜は華藏家の執事長の妻である。当主にして一族唯一の人間である華藏月子の不在により、その使用人は今、彼女がある程度動かせる状態にあった。
「それにしても、裏理事会でも聖護院先生の次点を相争う実力者二人が揃ってこの体たらくとは……。」
「面目次第も御座いません。」
「私も右に同じですわ……。」
「そしてそれ以上に恐るべきは……。」
大心原の眼に鋭い光が帯びる。
「恐らく全力で警戒していた旭冥先生に影も形も掴ませぬ儘にその眼を逃れた西邑龍太郎君の力の程ですね。事と次第に因っては、『學園の悪魔』の懐刀と看做し裏理事会の総力を以て討伐しなければならないかも知れません……。」
「言い訳ではありませんが、信じたくないですわね。あの若さであれほど耽美な人間の内面、報われざる慕情を鮮やかに艶やかに描き出した西邑先生が闇の眷属に堕ちてしまっただなんて……。」
旭冥は額を手で覆って運命を惜しんだ。
☾☾☾
街の雑踏を背に、西邑は一人路地裏を歩いている。その双眸には悲壮なる覚悟を宿し、懐に忍ばせた手帳を上着越しに抑えている。もう片方の手はスマートフォンを操作し、何処かに連絡しようとしていた。
「仁観先輩ですか?」
相手は同じ特待生の先輩、知己である仁観嵐十郎だった。
『おー、龍君。どうしたんだ?』
「いえ、先輩にどうしても御伝えしなければと思いまして……。」
悪魔との戦いに関わる人物の中で、仁観だけは唯一西邑に掛けられた嫌疑について共有していなかった。その情報を共有したのは『裏理事会』のみであり、後は最初に気が付いた真里愛斗、戸井宝乃、渦中のその人である西邑を除いていくと、必然的に彼一人がのけ者にされている状態なのだ。
「仁観先輩、真里の事を気に掛けてくれて、何かと助けてくれて、本当に感謝しています。貴方が居てくれて良かった……。」
『何だよ、いきなり? 気持ち悪いじゃねえか。』
「闇の眷属と戦う力も独力で身に着けたと聞きました。矢張り貴方は物が違う。どうか今後とも、真里の力になってやってください。恐らく、彼には貴方の支えが必要になりますから。」
電話の向こうで、仁観は少しの間黙った。
『……龍君、何か良からぬ事を考えているな? お前も当然、俺に頼って良いんだぞ?』
「ふふ、頭の良い貴方なら勘付くだろうし、頼り甲斐の有る貴方ならそう仰るだろうと思いましたよ。」
西邑は仁観に飽くまでも事情を語らない。余り言葉が過ぎると全てを察知されかねず、そうなると性格上必ず仁観は介入してくる。そうなった時、西邑には自分の意地を押し通せる自信は無かった。
「そんな貴方なら、安心して真里の事を任せられる。頼みましたよ。では、どうかお元気で。」
『おい待て! 龍君何考えてんだ⁉ おい‼』
だから西邑は一方的に電話を切った。
仁観という大人物を引き合わせる繋がりを作れただけ、少しは愛斗の役に立てたと思いたい。――そんな思いから感謝を伝えたかっただけなのだ。
後に願わくは、変わらず愛斗にとっての良き兄貴分で居て欲しい。彼の性格ならば屹度そう在ってくれるだろう。――そう安心したかった。
「扨て、次は……。」
西邑は両手の位置をその儘に街道へと歩みを戻した。右手にすべき事を、左手にすべき理由を強く確かめながら……。
☾☾☾
中学時代、西邑龍太郎の心には屁泥の様な憎悪と狂気が渦巻いていた。通常ならばそう言う年頃と片付けてしまう事も出来たのかも知れないが、彼の場合はその量も質も桁外れだった。
彼にはずっと「普通」が出来なかった。集団生活に於ける暗黙の了解が理解出来なかった。そんな彼の扱いに周囲の大人は困り果てるか、呆れ果てるか何れかだった。
言う事を素直に聞けない、手の施し様が無い「劣等種」――それが周囲の人間が彼に貼った判定だった。そうと決まれば、彼に対してはその様に扱うようになった。大人達は執拗に過剰な程に管理しようとしたし、子供たちは陰湿に過酷な程に見縊る様になった。
こいつら、全員いつか殺してやろう。――当時の西邑の世界観はそれだった。
そんな思いを文章に、物語に書き殴っている時だけは救われた。尽きる事の無い、溶岩の様に煮え滾る憎悪と狂気を趣向を変えに変えて原稿にぶつける、その情熱は不落の太陽の様に彼の中で赫い続けた。
軈てそれは彼の中で一つの才能となって開花し、人目を盗んで投稿した作品が賞に入選するに至った。それが彼にとって、一つの転機だった。
初めて、他者から「優れた者」として評価された。更にその結果が華藏學園の耳に届き、特待生待遇までも得た。即ち、「是が非でも欲しい歓迎すべき逸材」として扱われたのだ。
西邑龍太郎にとって、華藏學園というのは初めて手に入れた居場所になる様に思えた。が、それでも彼には未だ大きな問題が残されていた。抑も彼が孤立したのは集団生活に馴染む能力に乏しいという欠点に原因があり、それは何一つ改善していないのだ。
彼の世界が本当の意味で色付くのは、そんな気難しい彼にも努めて分け隔て無く接しようとする級友と出会い、その背景に興味を抱き、そして親友となっていってからの事だった。
☾☾☾
真里愛斗は聞き分けの悪い人間である。華藏學園の生徒が助けを必要としている、とあらば看做せば何処までも厄介事に首を突っ込んでくる、非常にしつこい少年である。それは嘗て彼を救った華藏月子への憧れによって形成された。
そんな彼が、親友の出奔を以て素直に引き下がる筈が無い。
「何処だ……! 何処へ行ったんだよ、西邑……‼」
愛斗は街を走り回る。目的は勿論、カラオケボックスから別れを告げて消えてしまった親友・西邑龍太郎を捜し出す為だ。
『彼には闇の眷属と同じ血液が流れている、謂わば使い魔の同類よ。祠の力を私たち異常に使い熟す事が出来る。鐵自由同様、遥か遠くへ移動している可能性も有る。見つけ出すのは極めて困難だわ。』
「だからって、諦められる訳無いでしょ! あいつ、絶対良くない事を考えてる! 屹度、思い詰めている筈だ‼ 僕のせいじゃないか‼」
『それは違うわ。切掛は君に正体を見破られたからじゃない。問い詰められたからじゃない。鐵に私達の動向が筒抜けだった時、既に覚悟を決めていたと言っていたでしょう。』
「どっちにしても、このままにしておけない‼」
最初から西邑側の事情を把握していた憑子は愛斗よりも幾分か冷静である。最終的に二人が訣別の時を迎えるというのも織り込み済みだったのだろう。
『君一人ではとても探せない、と言っているのよ。』
しかし、只冷たく見棄てるという訳でもなさそうだ。
『真里君、どうしてもやりたい事ならば、考え得る汎ゆる手を尽くしなさい。私が悪魔を滅ぼす為にそうした様に……。』
「汎ゆる手……僕一人では駄目……。」
愛斗は立ち止まり、スマートフォンを取り出した。この端末の中には、今では様々な連絡先が保存されている。
「皆に事情を話して、協力して貰えるよう頼んでみます。西邑に勝手な事をさせてはいけない!」
先ず、愛斗は恥を忍んで竹之内灰丸に電話を掛けた。不義理を働いた時点で謝罪しなければならないのは当然であり、厳く叱られる覚悟をしていたが、竹之内翁の応対は淡々としていた。
「あの……本当に済みませんでした。ただ、西邑の事を放ってはおけません。」
『事情は解りました。私達の方も、もう少し本腰を入れてこの疑惑に取り組むべきでした。君の胸中を思えば、居ても立っても居られないでしょうな。既に裏理事会としても出せる人手を総動員して西邑君の行方を捜しています。』
「有難う御座います……。」
『取り敢えず、訓練の無断欠席については後で話しましょう。今は、一刻も早く西邑君を見付けなくては。』
次に、愛斗が頼ったのは華藏學園の二人の友人、級友の戸井宝乃と先輩の仁観嵐十郎だ。
「何処か、西邑が行きそうな場所に心当たりはないか? 僕が知らない様な……。」
『役に立つか分からないけど、あいつの噂も色々集めてるよ。先ずは……。』
西邑は一人を好む人物で、親友の愛斗ですら知らない事は多い。有名人ではあるので、噂好きの戸井には何か別の角度から情報が入ってきているかも知れない。
『龍君、俺に変な事言って来たからまさかとは思ったが、そんな事になってたのか……。』
「済みません、仁観先輩。あいつの行きそうな場所、一通り教えてください。」
『解ってるよ。手分けして何としても探さなきゃな。』
仁観もまた、愛斗とは別に西邑と交友を持っている。この二人もまた、大きな力になるだろう。
西邑の知己、その方面以外にも、愛斗には人手の心当たりが有る。此方は西邑の事など殆ど知らないが、それでも人探しの為の動員数は多いに越した事は無い。
「相津さん、久々の連絡で急にこんな事を頼んで申し訳ありません。」
『気にすんな。友達助けてえって思いが解らねえ奴は不良としても終わってる。だが済まん、一寸事情が有って舎弟共は今動けねえ。後、知ってるかもだが尾咲と紫風呂も連絡は付かねえだろう。』
「そうですか……。有難う御座います。」
假藏學園の不良、相津諭鬼夫は覚醒剤事件の折に愛斗と知り合い、連絡先を交換していた。唯、彼が言う様にもう一人同時に知り合った尾咲求は鐵によって亡き者にされているし、色々在って知り合った紫風呂来羽も『闇の逝徒會』に操られた影響で現在も意識が無い。
兎に角、愛斗は心当たりの有る知り合い全員に連絡し、協力して西邑を探し求める。親友が良からぬことを考えているのは明らかなのに、指を咥えて結果だけを待ち惚けする等という薄情を、愛斗に犯せる筈が無かった。
「西邑、早まるなよ……! お前は今でも変わらず僕の親友だ! お前は一人なんかじゃないんだ‼」
黄昏時迫る街、夫々の思惑は無常にも闇へと向かって行く。




